米沢 長南の声なき声


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「『普天間』で覚悟」とは?
2010年06月05日

 「『普天間』で我々も覚悟必要」との投稿があった。日本の安全保障の問題を国民全員が熟考すべきだというのは、その通りだと思う。
この問題で「覚悟」と言う場合、もっと突き詰めて考えれば、「戦争の覚悟」にたいして「不戦の覚悟」というものもあり得るわけで、そこのところにも考え及ぼす必要があるのでは。
 ところで、「抑止力」とは武力攻撃や戦争をしかけてくるのを抑止するための軍備。
日米同盟も米軍基地も、その「抑止力」というわけ。そこには、「もし攻撃をしかけてこられたら応戦し反撃する、その用意がある」ということで、「やむを得ざる戦争」を容認し、「いざとなったら戦争も辞さないという覚悟」を前提にしているのが抑止力論だろう。
 そのような「戦争の覚悟」に対して、「戦争をしない覚悟」というものもあるのでは。
 我が国では、憲法が政府に命じているのは戦争放棄と交戦権の否認であり、その下で我々日本国民に求められているのは「不戦の覚悟」のはず。
 実際問題として、「覚悟」とはリスク(惨害をこうむる危険)に対する覚悟であるが、戦争にともなうリスクと不戦(戦わないこと)によってこうむるリスクとで、どちらがよりリスクが大きいか。現代戦争のありようから考えれば、戦争にともなうリスクのほうがはるかに大きいと考えられ、覚悟なら「不戦の覚悟」こそ必要なのでは。

 


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