米沢 長南の声なき声


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「声」投稿の改憲論への異論 
2017年05月14日

 朝日13日付け「声」欄に当方の投稿(「自衛隊の『加憲』は混乱の元だ」)と対照的に並んで載っていた『自衛隊 改憲で位置づけ明確に』という投稿。それには次のようにあった。
 「現憲法は、前文に『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』として、国際社会の善意を前提として制定され」、それは「あまりにも理想主義に過ぎた」ものであり、「国際情勢が不安定化し、善意にばかり頼っていられない時代」、「平和主義の理念は壊さないのを前提に、憲法9条は現実に即応できるよう改めるべき」で、「自国防衛と、国際社会の秩序安寧に寄与することを目的に、自衛隊の保持を表だって認め」、「主権が侵された時はもちろん、国連決議による多国籍軍に参加して交戦権を発動」できるようにしても、「平和主義の理念は損なわれないと思う」と。
 しかし、前文に「決意した」というのは、単に理想主義から(「国際社会の善意を前提として」、その「善意にだけ頼って」安全と生存を保持しようと)決意したというわけではなく、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が再び起こることのないようにすることを決意した」が故に(その不再戦の決意から)、国権の発動たる戦争の交戦権と戦力を持つという選択肢は放棄して、この「諸国民の公正と信義に信頼して」という「善意に頼る」平和主義の方を選ぶことを決断した一つの選択だったのではなかろうか。
 これら二つの選択肢で、「(諸国民の)善意に頼る」のは理想論で、「(国の)軍事力に頼らなければならない」のが現実かといえば、そうではなく、要は、「善意」と「力」とで現実的にいったいどちらが平和実現・維持に有効なのかという観点から判断すべきなのではないだろうか。「善意に頼る」(「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持」)というのは単なる理想論ではなく、日本国民自らも諸国民に対して公正と信義を以て信頼されるように努めて、敵視されず、どの他国民も敵視せずに交わるという、そのやり方のほうが、実際問題として、「力に頼る」やり方よりも平和実現・維持には有効で確かな方法なのだということだろう。
 今は後者「力に頼る」やり方で(安全保障など)おこなわれているが、それでうまくいっているのかといえば、とてもそうとは言えまい。北朝鮮問題、中国問題、ウクライナ問題、中東やアフリカにおける内戦や紛争、イスラム過激派問題など。「力」(軍事力)のおかげで、不安も恐怖もなくて平和が実現・維持されているなどとはとても言える状態ではあるまい。
 前者―「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意し」、国権の発動たる戦争と戦力・交戦権をともに放棄―は「理想主義に過ぎる」のかといえば、そうではあるまい。それは相互に、力によって敵対し、支配・服従の関係となるのではなく、対等・平等な友好・協力の信頼関係を結んで平和・安全を保つことであって、それは理想には違いないが、実現不可能な夢やユートピアではなく、今まで(この憲法制定後まもなく対米従属の下に再軍備、自衛隊が創設されて、米軍に従属する日米同盟の下に置かれるようになってしまったために)非軍備・非同盟の平和友好協力政策への取り組みはやってこなかっただけの話で、やろうと思えばやれることだったのだ。仮にもし、我が国が非軍備・非同盟政策をとっていたか、これからそういう政策をとったからといって、或いはまた自衛隊が海上保安庁などと同様交戦権を持った戦力ではないからといって、ロシア・中国・北朝鮮など、ある国がたちまち、軍事攻撃・侵略を仕掛けてくるかといえば、そんな必然性があるわけではあるまいし、それで我が国の独立・安全が脅かされるわけでもあるまい。
 これらの国(中・ロ・北朝鮮など)が我が国に対して対抗的に「構える」のは、ひとえに我が国が日米同盟を結び、米軍基地を置き、米軍と一体行動をとる世界有数(世界5位の規模)の自衛隊があるからにほかなるまい。 
 また、憲法に自衛隊を明記して、戦力・交戦権の保持を認め、米国と力を合わせて軍事力を強化すれば、北朝鮮や中国・ロシアが我が国に恐れをなして引っ込み、それで脅威も恐怖もなくなり、平和が保たれるのかといえば、そういうことには到底なるまい。
 アメリカの圧倒的な核軍事力に支援された自衛隊に頼れば、中国・ロシア・北朝鮮の脅威やテロの恐怖におののかずに済む、などということはあり得ず、そもそも「善意(不戦・非軍事で平和友好協力)に頼る」やり方に比して「力(自衛隊と日米同盟)に頼る」やり方のほうが有効性・確実性があるなどとは言えず、それはむしろ逆というものだろう。
  要するに、現行憲法は、国の軍事力に頼るよりも諸国民の善意(公正と信義)に頼る方が平和維持には現実的に有効だとして選んだということであって、それ(善意に頼る平和主義)が「理想主義に過ぎた」というには当たらないし、また国の戦力・交戦権保持で、平和主義の理念は損なわれないどころか放棄することになってしまうだろう。


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