1、自衛隊と軍隊の違い
よく、自衛隊は実質的に軍隊と同じなのだから、改憲といっても、そのことを曖昧にせずに憲法にはっきり明記するだけの話なのだ、という言い方がある。(小泉前首相は「自衛隊は実質的には軍隊なんだから、そういわないのは不自然だ。憲法で自衛隊を軍隊と認め・・・云々」と述べている。)しかし、それは違う。自衛隊は自衛隊であって、軍隊ではないのである。
どこが違うか。軍隊のばあいは、個別的自衛権の発動にさいしてであれ、集団的自衛権の発動にさいしてであれ、国連決議に基づく多国籍軍やPKOの活動であれ、その活動中は、武力行使は(民間人に対する無差別攻撃以外は)無制限であり、武器・兵器など装備も(「残虐兵器」以外は)無制限であるが、自衛隊のばあいは、我が国自体が直接攻撃を受けない限り武力は行使しない。したがって海外で他国のために(それが同盟国であっても)武力を行使することはないのである。
梅田正巳氏(著書「変貌する自衛隊と日米同盟」高文研出版)によれば「自衛隊は現在、装備している兵器の量や性能からすれば、米軍は別格として世界で有数の戦力を備えているといえる。」しかし、これでも「自衛のための必要最小限」だというわけであり、海外に打って出るための攻撃用兵器である空母や原潜・戦略爆撃機・大陸間弾道ミサイル等だけはもってはいない。
また、いかに最新鋭の武器を装備していても、警察官と同じで、その武器は刑法36条(正当防衛のため)、37条(緊急避難のため)に該当する場合で他に方法がない場合以外には使用しないことになっている。つまり、正当防衛・緊急避難などやむを得ない場合以外には、人を殺傷したりすることはないのだ。
だから、イラクに行っても「非戦闘地域」で「人道復興支援活動」(給水作業その他)に限定され、戦闘には一切参加していないし、一人も殺さず、一人も殺されていない。(しかしそれでも、隊員の多くは自家を出発する時は遺書を書いていったそうである。)イラクに行ったアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・韓国などの多国籍軍の軍隊と我が自衛隊は全く違っているのである。
このような自衛隊のあり方を決定づけているのが憲法9条その2項なのである。
このような我が自衛隊を惨めと思うか、それとも誇りに思うか。人を殺せないことが惨めなのか、殺さないことが誇りなのか、であろう。
よく「同胞を守るため、家族を守るため、愛する人を守るために」といわれるが、軍隊のばあいは、それはきれいごとで、実はそれが最優先に守るのは国家すなわち首相を筆頭とする政府その他の国家機関それに自らの部隊の陣地と武器なのである。市民・家族などの民間人を守るのは二の次で、場合によっては国家を守るため作戦遂行の邪魔だと思えば、民間人を犠牲にし、その活動の妨げになりそうな市民団体や個人の動きを監視したり逮捕したりすることもあるわけである。それが軍隊というものだ。
しかし、自衛隊のばあいは、そのようことがあってはならないわけである。
2、サムライ自衛隊
新渡戸稲造の(著書)「武士道」だが、稲造はその「13章『刀』―なぜ武士の魂なのか」のところで、「武人の究極の理想は平和である」として次のように書いている。
「やたらと刀を振りまわす者は、むしろ卑怯者か虚勢をはる者とされた。」「暗殺、自殺あるいはその他の血なまぐさい出来事がごく普通であった、私たちの歴史上のきわめて不穏な時代をのり越えてきた勝海舟」、海舟は「次のように語っている。『私は人を殺すのが大嫌いで、一人でも殺したものはないよ。・・・・私が殺さなかったのは無辜を殺さなかった故かもしれんよ。刀でも、ひどく丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった。・・・・』これが艱難と誇りの燃えさかる炉の中で武士道の教育を受けた人の言葉であった。よく知られている格言に『負けるが勝ち』というものがある。この格言は真の勝利は暴徒にむやみに抵抗することではないことを意味している。『血を見ない勝利こそ最善の勝利』・・・・。これらの格言は、武人の究極の理想は平和であることを示している。」
神戸女学院大学文学部教授の内田樹氏(共著「9条どうしよう」毎日新聞社)は9条と自衛隊の関係がすっきりしない(単純でない)と気持ちわるいというのは「子ども」であって、「おじさん的思考」で考えるべきだとして、次のように論じている。
9条のリアリティは自衛隊(いざという時の緊急避難のための自衛力)によって支えられている。
国民は憲法9条で政府に二度と戦争をしないことを約束させている一方、完全無防備であるよりは自衛隊があることによって安心を得、世界の諸国民も日本が自衛力は持ちながらも、憲法で政府に戦争をしない約束をさせている国として、現に戦後一度も戦いを交えていないことに安心を得ているということなのである。
また自衛隊は9条による『封印』によって担保されている(自衛隊は軍隊ではない存在として正統性が認められるということ)。「『封印されている』ことに武の本質がある」というのである。
これら新渡戸・内田の両論から考えれば、自衛隊は、いわば刀の柄をさやに結わえて抜かないサムライのごときもので、アメリカ軍などとは違って、やたら刀を振りまわしたりはしない。そのような意味で自衛隊はサムライなのだ。
問題は、そのアメリカ軍に従わされていることであり、その従属から脱することができれば、本当のサムライというものだろう。3、改憲は自衛隊を「他衛隊」に
集団的自衛権とは、同盟国やその軍が攻撃されたら、それを自国への攻撃とみなして反撃できること(具体的にいえば、公海上で米艦を援護して反撃したり、イラクなどで他国軍を援護して反撃したり、「ミサイル防衛」でアメリカに向かって発射された大陸間弾道ミサイルを途中で日本の迎撃ミサイルが撃ち落したり等のこと)なのだが、自民党や民主党などのいう憲法「改正」とは、要するに9条を変えて(自民党の新憲法草案では自衛隊を「自衛軍」と称して名実ともに軍隊とし)自衛隊に集団的自衛権の行使を認め、海外で他国のために武力行使できるようにすること―早い話が自衛隊を「他衛隊」にすることなのだ。
4、国連憲章上、認められている武力行使
国連憲章は武力による威嚇と武力の行使を原則として禁止している。武力行使が例外的に許されるのは侵略行為その他の平和破壊に対する自衛権の発動と加盟国の共同制裁という二つの場合だけである。
国連憲章は集団安全保障(侵略行為・平和破壊に走る国があらわれたら、その国を加盟国が共同制裁―非軍事的措置、場合によっては軍事的措置を講じること)を原則にしているからといって、どの国にも、武力を行使して他の国々を守るようにしなければならないなどと義務づけているわけではない。また、国連憲章は、侵略や攻撃を直接受けた国の自衛権(個別的自衛権)の発動とその同盟国の集団的自衛権の行使も認めているが、その個別的・集団的自衛権は国連(安保理)が制裁措置を講じるまでの間だけに限られた例外的な権利として認められているに過ぎないのである。
国連の共同制裁であれ集団的自衛権であれ、実際、武力行使の効果のほどは限られており、その乱発はもとより、その発動はかえって危険なのである。それは第2次世界大戦後これまで行なわれきた朝鮮戦争~イラク戦争などの事例をみれば明らかである。
5、国際貢献
「国際貢献」という言葉がしきりに言われるようになったのは1991年の湾岸戦争以来のことである。あの時アメリカをはじめとする多国籍軍がイラクと戦った、その際、我が国は巨額の金(戦費総額の2割をも占める世界最大の拠出金)を出したのに、派兵・参戦しなかったばかりに、ろくに感謝されず「金だけでなく汗もかけ」とでも言われたかのごとく日本では喧伝され、「一国平和主義からの脱却」「人的国際貢献」が盛んに言い立てられるようになり、「国際貢献」といえば軍事貢献として、それが自衛隊派遣と結び付けられるようになったのである。(実は、あの時、日本は金を出しただけではなく、戦略的根拠地として巨大な軍事的貢献を果たしていたのだ。軍事評論家の小川和久氏は、その著書『日本の戦争力』で「日本を母港や根拠地にして艦艇・航空機・兵力が直接出撃し、燃料や弾薬の多くも日本から運ばれた。日本の貢献度は出兵したイギリス以上なのだ」と書いている。)
湾岸戦争が終わってから、急きょ海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に差し向け、魚雷の始末に当たらせたりした。
その後まもなく1992年、国連のPKOに自衛隊を派遣するようになって、カンボジアを手始めに、世界各地の紛争地へ自衛隊が派遣された。(PKOとは、そもそも「戦わない」ことを基本原則にしており、国連憲章7章の43条で予定している制裁のための強制行動をおこなう「国連軍」とは全く違う。それは地域紛争において達成された「停戦」や「休戦」の維持を支援するために、戦っている双方の軍勢を引き離して緩衝地帯を設け、停戦・休戦の監視に当たることを役目としている。派遣している国は、対立する双方に対して中立的で脅威とならない中小諸国が多い。各国が派遣しているのは軍人とは限らず文民も含まれる。カナダなどのように自国の軍隊である「国防軍」の一部をPKO用に当てている国もあるが、北欧諸国のように、国防軍とは別にPKO用に特別に編成された部隊「待機隊」を当てている国が多いという。)
そして、2001年「9,11」同時多発テロ事件が起こってアフガン戦争が始まると、海上自衛隊がインド洋に米軍の後方支援(艦艇への給油など)のために派遣され、03年イラク戦争が始まると、そこに陸上自衛隊と航空自衛隊が「復興支援」と「安全確保支援」の名目で派遣され、それらも「国際貢献」「国際協力」の名の下におこなわれているのである。
しかし、(自国をのみ急迫不正の侵害から守り、他国の紛争には介入しないはずの)「自衛隊」たるものが、他国や海外に出向いて行って、他国の軍の戦闘(殺傷行為)に、たとえ後方支援など間接的にではあれ加担・協力することは、「自衛隊」として相応しい行為とはけっして云えないだろうし、それはアメリカ(それもブッシュ政権)に対する貢献ではあっても国際貢献の名に値するものとは云えないだろう。
ましてや、改憲によって自衛隊の海外での武力行使が容認され、その海外活動に対する「非戦闘地域」「人道復興支援」「後方支援」などの限定・制約が取り払われて、現在のイラク戦争における米英軍などと同じく戦闘(殺傷行為)に直接参加すれば、平和をもたらす解放者どころか平和破壊者とみなされ、サムライどころか「やたらと刀を振りまわす『ならず者』」とかわりないと見なされることになるだろう。そして、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」(現行憲法前文)というその思念とは逆の不名誉な結果となるだろう。それは国益にとっても大きな損失となるに違いあるまい。我が国は軍事貢献(国連多国籍軍や有志連合軍に加わって参戦・武力行使)など行なわなくても、非軍事面で国際貢献(平和貢献)できることは沢山あるはずなのだが、政府は軍事貢献ばかりにこだわり、平和貢献へのこだわりがない。軍事貢献(派兵・参戦・武力行使)ができないと、「大国として恥ずかしい」かのように思う向きがあるが、それは間違っている。核廃絶(国連では、非同盟諸国が中心になって期限をきった核廃絶を提案、採択されているが、日本政府はそれには棄権し、「究極的な核廃絶」として期限をきらない廃絶を提案したりしている)やクラスター爆弾禁止条約(これにも日本政府は難色を示している)など日本政府は消極的であるが、「軍縮による安全保障」のイニシャチブをとることこそ、日本がなすべき最良の国際貢献なのだ。
アフガニスタンで武装解除にたずさわっている日本人(東京外語大学院教授の伊勢崎賢治氏らNPO)がいるが、彼らは丸腰(武器を持たず、警備を付けない)でそれをやっている。だからこそアフガニスタンの人々は日本人を信頼して武装解除に応じているのだという。カンボジアなどで地雷除去にたずさわっているNPOもいる。彼らこそ「サムライ」に相応しいと云えないだろうか。6、日本はアメリカから守ってもらっている?
「日本はアメリカから守ってもらっている」(アメリカは、我が国が恩返ししなければならない有りがたい国だ)とよくいわれるが、実は必ずしもそうではないのだ。
第一、これまでアメリカが日本に基地をおいて米軍を駐留させてきたのは日本を守るためというよりは、朝鮮戦争でもヴェトナム戦争・湾岸戦争・アフガン戦争・イラク戦争でも日本を戦略的根拠地(中継・出撃・補給基地)として自らのために利用できたからにほかならない。また、日本はアメリカにタダで守ってもらっているかのように言う向き(「安保タダ乗り」論)もあるが、それはとんでもない話で、かえって高い代価を払っているのである。(在日米軍基地で働く民間人従業員2万人の給与、水道光熱費、基地内施設の建設費のほぼ全額―これらは「思いやり予算」と称される―と地代、周辺住宅の防音工事代、自治体への補助金など合わせて年間6,500億円は我々の税金で払っているのだ。その金額は日本以外の同盟国26カ国が負担している米軍駐留経費の合計よりも多い。そのうえ沖縄にいる海兵隊のグアム島への移転費7,100億円など米軍再編にともなう負担も予定されている。)それに日本はアメリカの「核の傘」に守られているというが、仮に北朝鮮か中国か、あるいはロシアなどから核ミサイル攻撃にあえば、遠く離れたアメリカ本土は無事であっても、日本も無事でいられるという保証は無いのである。(北朝鮮のテポドンはアメリカ本土まで届かないし、中ロの大陸間弾道ミサイルにしてもアメリカ本土にたどり着く前に迎撃ミサイルで撃ち落とすことは可能であるが、近距離にある日本の場合は、撃ち込まれた核ミサイルのすべてを迎撃・破壊することは不可能であり、そのうち何発かの着弾・被爆は避けられまい。)また中ロなどの場合は報復攻撃を恐れて先制核攻撃は控えようとするだろうが、北朝鮮のように孤立し経済制裁を受けている国がさらに追い詰められ、絶体絶命に瀕して理性を失い、自暴自棄的に(「自爆テロ」のように「死なばもろとも」とばかりに)核ミサイル攻撃にはしる「暴発」の可能性も無きにしも非ずであり、それに対してはアメリカの「核の傘」といえども抑止効果はないということだ。(「暴発」するならするで、それに備えて「ミサイル防衛」や「敵基地先制攻撃」の体制を整えておけばよいのだなどと、それらの防衛体制を正当化しても、それで「暴発」した核ミサイルを防ぎきれるものではない。軍事ジャーナリストの田岡俊次氏―著書「北朝鮮・中国はどれだけ怖いか」朝日新書―は「ミサイル防衛」はアメリカにとっては日本が配備した迎撃ミサイルは「盾」として役立つだろうが、我が国にとっては「ないよりまし」か「気休め程度」、敵基地先制攻撃論は―ミサイルは洞穴の中に格納されていて、トンネルから移動発射機が出てきたところを偵察衛星で発見して、航空機か巡航ミサイルで攻撃するとはいっても、実際は「そのミサイルが核弾頭を付けて、日本に向け、発射準備を行なっている」などというところまで位置・目標を特定することはできず、仮に出来たとしても写真を解析・判断のうえ攻撃命令を発し、戦闘機を発進、あるいは巡航ミサイルを発射させて目標に到着するまで時間がかかり、それまでに相手の核ミサイルは既に発射してしまっているだろう、というわけで―「まったくの机上の空論」だとしている。要はあくまで、こちらから攻撃をしかけたり、制裁圧力を拡大強化して追い詰めて「暴発」を誘うことのないようしなければならないのである。)
たとえアメリカの「核の傘」で守られていようと、或は日本が核武装しようと、近くの隣国が核ミサイルを乱射したら、どんなに「ミサイル防衛」網を築いたとしてもそれで防ぎきる(迎撃ミサイルで百発百中命中させて撃ち落とす)のは不可能であり、それでお終いなのだ。だからそのような隣国からの核ミサイル攻撃事態は徹頭徹尾対話・交渉によって未然に食い止めるしかないわけである。朝鮮半島~北東アジアの非核化は是非とも必要なのである。
渡海上陸侵攻に対しては、今の自衛隊ならば、制海権・制空権を確保でき、アメリカの助けを借りなくても、自力で守れるだろう(軍事ジャーナリスト田岡氏)。これらのことを考えれば、日本は「アメリカから守ってもらっている」というよりは、むしろ体よく利用されているといった方がよいくらいなのである。
改憲、「自主憲法の制定」といっても、その実、アメリカの要請に応じてのことにほかならないのであって、自衛隊がアメリカ軍と一体になってイラク・イランを含む中東地域・インド洋その他世界のどこへでも出撃できるように9条2項を改変(これまでの「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」を削除し、自衛隊を「自衛軍」とし、「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行なわれる活動」をも行なうことができるということに)しようということなのである。この場合、日米両軍一体化といっても、米軍は「決定的に重要な中核的能力」であるのに対して、自衛隊は「追加的かつ補完的な能力」(05年10月の日米安全保障協議委員会「2+2」の合意文書「日米同盟―未来のための変革と再編」に明記)つまり、「保安官はあくまで米軍であり、自衛隊はその助手にすぎない」(梅田正巳著「変貌する自衛隊と日米同盟」高文研)というわけである。結局、アメリカが自衛隊をそのように今まで以上に利用できるようにするための改憲にほかならないのだ、ということである。
そんなことだったら(アメリカからいつまでも利用されて危うい思いをするくらいなら)いっそのこと、安保条約をやめて、基地を返還させ、駐留米軍は撤退してもらってもおかしくないわけである。元防衛庁長官の石破氏は集団的自衛権の行使を認める立場からではあるが、「(集団的自衛権の)行使を認めれば、基地を提供する義務がなくなり、政策判断として『不要な米軍は出て行って』という立場になれる。それが独立国というものだ」と述べている。(6月6日朝日「論考・集団的自衛権」)「軍隊」化し「他衛隊」化することなく「自衛隊」に徹し、集団的自衛権の行使は否認したままで「不要な米軍は出て行って」といっても何らおかしくないわけである。
7、改憲すれば自衛隊は自衛隊でなくなる
「自衛隊」、それは我が国が他国から侵略攻撃(急迫不正の主権侵害)を受けた時、自国民を守るために(他に手段がなくて実力行使にうったえざるを得ない場合に備える)必要最小限の実力部隊であって、「他衛隊」でも「軍隊」でもないものとして我が国で一般に認められている存在である。(憲法上は、9条を厳密に解釈して、たとえ「必要最小限の自衛力」であっても認められないとする違憲説―ただし当面維持・活用の考え―と「専守防衛」ならば認められるとする合憲説に分かれている。政府は「自衛隊は、憲法上必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の制約を課せられており、通常の観念で考えられる軍隊とは異なるものと考える」―1985年11月5日の参院・秦豊議員の質問に対する政府の答弁書―としてきた。いずれにしろ9条の「縛り」自体は厳然として効いているのである。)
それを解釈改憲もしくは明文改憲によって集団的自衛権の行使まで認めてしまえば「軍隊」化し、他国を守る「他衛隊」の性格が加わって、これまでとは全く異質な存在に化してしまうわけである。
そのような「軍隊」になれば、歴史上、我が国の軍隊が行なってきた第一次大戦に際する中国(山東半島)出兵、シベリア出兵(いずれも日英同盟を口実にして出兵)、第二次大戦に際するアジア・太平洋戦争(日独伊3国軍事同盟を背景に開戦)などを再び繰り返えすことになりかねない。戦後は、朝鮮戦争やベトナム戦争・湾岸戦争・アフガン戦争・イラク戦争など、それらの戦闘には一切参加せずに済んできたが、「軍隊」ともなればそういうわけにはいかず、参戦しなければならないことになる。
これらの参戦は(アメリカも、かつての日本も、自らの戦争を「自衛戦争」と称して行なったが)決して「国民同胞を守り、家族を守り、愛する人を守るための自衛の戦い」などではあり得まい。小泉前首相は、アメリカのイラク攻撃開始に支持を表明した当時、「憲法で、自衛隊を認め、日本国民を守る戦闘組織として、その地位と名誉を与える時期がきた」とコメントしたものだ。
しかし、憲法とは、そもそも(近代立憲主義の立場で)国民の人権を(平和的生存権を含めて)為政者の恣意と国家権力の濫用から守るため、国家の権力に縛りをかけるために制定されているものなのであって、(自衛隊ならば、それを、他国からの急迫不正の侵略・攻撃に対する必要最小限の自衛以外に、政府や国会多数派がその思想や利害から自らの考える「国益」―国家戦略上の利益―のために、要するに自らの都合のために、好き勝手に動かし、必要以上の戦力・武器を持たせて海外に派遣して戦わせたりしないように、歯止めや縛りをかけるために、9条―戦争放棄とともに戦力の不保持・交戦権の否認―などは定められているのであって)憲法は、戦闘組織に「地位と名誉を与える」ために定められているのでもなければ、そのようなことのために「改正」さるべきものではないのである。
また、安倍首相は「『米国と肩を並べて武力行使する』、これは憲法改正なしにはできない」という。そのような改憲をされて、自衛隊がアメリカ政府の言いなりに、米軍にくっ付いて海外に行って、今度は「戦闘地域」で戦わされ、殺すか殺されるかさせられる。そんなことが自衛隊にとって名誉になるのだろうか。国際社会は、自らの過去の戦争に対する反省を忘れてそのように振舞う日本に、尊敬を寄せ、「名誉ある地位」を与えようとするだろうか。
改憲―集団的自衛権の行使容認など―によって、自衛隊は日本国民を守るための自衛隊から、アメリカなど他国を守る「他衛隊」にますます化していく、という結果にならざるを得なくなる。
要するに改憲したら自衛隊は自衛隊でなくなるということなのである。
我々は、そこを考えなければなるまい。