米沢 長南の声なき声


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日本に軍備はどうしても必要なのか―「朝から生テレビ」
2009年05月09日

 先日「朝まで生テレビ」で「問われる日本の選択と戦略」「どうなる?!新しい日米同盟、どうする?!日本の安全保障」「激論!日本の安全保障と外交」をやっていた。
 その論点は次のようなものだった。
(1)安全保障に抑止力が必要?
 「抑止力」とは他からの攻撃を抑止するための軍備のことで、我が国では、今ある自衛隊・日米安保条約(それに基づく米軍基地・駐留)・ミサイル防衛システムなどがそれであり、それらがあるおかげで我が国に対する外敵の攻撃が抑止されているというわけである。それがもっと必要で、敵基地攻撃能力、ひいては核武装もあって然るべきだという議論もある。
 
 番組の中では、次のような発言があった。
 司会者の田原氏―アメリカの元国務長官キッシンジャーの言葉を紹介、「抑制とは、得られる利益とは釣り合わないリスクを押しつけることによって、相手にある行動方針をとらせないようにする試みである」と。相手に、この国を攻撃すれば、得られる利益よりは、反撃されてかえって多大な損失を被る、と思わせることによって攻撃をひかえさせる、それが抑止力だということ。
 田原氏はまた、くぼたくや?氏の「基盤的防衛力構想」を紹介。(「日本および周囲が空っぽだと戦争が起きる。だから空っぽではないぞというところを見せる『はりこの虎』があれば、それでいい」というもの。)つまり、相手にこちらが無防備だと思われないように、『はりこの虎』としての防衛力は必要だという考え。
 田母神前航空幕僚長―「『一発殴ったら三発殴り返すぞ』という意思を示しておく、それが抑止力。それには『専守防衛』などという防衛力だけではなく、攻撃力も必要であり、核武装もあってよい。中国とは、将来、実際に戦うということはないだろうが、軍事バランスは必要。さもないとやらえてしまうから」と。
 民主党の浅尾議員―「鳩山内閣当時の政府答弁で『相手が日本を攻撃する時は、日本が先に攻撃しても憲法違反にはならない』とされている」と。―敵基地攻撃能力を持つことも憲法上可能ということか。

 しかし、このような抑止論は、「フセインのイラクがアメリカに敗れたのは、ひとえに核を持たなかったからだ。だから我が国には、どうしても核は必要だ」という北朝鮮と同じ論理。その国の核・ミサイル開発・実験を非難するのは論理矛盾となり、なんら説得力を持つまい。
 かつて(弱肉強食の戦国時代や帝国主義時代のように、虎視眈々として隙あらば攻め込んで占拠・併合してしまう侵略主義や植民地主義・覇権主義が通用した時代)とは違い、今時(世界中どの国、どの地域も対立・抗争し排除・孤立し合っていては経済も安全保障も成り立たないという21世紀の現代)たとえその国が無防備であっても(現に今、小国でありながらも軍隊を持たない国が192ヵ国中25ヵ国もあるのに、これらの国が)攻め滅ぼされることはあり得ないのだ。
 「抑止力」など無用だし、また、その効きめもないということ。世界は、対立・抗争し排除・孤立し合っては生活が立ち行かない「相利共生」時代とはいっても、中には富強な国家・支配的勢力(現状に安住する多数派)から疎外され、仕事もカネも無くどん底の状態に置かれて、憤懣と絶望から自暴自棄的な過激行動にはしるテロリストや「暴走国家」が存在する余地を残している。(現在の日本にも若者の中に、「この社会をぶち壊したい」「希望は戦争」という赤木智弘氏などの言説に共鳴する気分があり、無差別殺人など暴走行為にはしる若者が出現しているが、個人的・非政治的な次元にとどまっている。)そのようなテロリスト・「暴走国家」に対しては「抑止力」は効かないのである。なぜなら、それらは幾ら圧倒的な抑止力(軍事力)であっても、抵抗を諦めることなく、何とかしてそれを覆そうとして、可能なあらゆる手段を用いる。それらのテロは抑止しきれない。(アメリカに対するアルカイダやタリバン・北朝鮮・イラン、それにイスラエルに対するハマスやヒズボラなど。)
 「抑止力」(軍備)の費用対効果(コストパフォーマンス)という点では―たとえば、「テポドンを撃ち落すためにミサイル防衛システムに何兆円もの予算を割くのと、東海地震や東南海地震のための災害救援システムの構築や、原油高騰や地球温暖化問題の深刻化に対応すべく代替エネルギー開発により多くの予算を振り向けるのと、今の私たちの生命と財産を守るうえでどちらのほうが適切な安全保障であるか。」(前田哲男ほか「9条で政治を変える平和基本法」高文研)あるいは近隣諸国・北朝鮮とも和解(戦後補償を要するが)・信頼醸成・友好関係構築とそれに基づく平和外交による安全保障と比べて、コストはどちらが高くつくか、である。

 自民党の山本一太議員いわく、「万が一に備えるのが安全保障だ」「これまで日本が攻撃されなかったのは、日米安保の抑止力が機能していたからだ」と。
 しかし、地震や台風など自然災害なら一定の確率で必ず起こり、それを起きないようにするのは不可能であり、「起こさないでくれ」などと説得するわけにも、話し合いで未然におさめるわけにもいかないし、それが起きた場合の対策を事前に講じておくことはどうしても必要だが、人間がしかける攻撃はそれとは全く違うだろう。
 また、仮に日米安保がなく無防備だからといって、ソ連にしろ中国・北朝鮮にしろ、どの国にしても、敵対しておらず迷惑や危害をこうむってもいない(かつてこうむった危害・迷惑に対しては謝罪・賠償など―未だ果たしてはいないが―これから何らかの形で果たそうとしている)日本に対して武力攻撃する必要性がはたしてどこにあるのか。経済的利益のためといっても、日本に侵略攻撃をかけて得られるメリットとデメリット・リスク(日本国民の反発・抵抗と国際社会からの反発・制裁)を計算すれば割が合わないことは判りきっている。だから日本を攻撃しないだけの話しで、日米安保がおっかないから手が出せないなどというものでもあるまい。

 田原氏は、元防衛大学校教授でイラン大使にもなった孫崎氏が(その著書「日米同盟の正体」で)「日本はアメリカの完全な核の傘の下にはない。そのことを前提に安全保障政策を考えなければならない」と述べていることを紹介。
 青木理氏(ジャーナリスト)は、「核武装にかかるコスト、或はそれによって国際的に日本がこうむる外交的なデメリットを考えれば、核武装は非現実的だ。」「孫崎氏のその著書には『なぜ中国が、当たり前のこととして、日本を核攻撃しないかといえば、日中の経済的結びつきを考えたら、また外交的な問題を考えたら、そんなこと出来るわけがない。北朝鮮に対しても、(それと)同じアプローチをしたらどうか』とも書かれている」と。
 また田原氏は「ノドンが危ないというが、私はノドンなんか危なくはないと思う。なぜならば、北朝鮮が経済復興するためには1兆円近い日本のカネをあてにしており、その日本をノドンで攻撃して何のメリットがあるのか」と。

(2)外交に軍事力が必要?
 田母神氏らは、力(軍事力)を持たないと諸国から軽く見られ、国際社会における発言力を持てず、外交力を発揮できないという。
 それは、要するに力に頼り、力に物を言わせる外交であって、力を背景に相手国に対して要求を押し通そうとする「恫喝外交」ともなる。
 それに対する相手国の対応の仕方(外交姿勢)には次の3つがある。①力に対しては力で対抗しようとするやり方で、北朝鮮のアメリカに対するやり方だが、互いに不信と反感を強めるばかりで、緊張を高める危険なやり方。②屈従するやり方で、戦後日本のアメリカに対するやり方。日本人にはそれで平気な向きが多いが、諸外国からはあまり尊敬されず、国際社会で名誉ある地位を(「得たい」と憲法前文で唱っているが)得られてはいない。(日本が北朝鮮からナメられているとすれば、それは日本の軍事力が弱いからではなく、アメリカの威を借りながら力で対応するしか能が無いやり方をしているからだろう。)③相手がどんなに軍事大国・超大国であっても、そのことには左右されず、動じることなく、あくまで道理で対応するというやり方で、最近の米州機構における中南米諸国のアメリカに対するようなやり方。
 いずれにしろ、力による外交からは信頼と真の友好は生まれない。
 外交は軍事力を背景としない対等な立場でこそ、理性と道理に基づく対話・交渉が成立する。そして「外交戦」にどちらが勝ったとか、負けたとかではなく、「ウィン・ウィン」で、互いに利益が得られれば一番よいのだ。

(3)日本の戦争のどこが間違っていたのか?
 田原氏は、第二次大戦で日本の戦争が間違っていたのは「負ける戦争をしたからだ」という。関が原の戦い(徳川方と豊臣方)や第一次大戦(イギリス側とドイツ側)と同様であり、対決した双方のどちらが正しく、どちらが正しくなかったかなど問題ではなく、戦略的に負ける戦をした方が悪いのだ、というわけである。
 この論に対しては、天木直人氏(元レバノン特命全権大使)が「勝てれば善いということになるが、その考えは危険だ」と指摘していたが。
 田原氏の発想は、当時の為政者や支配層と同じ発想で、民衆の立場を度外視した考え方だろう。
民衆の立場から見れば、どっちもどっちで、人々を悲惨な目にあわせた(日本軍・アメリカ軍)双方とも悪いとは思っても、「負ける戦をしたのが悪い。勝っていれば善かった。」などとは思わないだろう。
それに、中国に対しても、東南アジアその他の人々に対しても、日本軍が侵入して占領し軍政を敷き、人的・物的資源を欲しいままに徴発して戦乱に巻き込んだその行為は不当な侵略以外の何ものでもあるまい。
 そして、その犠牲者は日本人310万人、アジア全体で2,000万人。このような未曽有の被害をこうむった諸国民・民衆の立場に立ったなら、単に「戦略的に負ける戦争をしたのが悪い」では済まされることではないだろう。

 また、田母神氏は「日本は追い込まれていて、戦うまいとしても戦争わざるを得なかった。」「日本が植民地になるかならないかのどっちかであって、それ以外に選択の余地はなかったのだ。」「天皇は一生懸命、戦争やるまいと努力したけれども、しようがなかった。」「真珠湾で一発殴った。殴らなかったら今頃日本は植民地になっていたし、東南アジアなどは未だに植民地のままになっていただろう」と。
しかし、この「しょうがなかった」論も、「生存圏の確保」「自存自衛とアジア解放のための戦争」という当時の戦争推進者の発想とまったく同じ発想で、侵略戦争の正当化以外の何ものでもない。
 あたかも、日本が植民地にならないように、またアジアを欧米の植民地支配から解放するために戦争を起こしたかのような言い分であるが、事実は日本が侵略され植民地化されようとしたわけでは全くなく、逆に朝鮮・台湾を植民地支配し、満州を始めとして中国をも植民地・属国化しようとして侵略し、さらに東南アジア諸地域にまで進出して欧米から支配権を乗っ取った。それに、諸国民が抵抗し抗日ゲリラ攻撃を行ない、アメリカ等の連合国軍とともに日本軍を降伏に追い込んで自ら解放を勝ち取った、というのが、中国・韓国・東南アジア諸国・欧米諸国それに日本でも大多数の人々の見方なのである。
 日本は真珠湾攻撃でアメリカに殴りこみをかけたおかげで植民地にならずに済んだかのようにいうが、それも逆で、殴りこみをかけ殴り返されて降参し、未だに日本のあちこちがアメリカ軍の基地にされ続け、「日米地位協定」(日本の警察権・裁判権が制約され、米兵が犯罪を犯しても、基地内に逃げ込んでしまえば日本の警察は手がだせないといった取り決め)や「思いやり予算特別協定」など植民地並みの不合理な協定が押し付けられている現状なのである。

(4)国際社会の安定に軍事力が必要?
 田母神氏いわく、「金持ちが貧乏人よりも強い力を持たないと国際社会は安定しない」と。単純率直な言い方だが、財界(資本家・資産家・実業家たち)など国家・社会の支配層の本音を露骨に言ってのけた言葉のように思われる。現実は先進諸国を初めとして世界の金持ちたちの、まさにこの考え(意向)のもとに、アメリカでも日本でもヨーロッパでもイスラエルでも、各国で軍備・軍事的安全保障政策が行われているように思われるのだ。この言説を聞いて、何故テロリストや「テロ国家」が生まれるのか、その訳がどうやら解ったような気がする。
 その軍備・安全保障政策(防衛政策)は、要するに金持ちたちや「金持ち国」のその富とそれをもたらす経済社会体制を守るためのものなのだ。
 しかし、そのような軍備・軍事的安全保障政策によって、国際社会も国家も安定・維持することができるのかといえば、それは不可能だろう。なぜなら、貧乏人も「貧乏国家」も、金持ちたち・「金持ち国家」の「力」による支配におとなしく従い、じっと我慢し続けることには耐え切れないだろうからである。彼ら、彼の国ではその軍事支配を覆そうとし、弱者の抵抗手段としてテロにうったえ、北朝鮮のような「貧乏国家」は国民が飢えても「弱者の武器」である核・ミサイルを開発し、それを「金持ち国家」にカネを出させる交渉カードにしようとする。
 要するに、テロリストや「テロ国家」を作り出しているのは金持ちたち・「金持ち国家」の「力」による支配にほかならず、テロリスト・「テロ国家」はなぜ絶えないのかといえば、それは金持ちたち・金持ち国家が富を独占し、貧乏人・「貧乏国家」を圧倒的な力で抑えつけようとするからにほかならない、ということだ。それをやめないかぎり、テロリスト・「テロ国家」は無くならないし、金持ちが「力」による支配をやめれば、それらは無くなるということだろう。
 早い話が、金持ちが武力を持ったら、かえってテロリストから狙われてしまうのであって、むしろそんなものを持たずに、カネを(納税や寄付・募金などを通じて)貧者に分配したほうが安全・安心が得られるというものだろう。
 それに、テロリスト・テロ国家には、たとえどんなに強大な軍備を備えても、前述のように、その「抑止力」は効かないのである。
 したがって、このような金持ちたち・「金持ち国家」の「力」によっては国際社会も国家も安定を保ち続けることは不可能だということ。
 そもそも、金持ち・貧乏人の格差をつくる経済社会体制・政治・政策が間違っているのである。その格差・貧困を拡大・放置しながら、人々の不満・義憤を力で抑え付けて社会の平和・安定を保とうとしても、所詮それは不可能なのであり、格差・貧困そのものを無くしてこそ、平和・安定が保たれるのであって、そこには力(軍事力・抑止力)など要らないのである。

 そのような考えに立って地域内諸国共通の非軍事的な安全保障政策をとっているのがASEAN(東南アジア諸国連合)をはじめとする平和共同体であり、今それが21世紀世界の潮流になろうとしているのだ。
(ASEAN―1967年、インドネシア・マレーシアなど5カ国が結成、76年東南アジア友好協力条約TACを締結、77年アメリカを盟主とする軍事同盟SEATOは消滅、TACにはその後日中韓など域外諸国も加入し、現在では東アジアのすべての国、インド・パキスタンなど南アジア、オーストラリア・ニュージーランド、ロシア・フランスそれに北朝鮮まで加入して加盟国は25ヵ国にものぼっている。
 この条約で加盟国は互いに紛争の平和的解決・武力行使の放棄を約し、仮想敵を持つ軍事同盟を排し、対決より協力優先を約束し合っている。
 一方、北朝鮮をめぐって「6ヵ国協議」が設けられているものの、現在北朝鮮が脱退を言い出して頓挫しているが、何とかそれを維持・発展させ「北東アジア非核地帯条約」とともに恒常的な地域安全保障の枠組みの構築をめざす考えもあるが、東南アジアにこの北東アジアを加えた「東アジア共同体」構想もある。
 また、「南米諸国連合」も昨年結成され、アメリカ中心の軍事同盟とは一線を画した地域共同の安全保障体制を構築した。)

 共産党の穀田議員がそのことを指摘したのに対して、村田晃嗣氏(同志社大教授)は、そのような潮流だけでなく、非国家主体のテロ・ネットワーク、それに北朝鮮のような国際的相互依存の枠の外にあるような「ならず者国家」の潮流も依然としてあるのであって、一方の自分の都合のいい潮流だけを議論してもしかたない、とクレームをつけていた。しかし、そのようなテロ・ネットワークや「ならず者国家」の潮流は、地域内諸国共同の非軍事的安全保障体制(不戦・平和共同体)の広がりと充実によってこそ、絶やすことが可能となる、というものではあるまいか。


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