米沢 長南の声なき声


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教育基本法が変えられようとしている
2005年07月22日

 教育基本法には、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」「第1条(教育の目的)教育は、人格の完成をめざし平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」「第3条(教育の機会均等)すべての国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない。」「第10条(教育行政)①教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。②教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」とある。 

 要するに、教育とは、国家が国家(国家目的・国家の都合)のために行うのではなく、国民が各人の子弟(個人)ために行うのであり、子弟に①人格(人間性・人間らしさ)を身につけさせること、②社会で自立して心身ともに健康に生きていく上で必要な知識・技能を身につけさせること、③社会の形成者(自らを支える社会を維持していく担い手)として、勤労と責任を果たす上で必要な知識・技能を身につけさせること、④平和的・民主的な国家の形成者(主権者)として権利を行使し責任を果たす上で必要な知識・判断力を身につけさせること、等を目的として行われるものなのである。

 それで、国家や行政当局の役目は、このような教育の目的を遂行するに必要な諸条件を整備すること(予算を確保して教員を増やすとか、少人数学級にするとか、校舎や設備をよくするとか)であって、教員のやること(教育内容)にあれこれ口出し(介入)することではないということである。

 ところが今、それ(そのような教育の基本的なあり方)が変えられようとしている。政権与党は新教育基本法の法案をつくって国会にかけようと機会をうかがっており、民主党の中にもそれに同調する向きがある。(「教育基本法改正促進委員会」議員連盟が結成され、その結成集会で民主党の西村議員は次のように発言したという。「お国のために命を投げ出してもかまわない日本人を生み出す。お国のために命を捧げた人があって、今ここに祖国があるということを子どもたちに教える。これに尽きる」と。)

 国家の経営と産業・軍事などに必要な人材・要員を確保するために文部行政当局は、これまでも、「個性の尊重」や「多様性の尊重」の美名のもとに、一つの尺度(テストの成績)で上中下のランク、勝ち組・負け組に振り分ける能力主義・選別・競争教育を推し進める一方、教育の管理・統制を強めてきた。文部省が学習指導内容の基準として指導要領を制定して、それに法的拘束力を持たせるようにし、それに基づいて文部省が教科書を検定するようになって久しい。高校の場合は各学校の教師が、自分の教える生徒に相応しいと思われる教科書を選定して自主的に採択できるが、小中学校の場合は、自治体の首長が任命する教育委員会が教科書を採択する権限をもち、彼らが選定・採択した教科書で先生方は教えなければならないことになっている。それに近年、国旗・国歌は法制化したが、強制はしないという政府見解があるにもかかわらず、東京都などでは、教育委員会が卒業式・入学式における国旗掲揚・国歌斉唱等のやり方(実施指針)を定めて、管内の各校に通達、学校長は教員にそれを職務命令として伝え背けば処分する、等のことが既に行われている。

 それが今や、その上にさらに教育基本法の全面「改正」にまでのり出しているのである。与党はその素案(「協議会中間報告」)を出しているが、現行教育基本法の教育目的にあった「個人の価値をたっとび」と「平和的な国家及び社会の形成者として」を削除し、新たに定めた教育目標のなかに「公共の精神を重視」ということとともに、「国を愛し(又は大切にし)」といったようなことを(そのようなことは各人の自由な心に自然に発する事柄で、公権力によって押し付けられる筋合いのものではないのに)掲げている。

 教育の機会均等は、「すべての国民に、ひとしく、その能力に応ずる教育」となっていたのを、単に「国民に、能力に応じた教育」となってしまっている。

 「学校教育」のところでは、わざわざ「規律を守り、真摯に学習する態度は、教育上重視されること」として管理教育をうち出している。

 「家庭教育」をとりたてて設け「家庭は、子育てに第一義的に責任を有するものであり、親は子の健全な育成に努めること」として家庭(親)の責任を強調。問題行動や落ちこぼれの責任を家庭や本人のせいにできるようにされている。

 「教育振興基本計画」、これまた現行教基法にはないもので、それに「政府は、教育振興に関する基本的な計画を定めること」として、政府が教育内容に介入できるようにしている。

 そして「教育行政」の条項改変である。現行教基法では「教育は不当な支配に服することなく」として、教育現場に対する政治家や行政当局(知事や教育委員会など)の支配介入を退けているのに、それを「教育行政は不当な支配に服することなく」というふうに改変して、教育委員会に対する現場の教師たち(教員組合)や父母たち(市民団体)の抗議や要請行動などを不当な介入として退けることができるようにされている。

  教育基本法がこのように改変されてしまったら、それに基づいて教育された国民は皆、国家意識・愛国心にとらわれるようになり、現行憲法は国家や国益よりも個人の自由・人権や平和的生存権を重んじて有事(戦争など)における国民の決起・結集の妨げとなると感じ、改憲を肯定し当然視する方向に向かうようになる。そして、歴史・公民教科書は、非自虐的・愛国的なものでなければならないということになって扶桑社の教科書がすんなり採択され、どの出版社もそれに右倣いするようなり、国旗・国歌の強制も当たり前になってしまうことになるわけである。

 私が戦後まもなく小学校に入学して民主教育を受けるようになったその前の時代に、まさに逆行するものである。孫たちがかわいそうだ。こんな改悪は許してはならない


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