米沢 長南の声なき声


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日本の宿命は丸腰平和憲法か日米同盟か
2017年01月14日

 朝日新聞の「声」欄「どう思いますか」(4日)に「丸腰になって米国から『独立』を」に対して賛否両論の投稿があって、その後賛成論投稿(浅井氏の「丸腰は平和憲法持つ日本の宿命」)があった。
 反対論には「隙があれば領土を拡張しようとする国もある」とか、「領土拡大を狙う近隣国が挑発行為を繰り返している」とか(まるで戦国時代や帝国主義時代のよう)、その国とは中国や北朝鮮を指しているのだろう。又「国益を最優先させ、軍事行動をとる国があるのが現実」だという、その国とはロシアあるいはアメリカをも指しているのかもしれないが。それらの国々をそういう国(北朝鮮などを「ならずもの国家」、かつてソ連を「悪の帝国」)だとか、そういう国があるのが現実だと決めつけ、それを前提として論じている。
 しかし、国々をそのように決めつけて、それらに対応するに軍事対抗に囚われ、「対話と圧力」とか「いつでも扉は開いている」と言いながら、対話・交渉に応じるよりも(応じても相手の言い分は受け入れず)、軍事的・経済的制裁・圧力を加え続けるか、軍事的・物理的対応に専心する。そのようなやり方でよいのだろうか。
 そして反対論は「日米安保条約があり、自衛隊が存在するからこそ、他国は日本を攻めず平和が維持されている」のだとか、「個人では(我が国では「警察に頼り、近隣と協力し、家の戸締りもして」ということだが、アメリカなどでは個人でも銃を所持して)丸腰にはならないのに、国が丸腰にではリスクが大き過ぎる」とか、「万全の備えで国を守っていく必要がある」と。
 これらは軍事的抑止力論だが、相手側も同じ考えで、自国が攻められないようにと「抑止力」と称して軍備を構え、互いに負けじと(浅井氏の比喩を借りれば、相手が3の力を持てば自国は3か4が必要になり、相手も4を持つようになると、そこで止まらずに「万全を期して」5までも持とうとして)それを拡充強化(軍拡)すれば必然的に過剰軍備となる。武器や軍備は持てば、(それを使おうとする衝動に駆られて)その武力を行使しがちとなる。つまり、「抑止」よりは、かえって軍事衝突ひいては戦争を誘発するリスクの方が大きいのだ。(個人レベルでも、日本では禁じられている銃所持が認められているアメリカなどでは銃犯罪・殺人事件がはるかに多い。)
 「武器を持てば使ってしまうことが多い」、それは「過去の歴史が証明しています」と浅井氏が指摘するとおり、かつて日本軍はゼロ戦や大和などの戦艦・空母を持ってしまったからこそ真珠湾の奇襲作戦や特攻作戦の挙に出たし、アメリカは原子爆弾の実験に成功してしまったからこそ広島・長崎にそれを投下したのであり、それが未曾有の悲惨な結果をもたらした。その痛苦の反省から、「日本は覚悟を決めて」、丸腰の道を選び、「戦争放棄」とともに「戦力の不保持」を定めた平和憲法を受け容れたのではなかったか。我々日本国民は、それを歴史から課せられた民族的な「宿命」として重く受け止めなければならないのではあるまいか。


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