米沢 長南の声なき声


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現行憲法と自民党改憲案とで、どちらが安全保障に適しているか
2013年09月20日

 安全保障とは①攻撃・侵害されないこと、②国民の生命・財産が攻撃・侵害から守られること。
 そのためには軍備・軍隊(交戦権もつ)・軍事同盟(集団的自衛権の行使が出来る)を持つのと、持たないのとでは、どちらが適しているか、或いは危険か―どちらが攻撃されないか、どちらが生命・財産が守られるか(破壊・殺戮が無くて済むか)、である。

 現行憲法では「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持することを決意し」、「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては放棄する」(国際紛争は平和的外交手段によって解決する)、「陸海空その他の戦力は保持せず国の交戦権を認めない」として軍備などは持たないことにしている。そこには「敵をつくらない」という考え方があり(「安全保障の要諦は敵を減らすこと」―軍事ジャーナリストの田岡氏)、当方にはさらに「軍備を持たず、攻撃意志を持たないことによって、他の諸国民の安全をも保障する」(個人レベルでも、互いに自分が武器を持たないことによって、互いに安全を保障し合う。我が国では国民は皆そうしていて治安が保たれており、世界でも有数の安全国になっている。それにひきかえ、市民に互いに銃を持ち合うことを認めているアメリカは銃による犠牲者が世界で最も多い国になっている)という考え方がある。
 一方、自民党改憲案では「国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」としながら、「国防軍を保持する」として、戦力を保持し国の交戦権を認め、軍備の保有、軍事同盟(集団的自衛権の行使)など全て認めるようにしている。
 自民党政権は、以前から米ソ冷戦で、自衛隊と日米安保条約―日米同盟体制の下に軍事を増強してきたが、それはソ連・中国・北朝鮮を敵視する(仮想敵国とみなす)ものだった。それを現在に至るまでも続けてきて、相手の国々の同様な日米敵視・軍備増強を招いてきた(「お互い様」なのである)。
 そこで、このような現行憲法と自民党改憲案とで、安全保障にはどちらがより適しているか―どちらが安心・安全で、どちらが危険か―である。

 朝日新聞の「声」欄に「憲法、現実に即した条文に」という、改憲を「歓迎」する投稿があった。「警察予備隊から自衛隊へと衣替えして以来」、「自衛隊は強化され」てきた。「自衛隊という戦力を保持しているのは明らかに憲法違反」。「現在の憲法9条は自衛権を無視した『夢物語』であり、現実の状況と共存出来ない」。「憲法改正に手をつけず温存することは、もはや限界」であり、「現実の状況に即した条文でなければならない」というものだ。

 それに対して、作家の森村誠一が「現実が不戦憲法を裏切った」との反論を寄せていた。
それは、「憲法が古びたのではなく」、「戦争を知らない世代の人口を踏まえた現実が変わったのです。」「つまり、現実が戦争の悲惨さと犠牲を忘れて悪化したのであって、憲法が時代遅れの夢物語になったわけでは」ない。「現実がタカ派政権によって操作されているのです。」「不戦憲法が最大限の妥協をし、国民感情が自衛隊と協調するようになった」が、「憲法は国家・政権が暴走しないためのブレーキです」というもの。

 そこで当方が考えたのは次のようなこと。

 現実―安倍首相らが「我が国の安全保障環境が悪化している」と称する状況
     中国の「脅威」―軍備増強、尖閣問題(←日本政府が島を国有化)
     北朝鮮の「脅威」―拉致問題、核・ミサイル(←冷戦・米と日韓の脅威)
               軍事的対決政策をとっているが、その軍事力は日米韓に比べれば極めて貧弱で、核を持つのは攻撃を受けないためで、それに攻撃を加えれば自暴自棄的に反撃するだろう、それが脅威。
     シリア―内戦(政府軍・反政府軍)―化学兵器使用
     イラン―核・ミサイル開発(←アメリカ・イスラエルの脅威)
 これら現実の危機的状況をもたらしたのは、そもそも日本の立場からすれば平和憲法(軍事制限)か、それとも日米同盟に基づく軍事的対決政策か?
 それはどちらなのかといえば、むしろ軍事的対決政策によって作り出されたのでは
 憲法で軍事が制限されているとは言っても、今の日本は核兵器・ICBMなど以外はほとんど保有しており、アメリカと同盟して核の傘に入れてもらっている(アメリカの核戦力を利用している)。
 戦後、「自衛隊」の発足、日米安保条約の締結以来ずうっと、軍備は増強され(海軍力は自衛隊単独でもアメリカに次ぐ)、外交・軍事ともアメリカに追従し、平和外交のイニシャチブは全く発揮することなく、軍事偏重を続けてきた。(ただ朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・アフガン戦争・イラク戦争などに際して参戦は憲法によって禁じられ、湾岸戦争では資金支援と掃海艇の派遣、アフガン戦争では給油艦のインド洋派遣、イラク戦争では「非戦闘地域」への「人道復興支援」、兵員・物資輸送など後方支援にとどまった―そのため自衛隊は1人の犠牲者も出していない。)
 国民の間でも、タカ派には現実の戦争を知らずに、軍隊や兵器の勇ましさ・かっこよさ・痛快さ、日米同盟の絆、トモダチ作戦、「美しい日本」・「強い日本」など綺麗ごとやゲーム感覚で、それこそ「夢物語」を描いている向きが少なくないのでは。
 ある防衛省幹部は、(憲法解釈を変え集団的自衛権の行使を容認する動きに懸念を示して)「普通の軍隊を持つまともな国になりたいという理念が先行している。中国や北朝鮮にどう対応するかという目下の課題にもっと集中してほしい」と(8月3日の朝日の記事)。つまり解釈改憲(自衛隊の集団的自衛権の行使容認)であれ、明文改憲(自衛隊の国軍化)であれ、それらはむしろ、自衛隊を「普通の軍隊」にするという「理念」を先行するもので、「目下の課題」即ち「現実の状況に即したものではない」ということを指摘したものと見られる。

 これらの危機を打開し問題を解決するには、軍事的強硬策か、国際道理に立った平和的外交的努力に徹する非軍事的方法か、それとも軍事・非軍事両用か、どれが最も現実的な解決法か?
 これらのうちどれが攻撃を招かないか、どれが犠牲者を出さず、破壊・殺戮が無くて済むか
  尖閣沖で自衛艦が中国艦にレーザー照射されたということがあったが、その時のことを自民党の片山さつき議員は「9条がなければ撃っていますよ」と発言したそうである。それは9条なんかがあるから、我が方は手も足もでず、されるがままに耐え忍ばなければならないのだと、平和憲法を恨んでの発言なのだが、もし9条がなくて撃っていれば交戦になり、戦争になっていたかもしれない。戦争になったら、どうなるか。勝てたか、(軍事作戦には)勝てたとしても、それで国民の生命・財産が無事守られ、傷は軽くて(犠牲や損害が軽微で)済むなんて、そんなわけはないだろう。それをくい止めたのは、まさに9条にほかなるまい。それが現実。(尚、自衛隊と米軍で「離島奪還訓練」などやっているが、アメリカは中国との緊密な経済相互依存関係を犠牲にして日本の「尖閣死守」のため米兵を犠牲にさらすようなことはすまい、というのが現実。)
 軍事的強硬策―武力による威嚇または武力行使は、相手をも同様な軍事的強硬策をとらせ、対決・軍事衝突・戦争を誘発し、かえって悲惨な結果になってしまうのでは?
 軍事力は相手からの攻撃を抑止するためのもの(抑止力)だといっても、その強化(自衛隊の国防軍化)は、相手に対して不信・疑心暗鬼を与え、いくら対話を求め、交渉を進展させようとしても、それ(軍事力・強化)がかえって解決の妨げ・障害になるのでは。森村氏は自衛隊が「国防軍に昇格すれば」、「戦争誘発力」ともなると。
 20年前、アメリカで留学中の日本人高校生射殺事件があったとき、その日本人高校生はハロウィンパーテーの訪問先を間違えて入っていこうとした家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、もしその家の人が「銃を持っていなければ、まず言葉をかわしたはず」と言われる。武器や軍備を持てば、武器や軍備を持てば、、どうしても力に頼り、話し合いや協議・交渉を尽すことが疎かになりがち。これまでの日本政府のやり方がそうだ。お互い様で、中国や北朝鮮など相手側もそうだが、対話・協議・交渉に入ろうとせずに突っぱねる(尖閣については、日本側は「日中間に領土問題は存在しない」と言って交渉をつっぱねている)。そしてそれを相手のせいにする(「むこう側が~する方が先だ」などと)。

 要するに、危機的状況を打開し、平和を回復するには、現行憲法(非軍事・平和外交に徹するやり方)と自民党改憲案(軍事に依存するやり方)とで、安全保障上どちらが適しているかであろう。


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