米沢 長南の声なき声


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国に「戦争をさせない」と「させることも」の違い
2016年05月13日

 朝日(5月11日)の「声」に「憲法9条改正案を作ってみた」という高校生の方の投稿、なるほど尤もな案だと感心しました。
 ただ、この改正案の9条2項には、現行憲法の2項にある「国の交戦権は認めない」という文言が削除されている点に決定的な違いがあるような気がします。この文言は、要するに、いかなる理由があろうとも国に戦争はさせないという、曖昧性のない明確な、いわば「究極の歯止め」ともいうべき禁止規定なのだが、それを削除して「個別的自衛権の発動は妨げない」「自衛隊は専守防衛に徹し」と定めることは「国の交戦権を認める」ということであり、それは、自衛のためなら国に戦争をさせる、つまりいざとなったら政府が自衛権を発動して交戦することを前もって認めることとする、ということ。
 国には「いかなる場合も戦争をさせない」と憲法に定めてきたのと、それを変更して「場合によってはさせることもあり」と定めるのとでは、国際社会に対して示した日本国民の決意と国民が自らに誓った覚悟の程はかなり違ったものとなるのではあるまいか。
 それに、「集団的自衛権の行使は認めない」と明記しても、解釈によっては「フルスペックのそれは認められないが、「3要件に限るなら」認められるなどと、やはり解釈の余地(曖昧性)はどうしても残るわけである。そのあたりのことは如何なものだろうか。

 尚、「いかなる場合も国には戦争をさせない」という憲法は憲法として、フクシマ原発事故以上の原子力災害などの非常事態に遭遇した場合と同様に国家緊急権として、急迫不正の武力攻撃事態に遭遇した場合に国民の自然権としての正当防衛権と抵抗権に基づいて、政府と自衛隊に超法規的に(やむを得ざる違憲措置として)一時憲法停止・交戦権を付与するということはあって然るべきだろう。


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