米沢 長南の声なき声


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道徳教育で「いじめ」はなくならない
2013年03月19日

 3月15日の山形新聞の「私の主張」欄に「子どもに道徳教育重要」という投稿があった。それには「いじめ・不登校・中高年はの精神的な病による自殺」など、それらは「戦後アメリカから与えられた憲法に基づく民主主義の下で」、「教育勅語を手離し、道徳教育をおろそかにした」結果だ。そこで、「新教育勅語」で日本古来の倫理・道徳・武士道精神を伝える道徳教育が必要だと。

 このような認識には錯覚があり、そのような道徳教育は時代錯誤ではないだろうか。

 当方は戦後間もなく小学校に入学して新憲法と教育基本法の下で教育を受け、学校では「教育勅語」式の(「修身」ような)道徳教育などなかった。あちこち転校し、小中高とさまざまな学校に在校したが、どの学校でも、ケンカやいじめ等はあっても、今のような深刻な問題はなかった。
 長ずるに及んで高校の教職に携わり定年まで勤めた、その間に、いじめ・不登校問題等が全国的な問題になり始めるようになって、当方もそれらの問題に直面したことはあった。しかし、それは戦前のような道徳教育を教えなかったせいだとは考えられない。
 
 どうして学校で子どもたちの間に今のような深刻な問題が起きるようになったのか。そこには社会の激変がある。
 戦後、当方の学校時代はみんな貧しかったし、昔のような道徳教育などなくても、人に手伝ったし、助け合ったし、思いやりも、夢もあった。
 それが日本経済の高度成長時代になって、貧困から脱し「一億総中流」などといわれるようになった、その間もそのような深刻な問題は起らなかった。
 が、やがて大量消費時代なり商品が氾濫、テレビ時代からコンピュータ時代になり娯楽・ゲームなど子どもや若者を取り巻く社会環境は激変する。一方で高校全入・準義務教育化にともない受験教育(落ちこぼれを生む競争教育)が激化、子どもたちは教師とともにテスト・テストに追われ、勉強(ドリル)や塾通いに追われ、合間にテレビやゲームで気晴らしといった毎日と化していった。そして、じっくり自然や読書・芸術・スポーツ・深みのある勉学に親しむゆとりが失われていった。
 そこにきて、日本経済は成長が止まって競争が激化、格差・貧困が広がって「総中流」社会は崩れだした。人々の間には不安・ストレス(「いらいら」・「むかつき」)が蔓延するようになった。
 そこに、陰湿ないじめ、校内暴力・不登校・虐待・自殺など問題が深刻化するようになったのだ。
 このような社会環境の変化、社会の在り方を問題にし、変革の手を加えないかぎり、道徳教育(「きれいごと」で説教)だけでは解決つかず、ましてや「忠孝」道徳(「修身」教育)などでこうした問題がなくなるなどということはおよそあり得まい。


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