米沢 長南の声なき声


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教育基本法「改正」で孫が心配
2006年11月17日

(1)孫と私
 私は、孫が一人前の人間として生きていけるようになってもらいたいものだと、ひたすら願っている。
 孫は、今は幼稚園。風邪などでたまに休む以外には、毎日元気で楽しそうに登園している。たまに、「今日、○○君からちょっといじめられた」と云ったりすることはあるが、後に尾を引くようなことはなく、その子とも毎日行き帰り手をつないで同行している。
 しかし、上の子は来年から、下の子は再来年から小学校に入学する。二人とも私が怒鳴ると大声で泣くか、ちょっとのことで泣く。どうやら私に似て小心者で傷つき易い性格のようだ。
 私は、幼児期は戦争時代で、終戦翌年に小学校に入学し、その翌年制定された新教育基本法の下で教育を受け、大学を卒業して教員になり、高校教育に携わりもした。小中学校時代は父の転勤や死去にともなって何回か転校し、その度に辛い思いをしたが、その不安はいずれも初日だけで終わってあとは何の苦もなく学校を過ごし、皆勤賞をもらって小中学校とも卒業した。中学・高校ではテスト「番付」があって、中学の時は上位の方だったので平気だったが、高校では惨めだった。高校は運動会も修学旅行もないような学校だった。卒業後、中学校のクラス会には出ているが、高校のクラス会はなく同窓会には(集まるのは「偉い先生や偉くなった人ばかり」で近づきがたくて)一回も出たことがない。進学・就職は実に不安だったが、結果的にはどうにかなった。(高校卒業と同時に大学に入学し、育英会の奨学金をもらって4年間在学し、卒業して直ぐに教職に就いて在職を続けたので奨学金返還は免除になった。)
 私が担任をしたクラスの同級会には勿論出席しているが、出席しない教え子はいる。その同級会の席上、出席した教え子同士で「お前からいじめられたものだ」「そうだったかな」といった対話が聞かれることもあるし、この私が「先生からは、ろくな指導をしてもらわなかった」と口説かれることもある。在学中、「卒業したら同級会に皆集まれるようなクラスになろう」と呼びかけたことがあったクラスは未だに一回も同級会を開いていない。
 退職して数年たつが、卒業生の奥さんから「息子が不登校で困っているのですが、どうしたらいいでしょうか」といった電話相談をうけることもある。

 それにつけても、これから小学校に入る私の孫たちは一体どうなるのだろうか。

(2)教育基本法からの逸脱とその結果
 教育基本法は、しだいに、その精神(教育権は国民に、機会均等、行政は教育条件の整備に限定、一人ひとりの人格の完成をめざすなど)とは裏腹の文教政策や行政措置が講じられようになり、基本法はないがしろにされ、形骸化・空洞化されていった。そこには歴代の自民党政府の思惑があるわけである。基本法制定にともなって発足した地域住民による公選制の教育委員会は、公選は3回あっただけで廃止され、自治体首長が任命(県教育長は文部大臣、市町村の教育長は県教委が承認)する教育委員会に切り換えられて上意下達の機関に化し、中央集権が復活する。公立学校では教員の勤務評定が行なわれるようになり、近年は「S・A・B・C・D」といった教員の5段階評価が行なわれ、人事異動はもとより、それによって給料を上げたり下げたりするまでになってきているという。学習指導要領は当初は「試案」とされ、自主カリキュラムの「手引き」にすぎずなかったものが、法的拘束力を帯びるようになっていくし、授業は自主教材でおこない、教科書は参考書にすぎなかったものが、「教科書どおりに」というようになっていった。(私はずうっとプリント教材その他で授業をおこない、教科書は参考書あつかいにしていたが、生徒は教科書にとらわれていたようだ。)教科書検定・採択の問題ももちあがるようになった。また、当初、文部省は高校には志願者すべてを入学させるべきものとし、選抜試験(入試)は施設が限られているが故の「やむをえない害悪であって」、経済が復興し、施設が充足できるようになったら「直ちに無くすべきもの」としていたのに(1949年、文部省学校教育局「新制中学校・新制高等学校運営の指針」)、志願者が定員を超えなくても入試はやるということになった(1963年)。高校・大学とも序列化し入試競争は激化の一途をたどる。
 1966年文部省の諮問機関(中央教育審議会)が(「期待される人間像」に)人材としての「日本人の育成」を打ち出した。
 ところが70年に「落ちこぼれ」、70年代半ばに「校内暴力」、80年に「登校拒否」(不登校)、80年代半ばに「いじめ自殺」(今、再び起きている)、80年代後半に性非行、少年犯罪の凶悪化、90年代には教員の精神疾患、といったように各年代に問題が持ち上がるようになっていった。
2002年、中教審は「世界規模の大競争の激化」のなかで「国際競争力の強化」が必要であるとし、「人材」としての「能力」の養成を教育の目的とすべきだと、教育基本法「改正」との関連で提起。
近年は新自由主義(反福祉国家路線)の立場から学校教育に市場原理(企業の論理)が導入されるようになって学校教育がサービス産業と同然にみなされる傾向が生じるとともに、公教育にも競争主義・効率主義・成果主義が横行するようになった。大学合格率アップ、「いじめ」・「不登校」の件数「半減」とか「ゼロ」とかの数値目標を学校や教員に課して実績を報告させ評価する、といったことが行なわれるようになった。
最近問題化した「いじめゼロ」報告や高校必修科目履修漏れ(便宜的虚偽報告)は、その結果であろう。(首相や文相はそれを「規範意識の欠如だ」などと、校長と教員の責任を強調しているが。)
国連の子ども権利委員会から、日本では「極度に競争的な教育制度のため、子どもが発達の歪みにさらされている」と日本政府が勧告を受けているのである。
ところが、日本は、以前は「学力大国」といわれていたのに、今では「二流国」。「学力の格差の広がりに直面している。」(10,19付け朝日社説)
日本は先進諸国の中で、公教育への支出額はGDP比では最低水準にあるのだという。
尚、学力世界一のフィンランドは1クラス20人前後の少人数学級で、競争や順位づけはおこなわない。教育への国の財政支出はGDP比が日本は4,7%であるのに対して6%。大学まで無償。日本の教育は基本法から遠ざかってきたが、フィンランドは1960年代の教育改革以来、日本の教育基本法を参考にして教育をおこなってきたという(早大名誉教授の中嶋氏)。
北大の伝田助教授のグループによる(3000人以上の小中学生を対象とする)調査では、抑うつ傾向のある(「何をしても楽しくない」「生きていても仕方ないと思う」など、うつ病になるリスクをもっている)小中学生は平均13%、中学生22,8%、中学3年生30%ということだそうである。
 最近、生徒の「いじめ」自殺が再び連続しているが、校長・教師の自殺もかつてなく頻発しているのである。
 先生も生徒も競争と評価と時間のプレッシャーでストレスが高じているのだ。それに卒業式・入学式ともなれば「日の丸」「君が代」が付きまとう。それを国家主義的強制と感じる人にとっては、それらもストレスの種になる。
 私が教職に就いた学校は私立だったので、比較的自由にやることができた。教務手帳には建学の精神とともに教育基本法が載っていたし、私自身の手で基本法の「教育目的」の条文を大書して職員室の壁に貼り付けたりしたことがあった。
しかし我が校には、基本法がよく行き届いていて、いじめ・不登校・非行その他どの学校にもあるような問題は無かったのかといえば、勿論そういうわけではない。私のクラスにも一時学校に来れないという生徒はいたし、中途退学をした生徒もいた。
また、我が子も、学校時代に問題を起こしたことがあった。今は、一人は大学を出て精神医療にたずさわり、もう一人は短大を出て幼児教育にたずさわっているが。

(3)教育基本法の方を変えようとする政府
いじめ・校内暴力・学級崩壊・家庭内暴力・自殺・少年犯罪事件の多発、学力低下など、現下の問題は愛国心を叩き込むとか道徳心・公共心など心の持ち方だけで解決できるものではない。
いじめや自殺は子どもや学校内に限ったことではなく、大人社会でもあるし、増えているのだ。自殺の原因は経済的困難・リストラなど以外に「能力が認められない」「上司からのいやがらせ」「仲間はずれ(孤立)」「ちょっとした注意など他人の一言で全人格を否定されたと受け取ってしまう」といったところにもあるという。過度のストレスや抑うつを生じさせる、ゆとりと人間関係の温かみを失った社会に問題があるのだ。
子どもたちを取り巻く教育環境(社会環境)は教育基本法制定当時とは確かにガラリと変わってはきている。テレビ・パソコン=インターネット・携帯電話などの情報機器やゲーム機器、消費文化の過剰発達、余暇の過ごし方・遊び方、家族・地域社会のあり方(疎遠に)、競争主義の風潮、家事・家業・就労形態の変化など。これら社会の激変は政府の経済産業政策と資本主義発展の結果なのであって、それら社会環境の悪化や社会の病理は教育基本法を変えてそれに愛国心・道徳心など盛り込んだからといってどうにもなるものではあるまい。
教育基本法は前文とわずか11カ条からなり、先生や親たちが子どもや国民にたいして教育を行なうにあたっての基本的な心構え(理念)を定め、国や地方の行政が為すべきこと(為すべきでないこと)等の大原則を定めたものなのであって、先生の教え方や教える内容を、具体的に「こう教えよ」とか「こういうことをお教えよ」などと定めているのではない。また、かつての教育勅語のように徳目(道徳目標)を定めたものでもないのである。
 したがって今、子どもや教育をめぐってもちあがっている深刻な問題は教育基本法には何の原因もないどころか、むしろ基本法の理念と原則に従ってやるべきことをやらず、やるべきでない余計なことをやってきたからこそ問題が起こっているのである。
 ところが安倍政権は「教育再生」を掲げ、「教育改革を進めていくうえにおいても、速やかに教育基本法の成立をはかりたい」として、教育基本法の方を変え、それに愛国心や公徳心を盛り込み、文科省以下の教育行政機関が(立法措置を通じて)「教え方」や教育内容に無制限に介入できるようにしようとしているのである。(この教育基本法改正案については、このホーム=ページの6月号の「どうして賛成か、反対か―心情から(そのⅡ)」で既に論評した。)改正案は前の通常国会で継続審議あつかいになっていたが、この臨時国会で安倍政権にとって最重要法案として再び取り上げられた。
 安倍首相の持論では教育の目的は「志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ」(「美しい国へ」)としており、この改正案では、教育の目的として「人格の完成をめざし、・・・国家および社会の形成者として必要な資質を備えた・・・国民の育成を期して行なわなければならない」として、現行のものにはない「必要な資質を備えた」という言葉を付け加えたうえ、「教育の目標」を幾つかにわたって書き加え、そのなかに「道徳心を培う」とか「国を愛する態度を養う」などと定めている。「必要な資質を備えた国民の育成」とは国家にとって必要な資質を備えた人材の育成ということになり、国家にとって必要な資質として、(国家にとって望ましい)「道徳心を培い」「国を愛する態度を養う」ことが「教育目標」として課せられ、それらの目標達成が義務づけられることになるわけである。(「人格の完成」はこれらの「教育目標」達成に矮小化されることになる。)現行の基本法では教育の主体は「われら」となっていて、あくまで国の主権者である国民が主体なのであるが、改正案では主体は国家になり、教育は国家のための道具に化すことになるわけである。 
 愛国心教育は既に学習指導要領に盛り込まれており(小学校6年生の社会科には「国を愛する心情を育てるようにする」という項目が入っており、中学の「道徳」には「郷土を愛し、国を愛する」という項目がある)それに対応して通知表の中に「国を愛する心情」をABCで評価する項目を設けている学校が現にあるのである。(先の国会における教育基本法特別委員会の審議でこの通知表問題をとりあげた野党の質問への答弁で小泉前首相は愛国心を「(通知表で)評価するのは難しい」「こういう項目はなくてもいい」と述べているが。)
これが基本法に教育目標として定められれば、法律としてはっきりした強制力をもつことになり、通知表に評価をつける、つけないはともかくとしても、国旗・国歌の卒業式・入学式にさいする起立・斉唱などに関する教育委員会通達や校長の職務命令・違反処分は合法化されることになる(先の東京地裁判決では違法とされたが)。
 文科省が道徳教育の副教材として作製した「心のノート」(既に全国の小中学校に配布されていて、中学校版にはその中に「この国を愛し、この国に生きる」という項目が盛り込まれている)は、今のところは、使用は強制ではないとしているが、改正案が通れば、それを使った授業は正式に義務付けられることになるわけである。
 現行基本法3条(教育の機会均等)は「すべての国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」となっている。それは、一人ひとりの子ども(国民)の能力の発達の状況に応じて、内容や方法に充分な配慮がなされた教育が、すべての子どもに行なわれるということであって、すべての子どもに機械的に同一の内容・方法で行なうことを意味しない。ところが、この文言は、先天的・後天的能力の差異を理由に、能力があるとされる者には豊な教育を、能力がないか低いとされる者にはそれなりの教育を与えればよいのだと歪曲され、「1960年代以降に進行した教育の能力主義的再編の過程で、能力による教育機会の差別を正当化しようとする人々に利用されることもあった」という(浪本勝年編著「教育基本法を考える」北樹出版)。それで、学力による子どもたちの選抜・選別教育がおこなわれ、それにともなって偏差値による「輪切り」と受験指導が行なわれたりしてきたわけである。

しかし、教育の目的は一人ひとりの人格の完成であり、個々人の能力に差異があるとしても、それが当人の不利益とならないように、能力や発達の必要に応じた内容と方法とでどの子に対しても手抜きのない教育を保障する、そしてそのことによって個々人がそれぞれの方法で社会の一員として社会に参画できるように、その能力の発達の可能性を最大限伸ばしていくことこそが「人格の完成」という教育目的にそくした機会均等であるはずなのだ。

ところが改正案では、「『能力に応ずる』教育を受ける機会を与え」という文言を「『能力に応じた』教育を受ける機会を与え」と変えて、ただ単に、能力のある者には金のかかったレベルの高い教育を、能力のない者には金のかからないレベルの低い教育を、というふうに能力主義的選別教育を正当化し教育機会の差別-教育格差-を容認するものとなっているのである。
 現行基本法10条(教育行政)には(戦前・戦中の教育が国家権力の支配下におかれ、国民を戦争に駆り立てたことに対する痛苦の反省から、教育に対する国や行政の介入に歯止めをかけるために定められた)「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきものである」という条項は、改正案では「国民全体に対し直接に責任を負って」という言葉が削除され、そこに「この法律及び他の法律の定めるところにより(行なわれるべきもの)」という言葉が付け加えられ、法律によって教育内容への無制限な介入が可能なことになる、一方「不当な支配に服することなく」の「不当な支配」とは教員組合や野党・市民団体などの方がそれと見なされるようになるわけである。
 改正案には「教育振興基本計画」の条項を新たに設け、政府や地方自治体が「教育の振興のため」と称して諸施策を計画することが認められている。そこで一斉学力テストその他が計画されることになるだろうし、そこに様々な数値目標が盛り込まれることになるだろう。学校長や教員はそれらの実行・目標達成・報告に追い立てられることになるわけである。
 安倍首相は、この基本法「改正」と平行して「教育改革」を断行すべく「教育再生会議」なるものを設け、各方面から有識者・著名人を集めて話し合わせている。それは、彼が「美しい国」とともに思いつき、やりたいと考えている学校選択制・教育バウチャー制度(入学したい学校を選択させ、その入学者数に応じて学校予算を配分する。不人気校は予算を削られ、或は廃校に追い込まれることになる)・学校評価制・6ヶ月間の奉仕活動義務付け・教員免許更新制(「ダメ教師は辞めていただく」というわけ)などの検討機関にほかならない。これらが基本法「改正」と平行して進められようとしているのである。
 これらによって競争教育はますます激しくなり、管理・統制はますます強化される。教育格差の拡大・固定化はますます進む(成績点数の高い学校の地域に所得の高い階層の人々が集まり、点数の低い学校の地域には所得の低い階層が集まる、といったことにもなる)。
生徒も先生も、プレッシャーがますます強まり、ストレスはますます高まることになるだろう。

(4)東京都の教基法「改正」の先取り 現行基本法の軽視あるいは無視、実質的な「改正」の先取りは石原都知事の下、東京都で既におこなわれている。そこで行なわれているものは学区全廃と学校選択制、一斉学力テスト、学校序列化、教職員の人事考課、中高一貫校の設立・複線化、特定イデオロギーで書かれた歴史・公民教科書の採択、そして卒業式・入学式での国旗・国歌の強制である。
 東京都で学校選択制を導入した市区(24市区)の中には入学者ゼロという学校が続出し、統廃合で消えてなくなった学校もあるという。
都と区の一斉学力テストの結果をもとに、学校予算を成績の良い学校には多く、悪い学校には少なく配分することにしている区もある(足立区)。
都立の各学校に学校経営計画を立てさせ、年度当初に進学率や部活の成果について数値目標を立て、都教委が学校ごとに比較検討し教員や予算を配分するということになっているのだそうである。
高校の必修科目履修漏れ問題は東京を含めて全国にわたっているが、これに関して石原都知事は「やっぱり目先の成績を上げるための、先生自身が点取り虫になっちゃったんだね」と述べているという。(11月11日付け朝日新聞「声」欄に寄せた都立高校教員の投稿「はしご外された校長が気の毒」)知事には責任がないかのようである。
 安倍政権が企図している教育改革は、18年前イギリスで行なわれたサッチャー政権のそれをモデルにして、東京都が先取り的に実施しているこれらを導入しようとするものであるが、当のイギリスでは既にその失敗が明らかになっているのだ。
東京都教委による国旗・国歌の強制は、東京地裁の判決では違憲・違法とされたが、教育基本法「改正」・改憲が行なわれたならば、これらはすべて・合憲・合法化され、石原都知事が既にやっており安倍政権がやりたいと思っている教育への権力の介入措置はすべて法的根拠が認められるようになり、それに従わない教師や生徒・親たち市民の方が罰せられることになるわけである。

(5)孫たちはいったいどうなる教育基本法が「改正」され、このようなことが本県でも大っぴらに行なわれるようになったら、うちの孫たちは一体どうなるのだろう・・・。
 学校で先生から、或は「みんな」から、「ああだ、こうだ」と構われ、テスト、テストで追い立てられ、番付が上がったり下がったり、戦々恐々、授業についていけるか、置いていかれないか、落ちこぼれないかとますます神経質になり、かりかり、いらいら、のびのびできずに心の余裕がなく、息が詰まっておかしくなるのでは。
 友だちは皆ライバル、勝つか負けるか、出し抜くか出し抜かれるか、仲間はずれにされるか、されないか、いじめられるか、いじめるか、びくびく、おどおど、皆の前では自由にものが言えない、友達にも本音で話しできずに、携帯でやりとり。 
 心優しさ、思いやり、大らかさ、人を差別せず、分け隔てなく接する温かみなど持てはしない。
 どこへ進学できるか、どこに就職でき、どこに所属できるか。どこにも所属できずにニートになるのか。日の丸・君が代にだけは反応し日本人意識にとらわれ、反日に対していきり立ち、いちいち国旗・国歌を持ち出すことを嫌う私を「じじいは非国民だ」とののしるようになるのか、それとも他から「じじいと同じでお前も反日だ、非国民だ」とののしられ、村八分(仲間はずれ)にされるのか。
 私が孫たちの行く末に安心していられるには、孫たちが、大きくなって学校を卒業して、なるべく自分の希望する職種に就職でき、結婚して子どもを養い育て、老後に至るまで食いっぱぐれなく、一生安心して、健康で文化的な生活ができるようになることだ。
 それには、社会が、どんな職業、どんな就職先であっても、怠けずに、きちんと所定の勤務時間働けば、常勤か非常勤か、正社員か非正社員かを問わず、同じ仕事には同じ時給、同じ福利厚生(年金や医療などの社会保険)が保障される、そのような社会になっていることだ。(ワーキング=プアとは生活保護を受けている人の水準以下の賃金で暮らしている人のことだが、今それが勤労世帯の2割にも達しているといわれる。今日本では非正社員の給与は正社員の半分で、社会保険には加入できないようになっているが、オランダなどヨーロッパではそんなことはない。)
 そして、試験も、適性試験・卒業認定試験はあっても、序列・格差と結びついた勝敗を競い、「勝ち組・負け組」をふるいわけるような競争試験はない、そのような社会になっていることだ。(国際人権社会権規約では、高等教育も含めて教育を受けることを「人間の権利」としてその機会を均等に保障するため、各国とも学費の無償化をめざすことを定めている。日本はこの規約を批准してはいるが、規約の中の中等・高等教育の漸進的無償化条項は未だに留保している極くわずかしかない国の一つになっており、無償化は小中学校だけに留まっている。今は世界第二の経済大国でありながら、高校・大学は無償化されておらず、学費(父母負担)が世界一高く、受験競争の最も激しい国になっているのである。)
 学校では、教育の主たる目的は、国家や企業のための人材養成・選別にあるのではなく、あくまで、一人ひとりの人格の完成(一人ひとりの能力・個性を引き出し伸ばすこと)を目的とし、一人ひとりを大切にして行き届いた指導が行なわれなければならない。
 学校は人材養成・選別機関(生徒を点数・成績で「勝ち組」―エリート、「負け組」―再チャレンジ組、「脱落組」―落ちこぼれ、といったふうにふるい分けるところ)ではなく、そこで子どもや若者その他の学習者が、知る喜び(真理探究心)、わらなかったことがわかるようになる喜び、互いに協力し助け合って、できなかったことができるようになる喜びが得られて楽しい学校生活ができ、(人を蹴落とすか蹴落とされるか、いじめるかいじめられるかなど弱肉強食の競争、不信、孤立の不安が支配するのではなく)友情・連帯・思いやり・協力・助け合いが支配し、集団のなかでもまれることも必要で喧嘩やトラブルはあっても、或は先生から怒られ、誰かから何か云われて心傷つくことはあっても、後に尾を引くことはなく、のびのびと学校生活が送れるところであってほしい。

 文科省・県教委・市町村教委・学校長・教員の関係は今のような上意下達の関係ではなく、また文科省・教育委員会は管理・統制機関として教育内容・方法に介入して教育目標・数値目標を押しつけて学校や教員を評価したりせず、学習指導要領は教育の機会均等の確保と全国的な一定水準の維持のための大綱的基準として必要だとしても、それに法的拘束力を持たせて指導を義務づけたりせずに、具体的なやり方や内容は各学校の裁量と各教師の自主性に委ね、学校施設や教職員の確保など教育条件の整備に徹し、そのことのみに責任を負うようにする。
 委員が自治体首長から任命されて名誉職化し文科省・自治体首長に従属して上意下達機関化した教育委員会を公選制の委員会に戻し、地域と学校に密着し役割を果たし得るものとすべきである。
 校長・教師集団は、文科省や教育委員会の方にではなく、常に生徒の方に顔を向け、バラバラ、分断され孤立する(一人で問題を抱え込む)ことなく、一致協力して事に当たり、保護者・地域住民の協力によって支えられる。

 孫たちは、このような社会、このような学校で生活を送っていってほしいのだ。教育基本法を政府案のように変えられてしまったら、それは絶望的になってしまう。

 とにかく教育基本法は「改正」するのではなく、むしろ現行基本法の理念・原則からかけ離れたこれまでの教育行政の諸措置や諸制度(任命制教育委員会制度や入試制度など)を改廃し、未だ果たしていない少人数学級や高校・大学の無償化など、基本法に基づく本来の姿に戻すべきなのである。

(6)歴史的に大きな禍根
教育基本法は憲法に準ずる重要性をもち、普通の法律とはわけが違い、国民の子孫の将来に関わる「百年の大計」となるものである。
 しかも、憲法と同様、制定主体は「われら」国民であり、主権者である国民が政府などの権力機関の権限を限定してその恣意を縛るためのものなのである。
 ところが今、それを政府の方から改正案を出して、国会で与党の多数にまかせて議決し、それを変えてしまおうとしている。
それも、教育の主体を国民から国家に置き換え、教育行政権力が与党の多数で決めた法律によりさえすれば意のままに教育内容に介入できるように基本法を根本的に変えてしまおうとするものである。
各地で開かれてきた政府主催のタウンミーティングは、文科大臣など政府担当者と「国民との対話」の場として、市民からの質問に答え、市民の意見を聞くために設けられたはずのものであるが、事前に質問者を依頼し、文科省が作成した質問原稿を「棒読みにならないように」などと注意事項まで沿えて渡しておいて政府側の意向にそくした質問をやらせていたという事実(「やらせ質問」問題)が明るみになった。まさに世論誘導であり、世論偽装ともいうべきものである。こんなことをしてまで教育基本法「改正」を強行しようとする。
 与党は、野党が国会審議続行を求めたのに対して、意見はもう出尽くしたとしてそれを拒否し、審議は未だ尽くされていないとして採決には応じられないとする野党欠席のまま単独採決を強行した。
 その衆議院の与党議員は、昨年9月の総選挙で選ばれた議員であるが、その時の選挙は、小泉首相が参議院でいったん否決された郵政民営化法案を何が何でも再議決させようとして国会解散権を行使して行なわれた総選挙で、首相が「郵政民営化に賛成か、反対か」を問う一種の「国民投票」だと言って強行した選挙であり、(その選挙で圧勝して国民の信任を得たとして郵政民営化法案を採決し直した)その時選ばれた与党議員は、「郵政民営化」問題で判断した国民によって選ばれはしても、「教育基本法改正」問題で選ばれたわけではないわけである。
 教育基本法改正案を採決するのであれば、それこそ「教育基本法改正に賛成か、反対か」を問う「国民投票」ともいうべき総選挙を行なって、議員を選び直した国会で採決するのが筋ではないのか。
 そういうことを行なわずに、「郵政選挙」で圧勝した与党の数を利用して、教育基本法改正案に対する民意を問うことなく、野党を抜きにして単独採決を強行するという不当なやり方で決められた国民的合意なき反動立法として、この「改正」教育基本法は後々大きな禍根を残すことになるだろう。
 参議院でも与党によって押し切られて採決されてしまったら、「悪法も法なり」であり、この改悪基本法によって教育が行なわれることになる。孫たちのことを考えると暗たんたる思いだ。


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