米沢 長南の声なき声


ホームへ戻る


脅威もいろいろ―秘密法(修正版)
2013年12月11日

 中国・北朝鮮の「脅威」。メディアは毎日のようにそれらの国の動向を伝え、人々はそれを見るにつけいやおうなしに脅威・不安を感じてしまう。
 首相や官房長官や防衛大臣は「冷静かつ毅然と対処する」と。官房長官は「東アジアの安全保障環境は厳しさを増しており、情報漏えいの『脅威』が強まっている」という言い方をしていた。だから国家安全保障会議(日本版NSC)も秘密保護法も必要なんだと。人々は「なるほど、そうなんだ」となる。
 しかし、待てよ・・・・むこうは、そういう日本を見てどう感じているか。脅威と感じていはしまいか。第2次大戦で日本から侵略・支配を受けたアジア諸国民から見れば、日本はそれこそ脅威だった。その日本は憲法で戦争を放棄し、戦力も交戦権も保持しないとしながらも米軍基地を置き自衛隊をもち日米同盟を結んできた。それを今、さらに緊密化し軍事強化をはかって「集団的自衛権の行使」容認・実質改憲へと向かっている。憲法で「戦争しない国」だったはずなのに、公然と「戦争する国」へと「レジーム・チェンジ」しようとしている。むこうから見れば日本はやはり脅威だ、となるだろう。
 互いに政府は「冷静かつ毅然と対処」するのだと構えて緊張を高め合い、メディアは相手国の不安な動きばかりを伝え、双方とも国民は相手国民に対する反感・不信・嫌悪感(反日・反中・嫌中・反朝)を増幅し合っている。そして政府は緊張緩和・関係改善・友好関係回復の手立てをいっこうに講じようとはせずに互いに「毅然たる対処」一点張り。それこそが脅威なのでは。
 それにこの度の我が国における秘密保護法の制定。日本国民の中にはそのようなものをしゃにむに強行した自国政府に対しても脅威・不安を大いに感じている向きが少なくないだろう。
 秘密法は、日本国民にとって脅威・恐怖だった暗黒時代が再来するのか(北朝鮮との違いは、「過激な恐怖政治」か「穏やかな恐怖政治」かの違いはあるものの恐怖政治であることには変わりない)と思うとうんざり・・・・なんて言ってはいられない。子や孫たちのために何としてもこのような脅威・恐怖は取り除かなければ。 



ホームへ戻る