(1)自分の生に生きがいを
60年間よくぞ生きてこられました。(昔は「人間五十年」と云われましたし、私の父は44で亡くなりました。私の還暦当時は同級生のうち4人が亡くなっていましたし、諸君の同級生にも亡くなっている人がいる。クラス会やOB会などのパーテーでは黙祷もしている。)
勤めも一段落して、職務や家庭の第一線から解放され、これからは趣味など自分だけの世界にうち込めるという人もいれば、中には、そんな呑気なことは、まだまだ云っていられないという人もいるでしょう。
しかし、いずれにしても、これからは(これからも)日々生きていることに生きがいを感じ、人生を少しでも楽しむようにしようではありませんか。
生きがいを感じるには、仕事でも趣味・道楽でも、何でもよいから、出来ることを、目標・日課を設けて何かすることです。目標を果たせば達成感が得られ、それが生きがい感となります。
目標には長期目標・中期・短期目標とがありますが、どんな目標でもよく、早い話が、ずばり、「生きること」そのものを目標としてもいいわけです。長期目標―「米寿(88歳)まで生きること」、中期目標―「喜寿(77歳)まで生きること」、短期目標―「古稀(70歳)まで生きること」てなぐあいに。さしあたり今日一日生きること、それが今日の目標となるわけだ。そのために毎日日課たてて、それを果たす。そして「やれやれ、今日も終わった」といって寝る。朝起きて目が覚めたら未だ生きている、となれば、「よし、今日も頑張って生きようか」となるわけです。
私の場合は(高コレステロールで軽い糖尿病だと医者から云われている)、朝起きてラジオ体操。朝食、ご飯は茶碗に7分目、納豆・牛乳は欠かさない。食後、コレストロールの薬を飲んで、歯磨き(部分入歯をしていて、毎食後、歯間ブラシも使って磨く)。その後、手首(腱鞘炎)の治療に通院。昼食にはヨーグルトを欠かさない。午後に散歩。夕食は、ご飯は抜いて晩酌一合。寝る時は水の入ったペットボトルを枕元に置き、寝る前と途中と朝起きた時に飲む。というのが日課です。
しかし、人間、ただ長く生きていればよいというものでは無論ないわけであって、肝心なのは生きている間どれだけ生きがいを感じて生きられるかなのであり、たとえ長生きなどできなくても、生きている間精一杯生きがいを感じて生きられたならば、それで本望だというものでしょう。
人よっては、何か仕事や家事を目標・日課としている人、何か趣味を目標・日課としている人と様々だろう。
私の場合はカネになる仕事はしていないが、パソコンのホームページの評論・投稿集を毎月更新、そのために毎日、新聞(時には雑誌や本)の必要個所を読んで(新聞は切り抜き、大封筒に分類)、テレビの必要な番組を視聴(大事なものは録画)。それに、布団のなかで寝つくまでの間、イヤホーンでCD音楽(青春時代によく聴いたポップスや映画音楽)を聴き、朝早く目が覚め起きる前に英会話学習用CDを聞き流す、といったこともやっています。
他人から見れば、なんの役にもたたない、自己満足にすぎませんが、いいじゃないですか。そもそも、自分のやること為すこと―社会のためだとか、国のため、会社のため、或は家族・我が子のためにひたすら一身を投げ打つという場合でも、そうするのは、それがその人にとって自分の生きがいであり、そうすることで自分の満足が得られるからにほかならず、すべては自己満足につながっているのです。怪我・病気(それは注意・養生しだいで避けることもできるのだが)や老化(それは努力しだいで遅らせることもできるのだが)、それらで手足や身体が動かない(寝たきり)ならば、口で対話。口がきかなければ、目を使ってテレビを見、人の顔、絵や花や窓越しに見える風景を(山並み・樹・空・雲・夕日・月・星でも)眺め、目が見えないなら耳を使って、人の話か、鳥の鳴き声か、音楽を聴く。耳が聴こえないなら、人がさしのべてくれる手から伝わるものを感じ取る。そのように、意識(脳の働き)があるかぎり、たとえわずかであっても、そこから何らかの感動を得ることができ、楽しむこともできるはずであり、それが生きがいとなる。
第二次大戦中のナチスによるユダヤ人強制収容所で生き残った心理学者のフランクルは、その著書「夜と霧」の中で次のような事例を紹介している。
収容所で亡くなった若い女性、彼女は自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに実に晴れやかだった。彼女が言うには、『運命に感謝しています。だって、私をこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの』『以前、なに不自由なく暮らしていたとき、私はすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした』
『あの樹が、ひとりぼっちの私の、たった一人のお友だちなんです』。
病棟の小さな窓からは、花房を二つ付けたマロニエの木の緑の枝が見えた。『あの木とよくおしゃべりをするんです』『木はこう言うんです。私はここにいるよ、私はここにいるよ、私は命、永遠の命だって・・・』
人間というものは、このような極限状態でも、窓の外にある一本の樹を眺めながら心の中で対話を続け、今生きていることに生きがいを持ち続けることがでるのだ、ということではあるまいか。私の父は胃がんで母から看病されながら44歳でなくなったが、母は70まで生きた。しかし、その母は61歳で乳がん(私の娘を帯で負ぶっていて、胸部に違和感を感じてそれが判った)で大手術、その後リンパ腺、さらには頭皮に転移、手術を繰り返し、放射線治療などで通院生活を9年間過ごした。私の手記に母のことを「幸せ薄い生涯だった。私が一回だけ白布温泉・桧原湖へ子供らと共に連れて行ったことがあるが、それきりで、父も兄も彼女をどこにも連れて行ったためしはなかった。いったい何のために生きてきたのだろう。ただひたすら夫と子のためにだけ生きて終わったというものだ。」と書いたものだ。しかし、その中にも、それなりに彼女の生きがいはあったのではないか。死ぬ間際、意識が亡くなるまでに。
その年、私は中国旅行に行くことになっていた。山形県私学総連合会の記念事業として企画されたもので、私にとっては初めての海外旅行であり、社会科教師としては逃し難いチャンスであった。ところが母は頭部に「つづらご」ができて入院。そこへ旅行出発の日が訪れた。どうしたらいいものかと迷ったが、意を決して、母に「行って来るからな」といって旅立った。その翌々日、危篤を知って急きょ帰国し、病室に駆け込むと、母は目をあけて「帰ってきたなが」と声を発した。「うん。・・・ほら、お土産だ」といって掛け軸を垂らして絵を見せると、少し元気を取り戻したかに思われ、「何か食べたくなった」と云った。兄嫁が急きょ「かゆ」を作ってきて食べさせたが、一口ふくんだだけで飲み込むことはなかった。やがて呼吸が荒くなり出し、間もなく息を引きとった。
このような最後の時間も母にとってはけっして空しい時間ではなかったはずであり、わずかなりとも、そこに生きがいが得られたものと思えるのだ。妻は家事、畑、孫の子守り、孫の幼稚園で使う「文字ブロック」などの手製遊具つくり等々、それらを毎日、無心でやっている。子は勤め、毎日朝から晩まで目一杯働いてくる。孫たちはそれぞれ小学校と幼稚園、帰ってきたらゲームやアニメ、「何とか遊び」など無心でやっている。時々泣きわめくが、「ああ、面白かった」と楽しがりもする。それぞれ、それなりに生きがいを感じて生きているのだ。
さて、還暦を迎え、一段落を迎えた諸君だが、前途には辛いこと嫌なことも多々あるだろう。しかし、災いが福に転じることもあるし、楽しいこと嬉しいこともあるはず。仕事・趣味、闘病生活もあるかもしれないし、これからの生き方は様々あるだろうが、とにかく人生を極力楽しんでください。少なくとも、この世にありついた自分の生に、たとえどんなに些細なことであっても何らかの生きがいを感じながら、前向きに精一杯生きてください。
(2)戦後憲法世代
諸君は戦後ベビーブーム世代で、「団塊の世代」などと云われています。1945年に戦争が終わって、にわかに生まれたのが諸君たち。いわば「平和の落とし子」と云ってもいいでしょう。諸君たちが、この世に生を得たのは平和到来のおかげであり、親たちがこれ以上戦争に駆り立てられる不安もなく育ち、自らも戦争に行かずに済んだのは憲法のおかげ。その日本国憲法が5月3日に施行された年(1947年か翌年の3月まで)に生まれたのが諸君なのです。その意味では「戦後新憲法世代」とも云えるのではないでしょうか。諸君はその憲法とともに生まれ育ち、この国の社会を担ってきたのです。(私が生まれたのは日中戦争のさなかで太平洋戦争勃発の前の年だが、小学校に入学したのは諸君達が生まれた年で、憲法が施行され教育基本法が制定された年、その意味ではこの私は戦後憲法第一期入学生だ。)
今まで、そんなことはあまり意識してこなかったかもしれませんが、「戦争を知らない子どもたち」として育ち、「企業戦士」として高度経済成長の担い手となり、希望にあふれて一心不乱に働いた。ところが、自分たちの子ども(「団塊ジュニア」)が就職する頃になると、「バブル崩壊」、「就職氷河期」などと先行き不安となり、子どもたちを心配しなければならないことになった。
ニートなど職業にも学業にも就けない若者が戦争を求め、戦場に居場所を求めようとする。「希望は戦争」「私を戦争に向かわせないでほしい」という「31歳フリーター」(赤木智弘氏)の悲痛な声が反響をよんでいる。どこかのタレント知事は、若者には規律を重んじる機関での教育が必要だとして「徴兵制があってもいい」などと発言している。そういうのが「平和ボケ」だと思うのだが(戦争や軍隊というものの実態をよく解っていない)。そのような風潮に乗じて、大政党はそれぞれに改憲を図っている。
「戦後憲法世代」諸君は、自分の子や孫たちに戦争や海外派兵があってもよく、そのために改憲した方がいいと思うか、それは困ると思うか、よくよく考えなければならないところに来ている。
この先、自分自身の老後生活(それに必要な年金・医療・介護など)と幸福追求権、子や孫たちの生活(それに必要な平和・人権・教育権・勤労権など)はどうなるのか。そして、これらを保障する憲法はどうあればよいのか。変えた方がいいのか、それとも今のままで、それをもっと活かすようにした方がいいのか。「戦後憲法世代」の諸君には、それが問われている。