鳩山前首相の「友愛精神」とか「命を守る政治」とか「東アジア共同体」とか「普天間基地移設は国外、最低でも県外へ」とかを掲げた「理想主義」?に対して菅新首相は「現実主義」で行くと言っている。(就任記者会見では、最大幸福社会ならぬ「最少不幸社会」をめざすと言い、所信表明演説では「世界平和という理想を求めつつ、『現実主義』を基調とした外交を推進すべき」と。)
ところで、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と定めているのは日本国憲法(前文)である。北朝鮮国民の場合はどうなのか。我々日本人にとっては北朝鮮が脅威であり、その核・ミサイルは恐怖なのだが、北朝鮮の方も、(アメリカとは60年前以来朝鮮戦争、休戦はしているものの、戦争自体はまだ終わってはいないし、日本からは100年前の日韓併合以来恐怖を強いられてきた植民地支配にたいして北朝鮮は何一つ清算してもらっておらず)アメリカ、それと同盟する韓国・日本の軍事力はそれこそ脅威・恐怖であり、そのうえ「経済制裁」という兵糧攻めを受け欠乏にもさいなまれているのだろう。
北朝鮮国民も日本国民も共に平和のうちに生存するにはどうすればよいのだろうか。
それには、共に恐怖の原因―軍備を(「核」も、「核の傘」も、ミサイルも、ミサイル防衛システムも、軍事同盟も米軍基地も)撤去し合えばよいのであり、北朝鮮国民に対しては、欠乏をひどくする経済制裁も解除してやらなければならないわけである。
それに対して、「いや、そんなことは出来るわけない。要は北朝鮮さえ核・ミサイル開発を放棄すればよいのであって、現政権がそれを拒み続けるかぎり、日米韓側は「核の傘」も基地も維持し続け軍事的・経済的圧力(制裁)を加え続けるしかなく、場合によっては攻撃のやむなきも」というのが現在の日米韓政府の考え方。はたしてどちらが現実的か。
韓国人のあいだでは「北風政策」に対する「太陽政策」論―キム・デジュン元大統領とノ・ムヒョン前大統領らの考え方がある。それは必ずしも理想主義ではなく、むしろ現実主義に基づいている。なぜなら、経済力・軍事力とも北朝鮮に比べて韓国のほうがいくら圧倒的に優勢だとは言っても、戦争したらソウルが実際「火の海」になり、共倒れさえも起きかねないし、北朝鮮国家が崩壊してしまったら韓国が大量難民(窮民)を抱え込まなければならないことになり(その経済運営の困難はベルリンの壁崩壊で東ドイツ国民を抱え込んだ西ドイツの比ではなく―人口比・GNP比などの格差で)、国がもたなくなる、ということが解っているからにほかならない。
ところが、直ぐ近くで北朝鮮と対峙している韓国人と違って、とかく日本人は戦争に対してリアリティーをもって考えない向き(平和ボケ)が多く、タカ派的になりがち。また、日本人の中には、相手側からみれば自国の方が脅威になっているのに、そのことは気に止めず、相手の脅威にばかり気をとられる傾向があるようにも思われる。日本人はとかく主観的情緒的で非現実的な判断に陥りがちだということ。
北朝鮮の専制政治体制では、かつて我国が専制体制にあった時のように非理性的な暴挙に走る危険性がある一方、韓国は(哨戒艦沈没事件で大統領が打ち出した対北強硬姿勢に対する反応などを見ると)むしろ政府より国民のほうが冷静で理性的なようだが、現在の日本やアメリカは民主主義が発達しているから、国民の理性がはたらいて暴挙にはしることなどないかといえば、さにあらずで、フィーバー(熱狂)した多数国民によって戦争を後押ししがちだという一面もあるのだ(9.11からアメリカがアフガン~イラク戦争に突入した、あの時のように)。
菅首相の「現実主義外交」は、はたしてどうか?「国民や世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくか」「貧困・戦争などをなくすことにこそ、政治は力を尽くすべきだ」と言っているのだが。
菅首相は「時には自国のために代償を払う覚悟ができるか。国民一人ひとりがこうした責任を自覚し、それを背景に行われるのが外交である」とも言っている。しかし沖縄県民の多くは、自国のためにこれまで負わされ続けてきた基地負担を今後も負い続けるなんて、そんな覚悟はもうできないと言っているのである。また、沖縄県民以外の日本国民にしても、その「代償」をずうっと払い続けるなんて、そんな「責任の自覚」を求められても困るわけである。「覚悟」を言うならば「基地を維持して戦争もやむをえないとする戦争の覚悟」ではなく、「基地を撤去して、戦争だけは止めさせる不戦の覚悟」というものもあるはず。「戦争の覚悟」と「不戦の覚悟」、そのどちらが、より現実的・合理的か(国益と国家の損失の損益計算に照らして―とは言っても戦争をやったら、人的・物的な資源の消耗・損失・惨害を考えれば、何もかもお終い、それでもいいのかだ)。
現実主義とは、空想や主観的情緒に陥らずに現実に則して合理的に物事を考える立場だが、それには二通りがある。一つは、現状を肯定して踏襲。それに対して、もう一つは、現実を踏まえながら、理想に向かって現状を変革。(理想主義とは、単なる空想とは異なり、現実主義でも後者のそれと両立する。)
日米同盟関係と沖縄の基地についても、現状―前政権・前首相の日米合意―を肯定・踏襲するのと、変更するのと、二通りあるが、菅首相の「現実主義」は前者。
菅氏は01年民主党幹事長当時は「海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権をとれば、しっかり米国に提示することを約束する」と言っており、06年党代表代行当時は「あそこ(沖縄)から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいますが、海兵隊は守る軍隊ではありません。地球の裏側まで飛んでいって攻める部隊なのです。・・・・沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とはあまり関係のないことなのです」と言っていたのに、政権の座に着いた今は、「東アジアの安全保障環境には最近の朝鮮半島の情勢にみられるとおり不安定性・不確実性が残っている現時点において、海兵隊をふくむ在日米軍の抑止力は、安全保障上の観点からきわめて重要だ」との現実認識で在日米軍基地の維持を肯定する。一方、基地を押し付けられている沖縄県民の物理的・精神的負担の現実(その深刻な実態と切実な願い)も解っている(?)、そのうえで、「移設」受け入れをあくまで県民に「説得」しようというつもりなのだろう(「誠心誠意説明し、理解を求めていく」とは言っているが、県民の「合意を得る(それが前提だ)」とは言わない)。
(その「説得」とは説得工作―基地所在市町村長・議会の移設容認派に根回し・交付金・「地域振興策」・地元土建業者などへの利益誘導、「辺野古に移設すれば普天間基地住民の負担軽減は可能となるが、そこへ移設しなければ普天間はいつまでもそのままだぞ」と脅す―「アメとムチ」で地元切り崩し)
8月には辺野古のどこかに滑走路の場所、工法を決定。9月に名護市の市議選、11月に沖縄県知事選がおこなわれる。この間、移設容認派の拡大に向けて説得工作を進めていくのだろう。菅首相は市民運動からスタートした政治家だというが、彼が「現実主義」といっても、権力(日米の支配層)の立場に立って(自らの政権維持とともに)現状維持に帰してしまうのであれば、それはもはや自民党同様の保守主義であって市民主義ではない。市民(民衆)の立場に立って、彼らの置かれた現状を変革してこその市民主義だろう。
消費税(富裕層・貧困層の別なく一律5%から10%に増税)のこともそうだ。権力(支配層・富裕層)の立場に立ってそれを容認するか、庶民の立場に立って反対するかだ。(財政赤字解消・財源の確保のためというなら、それは、所得税の最高税率を上げて富裕層に増税、大企業の法人税減税・証券優遇税制などやめること、事業仕分けの徹底、特別会計における「埋蔵金」の廃止、それに米軍への「思いやり予算」など軍事費のカット等によって行うべきなのだ。)
普天間基地の県内移設容認といい消費税増税容認といい、菅首相が推し進めようとしている政策は「最少不幸社会」からは、むしろかけ離れ、自民党と同様に、かえって不幸な人々を増やす方向に向かうのではあるまいか。
鳩山前首相の理想主義(現状―辺野古移設案へ回帰など自民党前政権の路線に逆戻り)も空しかったが、菅新首相の現実主義も、現状維持よりも消費税増税などもっとひどいことになるのだとすれば、なおさら空しい。