米沢 長南の声なき声


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パンデミック下のオリパラと菅政権
2021年09月07日

 そもそもオリンピック精神は「スポーツを通じて心身を向上させ、文化・国籍など様々な差異を超え、友情・連帯感・フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でより良い世界の実現に貢献すること」。ところが、それにはそぐわない商業主義(企業宣伝と金儲け)やナショナリズムと国威発揚などに利用されるようになってきた、という経緯と実態がある

 再度の東京オリンピック、大震災からの「復興五輪」をアピールして誘致はしたものの、コロナ・パンデミックという災禍に遭遇して、その最中での開催となった。悲運とはいえ、そもそも身の程知らずの誘致だったのだ。
 これまで(1990年代以降、新自由主義的な構造改革路線に基づき、医療・福祉サービスの市場化―患者や利用者の自己負担を増やし、公費の投入を減らす―政策により)公立病院も保健所も統廃合政策で削減しまくってきて(1993~2018年の25年間で、病床数30万5000減)、20年以上にわたって感染症指定医療機関や病床が(1996年9716床あったものが、2019年には1758床と)激減、保健所などは(2020年まで27年間で852ヵ所から472ヵ所に)半減。「医療先進国」でありながら、感染症対策は国家の危機管理の上で平時から国産ワクチンや治療薬の研究開発など積み上げておくべきものを、欧米に大きく遅れをとっていて、今になってファイザーだのモデルナだのと外国製ワクチンに頼っているのだ。
 新型コロナの感染者数は世界の諸国の中では日本は少ないようだが、それはPCR検査などの検査数が少ないからにほかならず、この検査体制でも立ち遅れている。日本の検査率(1000人当たりの検査数)はOECD加盟国(36ヵ国)中の下から2番目という少なさ。(元厚労省の塩崎議員は「『いつでも、どこでも、何度でも無料』というのが世界の主流」なのに、日本では「未だに症状のない人が希望してもPCR検査を実施していない」と批判。)
 PCR検査には発熱や咳など症状が出て感染が疑われる当人が自分を診断してもらうために行う「診断検査」と、地域や施設で症状の有無にかかわらず不特定多数を検査してその中から感染者を見つけ出し、他に感染させることのないように隔離して感染拡大を防止するために行う「社会的検査」(モニタリング検査やスクリーニング検査)とがある。また、保健所が、発熱など症状が出て検査を申し出た人を検査し、陽性(感染)が判明した場合、その濃厚接触者をも、いずれも無料で検査する「行政検査」がある。
 ところが、日本ではそれが、そんなにPCR検査をやったら「誤判定で陰性なのに入院する人が増えて医療崩壊する」などという理屈で検査抑制の方針を採ってきた。今まさに医療崩壊の危機に直面し、政府が軽症者はもとより中等症さえも入院させずに「自宅療養を基本とする」などとせざるを得ない事態となっているではないか(9月5日東京都では療養者に占める入院者の割合―入院率は10%に低下、9月1日自宅療養者が全国で13万5000人余)。それはPCR検査をやり過ぎて誤判定で陰性なのに入院する者が増えたからとでもいうのだろうか。今、病院が、重症者などで病床が満杯になって逼迫しているのは、検査の誤判定で陰性なのに入院した非感染者から病床を取られてしまっているからなのだろうか。そんなことあり得ない。それはむしろ逆で、感染者が激増したからであり、その感染拡大の原因はモニタリング検査など社会的検査が不十分なために市中に潜在している無症状感染者が野放し状態になっているから、つまり検査が不徹底だからにほかなるまい。
 尚、PCR検査に誤判定があるのは確かで、その精度は陽性判定の場合は70%以上(30%以下は偽陰性)で、陰性判定の場合は99%以上(1%以下は偽陽性)とされるが、その誤判定による1%の偽陽性者を入院させてしまうことによる病床ひっ迫を恐れて、70%の陽性者を見過ごしてよいのかだ。それに1回の検査だけで、陽性判定だからといって即入院させるわけではなく、「集団検診」や「人間ドック」でひっかかったら後日精密検査を要するように、再検査で偽陽性でないかどうかを確かめ、陽性だとしても症状の程度を確かめたうえでの入院なのであり、無症状か或いは軽症であれば入院以外の隔離方法で済むわけである。
 行政検査も、どうやら保健所の人手不足で濃厚接触者を追い切れないなど、ひっ迫を理由に、検査対象を発熱や咳など症状がある人だけに絞り込んでやっている状況。
(東京都が公表している新規感染者数がこのところ減少傾向にあるが、検査人数は8月17日1万5000件をピークに頭打ち。都の専門家会議は「検査が受けられないことにより、さらに多数の感染者が潜在している可能性がある」と指摘している。東京都の検査能力は1日最大6万8000件なのに、8月27日~9月2日の1週間は平均して1日1万4913件、9月3~9日の1週間は1日1万1105件だけ。9月12日までの3日間平均の検査数はわずか6532件。)
 (東京都が繁華街や企業などで9月5日までの1週間に行ったモニタリング検査の結果は陽性率が0.64%で人口10万人当たり640人、他方、感染の疑いがある人や濃厚接触者へのその後1週間の行政検査で陽性が判明したのは人口10万人当たり62.5人であり、モニタリング検査で判明した陽性者はこの10倍以上にもなるわけである。それは感染に気付かずに普段通りに過ごしている無症状者が沢山いることを示している。)
 検査数が少ない理由には、もう一つ五輪大会を迎える上で、検査して確認公表される感染者数が多過ぎると開催国として具合が悪いからだ、という「うがった」?見方もある。現にコロナ禍でのオリパラの開催強行で、その「安心・安全の大会」のために、選手・IOC・メディア関係など数万人もの大会関係者に、ワクチン接種済みの人でも全員、滞在期間中毎日検査(唾液の抗原定量検査)を実施した(前半のオリンピックに限れば4万2000人以上の大会関係者にスクリーニング検査は延べ62万4000件、オリパラ両期間中を通じて行われた検査は計101万7000件、確認された感染者は850人)、一方、市中にいる市民には検査は控えられたわけである。オリパラにはそこまで徹底して選手・大会関係者を守ったのは良しとしても、それならば国民・市民をもコロナから守るべく最善を期さなければならなかったはずであり、PCR検査などはオリパラ大会関係者が「優先」で、国民・市民は「二に次でよい」などということはあってはならないはず。

 オリパラは、首相や都知事らが望んだとおり、パンデミック下での「異例の開催となりはしたが、国内外の皆様の献身的ご協力により、コロナ禍という大きな困難を乗り越え、成功裡に所期の目的を果たし終えることができた」ということになるのだろうか。
 この間、世界では、とりわけ開催国の日本では、感染は急拡大して爆発的様相をおび、(感染者は入院が原則のはずが、病床がひっ迫して重症者と重症化リスクのある者以外は「自宅療養が基本」などと方針転換)感染患者は救急搬送されても、入院受け入れがかなわず、自宅療養を余儀なくされ、助かる命も助けられずに、在宅死が続出するという悲惨な事態に見舞われた。(オリンピック~パラリンピックの間、全国で71万人以上が感染し、1241人が死亡。)
 それでも「感動した」、「やってよかった」(世論調査では8月7~9日調査した「読売」が64%、7・8日調査した「朝日」が56%、7月27~30日調査した「女性自身」が77%)と「結果オーライだ」と思う向きもあるようだが、果たしてどうなのか。(8月21・22日ANNの調査では「よくなかった」62%で、「よかった」38%を上回る。)
 そもそも、感染症パンデミック対策とオリパラ開催は両立できる筋合いのものではないのだ。パンデミックも、終息後ならいざ知らず(第一次大戦後1920年のベルギーのアントワープ五輪は「スペイン風邪」直後だが終息後のこと)、世界中でどの国も未だ終息していないその最中に五輪開催なんてあり得ないわけである。
 この間、政府は、何はさておいても感染パンデミック対策に総力を傾注し、一日も早い終息に全力で取り組まなければならない時であり、いかに大事な国際イベントとはいえ、そのようなことをやっている場合ではなかったわけである。「助かる命も助けられない」とか、「トリアージ(命の選別)までも余儀なくされようとしている」など医療崩壊に直面しているそんな時に、首相はといえば(8月25日記者会見で)「(ワクチン接種効果で)明かりははっきりと見え始めています」などと云い、都知事はといえば「総力戦で戦います」などと云いながら、(「自宅療養で症状が急変しても、空き病床がなくて入院させられない」状態なのに、それをそのままに)今やるべきこと(仮設病棟=臨時医療施設の設置など)もやらずに(オリパラなど)やるべきではなく、やるなら終息させてから通常の「完全な形」でやるべきものを、「災害時」ともいうべきこんな時に全く中途半端な形でやらせたのだ。(政府コロナ対策分科会の尾見会長は、首相の記者会見に先立つ衆院厚労委員会で、五輪の開催決定は国民に「矛盾したメッセージとなった」とし、「(政府が)専門家より楽観的な状況分析を行った」と指摘しているのに。)
 首相や都知事は、(最悪の事態を想定して対策を講じるべき)危機管理の上で国民・都民ファーストの立場に立って果たすべき責任よりも、人々の歓心を引き、国威を発揚するという政治的思惑に囚われ、パンデミック対策に対しては希望的観測(楽観的見通し)に立って、ひたすら五輪開催との両立にこだわり、「バブル方式」だの「無観客」だのと腐心して中途半端な開催を強行。
 そのような政治姿勢が、国民の危機感の共有を妨げ、分断さえ招いた。それがこの間の菅政権だったのではあるまいか。

 ところが9月3日、菅首相、「総裁選不出馬―コロナ対策に専念するため」との表明。29日に総裁選があって新総裁が決まり、30日に菅総裁の任期が切れる。そこで菅政権は終わることになる。9日には(記者会見で)「総理大臣として、最後の日まで、全身全霊を傾け、職務に全力で取り組む」と言明。(これに関して麻生副総理曰く、「(コロナの感染拡大は)まがりなりにも収束して国際社会の中の評価は極めて高いと思う。そういう意味で『全うした』という思いが(首相に)あったのは確かだ」と。)
 「コロナ対策に専念」といっても、あと一月もないこの間に何ができるか。コロナ対策とはそもそも両立できないはずのオリパラ開催なのだが(コロナ対策の方はやるべきことをやらずに)、オリパラをやり終えたところで、コロナ対策に「専念―全エネルギーを傾注」して退任間際のこの短期間に何ができるのかだ。その気になれば一つできることがあるとすれば、(たまたま、この日の朝「テレ朝」の「モーニングショー」で玉川コメンテータが指摘していたように)「野戦病院的な臨時の大規模病院を、自衛隊を使ってでも10日ぐらいで作る(総裁選に出馬を表明している岸田氏は既に『野戦病院』開設を公約しているが、その場合は総裁選で選出され、その後国会で首相に選出された後でなければ権限を行使できず、それを実現するにも1ヵ月以上かかるが、在任中の菅首相であればできないことではない)」といったことなんかは菅首相の残りわずかな在任中でもできるのかもしれない。
 それにつけても、国会(6月に通常国会を閉会して以降2カ月半も休会のまま、野党が再三開催を求め、憲法53条に基づいて要求したにもかかわらず、それを拒否してきた)―まずは国会を開いて、そこでコロナ対策(病床の確保策や予備費など)を、与野党と集中的に協議すること。臨時の大規模医療施設のことは、かねてより野党や医師会などからも提起されていることなのだ。
 今こそ国会を「コロナ対策国会」として緊急召集して、「野戦病院」の開設その他、今直ぐにでもやれる、やらなければならない有効な具体策を与野党にはかり、知恵と支持・協力を得て断行する、というのであればよいわけであるが、それをせず、最後まで国会をひらかずに、そこから(アメリカへ―日米豪印首脳会談「クアッド・サミット」のためと)体よく逃げ去るがごとく退任するのであれば、国会に対して、ひいては国民に対して無責任との誹りは免れまい。
 マスコミは、オリパラ開催中はその放送・記事一色、そして今は総裁選一色。菅首相の後継総裁・首相に誰がなるかの話ばかりで、国会を開かないまま政権を投げ出した首相の責任を問おうともしない。野党が「コロナ国会」開催をいくら求めても取り合わない菅政権も菅政権なら、マスコミもマスコミ。不偏不党の原則にもとる「政権党びいき」もいいところ。総選挙を控える今、野党による政権交代などまるで度外視。そのようなマスコミ報道に有権者が影響され、選挙はどうしても野党が不利な結果となる、という問題もあるわけである。


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