米沢 長南の声なき声


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「命がなくて何がお金か」なのでは?
2016年05月21日

 「原発反対派の経済軽視は疑問」という投稿(15日朝日)について。「放射能に対する恐れは人それぞれ」とのことだが、感じ方では楽観派と悲観派とがあって人それぞれでも、放射能の有害・危険性は客観的事実であり、命の最高価値性も誰しもが認めざるを得ないところだろう。
 電力の需給関係を「冷静に分析した意見は誠に少ない」と決めつけておられるが、電力確保や経済の重要性を考慮するのは誰だって当たり前のこと。ただ、それらは利便性と経済効率性の問題で、最高価値たる命を害さず滅ぼさないようにすることとは比べようのない二義的なこと。
 「老朽化した火力発電所がみな停止すれば、即電力不足となり、計画停電」とは極論。火力発電には原発のように廃炉に要する莫大な費用・困難性や過酷事故の危険性はなく、再建は原発に比べれば簡単で安価、「みな停止する」なんてあり得まい。それに再エネの開発・発展にもっと力を入れ、それが主電源になれば火力は補充的な運用で間に合うことになるはずだ。
 「お金がなくて何が命か」といわれるが、いくらお金を稼げても、命を害し滅しては元もこうもあるまい。いくら電気があっても、命を危険にさらしては、人は住めないだろう。浪江や南相馬には数回行って目の当たりにしてきたが、つくづくそう思う。


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