米沢 長南の声なき声


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軍事的抑止力で抑止になるのか?
2017年07月22日

 これを身近な市民社会に置き換えて考えてみると、どうか。
 市民・個々人が銃を持てば、それが強盗・殺人などに対する抑止力になるのか。アメリカではそれが認められているが、日本では認められていない。それで日本では強盗・殺人などの犯罪がアメリカより多いかといえば、むしろ逆で、はるかに少ない。そこに働いている抑止力は法的道徳的抑止力(「刑罰が怖い」とか「良心が許さない」とか)だろう。
 警察官がパトロール等によって市民に安心感を与える。しかし、その抑止力は法的抑止力であって、警察官がぶら下げている拳銃のお蔭ではない(それは、とっさの時に攻撃や逃亡を阻止するため威嚇発砲をやることもあるが、基本的には護身用にすぎない)。警察官の、その拳銃が「おっかない」からと、強盗がそれだけで犯行を思いとどまるなどということはあり得まい。おっかないのは刑罰で、警察官が武器を持つからではなく、行政権限・司法権限などの強制権限を持っているからにほかなるまい。
 警察力とは「法的強制力」で、警察官の拳銃などの武器は、あくまで護身用・防御用なのだ。
 それに対して軍事力(武力)という場合の軍隊の武器・兵器は防御用(盾)でもあり攻撃用(矛)でもある。それを持つことによって、相手の攻撃を抑止できるのは、それが単なる相手からの攻撃を防ぐ盾にとどまらず、攻撃も(報復攻撃だけでなく先制攻撃・奇襲攻撃も)かけようと思えばかけられることになっているからであり、「いざとなったらやるぞ」という攻撃意思を見せる、それによって抑止できるのである(その武器・核兵器も単なる防御用でもなければ、攻撃用で「ただ威嚇用に持っているだけ」でもなく、実際使う時は使うのだということ)。つまり「軍事的抑止力」が実効性をもつためには、それが単なる抑止力や防御力にとどまらない、いざとなったら全面戦争も辞さない覚悟(意思)があることを前提にしているのだ、ということを見落としてはならないということだ。
 それに対して相手はおとなしく引き下がれば(核・ミサイルなど撤去・放棄すれば)、効果てき面(「うまくいった」)ということになるが、(北朝鮮のように)相手が対抗して、同じように「抑止力」と称して軍備増強(核・ミサイルを開発・維持)すれば、どうなるか。その軍備(部隊・武器・兵器)は、ただ保有しているだけでなく、それには「使う時は使うぞ」(発砲・発射するぞ)という攻撃意思が裏打ちされている(それがあってこその抑止力)となると、その当事者たち(最高司令官から現場の部隊指揮官・兵士に至るまで)には常にその(発砲・発射・攻撃の、或いはその命令を発する)衝動が付きまとうということになるわけだ。そして、彼らのうちのいずれかが発砲・発射して軍事衝突、そこから全面戦争(核戦争)にも発展するに至る、という危険が付きまとうことになるわけである。
 したがって、そのような「軍事的抑止力」というものは危険極まりないもので、まさに「恐怖の中の平和」。それによって安心・安全が得られ安定的平和(真の平和)が得られるようなものではないわけであり、そのようなものに依存している国々が支配的であるのが世界の現実だとすれば、そのような現実からは一刻も早く脱して「真の平和」を目指さなければならないのだ。


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