米沢 長南の声なき声


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原発に求められるのは絶対的安全性
2019年10月01日

 原発刑事訴訟判決は、原発には「当時の社会通念」から「絶対的安全性の確保」まで求められてはいなかった、として経営陣を免罪。
 「当時の社会通念」というのは原発の「安全神話」に安住するというものであり、それは庶民の間ならいざしらず、原発事業の最高幹部たる者にまで、そんな「社会通念」を反映した法的枠組みを当てはめて、あれで仕方なかったかのように論じている。しかし、常人にはない危機管理能力(最悪の事態まで想定し、リスクを事前に察知して対処できる能力)が求められる彼らに対して、そのような「社会通念」レベルの甘さで評価して済ませてよいものか。
 自動車や飛行機など交通事故に比べれば原発事故のリスクは確率的には微小だが、交通事故の場合は、被害は乗っている人とぶつけられた人だけにしか及ばないのに対して、原発事故の場合は、広範囲かつ長期に渡って計り知れない人的・環境的被害がもたらされる。
 自然の猛威は、人間の科学・技術がたとえどんなに進歩しても、それによってコントロールし切れるようなものではあるまい。それこそが「社会通念」というものだろう。
 原発に求められるのは絶対的安全性であり、それには運転停止・廃炉しかあるまい。 


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