米沢 長南の声なき声


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政治道徳の法則に基づいて国内法でも国際法でも戦争と武力利用の禁止を
2023年04月02日

 戦争とは国家間で対立・紛争があり、それを武力で決着を付けようとして、殺傷兵器を用いて戦闘し殺し合うこと 
 人を殺傷―人間の生命を傷つけ奪う行為
 人間の生命は人間にとって道徳的諸価値のうち最高価値(一番大事なもの)―各人にとって自分の生命を全うすることが人生の究極的目的(単なる手段にされてはならない)
 各人にとって生命は、それがあってこそ、生きる喜び・希望や自由に幸福を追求する喜び・希望が得られる根源的価値を有する。
 ただ、人によっては、自分の置かれた境遇の特殊事情から主観的な思い込みで、生きていて耐え難い苦しみに苛まれなければならない生命に執着するよりも、安楽死を望むとか、その人の人生観・価値観或いは宗教心・国民感情など情念から「生命なんか犠牲にしても、それに優る大事なものがあり、そのために命を捧げたい」と思い込んでいる人や民族集団もいる。 
 しかし、全ての人が従うべき普遍的な政治道徳の法則、それに基づく法(国内法・国際法)として考える場合は、人の生命は最高価値を有する(何よりも大切なものとして扱われなければならない)ものとされる(刑罰でも死刑は廃止している国の方が多い。日本では死刑は未だ廃止されていないが、「人の生命は地球より重い」といった考え方がある)。
 それを傷つけ奪うことは最悪の不道徳であり、戦争は最悪の不道徳(最悪の非人道的行為)
 人の生命を奪った殺人犯を許せないとして死刑に処して生命を奪うのは矛盾であり、国民の生命を守るためにと武器を取って戦い、生命を犠牲にするのも矛盾である 。

 政治(国)の最大の役割は国民の生命と平和的生存権の保障(恐怖と欠乏から守ること―安心・安全の保障)
 「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する権利を有する」「いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務」(日本国憲法前文)
 万国・万人に例外なく公平に適用されるべき国際法普遍的な政治道徳の法則に基づくものでなければならない。
 人に対する殺傷行為の禁止法も、国際法としては例外なく公平に適用されるべきものでなければならならない。正当防衛のための殺傷行為ならば例外として適用されず不問にされとか、懲罰のための殺傷行為(死刑)ならば適用されず不問にされるとか、自衛のため、或いは制裁・懲罰のための交戦(戦争)に際する殺傷行為ならば例外として適用されず不問にされるなどということのないように。そしてそれら殺傷用兵器を装備し、配備・製造・販売・取引・使用することは、核兵器はもとより、通常兵器も重火器から小型兵器に至るまで、理由の如何にかかわらず、例外なく全面的に禁止すべきなのである。さもないと戦争はなくならない。
 戦争は、互いに軍備・殺傷破壊兵器を持ち合って交戦することであり、どちらも軍備を持たなければ戦争にはならないのは勿論だが、どちらか一方でも軍備を持たなければ、或いは持っていても(まるっきり「抑止力」で「張り子の虎」の如きものでは無意味なのだが)仕掛けず、抗戦もしなければ戦闘・殺傷行為は起きないのである(「一人相撲」は成り立たない道理)。
 喧嘩してはいけないと禁じていながら、「どちらが先に手を出したか」だけを問題にして、手を出したその者を罰しただけでは収まらない(そこで「喧嘩両成敗」ということで応戦をも禁じて、喧嘩を交えること自体を禁止)それと同様に、戦争は「仕掛ける」ことだけ禁止して、どちらが先に仕掛けたかだけを問題にして非難、制裁を加えても、仕掛けられた側の交戦をもやめさせなければ、収まりつかず、いったん収まってもまた繰り返されて、戦争は無くなりはしない(「先に仕掛けた」といっても、「やられる前に先にやらねば」と「先制自衛」とか「予防戦争」と称して正当化されるし、逆に、そうなることを想定して戦争準備し、相手が仕掛けてくるのを待って「自衛抗戦」として正当化されたりすることもあるからだ)。だから軍備・兵器の保有・配備を禁止し、戦闘・交戦すること自体を禁止しなければ戦争は無くならないのだ。
 対立・紛争があって、双方が互いに軍備を持ち合っていれば、徹底的に話し合って解決しようとするよりも実力(武力)行使に走ってしまいがちとなる。先に仕掛けたのではなくても、仕掛けられた方が「徹底抗戦」だとか、戦う意志を強く持ち続ければ、双方とも武器を置かず交戦が続行され、互いに引けなくなってしまう。
 双方が軍備・兵器を持ち合って構えているかぎり、やるな!やめろ!といくらいってもやってしまう。
 だから双方とも、或いはどちらかでも、日本国憲法9条のように、戦力(軍備・武力)不保持を決め、交戦権否認を決めれば戦争は起きずに済むのである。

 国連憲章は戦争を違法として、侵略・武力攻撃を仕掛けることを禁じ、それを犯した国に対しては、「集団安全保障」ということで、安保理が非軍事または軍事的措置を決定し、軍事行動をとる場合は自ら、或いは加盟国と協定して兵力の提供を求めるかして国連軍を結成して鎮圧・制裁。安保理がその措置を取るまでの間は、暫定措置として侵略・攻撃を仕掛けられた当事国が自らの個別的自衛権によるか、或いは同盟国との集団的自衛権による武力行使を認める、というやりかたで、各国が軍備・兵器を保持することを容認し、それに頼ってきた。しかし、国連軍は(「多国籍軍」とか「有志連合軍」など複数国が任意に合同派遣したケースはあるものの)正式な手順を踏んだ国連軍は未だかつて結成されたことがない。違法な武力行使・侵略なのか否かを認定して措置を決定するのは安保理だが、その5大常任理事国には拒否権を認めており、一国でも反対すると決まらない、ということもあって「集団安全保障体制」は機能しておらず、事実上個別的・集団的自衛権の行使に任せている状態。憲章は、戦争は違法と定めながら、これらが法の抜け穴となっていて、戦争は無くならずに繰り返されているのだ。
 このような戦争を止められない国連の状態で、最悪の場合、第3次世界或いは核戦争の勃発を招く危険性もある。
 それを止めるには、国連憲章を改正して、日本国憲法9条のように、各国の戦力不保持を定め、各国とも軍備は全面的に廃止して、全ての兵器の保有を禁止し、各国とも交戦権を否認して、戦争を全面的に禁止する、というふうにして(それには、その違反―密かに再武装・再軍備する動き―を取り締まる査察機関と警察機関或いは武力攻撃に対処・制圧する国連警察軍の常設が必要となるが)、新たな国連を構築することが焦眉・喫緊の課題なのでは。



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