(1)「真珠湾からの帰還」―実話
酒巻少尉(ブラジル・トヨタ社長、12年前81歳で死去、70年前特殊潜航艇に搭乗・真珠湾攻撃に参加、座礁した艇から脱出するも米軍から捕らえられ、太平洋戦争の捕虜第一号になり、終戦まで米国本土の収容所に)
「自分が生きていたのは、もっと大きなことのために死ななくてはという思いからだった」「岩佐大尉(上官)は『命の使い方を間違えるな』といわれた」「自分の命の使い方は真珠湾攻撃だと信じていた。しかし私は生き残った」「自分は生き残って日本へ帰ってきました。なのに私は自分の命の使い方を見つけられない。何もできない。何をしたらいいか分からない。いったい何のために生き残ってきたんだ。教えて下さい」
岩宮緑(酒巻が出撃前・訓練中に宿泊した旅館の娘)「命の使い方が見つからなければ、見つかるまで生きていればいい」
(2)「証言記録・日本人の戦争」2部―元軍人・兵士・その妻・親族・村の関係者たち(80~90代)がインタビューに応じて。
「戦争のこと、本当のこと言えないよ。言うと夜眠れないさ」
「すべきでないことをしてきた。申し訳ない。とんでもない人殺しをしてしまった」
八路軍(中国共産軍)と住民の区別・見極めがつかず無差別に攻撃した。
中国の戦場での体験は家族にさえ語らず「戦争の話しはせんようにしています」
住民虐殺―「そういうことはしゃべりたくねえな」「軍隊というところは、命令に従わねばなんねなだからな、やらねば死刑になる、殺される」
上官や古参兵のビンタは日常茶飯事、逆らうと銃殺されることを恐れ、精神的にまいって自殺する者が。
初年兵に刺殺訓練―立ち木に中国人をくくりつけ、右胸を銃剣で突き刺した。
「今生きていても明日死ぬ、明日生きていてもあさって死ぬ、死んだやつがうらやましい、生きているのは、そのぐらい苦しいもんだと思った」
「死体がごろごろ、腐敗して死臭をはなつ、そういうところで飯を食った」
「全身火葬できない、そんな暇がない、腕か指だけ切りとって飯ごうを炊く火で焼いて遺骨にした」
「神様が守ってくれるから大丈夫だ、大丈夫だ、日本は勝つに決まっている、負けるわけはないと、みんな思っていた」
「武運長久」祈願―日の丸に寄せ書き―「尽忠報国」「国に命を捧げる」「君が代は巌(いわお)とともに動かねど、くだけてかえれ、おきつしらなみ」―「『死んで帰って来い』という意味かな、まあ結構な言葉だ、そりゃ、本当に気が狂っているようなもんだ」
歌―「タマ(弾丸)もタンク(戦車)も銃剣も、しばし露営の草枕、夢に出てきた父上に、死んで帰れと励まされ」
元テニアン島住民、当時18歳、米軍が迫る中、やむなく銃を手にする。お袋に「よしわかった」と言って座らせると、「ありがとうね、長い間ありがとうね」と言って手を合わせた。その心臓をねらってバン、すると親父は自分の額に手をやり、ここへと・・・。そばで見ていた9つの妹が「こんどは私の番だと」ばかりに、お袋が今死んだところに座って手を会わせる。鉄砲をかまえると「あんちゃん!ちょっと待って!水を飲みたい」水筒のふたに二杯さしだした。それをごくん、ごくんと飲むと「うまいわ、あんちゃん!もういいわ、撃ってよ、母ちゃんのところへいくから」と。
ニューギニアで―日本兵同士の間で食糧の奪い合い―「缶に塩が入っているのを見てとってやろうって手榴弾を投げつける、そんなことがあった」。
「人肉事件」―「『共食い』の話しがひんぱんに聞こえる。軍司令官が『兵隊は一人で歩いてはいけない』と。連隊会報に『人肉を食する者は厳罰に処する。但し、敵国人は除く』と」
「残虐だよ、虐殺だよ・・・・この時の大本営とか方面軍とかのあれ(上層部)を恨むよ・・・だいぶ帰ってから自殺しておられるけどね、旅団長もね・・・俺なんか、こうやって偉そうなことを言えた義理じゃないけど・・・あんた達が(取材に)こうやってせっかく来てくれるけど、こんなことを偉そうに話するのは辛いんだよ、死んだ人に申し訳けなくて」
日露戦争に従軍歴のある教師が村の若者たちに「好きで敵兵討つのじゃないが、東洋平和の為なれば抜かざなるまい日本刀」と詠んで戦争に駆り立てた。教え子は「粉骨砕身、一意奉公致す覚悟」と。
戦地に行くことにためらいを見せる夫に対して、妻は励まして「私の兄さんは2回も3回も泣かないで元気で行ったのに、なんだおめえ、気が弱いね、元気で行ってこい」と言った。その5ヵ月後、夫はルソン島で戦死。「悔やまれてなんねよ、あんなことを言って」
ニューギニアで集団投降―中佐は玉砕覚悟の総攻撃で辛うじて生き残った兵士42名を率い、投降に踏み切った。これに対してニューギニア作戦を統括した元参謀(93歳)―中佐のとった行動は「今もわりきれない」「みんな生きたい、苦しみから逃れたいですよ、しかし使命をおびている軍人ならば心を鬼にして大義に生きなきゃならないと僕は思いますね」と。投降した兵士の中には米軍側に「殺してほしい」、「日本に送還しないでほしい」と訴えた者がいた。帰還後は戦友と会うことは戦後一切なかったという方―顔を写さずにインタビュー、「私だけ帰ってきて、申し訳ない・・・もうニューギニアのことは思い出したくないんだ・・・なんであんなとこへ行ったんだか」と。
沖縄の伊江島、砲弾の轟く壕の中で、みんな息をひそめていた。突然、母親の腕の中で生後6ヵ月の弟が泣きだした。みんないらついている。日本兵は義勇隊の青年に「貴様、撃て!」と。母親は弟の顔を息ができないほど胸に押し当てた。戦後、母親は塞ぎ込むことが多く、亡くなる間際は死なせた息子の名を叫んでいた、という。最後のナレーション―「誤った国策を信じ、時には熱狂的に支持した多くの日本人、そしてもたらされたあまりに多くの死」