米沢 長南の声なき声


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14日の「天声人語」に違和感
2008年06月15日

 秋葉原無差別殺傷事件について「天声人語」(朝日のコラム)は、「派遣工の弱い立場も背景の一つだが、凶行を格差社会のみで語るのはどうか。あまり一般化すると私的で特異な要素がかすんでしまう」と書いていた。
 「人は、大小の勝ち負けを連ねて生きてゆく」。勝者ともなれば敗者ともなるし、みんなそれが当たり前のこととして生きており、派遣工だからとか、「敗者」だからといって凶行にはしったりはしない。故に、今回のあの者の行為は彼の「私的で特異な要素」に起因する特異な事件と考えるべきだ。だから、格差社会や不安定雇用など無くしたからといって、もう起きなくなるとはかぎらない、というわけか。
 しかし、それでは、事件の再発予防は不可能ということになり、被害者は運が悪かったで、ただ諦めるしかないことになるわけである。
 事件を他にはあり得ない一個人による特異な事件だとして済ませたり、「人生に勝ち負けは付きものだ」などと、競争・格差社会がさも当たり前であるかのように当然視する、そのような考え方は如何なものか。
 人生には、見ようによってはレースのように見える一面も確かにあり、人々の中にはレースやギャンブルを生きがいとしている者もいるだろうが、それが全てではあるまい。「人生レース」論は勝者の論理であり、そのような論理によって合理化された競争主義の風潮こそ、格差社会の現実の中で「負けっぱなしの人生」などという思い込みを生み、その欲求不満が最悪の形で「八つ当たり」的攻撃機制のほうに働いて惨劇をもたらした、と見るべきなのではあるまいか。


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