作家の池澤夏樹氏は(1月12日の朝日に)「今、気になっているのは、みんなが『考える』より『思う』でことを決めるようになったことだ。5分間の論理的な思考より1秒の好悪の判断。」「SNS(ツイッターやフェイスブックなど―筆者)が一人一人が発言することを容易にした、・・・それは『思い』であって『考え』ではないことの方が多い。」と書いている。そして今回の選挙について、「さてもゲーム的な選挙であった。」「一個一個の争点をいくら論じてもそれが有権者の投票行動に結びつかない。原発・・・も、TPP・・・も、・・・2%の物価上昇・インフレ政策の是非も、自民党という大きな名前では議論にならない。議論らしい議論は何もなかった。」と。
ところで、当方の「評論」は、ここでいう「考え」に当たり、「つぶやき」は「思い」に当たるだろう。
それはさておき、この国の昨今の「民主主義」の実態を考えると、池澤氏のご指摘はごもっとも、という気がする。
まず、マスコミやメディア。 本来ジャーナリズムの使命は「人々に真実をタブーなく伝えること」と「権力の監視」ということにある。ところが、企業経営で成り立っているマスコミやメディアは企業収益にとらわれ、記事やニュースなども、どうしても「売らんかな」マインドにとらわれ、できるだけ多くの人々(マジョリティー)の好みに合わせ、興味本位(読者・視聴者から歓心を買い、不興を買わないよう)に書かれ、面白いか話題性のある記事や番組が作られて報道・放映される。(デモなど乱闘でも起きないかぎり、ほとんど取り上げられることはないのである。)民間メディアの場合はスポンサーや広告主から下りられたり、NHKの場合は政権与党など政治家からクレームを付けられないように気を使わなければならない。そのため企業や政治権力者におもねる企業・政権寄りか、当たり障りのない「事なかれ主義」的な記事や報道になってしまう。政治家も同じで、思想・政策・理論・識見よりも(マスコミやメディアもそれらはあまり問題にせず)、人気・「キャラ(クター)」を売り込み、メディアもその方に焦点を当てる。
その典型的な権力者・政治家が以前には小泉首相、今は・・・・。
安倍首相は、以前(01年)、NHKの従軍慰安婦問題を扱った番組にクレームをつけ放送内容を改変させたということが問題になった(安倍氏らは否定、最高裁判決でも不問に付されたが、その前の高裁ではNHK側が「政治家の意図を忖度して当たり障りのない番組にすることを考え改変がおこなわれた」としたことについては最高裁は判断していない。その後、当時のNHK現場職員による告白本も出ており、内部告発者は告発内容を取り下げてもいない。)。
先日、NHKのニュース・ウオッチ9で下村文科大臣にじっくりインタビューしていたが、幼くして父親を亡くし、母はどんなに貧しくても生活保護を拒んで働き、高校・大学には奨学金で入って文部行政を目指したとか生い立ちなどを紹介していたが、彼が安倍氏と同様「従軍慰安婦」問題の事実否定論者であり反「自虐史観」の立場で歴史教科書の内容に圧力をかけてきたことなど、その思想傾向については全く触れることはなかった。(数日後の同ニュース番組で大阪市立高校の体罰問題でインタビューを行った義家政務官については、かつて「ヤンキー先生」といわれ、高校時代は暴力事件を起こして退学処分になったことがあると紹介していたが。彼が自民党にいて活躍することでヤンキーたちが同党になびくことにもなっているのでは。)
彼ら政治家にSNS(ツイッターなど)などを通じて寄せる「ネト~」たちの発言(投稿)は、論理的な思考で「考え」ぬかれた意見ではなく、ワンフレーズやショートコメントでキャラが「かわいい」とか「いとおしい」とか「すてきだ」とか、或い彼が批判する相手をバッシングするなど好悪の「思い」や「信念」といっても思い込みでしかないものがほとんど。
政治家・権力者の方も、SNSは自分を彼らに売り込み、支持者として或いは「親衛隊」のようにして動員する道具として活用される。
安倍首相は、記者たちからどんな質問が出るか分からず答えに窮することがある「ぶら下がり取材」を拒否し、首相の方から求めた記者会見だけに止め、その一方でSMS(ネット交流サイト「フェイスブック」)でさかんに発信しており、「ネト~」たちの賛同(批判的な書き込みに対しては「非国民」「国賊」などと罵って叩く)書き込みをたくさん得て気をよくしているのだという。(kinkin.tvのパックイン・ニュースのパネリスト山田氏)「ネット交流」とはいっても、対立意見を理解しようとはせず罵り合うだけで議論にはならない。だから「ネトウヨ」の側だけの独壇場となり、「ネトサヨ」の方は引いてしまうということになるのだろう。今、マスコミやメディアにしょっちゅう取り上げられ、頻繁に映像が露出され、ツイッターなどSMSで「思い」が数多く寄せられ、人気を得て支持を獲得している政治家・権力者が安倍首相であり、石原・橋下氏らの面々。
しかし、このような彼らの間で行われる政治は、はたして民主主義と言えるのだろうか?
それは真の民主主義からは程遠いのだ。
「思い」だけで一国の政治を振り回されてはかなわないし、「思い」だけで政治参加をした気になってもらっても困る。(「安倍さん、やってみなはれ」と、1月17日付朝日『社説余滴』に書いていたのは同紙の経済社説担当者の一人。アベノミクスの危うさに批判的な社説に対して「私は意見を異にする」として、安倍首相が「10年以上にわたるデフレからの脱却は人類史上、劇的な取り組みであろう」と述べたことに対して「人生はとどのつまり賭けや、やってみなはれ」というサントリー創業者の言葉を引いて書いているのだ。要するにギャンブル。真珠湾奇襲に始まる対米開戦のようなもの。こんなので一国の政治が振り回されてはかなわない、ということではあるまいか。)
「『思い』に自信がつき『考え』を排除する。時には多くの人が手近に敵を見つけて叩くというゲームに熱中する。」(池澤氏) それは、かつてヒトラーと彼を支持して集まった若者たち・大衆によるファシズムのようにもなりかねないのだから。
しかし、そんなことにはならないようすることも可能であるし、民主主義を守り生かすことも可能なのだ。
「思い」には、単に軽薄な思い込み・好悪・愛憎・「むかつく」「楽しい」など気分的・感情的ものばかりではなく、思慮分別・信念・道徳的心情などといった理性的で深い洞察に基づくものもあるし、一概に軽いといって軽視さるべきではない。
また、SNS(ネット)も、単に安倍首相や橋下維新代表など右寄り政治家と「ネトウヨ」たちだけが活用しているわけではないし、そこが彼らの独壇場になるというわけでもない。 安倍首相のフェイスブック登録者は「日本一」とはいっても、18万人。批評家の濱野智史によれば、「ネットで楽しんでいる人たちのごく少数派にすぎない」という。
SNSは、首相官邸前デモに集まる人たちが(単に動員されて受身的に集まるのではなく)彼ら自身の「思い」から自発的に呼びかけ合って集まるツール(道具)としても活用されているのだ。
濱野氏は(12年9月14日付朝日「オピニオン」欄で)政治家のリーダーシップもさることながら、より重要なのはリーダーに付いて行こうとするフォロワーたちのほうで、むしろそのフォロワーシップのほうが重要。それで、「リーダーシップがないから皆が付いていかないんじゃなくて、皆が付いていかないからリーダーシップになってない」のだとも指摘している(「最初のフォロワーの存在が、一人のバカをリーダーに変える」とさえ言った人がいるとのこと)。
ところで、フォロワーたちが、いわば「思い」を持って発信し集まる人たちだとすれば、リーダー(知識人や政治家)は「考える」人。そこでフォロワーたちは、リーダーに対して、ただ動員されて付いていくのではなく、自分の「思い」をもって彼を推して支えもする。リーダーはそれに答えて、知識・思想・論理をもってよく「考え」、リーダーシップを発揮する。
要するに、フォロワーシップとリーダーシップが両方相まって運動はうまく、ということだろう。
このように、「思う」人たちと、「思い」をSNS(ネット)で発信し交流する人たちは、右寄り勢力だけでなく、その対抗勢力(民主勢力)の側にも存在し、彼らの頑張りようによって、右寄り勢力によるファシズムを阻止し、民主主義を守り生かすこともできるのであって、そこに期待をかけたい。
それにしても、改憲派のリーダーたちに対する護憲派のリーダーたちのリーダーシップ(今、それはあまりに弱い)とそれへのフォロワーシップがもっともっと発揮されることが期待される。