米沢 長南の声なき声


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自衛隊 憲法上議論の余地ないよう明記?
2018年01月30日

 1月24日の衆院代表質問で、二階堂自民党幹事長が自衛隊について「命を賭して任務を遂行しようとする公務員に、尊厳と誇りと勇気を与えなければならない」と述べたことに応えて、安倍首相は「自衛隊員たちに『憲法違反かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ』というのはあまりに無責任だ。そうした議論が行われる余地をなくしていくことが、私たちの世代の責任だ」と(だから、9条に自衛隊を明記するようにするのだというわけである)。
 確かに、これまでは自衛隊の創設から任務・活動範囲の拡大・海外派遣や新装備(兵器)の導入或はそれらに伴う新規立法・法改正の度に一々議論・激論が行われてきた。そもそも現行憲法制定当時の吉田首相は「自衛権の発動としての戦争も放棄したものだ」と言明していたが、その後「侵害に対する自衛のための必要最小限の『実力』組織であって『戦力』にはあたらない」なら、として自衛隊の創設に踏み切った。それでも憲法学者の多くは自衛隊違憲説をとってきたのは事実ではある。しかし、歴代政府は一貫して戦力ならぬ自衛力であって違憲には当たらないとして自衛隊を保持し続け、国民も大多数は違和感が薄らいで(60歳以下の年齢層は生まれる前から存在)すっかり定着している自衛隊の存在自体には憲法との矛盾を感じている向きは少ない。しかし、専守防衛を逸脱する海外派遣、活動範囲の拡大、新装備の導入、集団的自衛権行使容認と安保法制改変などに際してはその都度、国会で議論、野党と市民の反対運動が行われてきた。
 そのこと自体は政府の安保政策・自衛隊運用に対するチェック・ブレーキなのであって、それによってその暴走が抑えられてきたことは否めまい。
 それが、もし「議論の余地」をなくすためにと9条に自衛隊が明記されれば、国会における議論によるチェック・ブレーキがなくなり、最高司令官たる首相や防衛大臣・自衛隊幹部らが意のままに自衛隊の運用・海外派遣・新装備の導入・武器使用(基準緩和)・同盟国など他国軍との支援協力活動等々が断行できるようになり、隊員に「もう憲法にいちいち引っかかるようなことがなくなったから大丈夫だ」とばかりに「命を張ってくれ」と容易く堂々とその命令が下せるようになるわけである。彼らがそうしても、もはや憲法上の責任は国会で問われることがなくて済むようになる、一方、命令を受けて現場で活動に携わる自衛隊員は命の危険にさらされ、犠牲になる確率は格段に高くなるわけである。自衛隊が立ち向かう相手の出方(核兵器や弾道ミサイルの使用など)によっては国民が巻き込まれ犠牲になる危険も高まることにもなる。
 こういったことを考えれば、自衛隊を憲法に明記することによって、自衛隊に関わる事案が憲法違反にならないかどうか、いちいち議論がもちあがる余地がなくなるようにすべきだなどと言って、自衛隊員と国民の命が懸っている自衛隊の運用に際して必要不可欠な議論を省くようにしてしまう、それこそが無責任なのではあるまいか。
 自衛隊員にとっては、警察官や消防士のように憲法にはその規定がなくても国民の生命と財産を守るため命を張って任務に携わっている公務員と同様、国民から感謝されてこそ職務に誇りをもつのだろう。それが、わざわざ自衛隊員に誇りを与える(傷つけない)ようにするために、という情緒論から改憲(9条に自衛隊の存在意義を明記)するというのと、9条を現行のまま(自衛隊は明記せず)に自衛隊員を(災害出動や警備活動はともかく)戦争に駆り立てることのないようにする厳格なブレーキとして維持するのとでは、どちらが賢明なのかだ。


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