米沢 長南の声なき声


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国の役割は国民の命を守ること、犠牲にしないこと―安全保障の要諦
2022年05月04日

(1)最高価値―人の命
 人々にとって大事なもの(価値あるもの)は何かといえば、カネ(富)・地位・名誉・快楽・真(学問)・善(道徳)・美(芸術)・聖(神仏)・自由・人権・生命・地球環境・ルールなど様々(諸価値)あるだろう。そのうち一番大事なもの(基本的人権の中でも最も根源的なものであり、最高に価値あるもの)は何だろうかといえば、主観的には人によって(「命よりカネ」だとか「命より自由」だとか)色々あるのだろうが、客観的には(万人に共通するのは)、それは生命であり、人生の究極目的は生命の維持すなわち「生きること」自体なのではないだろうか。そもそも、人間の行為(食って飲んで働いてカネを稼ぎ、対話し、スマホをいじり、趣味・娯楽、学問・芸術・スポーツ・文化活動、政治・経済・社会活動など等)すべては、それらを行って「生きる」そのことのためにほかなるまい。人々は各人とも人生途上に幸福を求め諸価値を追い求め叶えようとするだろうが、その人生は生命あっての人生であり、生命が絶えれば全て無に帰してしまうのだから(「命あっての物種」「死んで花実が咲くものか」)である。(「命より自由」ということで、言論・表現の自由といい、宗教活動の自由といい、政治活動・政治闘争の自由といい、それらの自由はカネには代えられない社会生活・精神生活にとって掛けがえのないものであり、命を懸けるに値するほど大事なものではあるが、だからといって「命より大事」だとは云えまい。言論・表現にしても宗教活動・政治闘争にしても、生命あればこその行為・精神活動なのであって、死んでしまったら行為・精神活動自体が不可能となり自由もなにも無くなってしまうのだから。そうはいっても、圧政下で自由がなく隷従と抑圧の辛苦にさいなまれながら生きていなければならないとしたら、そのような生命にはなんの価値もなく、死んだ方がマシだ、と思われる場合もあるだろう。しかし、後々に希望をつなげ、心の中で奮起して戦い、解放を勝ち取る夢だけでも見続けることができるわけだし、死んでしまえばそれさえもできないことになるわけである(不当弾圧で獄中生活を強いられても耐えて何年も生き抜くのだ)。いずれにしろ、生命あっての自由・夢・希望、そして実現なのだ。
「生命は地球より重い」ともいわれるが、それは人の生命は地球にも劣らぬほど大事だということを言い表した言葉にほかならず、あらゆる生命は地球あっての生命であり、あらゆる生命の 母なる地球とともに大事なのが人間の生命だということだろう。)
 その最高価値たる生命を奪う(殺し、犠牲にする)行為は誰しもやってはならない最悪の行為である。
(2)国家の最重要任務
 国家(政府・為政者)にとって大事な任務は(国民生活・経済活動・諸産業のインフラ整備、立法・行政・司法、秩序・治安の維持、金融・財政、教育・文化の振興、公共施設・公衆衛生・セーフティーネットで生活保障、災害・パンデミック対策、国民の安全保障、外交・国際協力・国際紛争の解決など)様々あるが、なかでも一番大事な任務(国家の究極の目的)は国民の生命を守ることであり、国民を飢えさせることなく、生命と平和・安全な暮らし(「恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利」即ち平和的生存権と「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」)を保障することだろう。
(3)国土警備
 国の役目には領土・領海・領空を警備し侵犯から守るという任務があり、それは政府の義務ではある。そのために海上保安庁それに自衛隊もあるが、自衛隊を戦争の戦力つまり軍事利用して戦争をさせてはならない。戦争は人命を犠牲にする行為だからである。領土問題など国際紛争はあっても、あくまで外交交渉・話し合いによって解決しなければならず、戦争にしてはならないのである(それが我が国憲法の定め)。自衛隊は、海上保安庁などのようにあくまで警察力による必要最小限の対応(排除活動など)に留まるならばよいが、それを超えて、米軍などと共に戦争をさせてはならないわけである。
(4)不戦による平和的生存権の保障
 戦争は殺し合いであり、生命の犠牲を伴う。我が国は前世紀前半に対外戦争を繰り返しアジア・太平洋で大戦を起こして未曾有の(犠牲者が日本人310万人、アジア全体で2000万人という)惨禍をもたらした。そのあげく日本国憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」、「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する権利を有する」として、9条に「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使」の放棄、そのために「戦力を保持しない」こと、「国の交戦権」を認めないことを定めたのである。そもそも立憲主義の憲法は国家に国民の人権を守り保障することを求め、政府や為政者に権力の濫用を禁じ権力行使に制約を加えるために制定されている。日本国憲法は国に国民の平和的生存権の保障を求め、国民に人命の犠牲を強いる戦争をしてはならないことを定めているのである。
 要するに国(政府・為政者)は(我が国は、死刑は容認している世界では数少ない国だが、それ以外は)紛争などいかなる場合であっても人間の生命を犠牲にしない方法の選択と実力組織の運用をしなければならないのだということだ。
 (長谷川恭男・早大教授によれば)社会契約論でもホッブスは「生命の保全を国家の存立目的」とし、「死地に赴けと国家に命じられても、それに従う理由はない」と説き、ルソーは「社会契約をして共同体を作った以上、その共同体が侵略されたら戦うべきだ」と説いている。今、ウクライナの軍民が戦っているのはルソーが説いた方の考えのようだが、そもそも共同体は構成員の皆が共に生命をつないで生きていけるようにするために互いに契約して作られたものであり、侵略者と戦って全員の生命が守りきれるならいいが、戦いで何人かでも生命が失っては共同体の存立目的を果たしたことにはならないわけである、と思うのだが。
(5)国防より人間の安全保障
①侵略は幾度かした国
 国家の任務として「国防」(軍事的安全保障)というものがあるが、国民の立場から国家に対して求める安全保障(人間の安全保障)はどのようなものか。
 我が国の場合は、かつての大日本帝国時代は、帝国の領域外(朝鮮半島・満州など大陸や太平洋)へ、その地(「外地」)を「生命線」「生存圏」などと称し、或いは「大東亜共栄圏の建設」「白人からアジアを解放する自衛戦争」などと称して侵略戦争をエスカレートさせて、安全保障どころか、かえっておびただしい人命を犠牲にしてきた。その歴史上最悪の過ちから、「安全保障―生存圏の確保」のために海外へ打って出る戦争に訴えるやり方は金輪際やめることにした(それが憲法9条)。
②蒙古襲来以外に侵略されたことのない国
 また、我が国は歴史上、鎌倉時代に元寇(蒙古襲来、武士団が抗戦・撃退)があった以外には、他国から一方的に侵略されたことは未だかつてない。つまり我が国は他国への侵略は(豊臣時代の朝鮮半島侵略も含めて)盛んに行ったが、他国から侵略されたことはほとんどない国なのである。
③憲法に「戦争放棄」と「戦力不保持」・「交戦権否認」
 それで、大戦後に制定された日本国憲法には、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意」して、9条に「戦争放棄」と「戦力不保持」・「交戦権否認」を定め、対外的な紛争解決を戦争(軍事)に訴えることによって人命を犠牲にすることのない安全保障をめざす、ということにしたわけである。
 したがって我が国では、国家(政府)の任務として「国防」(軍事)は必要とされておらず、憲法にその条項はないわけである。
④再軍備へ解釈改憲、そして戦争する国へと明文改憲を企図
 しかし、制定後間もなく朝鮮戦争が勃発して、米軍が占領下日本の基地から出撃、それを契機に、(「警察予備隊」から「自衛隊」へと名称を換えながら)再軍備、ソ連との戦争に備えて米軍の基地と共に領土を守る防衛力を保有し、日米同盟と共に国防体制を整えていった。
そしてこの間、これらを可能とする解釈改憲を行ってきた政府・自民党は自衛隊を「国防軍」とするべく明文改憲を企図(2012年改憲草案作成)したが、今はそれを切り替えて9条1・2項をそのままに、それに追記する形で、自衛隊保持を明記する改憲案を国会の憲法審議会にかけようとしている。それによって不戦・非軍事安全保障(つまり国家の任務を国民の生命を犠牲にせずに国民の安全を保障する方向)から国防(つまり国を守る自衛戦争のためには国民の生命の犠牲もいとわない軍事的安全保障)体制に名実ともに切り替えることになる。
⑤北朝鮮・中国・ロシアと対決
 そこには、いずれ中国・北朝鮮あるいはロシアと対決・対戦しなければならない時が来るという、そのことを容認し想定する政策の追及がある。(①中国に対しては台湾が独立を強行し中国軍がそれを阻止しようとして侵攻し、台湾軍が抗戦するという「独立戦争」が起きた時、それにアメリカが介入して台湾軍を支援・参戦し、日本の基地から出撃、それを自衛隊が支援し作戦に参加すれば、中国軍は日米両軍に反撃、日本の米軍基地・自衛隊基地・拠点都市などにミサイル攻撃、或いは空爆、それらに対して日本が抗戦―中台戦争が米中・日中戦争に発展―そのことを想定した国防政策。②北朝鮮に対しては休戦中の朝鮮戦争が何かをきっかけに再開された時に米軍が日本の基地から出撃、それを自衛隊が支援し作戦に参加。それに対して北朝鮮軍が日本を核ミサイル攻撃。①②いずれもアメリカ次第なわけ。)
 このようなことは、日本国民としては到底容認できまい。政府による対米・対中・対北朝鮮政策によってこのような(戦争に巻き込まれて国民が惨害を被る)事態になることも、またそれにつながるような改憲も容認するわけにはいかないのだ。
(6)平和的生存権は全世界共通の最重要権利
 「自由・人権・民主主義・法の支配などの普遍的価値を共有する国々が連携」とか「価値観外交」などという言い方がなされるが、「平和的生存権」つまり平和の裡に生存(生命を全う)する権利こそが全世界の国民が有する最重要な権利であり、人命が最高価値という価値観こそが全世界共通の価値観なのだ。
 戦争には数多の人命の犠牲が付きもの。そのような戦争は起こさない、戦争には応じない、戦争につながる敵対行為は行わない、というのが政治道徳として普遍的な法則であり、この日本に限らず、ロシアもウクライナもどの国の政府・為政者も(侵略戦争であれ、自衛戦争であれ)戦争を煽ったり、国民を戦争に駆り立てたり、軍事支援したりしてはならないのである。 
(7)戦争に「正義の戦争」などあり得ない
 戦争に「正義の戦争」だとか、「戦争ロマン」とか「命をかえりみず祖国のために戦っている、その勇気に感動した」などといった綺麗ごとはありえず、戦争にいいことなどあり得ないのである。現代戦争は総力戦であり、兵士であれ民間人であれ総動員、どこも戦場となり、攻撃対象は軍兵・軍事施設とはいっても誤爆や情け容赦のない(「これが戦争なのだ」と理性を押し殺し、憎悪・攻撃欲動を激発させての)発砲・乱射もあり民間施設にも着弾、女・子供であれ動くものは標的になり無差別攻撃の様相をおび(ウクライナの場合は未成年者と高齢者以外の成年男子は民間人であると否とにかかわらず戦闘員として総動員、相手側は民間人か否か区別することなく発砲・発射)、大量犠牲・大量破壊という悲惨を招く。それは77年前に日本人が経験したことである(国民総動員、学校では全国の「中等学校」以上に軍事教練が行われ、婦女子は「竹槍訓練」、「一億玉砕」の掛け声もありはしたものの、原爆を食らって終には降伏。)
 この戦中・戦前、我が国の旧憲法下では、国家の統治者・為政者は国民の生命などより国家の存続・発展が最優先という国家主義の考え(国家は国民のために存するというのではなく、国民の方が国家に奉仕するため存するという考え)で、戦争は国家目的(国益)のために行われ、国民はそのために(手段として)動員・協力させられ、国民の生命が軽く扱われ犠牲にされた(兵隊は消耗品にように見なされ、その生命の価値は「一銭五厘」―召集令状は郵便で届けられたリしたわけではないが、葉書の切手代程度と見なされていた―とか「兵士の命は鳥の羽毛より軽し」などといわれたりしたが、戦後軍人恩給や遺族年金はもらえた。しかし、民間人の戦争被害者には、原爆や外地からの引揚者・沖縄県民の被害者には一定の手当がなされた以外は、空襲や艦砲射撃などで犠牲・被害を被った者は「国の非常事態下で起きたことなので、我慢しなければならない」という受忍論で済まされている。)
 このような史上最悪の辛酸に懲りて日本国憲法は国(政府)に二度と再び戦争をさせないように9条を定めたわけである。我が国は、自衛権はどの国も固有の権利として有するも、国は戦力も交戦権も保持せず、戦争は(自衛戦争すなわち侵略に対する抗戦も)しないことにしたのである。だからこの国には抗戦も降伏も何もあり得ない、ということだ。それは、ひとえに戦争によって国民の生命を犠牲にすることなく、平和に暮らすこと(平和的生存権)を保障するためである。
 それは、侵略されたのに抗戦もしないということなのか、といえば、その場合は、初動対応として海上保安庁と共に警察力として自衛隊による侵攻の阻止・排除行動はあるも、それ以上の反撃・追撃・敵地攻撃などの戦争行為は採らない。要するに今のウクライナのような国民総動員的な徹底抗戦などは行わない、ということだろう。
(8)徹底抗戦か不戦か 
 そもそも侵略に対する対応のあり方としては、徹底抗戦か、それとも不戦(或いは降伏)か、二つに一つだとすればどちらを採るか。
 「徹底抗戦」というと勇ましく敢然とし、「不戦」というと弱腰・意気地なし、「降伏」つまり抗戦して途中で勝ち目がないと諦めるのは、さらに情けない屈辱だと一般には思われるだろう。しかし、最高価値は人の生命だという価値観から見れば、そんなことはないのだ。(政治的目的に基づいて相手に要求を力で押し通そうとして軍事作戦を強行し、その軍事目的を果たせそうか否か、要求を勝ち取れそうか否かで、軍事専門家や評論家・ニュース解説者はどっちが善戦・苦戦しているだの、勝ってる負けてるだのと論評しているが、肝心なのは、その戦いで国民の生命がどれだけ犠牲にされ、財産が破壊され失われているか、とりわけ国民の生命が守り通せているか否かが一番肝心なところ。その意味ではプーチン大統領とロシア国民、ゼレンスキー大統領とウクライナ国民、双方ともそれぞれに「一将功成って万骨枯る」では何の意味もないわけである。)
 戦争は、たとえそれが侵略に対する抗戦(自衛戦争)だろうと、戦死者・戦没者が出て同胞の生命の犠牲を必ず伴うが、そんなことはあってはならないのだ
 そもそも国が行う戦争や軍事作戦の目的は(一に)外敵から国(国家主権・領土・政府など統治権・統治体制)を守る(防衛の)ため、(二に)、その逆で他国から主権・領土・資源を奪いその国の政府を倒す(侵略の)ため、(三に)国益に関わる紛争・対立があって、外交交渉では相手が要求に頑として応じない場合に、力でそれを押し通すため、等であって、軍隊・兵士たちはそれら国の目的(大義)のために戦うのであって、そのためには国民(個々人)の生命や財産は犠牲にせざるを得ないということにもなる。
 しかし、国民の立場から見れば、戦争や抗戦の目的(大義)が「国家の独立・領土主権・自由を守るため」だとか「専制・隷従を除去するため」などと、たとえすばらしいものであっても、それよりも何よりも一番大事なのは人の命であり、同胞の生命なのであって、そのような「大義」のためだからといって際限もなく徹底抗戦を続けられれば、その生命が犠牲にされてしまう国民にとってはたまったものではない、というになるわけである。
 一方、「不戦」・「降伏」の方は、感じとしては弱腰・意気地・屈辱・屈従と思われるが、生命の犠牲は免れ、生命(生存)が維持されれば、国の独立や領土或いは自由など諸権利が奪われたとしても、耐え忍んで生きていれば、そのうち或いは後世代には、いつか取り戻せる日が来る。但し、ただ黙って無為に過ごして待っていればいいというわけではなく、不戦・非暴力による闘いとその鋭意努力は必要不可欠。(そもそも「不戦」と云っても、急迫不正の侵害に遭えば、それを阻止・排除しようとするのは当たり前の正当防衛行動であり、領土・領域の侵犯・侵攻に対して海上保安庁や現在の自衛隊でも警察的行動として対応するのであれば、それは当然のことであって必要不可欠。それは自衛「戦争」ではない。侵害・侵犯の阻止・排除までで、それ以上反撃して「これでもか、これでもか」と反撃から相手領土まで追撃、それに対して相手が逆反撃といったようにエスカレートすれば、それは「戦争」。そのような戦争は控えるということだ。また反撃どころか相手の軍勢に圧倒されて降伏を余儀なくされた場合は島など領域が占領され隊員が捕虜にされることもあり得るが、いずれにしても人々の生命が犠牲にならずに済むだけマシ。
但し、いずれの場合も、それだけで済ませるわけにはいかず<降伏して占領されても、相手の言いなりにはならず非暴力抵抗>、そのような侵攻・占領は許さないようにするために、相手の不正・違法行為を国連など国際機関に提訴し国際世論にも訴えるという措置も必要不可欠。)
 とにかく人々の命を顧みずにただ戦っても(自分だけ「自由のために」と勇猛果敢に戦って討ち死にして攻撃欲動を満足させたとしても)、その戦いに巻き込まれて子供や多くの人々が犠牲となり生命を失ってしまえば、その人々にとっては自由であれ何であれ夢見ることさえも全て無に帰してしまうのだ。だったら戦わないほうがむしろ得策で賢明なのでは(「屈辱」だの「弱腰」だのと何を云われようが)。
  このような観点からすれば、ウクライナ軍民の対ロシア「徹底抗戦」は決して日本国民も諸国民も見習うべき模範とすることはできないのでは。また、そのウクライナ軍民の「徹底抗戦」をけしかけ後押しするかのように支援するNATO諸国や日本政府も、如何なものか、それが正義だとは必ずしも云えないのではなかろうか。人命の犠牲は最小限にとどめるべく戦争は長引かせずにやめにしなければならない、ということだ。

(9)ナチスの人種戦争
 ただ、世界史上には「徹底抗戦」はせざるをえない特異なケースもあり、どうあっても降伏するわけにはいかなかったというケースがある。それは相手が、人種主義の思想によって他人種・劣等人種の生命に価値を認めず抹殺すべきだとか、宗教の教義・戒律によって異教徒や不信心の徒は殺してもかまわないといった考えのもとに侵攻が行われた事例がある。典型的なのはナチズムといわれるヒトラーの人種主義思想(→「人種戦争」「絶滅戦争」)。
 第2次大戦で、ナチス・ドイツ軍の侵攻に対してヨーロッパ諸国とも抗戦し、ベルギーやフランスなど降伏した国もあったが亡命政府とレジスタンス市民がゲリラで抗戦を続け、アメリカ軍が参戦して米英ソ連合軍が反撃・挟撃してドイツ軍は終には降伏(1945年5月、ヒトラーはその前の4月に自殺)。この間ソ連(ロシア)は、侵攻してきたドイツ軍に対して徹底抗戦、4年間にわたり犠牲者はソ連人口の13.7%の2660万人、うち民間人は1600万人だった。
 ナチス・ドイツ軍は占領下でユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)行ったが、それはユダヤ人を劣等人種と見なして絶滅させようとして行われた。ヒトラーの人種主義思想では人種には生物学的遺伝的に優劣があり、欧米の白人はアフリカ・アジアの有色人種に対して優性な人種であり、それら人種間には生存競争・自然淘汰があると考え、(人種を保つ)「民族純化」が必要だとする考えもあった。白人でも最優秀人種であるドイツ人(アーリア人・ゲルマン民族)が、東方のロシア人やウクライナ人・ポーランド人などのスラブ民族に打ち勝って領土を拡大しなければならないというので、侵攻・征服をめざしたわけである。ジェノサイド(集団虐殺)はそうした中で行われてきた。
 宗教では、古代以来、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など宗派によっては「異教徒や不信心の徒」対して犠牲(殺害)を容認したり「聖戦」として討滅を義務付けたりしている教義や戒律があり、未だにそれを頑なに信じ込んでいる原理主義といわれる勢力がまれに存在する。仏教国ミャンマーではイスラム教徒のロヒンギャに対する迫害があり、ISなどのイスラム過激派の極端な「聖戦」もある。
 このような相手に対しては「戦って殺さなければ殺される」、不戦・降伏は死を意味し、「戦うか、死ぬか」で徹底抗戦するしかなく、降伏すれば生命だけは助かるという保証はないわけである。
(10)ロシアのウクライナ侵略戦争は?
 このようなケースに対して今回のロシア・ウクライナ戦争は、はたしてどうなのか
 プーチンが信奉するキリスト教派であるロシア正教会に、それまで帰属してきたウクライナ正教会が3年前独立・断交するようになったが、だからといってそのために(ウクライナ国内のロシア系住民のロシア正教会信者を守るため)に起こされた宗教戦争だというわけではあるまい。またプーチンがヒトラーと同様な人種主義思想の持ち主で「人種戦争」としてウクライナ人を殲滅するためにそれを強行したなどとは到底考えられまい。
 今回のロシア軍の侵攻では、民間人殺害が「ジェノサイドだ」とか、病院や学校などへのミサイル攻撃は「戦争犯罪」だと非難・追及されたりしているが、はたしてそのロア軍は、抗戦して「彼らを殺さなければウクライナ人が皆殺しされる。だから徹底抗戦するしかない」相手なのだとは、必ずしも決めつけられないのでは。如何なものだろうか。
(11)戦争激化―プーチンの「非ナチ化」戦争?
 しかし、今や戦争は激化し、攻撃・反撃、殺傷の応酬で、互いに憎悪・攻撃欲動(衝動)から「盲撃ち」(乱射)無差別攻撃まで殺戮がエスカレートし、止められなくなっている。
 このような戦争に走ったプーチン大統領の考えには、アメリカとNATOに対する脅威とともにネオナチの脅威に対するこだわりがあると思われる(「歪んだ被害者意識」などといった指摘もあり)。 
 第2次大戦で滅びたはずのナチズムが復活してネオナチ(極右)としてヨーロッパ各地で暗躍するようになり、ウクライナでもそれが台頭(反ロシアを掲げる政党で極右民族主義の全ウクライナ連合『自由』など)。それをプーチン大統領は(自身は未だ生まれていなかった当時だが、ナチス・ドイツ軍の侵攻・レニングラード包囲下で、兄二人が亡くなり、母親は餓死寸前という悲惨な目に遭ったという、その思いがあってか?)目の敵にし、ウクライナの反ロシア・親欧米派政権をネオナチ政権だと見なして(2014年のキエフ騒乱―親ロシア大統領追放―を主導したのはネオナチ勢力で、その後、親米欧派の政府軍と東部の親ロシア勢力との内戦が始まったが、その戦いで政府軍を加勢している義勇兵団のアゾフ連隊などもネオナチ勢力と目されている)、そのような「ウクライナのナチ化を排除するのだ」として今回のロシア軍侵攻に至った、というわけである。しかしウクライナの現大統領ゼレンスキーはナチスから目の敵にされたユダヤ人であり、ネオナチ政権呼ばわりされる筋合いはあるまい。プーチンがことさら「ナチスとの戦い」だの「ナチスからロシア系住民人を解放する」だのと、そのような言い方をするのは、それによって第2次大戦の時のナチス・ドイツ軍の侵攻に対する「大祖国戦争」の記憶を呼び覚ましてロシア国民のナショナリズムをかきたてようとしているとの指摘もある。
 ただ、このプーチンは、ナチス・ヒトラーが抱いていたような人種主義思想で「劣等人種は絶滅しなければならい」などといった考えまで持ち合わせてはいまいが、ネオナチは絶滅しなければとの思いは執念としてあるのだろう。いずれにしてもウクライナ侵攻の実質的な理由は、ウクライナのNATO加盟阻止と同国内東部のロシア人居住地の安全確保、それにクリミア半島のロシア海軍(黒海艦隊)基地の維持・確保に他ならないだろう
(12)戦争の実相
<ロシア・ウクライナ戦争について>そもそもロシアの主張には、ソ連とWATO解体後、NATOを保持している米欧側に対して「他国の安全保障を損なう形で、自国の安全保障を一方的に追求してはならない」という「安全保障の不可分の原則」の約束があったはず。なのに、その意向に反してNATO(加盟国)は東欧諸国に拡大、ロシアの隣国でウクライナだけは非同盟・中立を維持し緩衝国として確保しておきたかった、そのウクライナまでが(2014年の政変でNATO寄りの親米欧派政権になって)NATO加盟に近づく形勢となる。そしてそのウクライナでロシア系住民の多い東南部を地盤とする親ロシア派勢力が離反し、政府軍と内戦状態となり、ロシアがそれに乗じてクリミア半島を併合。内戦にはドイツ・フランス両国の仲介で停戦合意(ミンスク合意)もありはしたものの(ゼレンスキー大統領は不納得で)収まらず、内戦は昨年まで続いていた。ロシアはウクライナ国境近くに大軍を終結させて軍事演習を行うなどの動き(NATO側に対する圧力)を見せながら、アメリカ側に対して「安全保障の不可分の原則」の約束確認とともにウクライナのNATO加盟を受け入れないよう求めたが、その要求が(加盟するもしないも、それは主権を有するウクライナ政府が決めることだとして)拒否された。そのあげく、ウクライナに対して、未だ加盟していない(加盟してしまってから戦端を開いたのでは、アメリカなどNATO加盟諸国の参戦を招いてしまうことになるから、そうならない)今のうちにとばかり、(未だウクライナ政府軍と内戦状態にある親ロシア派勢力下の東部2州独立を護る集団的自衛権行使の名目で)ロシア軍はウクライナ侵攻に踏み切った。いずれにしてもこれは国連憲章違反の侵略行為。
 それに対してウクライナ政府は徹底抗戦に向かい、米欧NATO諸国は武器供与など軍事支援、ロシアに対しては経済制裁を大規模に行っている。
 この戦争は、アメリカなどNATO諸国の軍事支援で供与された兵器を使って、ウクライナ軍が戦うという代理戦争の様相を呈しているとも見られるが、いずれにしても生命の犠牲と破壊を被っているのはウクライナ国民
 もう止められなくなっている。ロシア・ウクライナ両国間の停戦交渉やトルコやフランス、中立国オーストリアなどの首脳、それに国連事務総長がそれぞれ単独で不首尾ながら仲介に入ったりもしているが、進展は見られない。中国はロシアに対して非難・制裁に加わりもしなければ、支援もしていない。その中国にアメリカは仲介を求めるどころか「ロシアに支援するようなことをしたら制裁するぞ云わんばかりに」釘を刺している。
 アメリカなどNATO諸国は軍事支援を強化するばかりで、ウクライナ軍に徹底抗戦を続けさせてウクライナ国民の生命の犠牲を増やし続け、怯える子供たちに唯ひたすら頑張って耐え忍ぶのだと見守っているだけでいいのか
(13)米欧や日本の対応
 米欧それに日本は、この戦争に いったいどのような姿勢・対応で臨んでいるのか。
 アメリカはロシア・プーチン大統領を非難し、制裁・連携を各国に呼びかけ、戦況(ウクライナ軍善戦、ロシア軍苦戦)を見ながらウクライナ支援(武器供与・資金援助・情報提供など)をエスカレートさせている。そうすることによってロシアを疲弊・弱体化させる。それはアメリカの世界戦略・覇権確保にとってロシアはもとより中国に対しても有利な結果をもたらす「絶好の機会」ともなっている。善戦するウクライナ軍は「押せ 押せ!」、支援するアメリカ・NATOは「イケイケ どんどん」、苦戦するロシア軍は「なにクソ 負けるものか!」と激戦が続いて、長引くばかり。その中でアメリカの軍事産業は(利益を上げて)「ホクホク」、ウクライナの子供たちや無辜の民の悲惨、生命の犠牲は益々募るばかり
 ロシアが恐れたNATO拡大は、それを抑え込もうとして起こした戦争のお陰(逆効果)で
非同盟国だったフィンランドやスウエーデンまでそこへ追いやる結果となっている。両国も含めてEU諸国はアメリカとNATOの軍事力に依存を強め、加盟各国とも軍事費のGDP比2%以上に増額、NATOは益々強勢となる。日本もそれに合わせて対ロ・対中の包囲網(圧力)強化に積極協力、それ乗じて防衛費GDP比2%への増額、自衛隊の「反撃能力」(敵基地攻撃能力)の保有などを目論見、日米同盟と防衛体制の強化、改憲へと向かっている。
ロシアはNATOの脅威とそれへのウクライナの加盟を抑え込もうとして、侵攻はしたものの反撃にあって苦戦を強いられ、かえってNATO諸国の軍備強化と軍事同盟強化・拡充(その正当化)を招いてしまい、軍備全廃による恒久平和はもとより、核兵器の廃棄・軍縮さえも遠のく結果を招くことになった、ということである。
そして日本では、それに乗じた自衛隊の軍事強化・日米同盟の拡充とそれに向けた改憲を許す結果にもなっている。憲法9条の「不戦・戦力不保持・交戦権否認」は、日本の少数派国民がそう決め込んでいるだけで、「不戦・軍備全廃・恒久平和」なんて、そんなことは普遍的な国際法の定めとは永久になり得まいとして、その理想・信念を放棄してしまうという諦めムードが覆い始めている今や世界は「新冷戦」「民主主義国家と権威主義国家」「友好国と非友好国・はぐれ者国家」「善玉国家と悪玉・ならず者国家」に分断、互いにいがみ合う夢も希望もない明日へと向かおうとしているかのようである。
日本も世界も、そのようなことでいいのかだ。
 すべてはロシアが自ら招いたことで、「自業自得」だといって(全てをロシアのせいにして)済ませることはできまい。そもそも論(事の次第)から云えば、ロシアだけでなくアメリカとNATOの存在があるわけだし。
 
 ロシアの西北の隣国フィンランドとスウエーデンがNATO(ウクライナがそれに加盟しようとしてロシア軍の侵攻を招いた、とプーチンは思っている)に加盟を申請した。それはフィンランド・スウエーデン両国がそれぞれ自国の安全保障のためにとの判断によるものだが、世界平和にとっては、はたしてどうなのか、適切な選択なのか。
 これまで非同盟・中立国として隣国ロシアをはじめ全世界の諸国と友好関係を維持して独自の自由な外交と軍縮など平和のために国際的役割を果たそうとする立場に立ち、そうすることによって自国の安全保障を保持しようしてきたものと思われる。それが、ここにきて、ロシア軍のウクライナ侵攻に目の当たりにして、その二の舞になる危険を感じて急遽NATO加盟に踏み切った(加盟すればアメリカはじめNATO諸国から守ってもらえるから)というわけである。しかし、安全保障の要諦は敵をつくらず、すべてを味方につけるということを考えれば、NATO加盟はかえって危うくなるということも考えられる。また、それまでどの国も敵とせず友好関係をもって独自の自由な外交と平和的国際貢献に努めようとしてきたのに、NATO加盟によって、盟主アメリカの意向とNATOという軍事同盟の掟に縛られることになるのでは、といったことを考えれば、その加盟決断は必ずしも適切だとは言えないのではなかろうか。
(14)戦争をやめさせる方法は?
 このようなロシア・ウクライナの戦争をやめさせる方法には次の二つしかあるまい。
(1)ロシア・ウクライナ両国大統領NATOの盟主アメリカ大統領仲介者としてトルコ・オーストリア・フランスなどの首脳(既にこの間多少なりとも仲介めいた対話や関与)、国連事務総長それにウクライナ・ロシア双方に関係を持っている中国の首脳も加わって停戦協議
(2)ウクライナ軍民を支援して徹底抗戦を続けさせてロシア軍を撃退・降伏させる。(この場合、ロシアは降伏する前に破れかぶれになって核兵器など大量破壊兵器を使いかねないことにもなるだろうが、それに対してはアメリカは核戦争を覚悟に直接介入・参戦に踏み切るぞとの意志を示すことによってロシアの大量破壊兵器使用をくい止めようとするのだろうが。)
 この二つのどちらかしかあるまい。今のところ(2)(戦争続行)の方向で、いつ終わるとも分からない状態だが、何はさておいても生命が一番大事(最高価値)と考える当方の価値観ではウクライナ国民の犠牲を最小限にとどめるには、(1)の方を選ぶしかあるまい
(15)日本が攻められないようにするにはどうすればよいのか?
 それでは、日本がウクライナのように攻められないようにするにはどうすればよいのか、とはいっても、日本の対中国・対北朝鮮・対ロシアの関係とウクライナの対ロシアの関係とでは歴史的にも地政学的にも状況が全く違う
 今回のロシアのウクライナ侵略は(理由もなく不意に攻めてきたという意味では)「急迫不正の侵攻」かといえば、「不正」(違法)には違いないが、ロシアにはそれなりの理由・いきさつがあってのこと(ロシアはかねてよりNATOの東方拡大を脅威とし、ロシアに隣接して以前同じソ連に属していたウクライナがNATOに加盟するのをなんとしても阻止しなければならないという理由。それにウクライナ国内には東南部にロシア人が全人口の17.28%居住し、親ロシア派武装勢力と米欧派の政府軍との間で内戦が8年前から続いてきた。その親ロシア勢力が独立を宣言したロシア人居住地を保護しなければならないとの理由があって、ロシア軍がウクライナ侵攻を強行するという暴挙におよんだわけである。)
 それに対して中国・北朝鮮・ロシアなど日本の隣国が(日本に「急迫不正」に侵攻を仕掛けてくるということはなく)攻撃してくるとすれば、やはり理由・いきさつがあってのこと。中国の場合は、台湾が中国から独立の動きを見せ、中国がそれを許さず中台戦争になった場合で、それにアメリカが介入して日本の基地から米軍が出撃、それを自衛隊が支援あるいは参戦するという事態になった場合、中国軍が日本(沖縄の米軍基地その他)に向けてミサイルを撃ち込んでくる、といったようなことになる。(それ以外に中国との間には尖閣諸島や東シナ海の海底資源をめぐる係争問題はあっても、それで大規模な軍事攻撃の蓋然性はあるまい。)
 また、北朝鮮の場合は、1953年以来休戦中の朝鮮戦争が北朝鮮軍か韓国軍か米軍かいずれかの軍事行動から戦争が再開された場合で、米軍が日本の基地から出撃し、自衛隊が支援する等の事があった場合、北朝鮮軍が日本の米軍基地や東京などに核ミサイルを撃ち込んでくる、といったようなことになる。
 ロシアの場合は、千島列島などの「北方問題」があるが、そこはロシアが実効支配していて、それを日本が奪還しようと攻撃を仕掛けない限り、ロシアの方が日本に攻めてくるということはないだろう。

 それはともかくとして、日本が仮にも攻められることのないようにするにはどうすればよいのかと問われれば、次の二つの選択肢が考えられる。
(1)自衛隊と日米同盟の防衛力を充実・強化して「やるならやってみろ、やったらかえってひどい目(報復)にあうぞ」とか、「迎撃・反撃され、撃ち落とされるか、撃ち返されるから、やっても無駄だぞ」(迎撃)とか軍事的抑止力で攻められないようにする―対決政策・・・・難点は、それが相手を挑発し、敵意を煽り、相手の軍拡(核やミサイルなど兵器開発・保有)を招くこと。
(2)攻められる原因・理由・口実をつくらない―利害・見解の対立・紛争はあっても、あくまで話し合いで外交的解決。敵対行為を避けて融和政策を採る(予防外交)
 それでは、(朝鮮半島有事や台湾有事で)攻められたらどうするか。その場合は二つの選択肢。
 (1)自衛隊と同盟軍とで応戦(米軍の出撃を支援あるいは参戦する集団的自衛権の行使)・・・・難点は、沖縄や日本本土の基地・拠点都市・原発などが相手の攻撃対象となり、国民の人命犠牲と居住環境・諸施設への計り知れない被害を招きかねないこと。
 (2)不戦(米軍出撃と支援・参戦ストップ)を求め、相手の攻撃を回避

 これらは、いずれの場合も、その立場は「国を守るため」ではなく「国民の命を守る(犠牲にしない)ため」即ち「国民の平和的生存権を守るため」には、どの選択肢を選べばよいのかだ。
 
 



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