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2014年07月 アーカイブ

2014年07月01日

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7月のつぶやき (上に加筆)
                                     6403
●このところ付け加わった散歩歌「泳げタイヤキ君」♪毎日毎日 僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ・・・時々サメにイジメられるけど そんなときゃ そうさ逃げるのさ・・・♪
●爺々はブログにつぶやき、婆々はノートに口説き。孫よ、お前も書くがいい。辛いこと、ムカついたこと、ママやパパに話せないこと、人に言えないこと、書き付ければいいんだ。気がまぎれるから、といって、そこらにあった使ってないノートを渡してやった。
●ブログ(H・P開設)10年になるが、聴き流し英会話「スピード・ランディング」も10年になる。聴き流すだけでは覚えらず、英文と単語を書き、最近ではパソコンのワードに単語をアルファベット順に打ち直している。女房からは「何をやってんだが」と口説かれる。「継続は力なり」だ、とはいうものの、よく覚えられないし、なんの役にもたたないし、なんの力にもならない。いいんだ、それで。ボケ防止と自己満足、それが老いたる者の生きがいなんだから。
 ”Boys, be ambitious!” “government of the people,by the people,for the people” ”RENUNCIATION OF WAR”(戦争放棄)
 「アンダー・コントロール」とかアベノ英語には騙されないように、9条 ”Japanese people forever renounce war”の真義を世界の市民に伝えられるようにしなきゃなあ、孫どもよ!
●このホームページも今月で10周年。
 退職して2年目に『半生記と論考』と銘打って文集(在職中から書きしたためた幾つかの論考に自分史を加えて、ワープロを打って一冊に製本。職場の同僚や卒業生・友人・親戚に配った)を出し、その後パソコンを買ってこのH・Pを開いて書きこみ始めた。
 こうして、それを生きた証として残したつもりにしているわけだ。
 極くわずかの人からしか読んでもらえてない。女房いわく、「そんなの当たりまえだ。みんな自分の事で精一杯なんだから。こんな人の道楽みたいなものに付き合ってる暇はないんだよ」。そりゃそうだ。この自己満足、後いつまで続くことやら。
●やはりNHKはおかしい。集団的自衛権問題。ニュースウオッチ9など主役は安倍首相・高村副総裁。脇役に公明党の山口・北川ら与党の面々で、取り上げられるのはほとんどが彼らの言い分。野党とりわけ共産・社民など真っ向からの反対意見はほとんど取り上げられず存在感が全くないかのよう。公明党が自民党暴走のブレーキ役としていかにも頑張っているかのように錯覚させている。それに民放では取り上げている官邸前の大規模反対デモも取り上げなかったり。NHKと読売・産経などまるで政府の広報機関か御用新聞だ。みんなそのイメージに感化されるわけだ。
●このところ、このブログの「評論」も「投稿」も専ら「集団的自衛権問題」。朝から晩まで、それしか考えていないかのようだ。いい御身分?もっと考えること、やることがないのかって?仕事もカネも何もないし、女房は畑・山菜取り・子守り・ご飯出しと色々あっても、この俺にはどうも・・・。
 それにつけても腹が立つ「解釈改憲・閣議決定」。
 そんなに中国と北朝鮮がおっかないのだろうか。侵略戦争や植民地支配でさんざんな目に合わせ(それを正当化する靖国神社に参拝しておきながら)その復讐を恐れてでもいるのか。尖閣を奪われるのがそんなに心配なんだろうか。そんなに強い日本(米軍など他国軍をも守れる自衛隊の戦力)を見せつけたいのだろうか。
 国民の命を、そしてアジアの平和を中国・北朝鮮などの「ならず者国家」から守らなければと本当に思っているのだろうか。
 うちの子や孫どもが心配でしかたない。それはそれらの「ならず者国家」からいじめられ、拉致されるのが心配だからではなく、不戦平和憲法をかえりみない自国政府から戦争に駆り立てられるのが心配でしかたないのだ。
 作家の森村誠一は朝日の「声」(投稿欄)に安倍政権が「急いで9条を葬ろうとしている魂胆」として「祖父の岸信介元首相から引き継いだ改憲への私的執念」「歴代内閣ができなかった解釈改憲をやって歴史に名を残すという野心」をあげているが、当方にもそう思えるからだ。
 そのニュースをちらっと見た小学生の孫「何のことや?」(父親)「憲法のこと」、(母親)「戦争のことや」、幼稚園の孫「じーじが憲法の歌を唄わないからだごで!」・・・・「んだな」。

安全保障―9条の非軍事的抑止力と軍事的抑止力のどっちが

(1)「我が国を取り巻く安全保障環境が大きく変化」
   ―中国の台頭(「脅威」)、アメリカの後退―「パワー・バランス」の変化
●中国 
 ①経済大国化―軍事力も強大化、海洋進出
 ②東シナ海―尖閣  領有権の主張(日本側の実効支配を認めつつも棚上げ合意があるものとの認識から、日本側の一方的な国有化に反発)
          海上警備船 日本の海保巡視艇としきりに接近
          防空識別圏の設定 空軍機が自衛隊機に異常接近
    アメリカは、日・韓・ASEAN諸国と中国抑え込み目指す、一方、中国は米国経済を支える不可欠なパートナー(米国債を大量に保有し、米中間貿易は日米間や日中間をはるかに超える規模で相互依存)で「経済戦略対話」(中国側は「新しい大国関係」と)、日本が中国の挑発に乗り、地域の安定を乱すのを迷惑がる。(日米韓の連携で穏便に中国を抑え込みたいとの思惑―「中国取り込み、封じ込め」「対中バランシング」―「我々は中国との対決や対中封じ込めを目標とはしない」と)
 ③南シナ海への進出  〃   〃   ―海底油田掘削  
                べトマム・フィリピンと海上警備船の衝突トラブル
●北朝鮮
  核・ミサイル(既に8発もの核兵器を保有?核弾頭の小型化に成功?)
       たとえ核を積んでいないとしても、500kg程度の通常弾頭なら、基地の滑走路や原発を破壊することは可能。原子炉が一機破壊されれば周囲数百キロに被害が出る。
    (2006年の北朝鮮の公式文献『我が党の先軍政治』によれば)「偉大な将軍(金正日)は・・・誰であっても我々を侵害しない限り我々は決して武力行使しないこと、日本が我々を敵対視せず、友好的に対するならば我々の国防強化について少しも憂慮することはない…朝日関係において根本問題は、謝罪補償、過去清算問題である、これさえ解決されれば、敵対的な朝日関係が友好協力関係に転換でき、そうなれば、日本が憂慮する安保問題は、自然に解決されるとおっしゃった」と。一方小泉首相も2002年衆院決算行政監視委で、それと軌を一にした発言をしており日朝間の意思が合致していたことが推測できる―早大・水島朝穂教授。)
●中東―シリア・イラク・アフガン
●ウクライナ
●テロ
(2)これらに対して軍事的抑止力 「力には力」
 自衛隊と日米安保が戦争を抑止(1960年安保改定の際に「他国の戦争に巻き込まれる」との批判があったが、この安保によって「むしろ日本の抑止力が高まり・・・」と安倍首相や高村副総裁は言うが、はたしてそうか?)。
 日米同盟―集団的自衛権の行使容認(行使を可能とする憲法解釈の変更)―同盟国アメリカその他「我が国と密接な関係にある国」が武力攻撃を受けたら助ける(反撃・応戦・参戦)用意
 (フィリピン・ベトナム・オーストラリア・インドなどと「安保協力宣言」軍事協力へ―合同訓練・演習、巡視艇供与)
 そのことを宣明すれば中国も北朝鮮も日本に手を出せない?
   そうすれば戦地に自衛隊を送ることになる(戦闘地域か非戦闘地域かの区別なく、戦場に「ここから先は安全地帯」なんてないのに)    
 国家戦略―アメリカの戦略と一体(「アメリポン」?「世界の警察官とその副官」)
        中国・北朝鮮・ロシアなどに対抗
  中国やロシアの拒否権で国連が機能せず、国連決議抜きで米英中心の多国籍軍が展開するケースが増えていけば、日本の自衛隊もそれに参加・派兵を求められることになる。
   
 そのリスク・弊害―軍事衝突(偶発的発砲)→戦争リスク
  互いに自国の軍備・軍事力は自存(自国の存立)自衛や抑止のためだと思っている―中国も北朝鮮も(中国は自国の経済成長に見合う軍備増強)―それぞれの「自衛力・抑止力」と「自衛力・抑止力」のぶつかり合いから戦争になる(「戦争は自衛の暴走で始まる」26日の朝日新聞に森達也・映画監督)
  「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える」「ハンマー―集団的自衛権を使えるようになれば、武力に固執して、平和的な問題解決の方法を探さなくなる」(米国の映画監督・ジャン=ユンカーマン)―力に頼りがちとなり、対話・交渉(妥協・譲り合い)が疎かになる(一方で「領土問題は存在しない」問答無用だとばかり突っぱねておいて、「対話の扉はいつでも開いている」と矛盾したことを言ってる。)
  北朝鮮から米国に向けて発射されたミサイルを日本が迎撃すれば、北朝鮮にとっては日本からの先制攻撃になり、日本は北朝鮮から報復攻撃を受ける可能性がある(日本は北朝鮮から武力攻撃を受けていないのに集団的自衛権の行使として北朝鮮を攻撃するのであるから、北朝鮮が米国へ向けて発射したミサイルを日本が迎撃すると宣明することは日本が北朝鮮を脅していることになる)。 
  もしも「第二次朝鮮戦争」(93年クリントン政権が試算―最初の90日間で米軍兵士の死傷者5万2000人、韓国軍の死傷者49万人、市民にも大量の死者が出る)
      日本も戦争当事国となり日本本土にノドンなど弾道ミサイルが撃ち込まれる。
  もしも「第二次日中戦争」になったら? 
       戦争で亡くなった人をどうするか?
       戦争で居場所を失った人はどうなるか?
  自衛隊が海外に出動する機会が増えれば「事故」(血を流す事態)が起きる危険性が飛躍的に増していく。
      「向こう」からすればアメリカの味方はすべて敵となり、自衛隊が米軍と一体になって行動すれば、激しい攻撃に晒されることになる。イラク戦争時にイギリスがテロの標的になったように、東京や大阪、或いは日本の原発周辺でテロが起きる危険性が高まる。
     日本人の短所―
        集団意識・同調性―引きずられやすく、抜け出せない
                      いったん火が付くと止められなくなる?
        忘れっぽい?―大戦の記憶が薄れ―大半が戦後世代になり、戦争のリアリティー(実感)なく、若者に限らずゲーム感覚
(3)非軍事的・平和的方法―対話・交渉・交流(非軍事的抑止力)
   諸国民と利害・運命の共有(シェア)
   安全保障の要諦は「敵をつくらず、脅威にならないこと」
   憲法9条こそが抑止力―「こっちがなにもしなきゃ、なにもしてこない」―日本が戦争に巻き込まれずに済んだのはそのおかげ(それがあったからこそ、日米安保でアメリカの戦争に―ベトナム戦争にも湾岸戦争にもアフガン戦争にもイラク戦争にも―自衛隊はアメリカから要請があっても戦闘への参加は断ることができ戦争に直接巻き込まれることなくて済んだ)(「9条は自衛隊員の命を守る最強の盾になっている」わけだ)
   日本人―「平和的国民」イメージ―信頼
         「マナーの良さ」(礼節)・信義に篤い?―「美徳」
               
   非軍事的な国際貢献―ODA(政府開発援助) (最近、軍事につながる支援を解禁する動きも)
                  軍縮・軍備管理交渉(今までは消極的・不熱心)
   各国と平和友好条約めざす(特定の国と同盟したり密接な関係を結んだりせず)―敵をつくらず紛争予防
   国家単位ではなく国境を超えた関係―グローバル・トランスナショナル
     (ヒト・モノ・カネ・エネルギー・環境・文化の交流)―人間の安全保障
   「自衛力」「抑止力」を名目とした集団的自衛権行使容認などの軍事強化は控える。  
   そのリスク―「自衛力・抑止力」の低下を突いて、中国や北朝鮮はたちまち日本の領海・領空を侵犯し、尖閣を奪いに来て離島に上陸、或いは本土に攻め寄せてきて占領し、日本人を拉致するおそれ?       
      相手を増長させ横暴を許す結果に―無理難題に妥協を強いられ、「屈従」のおそれ?(しかし、丸腰ではあっても毅然と対応、「負けるが勝ち」「戦わずして勝つ」「(互いに)ウィン・ウィン」―戦争による大惨害・人的物的資源の大損失を被るよりはマシなだけでなく、道徳的な勝利―信頼が得られる)

(4)比較衡量―(2)の軍事的方法と(3)の非軍事的方法とで、どちらがベターか
         「国民の平和的生存権」・自衛隊員も含めて日本人の生命が守られるためにはどちらがベターか。

 <参考>週刊現代6月23日発売号
       世界7月号
       朝日新聞

2014年07月02日

武力行使「時の内閣が判断」こそ危険

 武力行使の要件の中に「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険があること」とある。
 これでは、自国が攻撃されていないのに我が国と密接な関係がある国が攻撃されたからといって、その国を日本が攻撃すれば、その国は日本に報復攻撃し、日本がその国と戦争なってしまうことになる。
 朝日6 月29日の「声」に「『日本国民を守るため』と首相は言います」が「『国民を守る』とは、戦争による犠牲者を二度と出さないということではありませんか。日本の経済が落ち込み、どんなに生活が貧しくなろうとも、電気が無くてろうそくの明かりで過ごそうとも、石油が無くて寒い冬に凍えようとも、日本の若者たちが戦場で殺戮を繰り返すよりは、よほど国民は幸せだと私は思います。」というのがあった。全く同感です。
 しかし「明白な危険」を判断するのは時の内閣であって、「政府が全ての情報を総合して判断する」というわけである。そこで国民が「その情報を明らかにせよ」と求めても、秘密保護法で「それは秘密」とされてよく国民には知らされないまま、政府の裁量で済まされてしまう。これこそが危険なのではあるまいか。
 

2014年07月07日

犠牲者ゼロは自慢になる

 2日の投稿「犠牲者ゼロは自慢になるのか」に、湾岸戦争で「命がけで戦っている多国籍軍を日本は傍観し」、アフガニスタンなどで「危険な任務に就いている他国の兵士に『日本は一人も殺していない』と胸を張って言えるのでしょうか」とありました。
 しかし、日本人はこれらの戦乱に血税だけで済まして傍観してきたわけではあるまい。NGOや国連職員として丸腰で人道支援活動や紛争処理に当たり武装解除の指揮に当たった人さえもおり、彼らは非軍事・平和国民イメージ故に現地住民に歓迎されてきた。一方米軍や多国籍軍はこれらの地域に平和・人道復興をもたらしたでしょうか。
 日本は先の大戦で他国民にも自国民にも未曾有の犠牲者を出しました。あまりに悲惨なその反省と教訓の上に立って戦争と武力を放棄することを決意し、以後政府の行為によっては戦争で一人の犠牲者も出していない、それは自慢に値することなのではないでしょうか。
 命を惜しまず武器を持って戦いに参加したいという人は、義勇兵か雇い兵として個人的に参加する分にはかまわないとしても、首相が自衛隊員にそうせよと命令し、国民に犠牲覚悟を強いるのは間違いでしょう。

抑止力には国民の覚悟

 安倍首相は、「集団的自衛権の行使容認は戦争するためではなく抑止力を高めるためなのであって、それによって日本が戦争に巻き込まれることはあり得ない。」「行使できるようになるが、しない」とおっしゃる。ならば大丈夫、安心だとなるのか。
 憲法解釈を変え、法整備をして、米国などとの軍事協力体制を整えることを閣議決定して集団的自衛権も「行使するぞ」という政府の意思を示したことにはなるが、それが本当に相手の「戦争仕掛けようとするたくらみをくじく抑止力として大きな力を持つ」には、国民大多数の「行使してもいい」その結果最悪の場合「戦争になってもしかたない」という同意・覚悟なければならない。国民に戦争の覚悟があってはじめて、そこに本気度が認めれるのであって、それがなければ「張り子の虎」(単なるポーズ)でしかないないと見透かされ、抑止効果は働かない。抑止力が機能するには国民の覚悟が必要不可欠なのであって、戦地で自衛隊員が血を流し、最悪の場合沖縄や日本本土まで攻撃され、かつての大戦の時のような惨禍に再び見舞われることさえも覚悟しなければならないということだ。
(閣議決定したその日の記者会見で、「隊員が戦闘に巻き込まれ、血を流す可能性が高まる点をどう考えるか」「犠牲を伴う可能性に、国民はどういう覚悟を持つのか」という記者の質問に対して、首相は正面から答えなかったという―4日付朝日『集団的自衛権・検証』。)
 それに、その「抑止力」=軍事力に対して、相手はおとなしく引き下がるわけではなく、(自らの軍備を同じように「抑止力」と考え)対抗心から軍事力増強に努めようとし、日本に対して係争問題を抱えて反目し、互いに武力による威嚇から軍事衝突(武力行使)に発展し戦争になってしまうという可能性もあるわけである。つまり抑止のつもりが逆に戦争を招く結果になる。軍事的抑止力にはこのような危険な矛盾がつきまとうのであって、国民にはその覚悟も必要となるのである。
 幼少時代、父の出征と防空壕で心細い思いをし、今は子や孫たちのことが心配なばかりの当方にはそんな覚悟はありません。頼るのは軍事的抑止力ではなく、9条の非戦抑止力だと思うからです。覚悟なら「9条(非戦)死守の覚悟」(経済同友会終身幹事で最近亡くなった品川正治氏の言葉)。
 首相が言う「行使できるようになるが、しない」は国民の抵抗感をかわすためのその場しのぎの言い逃れ(ごまかし)で、本音は「いざという時には行使するぞ」と言えば国民は覚悟を決めて「よし」と応じてくれるものと期待している。だからこそ①脅威と危機を煽り、②愛国心を鼓舞し、(かつての教育勅語にあった)「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」(いざの時には国の為に戦う)という愛国教育を推し進めようとしているわけだ。

2014年07月10日

集団的自衛権・賛成投稿に反論

 先の朝日新聞「声」欄に『米国との協力なしに国民守れぬ』という投稿と『集団的自衛権は平和守る手段』という投稿があった。
 「当たり前のことをできない障壁が憲法9条」「無条件降伏したとはいえ主権国家の自衛権を奪うなどあってはならない」「集団的自衛権の行使は、いざという時に必要」だ、それに「集団的自衛権を持っているが使うことはできないとしてきた」のは「不自然」だと。
 これらに次の諸点から反論したい。
①個別的自衛権ならば個人の正当防衛権と同様に自然権で「固有の権利」といえるが、集団的自衛権はそうではない(国連憲章原案には当初は無かったもので、アメリカが米州諸国会議で米州機構の軍事同盟を合理化する思惑から憲章51条に個別的自衛権とともに付け加えられた後付けの概念にすぎないのだ)。
 我が国で個別的自衛権は自然権として認められてはいても憲法で戦力保持を禁じられるのは、市民個々人は、正当防衛権は持っていても法律で銃刀所持を禁じられているのと同じだろう。
②「押し付けられた」憲法とは言っても、日本国民は反発どころか、大半の人はむしろ歓迎していた(当時、毎日新聞の世論調査では象徴天皇制には85%、戦争放棄には70%が賛成)。それは日本国民がどの国の国民にもまして戦争の悲惨さと空しさを知り尽くしたからにほかなるまい。戦争犠牲者、日本人310 万人、アジア全体で2,000万人、「戦争はもうやめてくれ」という痛切な叫びがそこにあるのだ。
③その憲法制定後間もなく連合国の極東委員会それにマッカーサーも改憲(「再検討の機会」を与え、「見直し」)を促したにもかかわらず、日本政府(吉田内閣)の方からそれを拒否しているのである。その時、もし改憲して陸海空軍を復活させていれば、日米同盟・集団的自衛権の名の下に、日本軍は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも湾岸・アフガン・イラク戦争にも韓国などと共に参戦していただろう。これらの戦争に日本軍が参戦していればもっとよい結果が得られて諸国民から歓迎され、日本国民にも幸いした、などとは到底考えられず、数多の犠牲者(韓国はベトナム戦争で4千700人戦死)を出し、報復テロにも脅えなければならない深刻な結果になっていただろう。
④「米艦防護や機雷除去は武力行使に当たらない」というが、交戦中のそれらの行為は国際法上「武力行使」に当たり、敵対する相手からは攻撃されてもしかたないことになる。
⑤「日本と米国は一体」というが、そんなことを言ったら「主権は持っていても、その権利を行使しない」と言っているようなもので、アメリカにはノーと言えない国と見なされ、反米と一体にさらに反日に火がついてしまうことになる。
⑥「日本が集団的自衛権を行使するのは戦争が目的ではなく、平和を守る手段」だというが、行使―武力行使―するのは戦争そのものではないのか。
⑦「行使容認と防衛力の強化が世界に伝われば諸外国は安易に日本に手出しできないと思う」という(「抑止論」の考えだ)が、諸外国はそれでおとなしく手を引くかというとそうではなく、同じ抑止論で日米が手出しできないように防衛力を増強し、核軍拡に駆り立てられる。中国・北朝鮮はまさにそれ。
 

 ところで、常備軍は持たず、外国の基地も置かないコスタリカは小国とはいえ、文字通りの積極的平和主義外交に努めたことによって大統領がノーベル平和賞を受賞し世界から高い評価を受けている。これとは似ても似つかない安倍首相の「積極的平和主義」(それは軍事主義にほかならない)を肯定するような考えには、とても賛成しかねる。

2014年07月15日

日本は軍備を持たなければ攻撃・占領されるのか(加筆修正版)

 安倍首相ら政府の言い方では「東アジアの安全保障環境(情勢)が厳しさ増している」―具体的には中国(軍事力増強、海洋進出・尖閣領有権主張、防空識別圏設定など)・北朝鮮(核・ミサイル開発・実験など)の脅威が増しているだから集団的自衛権の行使容認・日米同盟の強化は必要なのだと。
 マスコミ・ニュースは折からの南シナ海での中国とベトナムの警備船どうしの激突トラブル、北朝鮮のミサイル発射、それらに対処するかのような日米その他の共同軍事演習を報じ、「安全保障環境が厳しさを増している」印象を強くさせる。
 そして庶民も(街頭インタビューなどで)「中国や北朝鮮のことを考えたら、それ(集団的自衛権の行使容認)もしかたないんじゃない」などと、いとも簡単に言ったりする向きもある。
 しかし、この「中国・北朝鮮が脅威、だから集団的自衛権の行使容認」というのは短絡的。それら(中国や北朝鮮)の脅威があるからと言って直ちに、その(中国や北朝鮮からの)軍事攻撃を防ぐため、或いは抑止するために集団的自衛権行使を容認しなければならない、ということになるのか?
 麻生副総理の「いじめ」の例え話では「勉強ができない、けんかも弱い、だけど金持ちのせがれ、これが一番やられる」(「けんかは弱い、勉強はできない、おまけにカネがないとなったら無視だ」)。けんかが弱いといじめられる。日本は金持ちだがケンカが弱い。軍備を持たなかったり弱体だと、たちまちいじめられる。だから集団的自衛権でアメリカと組むんだというわけだ。あまりに単純・短絡的。

 日本が、仮に軍備(自衛隊と米軍基地)を持たなかったら(それに、もしも中国・韓国・北朝鮮などに対しては侵略・植民地支配の加害に誠意ある謝罪・反省の礼を尽くし、韓国のみならず北朝鮮にも「過去の清算・戦後補償」を果たしていたら、また無防備ではなく海上保安庁あるいは国土警備隊など領海・領空侵犯や不法上陸を阻止するのに充分なだけのそれなりの装備・人員は配備されているものとして)、はたしてソ連からも中国・北朝鮮からも、たちまち軍事攻撃・侵攻・占領されてしまっていただろうか?
 
 単なる可能性ではなく、「おそらく軍事占領されていたし、されるに相違あるまい」という蓋然性(必然的可能性)はあるのだろうか?あるとすれば、その根拠はどこにあるのだろうか?そこを検証・説明しなければならない。

 その国が、ある国に対して軍事攻撃・戦争をしかける、その根拠には3要件がある。
 ①軍事攻撃・侵攻しなければならない理由・必要性があること。それも国民・国際社会から納得・支持が得られる正当な理由(大義名分)があること。
 (例えば、かつて日中戦争や太平洋戦争の時の我が国のように「自存自衛のため」、「生命線の確保」―石油・資源・シーレーン確保のためだとか、「懲罰・制裁のため」だとか。それらは我が国の一人合点で国際社会からは受け入れられなかった。またアメリカは第二次大戦ではソ連とともに「ファシズムから自由と民主主義を守るため」という大義を掲げて勝利を博したが、ベトナム戦争などでは「共産主義の脅威から自由を守るため」、イラク戦争では「悪の枢軸を打ち倒すため」などといった大義を掲げて戦争を起こしたが、いずれも失敗。)
 ②その手段(軍備)をもつこと―それはその国から軍事攻撃・戦争が予想される根拠をなす一つの条件ではあるが十分条件ではない。相手国・周辺国にとっては、それが増強されたからといって、それだけでは恐れを感じさせる「脅威」にはなるが、当のその国では、それは攻撃・戦争をしかけるためではなく「抑止するための手段」だと考えている場合もあり、それを持つから(或いは増強したから)と言って即軍事攻撃必至という根拠にはならない。
 ③その気(攻撃意思・敵意)があること。
 この3つがそろわなければ、(②の軍備増強だけでは)日本に対してその国が軍事攻撃・戦争を仕掛けてくる事態が予想される根拠とはならないということなのであって、①(日本に攻撃を仕掛ける理由があるのか)と③(その意思があるのか)の点で十分説明のつく根拠がはたしてあるのかどうかを抜きにして、②(中国・北朝鮮などの軍備の増強)を言い立てるだけでは、それは単に脅威を煽ることにしかならず、今、安倍政権が自ら行おうとしている集団的自衛権の行使容認(憲法解釈変更)を正当化する根拠にはならない。

 それでは、中国と北朝鮮それに国際テロ組織などについて①と③を検討してみたい。
(1)中国:①(日本に軍事攻撃・戦争を仕掛けなければならない理由)について―
  中国にとっては台湾・チベット・新疆(ウイグル自治区)などとともに南シナ海・東シナ海など沿岸海域も「核心的利益」をなす大事なところだというが、岩しかない無人島の尖閣諸島までも「核心的利益」の一部だなどと称して領有権にこだわっている。
  尖閣諸島は日本が実効支配してはいるものの、領有権の決着は日中双方とも「棚上げ」にしてきたのが、石原前都知事が唐突に島を購入すると表明したのをきっかけに野田前首相が国有化を決定したのに対して中国が反発してその海域に日本の海上保安庁の巡視艇に対抗して監視船をしきりにくり出し、領海侵入も繰り返して我が方の海保巡視艇と警告「合戦」をやっている現状である。自分で勝手に「核心的利益」だなどと主張しても、それは我が国のみならず国際社会から認められるとは到底考えられない。にもかかわらず、もしも中国が強引に軍事攻撃をしかけ制圧して島を占領などしたら、一方的な侵略行為と見なされ、我が国民のみならず世界中(国際社会)から無法・非道が非難され様々に制裁を被り、かえって割に合わない結果を招く、そのことはわかり切ったこと。したがって尖閣のことで日本に軍事攻撃・戦争を仕掛けてくるとはおよそ考えられない。
  それから、日本の首相や閣僚が中国人民の嫌がる靖国神社(戦犯を祀って侵略戦争を肯定している神社)の参拝を強行し、日中戦争における加害行為に対して謝罪・反省の誠意が不十分だから「けしからん」といって、それだけで日本に軍事攻撃をしかけ侵攻したりするだろうか。
 他に何か日本に軍事攻撃を仕掛ける理由があるだろうか。無いだろう。
 ③について習近平や中国政府にその気(日本に軍事攻撃・戦争を仕掛ける意思)があるかといえば、あるとは考えられまい。
(2)北朝鮮:①(日本に軍事攻撃・戦争を仕掛けなければならない理由)について
 日本に対してはかつての植民地支配に恨みをもち、逆に拉致問題で日本から恨みをかい、内政・外政両面にわたる暴政によって四面楚歌。虚勢を張って「火の海にしてやる」とか脅し文句とともに核実験と弾道ミサイル打ち上げを時々やってみせるが、それは「自衛・抑止のためだ」とも言っており、自分の方から本気で仕掛ける意思があるわけではないことは分かり切っている。もしそんなことをやったら倍返しされ、たちまち自滅することは彼らも分かっているはずだからだ。
 或いはこの国を包囲する日米中韓ロなどの側の制裁圧力で追い込むそのやりようによっては、「窮鼠猫をも噛む」が如き自暴自棄的な暴発もなくはないが、それは北朝鮮を取り巻くこちら側のやり方の問題。
 ハリネズミのように、ひたすら自分を守る以外に、軍事攻撃を仕掛けなければならない理由はまず考えられまい。
 ③について金正恩にその気(日本に軍事攻撃・戦争を仕掛ける意思)があるかといえば、あるとは考えられない。
(3)国際テロ組織:①について
 憲法9条があるために中東などイスラム諸国における紛争では米英などNATO諸国やオーストラリア・韓国などと一線を画して戦闘地域では軍事介入を控えている日本人はターゲットにはされていない。
 ③について彼らのリーダーには日本や日本人を標的にテロ攻撃を加える意思はあるまい。(但し、今度の9条変質によって、これから集団的自衛権でアメリカと一体の行動が見られるようになれば、気が変わってくるだろう。)

 中国や北朝鮮その他に、それ以外に、日本に対して軍事攻撃・戦争をしかけずにはいられない必要かつ正当な理由はどこにあるというのだろうか。
 
 仮に当方などには、或いは日本人には思いもよらない(あり得ないと思われる)何らかの理由で、或いは理由もなく、ただ、相手(日本)が憲法9条をきまじめに守って警察力だけで軍隊・軍備を持たずに軍事対抗(交戦)をしない国だからといって、軍事的無抵抗に乗じて軍勢を侵入させて難なく制圧・軍事占領したとしても、世界中からごうごうたる非難・制裁それに日本国民の猛然たる反発・抵抗(非暴力ではあっても徹底した非協力・不服従)にあうことも必至であり、何の成果もあげられないどころか不利益だけを被る無意味な結果に終わることは分かり切っている。なのに、そこまでして日本に対して侵略行為を強行できるかといえば、そんなことはできっこあるまい。

 逆に、日本が中国や北朝鮮その他に対して軍事攻撃・戦争を仕掛けることはないのかである。 
 ①について中国にも北朝鮮にも、こちらから軍事攻撃・戦争をしかけなければならない理由はない。
 ②について、軍備は中期防衛力整備計画で防衛費の伸び率は中国などに比べてずっと低いとはいえ、集団的自衛権の行使容認で「自衛隊と米軍が『1+1=2』となって抑止力は高まる」(安倍首相の言)。しかしそれは相手側(中国や北朝鮮)の方からみれば圧倒的な脅威となり対抗上さらなる軍拡にはしらせることになる。(防衛省防衛研究所『東アジア戦略概観』2014年版には「自国の安全を高めようと意図した国防力の増強や対外的な安全保障関係の強化が他国にとっては脅威と懸念と見なされ、対抗的政策を引き起こし、結果的に軍事的緊張関係が高まり、全体として安全保障環境が悪化する状況を招いている」とある―世界8月号)
 ③について、安倍首相は集団的自衛権の行使容認は「抑止のためであって戦争するためではない」として、その気はないのだと言ってる。
  だとすれば、日中間にも日朝間にも戦争ないはずである。ただ、双方とも「抑止」のためと称して互いに軍備増強・軍事体制強化に向かうということになると、双方ともさしたる①(理由)もない③(敵意・攻撃意思)もないのに、双方の②(軍備・軍部隊)が対峙すれば互いに戦々恐々となり(ついつい引き金を引いてしまうか、発射ボタンを押してしまい)偶発的な軍事衝突から戦争に発展しかねないことになる。軍事的抑止力にはその危険がつきまとう。
  だったら、いっそのこと軍備・軍事体制強化は日本だけでもやめにして、(憲法9条制定による戦後国内外への戦争放棄公約の原点に戻って)日本国民は②も③も持たないこと(戦力不保持・交戦権否認)に徹して、軍事攻撃・戦争はしかけないし、しかけられもしない、ということにすれば、まさに、それこそが安全保障(軍事攻撃・戦争の回避)であり、「抑止力」(相手方に攻撃を思いとどまらせる力)となるだろう(戦力も戦う意思もない相手に戦いを挑んで軍事攻撃を仕掛ける道理はないのだから)。

 これらのことを考えると、中国・北朝鮮等の②(「軍備増強」「核・ミサイル開発」など)の脅威があるからといって、それだけでは直ちに自衛隊に集団的自衛権の行使容認が必要だとなる根拠にはなるまい。また、これら(中国・北朝鮮・テロ組織など)の国あるいは国際組織が、たとえ日本に9条の通り軍隊も米軍基地も無くしたからといって日本にいきなり軍事攻撃をしかけ、占領の挙におよぶとはどうも考えられない。なのに集団的自衛権の行使容認の解釈改憲閣議決定をわざわざ強行しようとするのは、戦中・戦後大臣・首相を務めた祖父(岸信介)の傷ついた名誉をとり戻し、その意思を受け継ぎ果そうとする安倍首相の野望にほかなるまい。

 今、我が国政府は憲法を都合よく解釈変更し、「戦争するためではなく抑止力を高めるため」と称して集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行なった。これで我が国の自衛隊は「我が国と密接な関係にある他国が武力攻撃を受け、我が国の存立が脅かされ、国民の生命・自由・幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」密接な関係にある国アメリカ等の戦争に(「後方支援」などと称して)参戦できることになる。
 アメリカはこれまで開戦の理由(あるいはベトナム戦争に際するトンキン湾事件のような口実)をつくってはあちこちで戦争してきたが、これからは日本もそのアメリカ同様に「明白な危険」事態だという判断理由をつくって参戦することになるわけである。
 戦争が起こる3条件①理由②手段③意思から考えれば、中国・北朝鮮などよりも、むしろ安倍首相ら日本政府の側に①アメリカの開戦理由作りとあわせた「明白な危険」判断理由(参戦理由)作り、②手段として日米同盟と集団的自衛権、そして③のやる気満々たる参戦意思と中国・北朝鮮に対する敵対意識など、脅威はむしろアベ日本のほうだ、ということにもなるのでは。

 平和主義の立場に立つなら、本来はアメリカに対して中国・北朝鮮への敵視・敵対政策をやめよ、控えよというべきなのに、それとは逆で米中対立を煽り、むしろアメリカから抑えろ(靖国参拝などひかえ、挑発的言動を慎んで)とたしなめられてれているぐらい。このようなアベ日本では、孫たちが心配でたまらない。

 我が家の孫どもにとっては、中国・北朝鮮とアベ日本のどちらが危ないか。どちらも危ないが、どちらかといえばアベ日本の方だ。なぜなら、この政権は不戦平和憲法を実質的に骨抜きにし、対中国・対北朝鮮対決政策をとり、国民を戦争に駆り立て、若者に血を流させようとしてはばからないのだとも思えるからだ。

2014年07月22日

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2014年07月23日

9条は単なる建前にあらず

 先の朝日投稿『9条と自衛隊 矛盾解消が必要』について。それは「閣議決定は内閣の専権事項で、それを実行するための法律制定が国会、法律が違憲かどうか判断するのは最高裁」、それらは三権分立としては当然のこと。米国の保護なしには9条だけでは平和でいられなかったし、9条(「戦力不保持」)は「建前」だが、自衛隊を保持しているのは「本音」、その「矛盾を統一してすっきり」すべく改憲して自衛隊を軍隊として認めるようにすべきだというもの。
 しかしその閣議決定の憲法解釈変更は9条2項の許す解釈の限界を逸脱している。なのに、いったん閣議決定されてしまえば、その基本的方向のまま関連法案は通ってしまう。「日本は議院内閣制なので内閣が出した法案はほぼ通るし、最高裁もなかなか憲法判断しない」と言うのが実状だからである。
 自衛隊は実力を行使できるのは個別的自衛権のみで交戦権がなく軍隊とは違う。それを集団的自衛権まで行使容認するとなれば、益々9条との矛盾が拡大する。だったらいっそのこと9条2項を改廃して自衛隊を完全に軍隊化すればいいというが、それは間違い。むしろその条項は維持し、集団的自衛権の行使など認めず、自衛隊は非軍隊に徹するようにしたほうがよい。なぜなら世界の誰よりもひどい戦争を経験した日本国民にとっては二度と戦争などしたくないというのが本音だからであり、9条は単なる「建前」などではないからである。それに9条がなければ朝鮮戦争・ベトナム戦争・アフガン・イラク戦争など米国の戦争に参戦させられ、不安なき平和ではいられなかっただろうからである。

2014年07月30日

集団的自衛権―竹内元外務次官の見解への異論

 20日、朝日新聞の集団的自衛権に関する竹内元外務次官へのインタヴュー記事。竹内氏は、集団的自衛権の定義は国連憲章には書かれておらず、他国防衛説と自国防衛説2説あり、今回の閣議決定で政府解釈は前者から後者に変わったとし、9条の理念を守り、許される範囲内の変更だとしている。
 しかし、それらはいずれにしても本来の自己保存の本能に基づく自然権としての正当防衛権たる自衛権とは言えず、そもそも集団的自衛権なるものは国連憲章51条に書き込まれた経緯から見ても、米国などの政治的思惑による後付けされた概念にすぎない。(自然権としての正当防衛権には当たらない。)
 日本側は「集団的自衛権の行使だ」といっても、それは相手方からみれば、日本(自衛隊)に攻撃してはいないのにその自衛隊が出てきて敵対国に加勢すれば、それに対する攻撃は、彼らにとっては日本による「急迫不正な侵害」に対する自衛権の発動だということになる。
 それから、「明白な危険がある場合」などという抽象的な言葉では、その判断は「主体的・客観的・総合的に」とはいえ、政府にしろ国会(多数派)にしろ恣意的に決定してしまうこととなり、また戦闘地域に派遣された自衛隊は現場で判断に迷いながら生死に係る決断に迫られることになる。インタヴューアーは次のように指摘している。
 「『明白な危険』がある場合」という限定は、政府が集団的自衛権を使うかどうかを判断する『入り口』での抑制に過ぎず、戦争を一度始めれば『出口』を探すのは難しい。」「参戦後、日本にとっての『明白な危険』が去ったからもう撤退すると言っても、敵になった相手国は日本への攻撃を続けるだろう。」戦争は狭い「入り口」で始まって拡大していくもの、それが歴史的現実。
 氏は、米国を「かけがえのない同盟国」で「特別に考える必要がある」といい、我が国と密接な関係にある国とそうでない国を選別することを肯定しているが、それは国によっては日本に対して自国を非友好国あるいは敵国と意識する猜疑心を抱かせることになり、いたずらに「敵をつくる」ことにもなり、かえって安全保障を損なうことになる。
 それに「抑止力を高める」という軍事的抑止力には矛盾と危険がともなう。①それは「抑止」といいながら、(もし軍事攻撃を仕掛けてきたりなぞしたら反撃・撃破されるか報復されるぞ、ということで)武力行使・戦争も辞さないことを前提にしている。(それは9条に込められた「いかなることがあっても戦争はしない」という戦争の永久放棄という公約―これこそが抑止力―に反している矛盾。)②その軍備と軍事的抑止論は相手をも同様な論理で軍備強化を誘発し、軍拡競争・軍事対決を招き、軍事衝突の危険―いったん始まってしまったら歯止めも限定もなくなり抑止が効かなくなる。(ウクライナ、シリア、イラク、パレスチナなど現実はまさにそれだ。)

軍事でリスクマネージメントはきれいごと―危機管理としての閣議決定に不納得

 24日朝日新聞投稿にあった「危機管理としての閣議決定に納得」はもっともらしく受けとられますが、 次のような点で賛成しかねます。
①それは抽象論で具体性に欠けていること。
②「何もせず平和を守り続けることができるだろうか」といいますが、それを言うなら、現政権は相手国に対して「対話の扉はいつでも開いている」とか「力ではなく法の支配で」と言うばかりで、それ以外にはさしたる平和的外交努力もなしに専ら軍事的対決の体制強化にはしっていることのほうを問題にすべきなのではないか。
③我が国と周辺諸国との間には領土問題その他懸念される諸問題があるが、それらは集団的自衛権の行使など軍事で解決がつくものだろうか。軍事衝突が起きれば収拾つかなくなり、かえって不幸な結果を招くことは明からか。
④特定の国を「非友好国」「話しても分からない国」と決めつけて、友好関係や信頼関係の回復・醸成に努力を尽くそうとせず、問答無用とばかりに軍事力であたるしかないというのでは短兵急すぎる。
⑤その国との間に問題や紛争があっても、けっして戦争にはしないように外交努力に徹する、これこそが21世紀の今のやり方。戦争や軍事で決着のつく時代ではないということ(ASEAN諸国を主体とする東南アジア友好協力条約など)。
⑥万一の有事(戦争)への備えが必要というが、いつか必ず起きて避けようがなく備えが必要不可欠な自然災害とは異なり、戦争は予防・回避ができるものであり、「もし起きたら」に備えよりも「起きないように」すればよいのである。
⑦それでも紛争・トラブルが起き、公船や漁船の衝突、侵犯・不法上陸・テロなどの事件に対応する警察力による警備・実力阻止などリスク管理とその体制強化は必要。しかし、だからといって集団的自衛権の行使容認など軍事体制強化をはかろうとするのは的外れだろう。リスク管理とは危機事態を招かないようにすることと危機事態が起きたら速やかに収拾し被害を最小限に止めることであるが、軍事(集団的自衛権の名目での軍事介入など)は危機事態が起きないように(抑止)するため、或いは危機事態を収める(制圧する)ための手段というよりは、危機事態をかえって招来し激化させる原因ともなり、リスク管理の手段というよりは、リスク管理の対象(管理されるもの)といった方がよいからである(ウクライナ、シリア、イラク、イスラエルとパレスチナの現実を見れば明らか)。
軍事で「リスクマネージメント」なんてきれいごと。
 以上のことから「危機管理の閣議決定」にも不納得です。

「友好国に身勝手と言われないか」に異論

 27日の投稿に「他国から攻撃された時は友好国の助けを得るのに、逆の場合は憲法9条を盾に助けることを拒否するのは身勝手」とあったが、国家間の条約は個人間の義理・人情とは次元が違い、また同じことをやって借りを返すのとは事が違い、国益上のバーターで双方それぞれのメリットに基づく権利・義務を定めるもの。それに日米安保の条文には、締約国はそれぞれ自国の「憲法上の規定に従うことを条件として」と明記されており、憲法の範囲内に限られることを前提にしている。そして「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくする」場合に、「自国の憲法上の規定及び手続に従って対処するように行動する」のだと。
 (つまりアメリカは日本を無条件で自動的に守ってくれるわけではないのだ。また)日本はアメリカから一方的に守ってもらってばかりいるわけでもない。日本は基地をアメリカが軍事戦略上の前方展開に利用するために提供しており、そのうえ「思いやり予算」まで負担している。
 日本はアメリカに対して恩義のある格別な友好国として何が何でも助け、信頼を繋ぎ留めなければとの考えのようだが、特定の国だけでなくどの国とも友好・信頼関係を結び、敵をつくらないようにすることこそが平和・安全のための最善の方法。
 緊張状態で不測の事態が生じた場合に(我が国を守ってくれるのが集団的自衛権の行使)、というが、それは逆で、緊張や不測の事態を呼び込み激化させるのが集団的自衛権行使なのであって、そのような緊張・不測事態を生じさせないための非軍事・平和外交こそが必要不可欠なのだ。

2014年07月31日

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