米沢 長南の声なき声


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マリオが何故アベ首相でなければ?―リオ五輪閉会式
2016年08月24日

 オリンピックは、本来は(国際オリンピック憲章の規定では)国ではなく選手個人やチームが競うもの。それが国威発揚の場として利用される。マスコミはテレビも新聞も、国別メダル獲得数のランキング表を掲げて日本はその上位何番目だと誇って見せる(上位7ヵ国の内の5ヵ国はいずれも国連安保理常任理事国で、あとの2国はドイツと日本)(オリンピック憲章では、競技で勝利をおさめた栄誉はあくまで選手個人・団体のもので、国別メダル獲得ランキング作成などは禁じてられているともいわれる。)ところが、NHK「おはよう日本」で、スポーツ解説員は開催国のメリットとして1に「国威発揚」、2に「国際的な存在感」、3に「経済効果」などと5つあげ、「国威発揚」を一番目にあげていた。ロシア選手のドーピング問題には国が関与していたとして同国の多くの選手が出場を禁止される事態も起きたが、そのような弊害はオリンピックを、国威を競う揚であるかのように思っている勘違いからくるものだろう。今回のリオ五輪では「難民選手団」が参加し、彼らには国旗も国歌も関係なかった。そういうのがむしろど本来の姿だろう。ところが東京大会組織委員会の会長・森元首相は選手団の壮行会で「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」と言ったという。
 国が、或は国民が税金を出して、助成金や競技施設を提供しサポートしているからといって、恩着せがましく、選手たちは国や国民に感謝して国歌を歌い国旗に頭を下げるのが当然だなどという。それが国家主義なのであって、国のため、国威発揚のためにアスリートたちの活躍を政治利用しようとするもので、それが間違いなのだ。国がすべての国民に人権として健康で文化的な最低限度の生活を保障するために措置するのが当然であるように、国民の健康を増進し、スポーツや文化活動を支え、それをリード・誘発してその発展に寄与し、国民に感動を与えるアスリートやアーチストたちのために国や自治体が環境・施設を整え助成金を出すなど彼らをサポートするのは当然のことだろう。それに対してアスリートたちがそれぞれに国民や国に感謝の念を抱くのはいいとしても、それを恩着せがましく要求するのは筋違いだろう。
 リオ五輪は終わった。メダルをもらった選手、もらわなかた選手といるが、入賞し、或はメダルをとったあの選手たち、彼らに対して、「国や国民のおかげなのだ、感謝するがいい、国旗に頭を下げるがいい」なんて要求したりできるものか。(彼らの方からは「皆さんの応援に感謝しています」といってくれているのだが。)また入賞できず、或は予選失格に終わった彼らに対して「国や国民に申し訳ないと、頭を下げるがいい」なんて要求したりできるものか。「みんな、よく頑張ってくれた、ありがとう」とめいっぱい感謝し、健闘を讃えてやればいいのだ。
 ところで、リオ五輪の閉会式では、次回開催都市の東京都知事に五輪旗がリオ市長から引き継がれて知事はそれを振って見せた。それはいいとして、その後、何と安倍首相がゲームキャラクターのマリオの帽子をかぶって、地球の反対側に土管をくぐって会場の真ん中に跳び出してきた、という趣向で登場し、“see you in Tokyo”と発声した。この趣向の考案・創作・演出は、その道の第一人者たちの手によって行われたのだろうが、その主役にアベ首相を選んだのは、実は森元首相なのだという。
 このような形で開催国の政府首脳が登場するのは前例がないとのことだが、格別ブーイングが出ることもひんしゅくかうこともなかったようだ。
 しかし当方には、その趣向自体はいいとして、そこにどうしてアベ首相を当てなければならなかったのか、どうも違和感を禁じ得なかった(そんなことを思ったは当方だけなのか?)。当方にはどうもそれが、髭をはやして帽子をかぶったマリオというよりはヒトラーに思えてならなかった。かってベルリン・オリンピック開催に際して、ゲッペルス宣伝担当大臣のアイデアで聖火を掲げるなどの趣向が考案され、そのオリンピックが国民の熱狂を誘い、ヒトラー総統の威勢と国威の発揚に最大限政治利用された、そのことが想起されてならなかったのだ。
 あのような政治家ではなく、適任者にはもっと別の方がいたのでは―室伏(ハンマー投げ―アテネ・オリンピックで金、前回ロンドンでは銅)とか、或いは皇太子とか?。


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