米沢 長南の声なき声


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「必要な物やサービスを得るには対価が必要だ」というのは当たり前のことか(加筆版)
2018年08月12日

 ここで確認しておかなければならないのは、いずれも、資本主義の下で暮らしている人々は、とかく、①に「物やサービスを得るには見返りが必要で、全てカネで売買・交換するもんだ」ということ、②に「労働とは、それでカネを得て、買って、食うために働くこと」で「働かざる者は食うべからず」と思い込んでいる向きが多いのではと思われるが、それは固定観念(思い込み)に過ぎないのだということ。以下にそのことを論じてみたい。

「物やサービスを得るには見返りが必要」ということについて
 資本主義の下では、それが普通であろう。そこでは市場原理(利己的欲望に基づく損得が基準)に基づく交換経済(市場経済)が基本だから。(交換といっても、定価―例えば100円の物を100円で買えば、買った人にとっては等価交換と思われるが、実は原価は90円で、それに儲け=剰余価値=利潤として10円がプラスされていて、不等価交換なのだ。)
 そこでは人々は、所有し或いは生産した物やサービス(労働者は自らの労働力)を商品として(値段が付き、その金額で)売って、そのカネ(販売代金)で必要な商品を手に入れる。そこでは物やサービスの提供は、すべてその見返り(代金・賃金報酬・利潤)を前提にして(当て込んで)行われる。それに値段を付ける(幾らで買うか、売るか)その取引きには利害打算が伴う。それで、有利な見返りが得られなければ、生産・販売・サービス提供は止める。たとえそれ(物やサービスの提供)が得られないと死活にかかわる程の窮地に陥ってしまうとしても。
 このやり方は、代金も報酬も利子も払うのが当たりまえ、払わなければ商品やサービスの提供が止められるのも当たりまえで、容赦しないという非情さがある。
 しかしこのような市場原理に基づく交換経済のやり方に対して協同原理に基づくボランタリー経済とか贈与経済(ギフト・エコノミー)といったやり方がある。それは見返りを期待しないで何かを与える共同体関係に基づくやり方である。
 「贈与経済」とは、「まず与える」、それに対して「お返し」があるも、その「お返し」は、「交換経済」における「見返り」(「代金」とか金銭的報酬)とは異なり、予め金額や支払い義務など設定され要求されることはない。但しその「お返し」は、見かけ上は任意なのであるが、実際上は同等もしくはそれ以上のものでなければならない。(但し、その量と内容が適切であるかどうかは客観的には決まらない。)
 ボランティアの場合は、いわば「時間の贈与」であり、こちらから「まず動く」という意味あいをもつことにもなる。それが奉仕した相手からは直接「お返し」はこなくても(たとえばAがメンバーBに奉仕したとして、Bはそれに報いるのにAではなく、他のメンバーCに奉仕する、といったようにして)他から返ってくる(連鎖的相互奉仕)。つまり「与えれば、いつかは報われる」ということになる。(そういえば、インターネット情報も、こちらから送れば相手から情報が返ってくる、そして相互やりとりが繰り返される。かくして情報を提供する側ともらう側の関係が常に入れ替わることになる。)
 いずれも「与えることで与えられる」(与え合う)という面をもつ。それが市場経済と違うところは、やりとりをする相互の間に成立する人と人との関係は、単なる経済性だけでなく、カネには換算できない豊かで多様な価値を含んだものになる。
 共産主義とは、そのような共同体的ギフト・エコノミーの類にほかなるまい。なぜなら、それ(共産主義)は「各人が能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というやり方であり、誰もが(資本主義におけるような労働疎外がなく、AI・ロボット・Iot・ビッグデータ装置などの高度先端技術の活用とあいまって)その能力を存分に発揮した労働の成果として社会に提供したものを、人々が「必要に応じて受け取ることができる」ということで、「与えることで与えられる」システムにほかならないからである。

「労働とは、それでカネを得て、買って、食うために働くことだ」ということについて。
 資本主義の下では、労働者はそういうことで(おカネのために)働くことになっている。そこで労働者が雇われて得るそのおカネ(賃金)は自らの労働力を売った代金である。そしてその労働力はカネを支払ってそれを買った資本家(会社のオーナー)のものとなって、それをどのように利用しようと(従業員をどのように使おうと)資本家・経営者に裁量権があり、彼ら労働者の労働の成果は資本家の手に渡ってしまう。資本家は(その労働力を利用して)最大限利潤を得ようと努めれば努めるほど、労働者の労働はきつくなり、辛い苦役のようになってしまうし、或は一生懸命働けば働いたで、その成果はそもそも働いた自分のものであるはずなのに資本家・経営者のふところに入る利潤が増えるだけとなる(それが労働疎外)。
 共産主義とは、資本主義のそのようなやり方を廃して、生産手段を労働者=生産者たちの共有制にすることによって労働の成果を自分たちの手に取り戻すことにほかならない。そしてそこでの労働(仕事)は本来の自己実現活動もしくは創造的な活動として楽しく「生きがい」となる、ということだ。
 尚、資本主義の下でも、家事労働は賃金なしでやられており、ボランティアは―有償の場合もあるが―多くは無償である。

 要するに「物やサービスはカネで交換・売買して得られるもの」だとか、「労働は資本家・経営者からカネで雇ってもらって働くもの」だというやり方は、資本主義では当たり前のように思えても、それは昔からずうっとどの社会でも行われたものでもなく、そこには矛盾や不合理があり、歴史が過ぎれば変わりゆく(切り換えられていく)もの。.
 一方、共同体的ギフト・エコノミー・システムは「人間行動の新しいやり方でもなければ、過度の理想主義的な見方でもない。それは歴史 に深く根ざしており、富や金銭の追求よりも人間心理にとってはるかに基本的なものである」(ドラッガー財団刊『未来社会の変革』の書中ギフォード・ビンチョー氏の記述より)。協同組合・NPO(非営利協同組織)など、それにつながる何らかの形態が現実に存在するのである。
 つまり、資本主義も、「必ず見返りをとる」交換経済も、いつまでも当たり前のこととして通用し続けるわけではなく、また共産主義は、旧ソ連型社会主義(実態は国家資本主義)のように国有・公営企業で、政府が立てた国家計画に基づいて官僚が経営を行い、国家に雇われた労働者が労働(ノルマ)に応じて(「見返り」として賃金を)受け取る社会主義でもなければ、現実離れしたユートピアのような机上の空論でもないということだ。

 と思うのだが、如何なものだろうか。



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