米沢 長南の声なき声


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徹底抗戦か不戦か―もしもの時の日本
2022年03月24日

 今、ロシア侵攻に対するウクライナ国民の抗戦と苦難・惨状が連日テレビ・新聞で目の当たりにし、9条で不戦・非軍事の憲法をもつ日本国民は、もしもウクライナのような事態に遭遇し、「戦うか死ぬか」で、次のような究極の選択に迫られたなら、いったいどのようない対応を(意識的に、或いは無意識的に)選択するのかである。
①「(戦わずに)殺られるくらいなら、(戦って)殺った方がいい(殺らなければ殺られてしまうから)」というのは―無意識的な「生の欲動」*―自己保存本能で動物と同じ。
②「(戦わずに)殺されるくらいなら、(戦って)殺して死んだ方がまし」というのは―無意識的な「死の欲動」(破壊・攻撃欲動)*―外に向かうと暴力・戦争(軍事活動は将兵や民衆の間に募るフラストレーション・不安・恐怖・敵愾心・復讐心などから攻撃欲動によって行われる)、内に向かうと自殺(死ねば楽になる、或いは憧れる)。
③「(戦って)人を殺すくらいなら、(戦わずに)殺されて死んだ方がまし」というのは―「超自我」*―無意識的にルールに従おうとする良心が働き自我(エゴ)を脱して(忘我・無我)自分は死んでも、他者への攻撃欲動は断念―無意識的な道徳的態度。 
④「(戦わず、)殺し合うことのないように、つながり合う(対話し、相互に理解し、包摂)」
 上記の*の個所は心理学者フロイトの考え方と用語。選択肢4つのうち、今のロシア・ウクライナ戦争の場合は、どっちかというと両方とも①か②のように思えるが、日本の憲法9条に合致する対応はどれだろう。
 尚、③の「超自我」とは、内にある「死の欲動が」が外に向けられて「攻撃欲動」に転じた後、さらに内に向けられたときに生じる。超自我は個人よりも集団(共同体)のほうにより顕著に表れる(集団的超自我)。超自我は状況の変化によって変わることはないし、宣伝や教育その他の意識的な操作によって変えることはできない。哲学者の柄谷行人氏(2016年6月14日付朝日新聞のオピニオン&フォーラム)によれば、「日本人の超自我は、戦争の後、憲法9条として形成された。」「9条は占領軍から日本に押し付けられた(というよりは、むしろ「贈与」された)ものだが、その9条がその後も(米国が再軍備を迫った時、日本人はそれを退けて、そのまま)保持されたのは、(戦争)体験の(意識的な)反省からではなく、それが内部に(無意識のうちに)根ざすもの(「嫌戦的国民性」「伝統的な和の文化」)であったからだ」。
 日本の国内史では、戦国時代の最後の最後に天下を取って戦乱を終わらせた徳川氏が確立した幕藩体制の下で、「武力による直截的支配ではなく、法と礼によることを目指され、戦乱のない平和―『徳川に平和』(パクス・トクガワーナ)がもたらされた」(歴史学者の大濱徹也)。それが幕末・明治維新の争乱で終わりを告げ、その後、対外戦争に突入し、第2次大戦まで続いた戦乱が、日本軍の降伏によって終わりを告げたが、憲法9条の制定によって「徳川の平和」が回帰したのだ、と柄谷氏は論じている。
 幕末、徳川の幕臣として活躍した勝海舟は、官軍を率いる西郷隆盛との会談で「戦わずして江戸城を明け渡し」に応じ、刀は「武士の魂」ではあっても、人を斬り殺すためのものにあらずで、「人に斬られても、自分は斬らぬ(つまり殺されても殺さず)」という覚悟をもち、「血を流さない勝利こそ最上の勝利」だという考えを持っていた。新渡戸稲造()国際連盟の事務局次長だった人)の著書「武士道」に勝海舟のことが書かれていて、武士道が求める「究極の理想は平和」だとも書いている。柄谷氏は「9条こそが日本の『文化』」と述べているが、それはこのような武士道とともにある文化なのであり、無意識のうちに染みついた日本人の心ともいうべきもので、時々の政権・政治家や論者・メディアによって煽られて簡単に変わるような筋合いのものではないのだ、とも述べている。

 徹底抗戦か不戦か(いわば一億玉砕か不戦か)、この選択判断をする際は、次の二つの倫理哲学上の考え方にもよると思われるが、上記のような選択判断に際しては、二つのうちどちらの考え方をとるかだ。
 ① 功利主義の道徳律―行為の目的が(「最大多数の最大幸福」とか国益・公益に照らして)正しく結果が良ければ、そのために用いて役立った手段はなんでも正当化される。
 祖国を守り領土・主権を守るために武器をとり徹底抗戦して勇戦し善戦すれば、戦争が長引いてその間、敵兵だけでなく自国民にどんなに数多の犠牲者が出ても、「正義の戦い」であり、殺傷・破壊とそれに用いた武器や作戦も、被った犠牲も全て正当化される、という考え方。
 ② カントの道徳律―人を単に手段としてのみ扱ってはならず、どんな人、どんな国民も一人ひとり人間として尊重し常に同時に目的として扱うようにせよ。兵士や国民を国家の戦争のための駒や手段としてのみ扱ってはならない。また侵略軍を撃退するためなのだからといって、闘争の過程で、敵兵は殺さなければ自国も家族も守れないから、殺すしかない、とはいっても、殺人は殺人、罪は罪であり、その行為は正当化はできない。又、どんなに勇戦・善戦しても、数多の犠牲者を出し、何の罪もない子供が死んでもやむをえない、というものでもない。
 人の命に優先順位はなく、「死んでもいい命」「死なせてはならない命」の区別などあり得ない。
 「人を殺してはならない」「人に暴力を振るってはならない」「人を騙してはならない」などの道徳的命題は何時いかなる場合でも(例外なく)従うべき義務(普遍的道徳法則)。「ダメなものはダメ」なのであって、時と場合によっては許されるといった筋合いのものではな軍い。人を殺し合う戦争に「正しい戦争」も「悪い戦争」もない。「武器を持つ悪い奴を止められるのは、武器を持つ良いやつしかない」(トランプ前大統領の言)などといった言説は間違っている。
 このようなカントの考え方からすれば、侵略・攻撃に対して、それを阻止し、攻撃を封じるにしても非暴力・非軍事で(対話・交渉・説得、経済制裁などで)対応すべきであり、そもそも、そのような(侵攻や戦争)事態に至らないように、そのような事態を招くようことは極力回避しなければならないのだ、ということになるのでは?

 前述の柄谷氏によれば「国連で日本が憲法9条を実行すると宣言すれば、日本はすぐ常任理事国になれる」し、「日本に賛同する国が続出し、それがこれまで第2次大戦の戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることになる」、「それによって国連はカントの理念に近づくことになる」、「カントの考える諸国家連邦は、人間の善意や反省によってできるのではなく、人間の本性にある攻撃欲動が発露され、戦争となった後にできるという。実際に(第1次大戦後の)国際連盟、(第2次大戦後の)国際連合、そして日本の憲法9条も、そのようにして生まれた。(それが現実)」、「非武装など現実的ではないという人が多いが、軍事同盟がある限り、ささいな地域紛争から世界規模の戦争に広がる可能性がある。第1次大戦がそうだった」と。

 そこで「徹底抗戦か不戦か」と云った場合、それは究極の選択ともいうべきもので、人はそのどちらに覚悟を決めるのかの問題である。
 ①「徹底抗戦」は死ぬ覚悟の対応
   自分以外の多くの人々の犠牲をも伴うが、やむを得なまい、との覚悟       
   祖国を守る覚悟                    
   領土・主権を守る覚悟                 
   自由(自己決定・言論・行動の自由)を守る覚悟           
 ②「不戦・非武」は何が何でも生き抜く覚悟の対応
   犠牲者(死者・難民)を一人も出さない覚悟
   非暴力抵抗(「丸腰で立ち向かう必死の覚悟)で非協力・不服従の覚悟
   あくまで平和を守り通す覚悟
   生命・財産(家や街や仕事・生活環境や歴史・文化)を守る覚悟     
                         
 (非軍事・非同盟政策を採り、どの国、どの民族とも敵対せず、友好関係を結んでいる)国に対して、然るべき理由もなく、国際的非難・制裁リスクを冒してまで無益・無謀な侵略・攻撃を仕掛けてくる国なんてあり得ないと思われるが)仮に、もしも万一侵攻を受け軍事占領されてしまったらどうするか。
 一時占領されても、国民が健在で生きている限り、独立や自由はやがて回復できるわけである。占領下で不当な統治行為があれば、まるっきり無抵抗で「何をされてもなすがままに奴隷的に屈従する」のではなく、理不尽な仕打ちに対しては決然と抵抗する。但し、市民が武装抵抗するパルチザン戦ではなく非武装・非暴力抵抗主義で、弾圧に抗してデモ・ストライキ・サボタージュなどに訴えるやり方をとる。そのような抵抗のやり方であっても、占領支配者はダメージを被り、長期にわたって我が国民全体を軍事的・政治的に支配し続けることを断念させることは不可能ではないからである(「暴力行使費用増大の法則」と「国家管理費増大の法則」で―経費が巨大過ぎるため)。
 非暴力・非協力・不服従抵抗―それには決死の覚悟を伴うが、軍事(武力対応)以外の外交交渉などあらゆる努力をやり尽くす。(抗戦を避け、武力抵抗はせずとも、戦争による大惨害・人的・物的資源の大損失を被るよりはましなだけでなく、道義的勝利が得られる。
 作家の阿刀田高氏の言―「軍備を持たず、どこかに攻められたらどうするのかとの問いには、『その時には死ぬんです』というのが私の答えです。・・・・軍国少年であった子供の時、天皇陛下のために俺は死ぬんだと思った。同じ死ならば、よくわからない目的のために死ぬより、とことん平和をまもり、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。丸腰で死ぬんです。個人のモラルとしてなら、人を殺すくらいなら自分が死ぬ・・・・つきつめれば死の覚悟を持って平和を守る、命を懸けるということです。そうである以上、中途半端に銃器なんか持っていない方がいいですね。でも死にたくないから、丸腰でも何とかならないかと必死で生き延びる手段を探る。外交などいろんな努力を全部やる。やりつくすべきだと思います。」
「いま近隣諸国と軍備で対抗しようとしたら、日本も核武装するしかなくなる。それでは無限の人殺し政策の繰り返しになってしまう」と阿刀田氏は語っているのだが。

 さて、平和憲法をもつ我々日本国民はウクライナ国民のように徹底抗戦で行くのか、それとも不戦でいくのか、どちらを採るのだろうか。


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