米沢 長南の声なき声


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「何人死んだか」ではなく「死んだらどうする」だ
2018年02月02日

 沖縄では、政府が「国家安全保障」の防衛政策から推し進める米軍基地の維持・建設の推進(反対派住民から見ればごり押し)に対して地元住民の間で、市長選挙や知事選挙などに際して反対派と容認派が合い分かれて対立し、原発問題などでも地元住民の間で受け入れ反対派と容認派が合い分かれて対立するのと同様な構図となってる。
 反対派は基地があることによって地域の平和・安全な生活環境が侵害され、或は米国に敵対する国からの攻撃の標的にされるリスク(命の危険、環境悪化など)を負うようになることに対して反対しているのであり、それは平和的生存権(「人間の安全保障」)の観点に立った反対である。それは全国民の普遍的な共通要求でもあって、地域エゴではない。
 それに対して容認派は、政府の基地政策を支持するか、反対してもどうせその強行を止められないから、それは諦めてむしろ受け入れて見返り(交付金や補償金)を得る、即ち実利(名護市の辺野古基地は完成すれば耐用年数200年といわれ、そのリスクは数世代に及ぶことを考えれば、一過性の目先の利益)をとる立場である。
 ところで、フクシマ原発事故の時も「事故が直接の原因で死んだ人は、まだ一人もいない」などという向きがあったが、事故が直接の原因ではなくても、そこに原発さえなければ死なずに済んだ命(原発関連死)は少なからずあったし、不安で避難先から未だに帰還できないか、帰還しても不安が抜けきらない人が数多いるのである。
 交付金や補償金がもらえて「欠乏」からは免れても「恐怖」と不安は子や孫の世代に渡っていつまでも付きまとう。
 生存権とは恐怖と欠乏のない生存が保障される権利だが、欠乏からは免れても恐怖がつきまとううちは安心して暮らせない。平和的生存権とは「恐怖のない生存」保障であり、結果「それで何人死んだか」(死んでないならオーライ)で済まされる問題ではなく、人々が犠牲になり死に見舞われる蓋然性(可能性・確実性)のない安心が保障されることだ。

 さて、沖縄の首長選挙はどちらが勝を制するかだが、他人事ではない。


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