米沢 長南の声なき声


ホームへ戻る


靖国の首相参拝の客観的意味
2005年06月10日

「『靖国』は心のよりどころ」「戦争指導者は裁かれても犯罪者にはあらず」「ひたすら御霊の安らぐことを」とか、「心ならずも戦場に赴き、亡くなられた方への哀悼の誠を捧げ、不戦の誓いをする」とか、人それぞれの思いはあろう。しかし、靖国神社に参拝するとなると、それには客観的な格別の意味が付け加わる。その神社の客観的な歴史的役割からみて、また現在の神社当局が公表しているところから見ても、そこは、我が国の近代以降の対外戦争はすべて正当だとしてその戦死者を讃え祀る顕彰施設なのだ、ということ。そこを首相が参拝するということは、主観的にはどうあれ、それは、かの戦争を肯定し、戦犯までも讃えて敬意と感謝を表することを、日本の国家が認めることを意味する。日本軍によってむごい殺され方をした被害者の遺族たちの心は、それによって傷つき、耐え難いものとなるだろう。

それは確かに日本国民自身の問題には違いないが、それは日本国民が戦争の加害責任をどう思っているのかが問われているのだということであり、どう思おうとそれは勝手だというわけにはいかない問題なのである。


ホームへ戻る