米沢 長南の声なき声


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権力の論理と市民の論理
2017年07月02日

*論理―主張や行為を合理化・正当化する理屈・言い分
*強者・支配者の論理と弱者・被支配者の論理、国家など組織の論理と個人の論理、加害者の論理と被害者の論理、検事の論理と弁護人の論理、資本(企業)の論理と働く生活者の論理
 それぞれ、その立場によって追い求めるもの(目的・結果)があって、(例えば企業なら利潤、国家なら国益、軍隊なら戦勝、生活者市民なら生命・自由・幸福追求権の確保)、その結果(目的実現)を得るのに有益・有用かどうかによって正当性(物事や行為の良し悪し)を判断し、その(それを合理化・正当化する)論理(理屈)を立てる。
 我々、庶民・働く生活者の物の考え方(市民の論理)と政治権力者・官僚・警察官・自衛官あるいは企業家・株主・事業者・組織人(とりわけそれらの幹部)の物の考え方(権力の論理、組織の論理)は、とかく違うもの。
 前者(庶民・一般市民)は個々人それぞれに自由な自分本位の考え方(自分の生活体験に根差した価値観すなわち物事の価値判断や倫理観すなわち良心に即した考え方)をするものだが、後者は、それぞれの組織本位・事業目的本位の考え方(組織の利益・掟や価値判断・損得計算に則した考え方)をしがちとなる。
 庶民・一般市民にとって大事なのは、抑圧・恐怖と欠乏からの自由・安全・安心と幸福追求の自由であるが、その観点から物事を考え、良し悪しを判断する。
 それに対して政治権力者や官僚は国家や公共団体の統治、企業経営者や幹部は企業の統治(ガバナンス)を如何に巧く行うかという観点から物事を考え、良し悪しを判断する。統治をうまく行うには、それを正当化する法令や規則が必要であり、それに基づいて違反は取り締まられる(統制)。

(1)官僚の論理
 国務大臣・国会議員・裁判官・官僚は、公務員として、民主国家では本来、国民に奉仕する立場(憲法15条2項「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」)なのに、「一部の奉仕者」の方に偏りがちとなる。  
 我が国の歴代政権与党(主として自民党)政治家は、とかく財界奉仕とかアメリカ政府への奉仕に、また官僚は政権与党政治家への奉仕に偏りがちであり、その権限行使と任務遂行努力は国民全体の為とはならずに、一部の人たちだけが有利な結果となりがち。
 裁判官や警察官はもとより、公務員らの行動原理・判断基準は法令・規則であり、それに忠実に依拠することだ。それで、国会審議などで官僚が、その対応・処理に問題がないかを指摘・質問されると、とかく「法令・規則に従って適切に執行・処理しました」と弁明する。しかし、法令・規則に合ってさえいればよいというわけではなく、その対応・処理が適切だったかどうかは、奉仕すべき国民の利益に適っているか否(損なっている)かで評価・判断さるべきだろう。とかく、奉仕すべく目を向け、忖度する相手が、国民の方ではなく、上司やその上(官邸の最高レベル)の方だったりすることがありがちだ。公務員たるもの、法令・規則に忠実であり、また上司(組織)に忠実であるにこしたことはないが、いちばん大事なのは国民に忠実であることだろう。
 公務員には公務員法に守秘義務の定めがあるが、内部の不正(全体奉仕に反する一部奉仕)を告発しても不利益な扱いを受けないようにする公益通報者保護法もある。それにもかかわらず、その内部告発が守秘義務違反に問われ、潰され、委縮させられがち。
 昨今の政治スキャンダル、森友・加計問題にそれが見られる。首相と夫人と「お友達」に対する側近政治家による官僚、内部告発者への圧力など。

(2)警察の論理
 「共謀罪」法(改正組織的犯罪処罰法)は、政権与党に一部野党が同調して、「テロ等準備罪」という名目で、あたかもテロ対策上不可欠だとして異常な強行採決によって制定された。それは(政権の政策遂行・権力行使の都合上、秘密にしておきたい情報を特定して非公開とする特定秘密保護法もそうだが)権力者の立場から必要(彼らの権力維持と統治には有利)とされたもの。しかし、それはテロ対策で(その為だったら必要な諸法律は既にあって、事あらためて定めるまでもないのに)、テロを未然に防ぐことを口実にして、277(大半はテロとは無関係)の罪のうちのどれかを、共謀(話し合い)・計画・準備行為をしたと警察や検察当局が見なせば(警察官・検察官が判断すれば)、まだやっていない(実行に及んでいない)段階で裁判所の令状がなくても捜査・検挙できるにようにするもの。
 本人たちが、そんなことをするつもりはないといくら言い張っても、判断するのは警察官や当局だから(いったん嫌疑をかけられたら)どうしようもないわけである。今までは罪刑法定主義で「疑わしきは罰せず」で無罪のはずだったのに。警察当局に、いったんリストに挙げられマークされれば、法と上司の指示・命令に忠実な警察官は任務遂行に全力を挙げ、その「容疑者」をひたすら追求(尾行・追跡・盗聴・盗撮)・捜査・検挙に邁進するのだろう。彼ら(警察官)の論理では、そうするのが合理的で当然の事とされ、今回、この「共謀罪」法の成立によって、それがお墨付き(法的根拠)が与えられて正当化されることになったわけである。
 (しかし、その立法はそもそもが憲法違反。)
 一般市民―善良な市民(個々人の自由の権利を尊重し公正を求める市民)は、権力者による不当な扱いや不正・不公正・横暴に抗し、権力者のその行為(政策や権力行使その他)に対して異を唱え、反対を訴え、討論・議論し、同志や仲間とデモ・集会などを相談・計画・実行し、その暴政・悪政を阻止しようとする。そうすることは市民の論理では当然の事であり、憲法に保障されている権利である。
 ところが、それが公安警察などによってメンバーがリストアップされ、「テロ等準備罪」277のどれかの罪に引っかけられ、特定されて、監視の対象にされ、これまで違法捜査として秘かに行われてきたことが、正々堂々と行われるようになる、それが「共謀罪」法なわけである。

(3)軍事の論理(軍事的に勝つための論理)
 改憲による自衛隊の憲法明記は軍事の論理から言えば有益。何故なら、それによって、自衛隊のあらゆる任務・活動とそれらに必要な措置が憲法上の要請に基づくことになり(それらを正当化する根拠規定になり)、安全保障や国際平和安全維持の軍事的な必要に応じて(最小限ではなく)最大限(出来るだけ何でも)措置を講じなければならないということになって、集団的自衛権の「限定的」行使の拡大も、PKO派遣部隊は「駆けつけ警護」のみならず文民保護などのための武力行使・「戦闘」も、巡航ミサイルによる敵基地攻撃も、防衛費の(GDPの1%から2%への)増額も、あれもこれも可能となるわけである。
 
 週刊新潮6月8日号に「『憲法9条』が自衛隊を押し潰した」と題した元陸将(福山氏)の寄稿が載っていた。それはPKOについて論じたものだが、これには「国際貢献を阻む元凶は、紛争の実情と乖離した、古びた『憲法9条』にあるのではないか―。現場を知悉する元陸将の『正論』である」として、次のようなことが書かれている。
 日本の自衛隊には国内法の制約があって、武器使用は「明確に自分が狙われた場合の正当防衛や緊急避難でしか」使用できず、「『任務遂行のための武器使用』は許可されておらず、とりあえず隊員または車両などの装備品が被害を受けるまで待つしかなかった。まして同じ後方支援を担当する他国の部隊と行動している時に・・・・。彼らがゲリラに襲撃されても、日本隊は傍観するしかない」「一緒に仕事をしている同僚や友人が危険に晒されても手助けもできない。『余計なこと』をしたら『憲法違反』だと騒がれる。日本の常識はまさに世界の非常識」、「いざという時には何もできない」「国連PKO部隊参謀長は『日本隊は使えない』という“正しい結論”に達していたのだ。」「国家の命令で危険地帯に派遣されて、任務上(発砲した銃弾が民間人に当たって相手が死んだ、など)過失を犯しても国は守ってくれないどころか、隊員個人が容疑者として裁判にかけられかねない」「21世紀で生き残るためには、現実の世界と向き合い、大戦のトラウマを超克することが喫緊の課題であろう。」「憲法を改正し、自衛隊を軍隊として法的に位置づけない限り、国際基準のPKO任務はこなせない。」「国民は、そんな自衛隊を、そんな国際貢献を望んでいるのだろうか」と。
 これらは、元陸将で幹部自衛官の立場から彼らの軍事の論理で、その軍事的合理性に照らして現状(9条の下で)の自衛隊PKOのあり方がいかに不合理なものであるかを指摘して、9条を論難しているわけである。しかし、そもそも軍事を禁じている憲法9条が軍事的合理性に全く合わないのは当たりまえだろう。

 一方、朝日新聞6月15日付け「オピニオン&フォーラム」欄の『PKO四半世紀』に、日本国際ボランティアセンター代表理事(谷山氏)が述べたことが書かれていた。それは次のようなことだ。
 南スーダンでは政府軍と反政府軍、それに武装した市民が入り乱れ、「誰が敵か味方かも分からない」、そのような状態で発砲し、もし住民や政府軍を殺傷すれば、PKO自身が当事者になりかねない」、「駆けつけ警護」は「「NGO職員などが、武装勢力に襲われた場合、武器を持って駆けつけて守る」というものだが、「たとえ誤射であっても、住民を撃てば中立的なスタンスや友好国としての信用は一気に落ちる。自衛隊はもちろん、現地の日本人も攻撃対象になり、危険にさらされる。」
 「NGOは紛争当事者のどちらにも加わらない中立性の原則に徹し、貧困や差別など背景にある構造的な『暴力』を、武力を使わずに取り除こうと、支援を積み重ねてきた」、「アフリカや中東などで活動していると、日本への信頼を強く感じる。これらの地域を日本が植民地支配した歴史はなく、米国に原爆を2度も落とされながら、憎しみを超えて平和国家の道を歩んだ、そのイメージが崩れることで、失われるものの大きさを考えるべきだ」、「自衛隊が軍事活動に参加すれば、日本のNGOの中立性が損なわれ、かえって危険になる」、「国際貢献は軍事面だけに限らない、多面的なアプローチがある。  PKOだけでは紛争は解決されない。日本は憲法9条を持つ強みを生かし、『武力で紛争解決しない国』としての役割を果たすべきだ」「紛争当事者の対話に向けた外交的な働きかけや難民への人道支援、国造りの支援に力をいれること。それが憲法の要請だ」。この方が9条の論理なのだろう。
 安全保障と国際貢献それぞれに、9条(平和主義)の論理に基づく非軍事的・外交的方法と、軍事の論理に基づく軍事的方法とがあるわけであるが、自衛隊活用には後者(軍事の論理と軍事的方法)が伴い、9条1・2項に自衛隊を追記するとなると、9条との論理的整合性は難しく、両立も難しくなるだろう。


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