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2014年06月 アーカイブ

2014年06月01日

アベノロンポウのおかしなところ―安倍首相の論法(修正版)

Ⅰ安全保障に感情論は危険
 首相いわく、「いまや海外に住む日本人は150万人、さらに年間1800万人が海外に出かけていく時代だ。その場所で突然紛争が起きることも考えられる。」「まさに紛争国から逃れようとしている、お父さんやお母さん・・・・子どもたちが」そこにいるかもしれない、同盟国の米国が救助、輸送してくれている船に乗っているかもしれない。それを日本の自衛隊は守ることができない。海外で「ボランィアなどの形で一生懸命汗を流している若者たち」、彼らが突然、武装集団に襲われたとしても、この地域で活動している自衛隊は彼らを救うことができないということでいいのか。」
「私たちの平和な暮らしも、突然の危機に直面するかもしれない。『そんなことはない』と誰が言い切れるのか。テロリストが潜む世界の現状に目を向けたとき、そんな保証はどこにもない。」政府は「私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守る。そのためには、いかなる事態にも対応できるように、日頃から隙のない備えをするとともに、各国と協力を深めていかなければならない。それによって抑止力が高まり、我が国が戦争に巻き込まれることがなくなると考える。」というわけである。
 

 この「いかなる事態にも対応」とは自衛隊による軍事対応であり、「日頃から隙のない備え」とは軍事的備えであって、そのための集団的自衛権の行使容認(憲法解釈)にほかならない。自衛隊が積極的に海外に出かけて行って、そこにいる日本人を「守り」「救う」のだと言うわけであるが、そんなきれいごとで済むのか。武装した自衛隊の介入は「抑止力」どころか、かえって武装集団の攻撃を招き(これまでは欧米とは違う「平和国民」イメージで好感をもって迎えられ非軍事・中立の立場に徹して人道支援ボランティアに携わってきた日本人NGOも、そのイメージが崩れて敵視されるようになり)、あちこちで日本人がテロリストに襲われる可能性も高まるのではないか。それに自衛隊が反撃して武力行使(戦闘)に及ぶようなことにでもなれば、それこそ日本国全体が紛争当事国・参戦国と見なされ、戦争に巻き込まれる。そして、これまでの「私たちの平和な暮らしも、突然危機に直面する」その可能性も高まりこそすれ、低まるということはないのではないか。

 戦争になり日本本土が攻撃されるようなことにでもなれば、「私たちの命と平和な暮らし」が守られるというよりは、それこそ1億の国民「お父さんやお母さんやおじいさんやおばあさん、子どもたち」が巻き込まれ、かっての大戦の時のような事態に再び見舞われることになるのだ。
 そのようなことが起る確率は、朝鮮半島や中東や東南アジアなど海外で紛争に巻き込まれる事態に比べれば、はるかに少ないだろうが、原発の過酷事故のように「想定外」との思い込みは許されない。確率は極めて少ないとはいえ、最悪の事態というものを念頭においてかからなければならない。それこそが首相と政府が「国民を守る」本当の責任というものだ。
 その確率は、少くとも安倍首相のような人物の政府であるかぎり、高くなることは確かだろう。

 安全保障の要諦は敵をつくらぬこと、敵を味方に変えること。なのに安倍首相のやり方は感情論に訴えて同胞愛をかきたて敵がい心・戦意を煽るというやり方。
 首相はアジア・太平洋諸国の国防相・軍幹部が集まるアジア安全保障会議にのりこんで(異例にも出席して基調講演)中国批判、中国と南シナ海領有権問題で対立するべトマムやフィリピンなどに支持・支援演説をぶってきた。(ツイッターなどネットでは「いいね!いいね!」が殺到していることだろうが。)そして会議は「非難の応酬」。
 アメリカの国防相はそこでは日本に同調し中国批判演説を行ったが、先日オバマ大統領が来日したさいは日本政府の集団的自衛権の行使容認方針を歓迎し、尖閣が日本の施政権下にあり日米安保の適用対象にはなると言明しつつも、中国に対しては挑発的な言動は慎むべきだと釘を刺すかのようなことも言っていた。それなのにである。
 まず、非軍事を憲法上の国是とする日本の首相がなんでこのような場にわざわざしゃしゃり出て行かなければならないのか。そのうえ、そこで対中国対抗姿勢を露わにして対中包囲網政策を打ち上げた。
 このような安倍首相の対中国対決・敵視政策は極めて危うい。

Ⅱ最悪の戦争事態の事例こそ示すべき
 
 集団的自衛権の行使容認に関連して、安倍首相は「あらゆる事態に対して対応できる可能性・選択肢を用意しておくのは当然のことだ」として、いくつもの具体的事例を想定して、それぞれに自衛隊を活用できるようにしたがっている。
 ところで、その自衛隊の介入から紛争当事国・参戦国と見なされる結果となり局地戦から全面戦争になってしまったらどうするのか。そうなった場合、核ミサイルが東京に飛んでくるかもしれない。「ミサイル防衛網」をくぐって都心に着弾したら死者の数はどのくらいか、それらにどう対処するのか、避難・疎開などまで考えなければなるまい。
 「まさかそこまでは」といっても、あり得ないことではあるまい。(まさに「『そんなことはない』と誰が言い切れるのか。そんな保証はどこにもない」というものだろう。)原発の過酷事故のように確率は極めて少ないとはいえ、それでも起こってしまう最悪の事態というものを非現実的だとか「想定外」だとして度外視して済まされるものではあるまい。
 国民に些末な事例をあれこれ示して自衛隊をいかに活用するかばかりにとらわれたりしないで、肝心かなめの全面戦争という最悪の事態に発展してしまった場合の事例を示し、そのような事態に至らないようにするにはどのような方法をとるのが最も賢明か(軍事的「抑止力」で抑止などできるのか、非軍事的方法にはどのようなやり方があるのか)、といったことにまで考えを及ぼし得るような事例をこそ国民に示すべきなのではあるまいか。  
 

 東京に核ミサイルが着弾した場合、長崎型(プルトニウム)核爆弾で死傷者100万人(死者50万、傷者50万)以上といわれる(軍事評論家の田岡氏)。
 原発の過酷事故については、フクシマ原発事故があって以来、避難計画など立てられ、検討されるようになった。
 それに最悪の事態想定例には南海トラフ巨大地震・首都直下型地震などがあり、これらはシュミレートされ、その時どう対処したらいいか検討もされている。
 このような自然災害なら避けようがないから、その時がきたらどう対処するか、被害を最小限にとどめるためにはどういう対処の仕方をとればいいのか検討しておくことが一番大事なのだが、戦争は人間が起こすものであり、互いの対話・交渉によって武力行使は控え、対立・係争はあっても戦争にはすまいという合意によってコントロールできる。現代戦争は核戦争など起きてしまったら「お終い」というもので、それをいかにくい止めるかに考えを傾注しなければならない。それこそが核心中の核心なのだ。

Ⅲ武力行使が目的でなければ参戦してもいいのか
 
集団的自衛権の行使容認について、安倍首相は「自衛隊が武力行使を目的として他国との戦闘に参加することは、これからも決してない」という。
 しかし、そもそも武力行使は初めからそれ自体を公然たる目的にして行うことなどほとんどありえず、その時になって、その場所で、その状況から(「敵軍」と衝突、攻撃を「しかけられたから」などと)必要に迫られたと称して行なうもの。それが局地戦からエスカレートして総力戦にもなる。アメリカや旧ソ連、それにかつて日本軍が行った戦争など、いずれもそうだった。
 武器・装備は相手方の攻撃抑止のためだとか、万一攻撃を受けた時の備えとして用意しておくのだ、というが武器それ自体は武力行使・殺傷を目的として作られていて、初めから戦闘を想定している。
 それらのことを考えれば「武力行使が目的とはならない『非戦闘地域』或いは『後方地域』だからと称して、そこへ部隊を派遣して、そこでの活動中に、必要に迫られてやむなく武力行使に及んだという分には武力行使は容認される」などという弁明は詭弁であり、それによって「日本は再び戦争する国にはならない」などとどうして言えるのだろうか。

 テロリストは初めから殺傷を目的にして凶行におよぶ。また真珠湾攻撃のような奇襲作戦も初めから武力行使を計画し実行におよんだ。そういった謀略としては初めから武力行使それ自体を目的として密かに行われることはあっても、通常の場合は、そのようなことはあり得まい。殺傷事件でも「誰でもよかった」などと凶器を振り回す異常者も稀にはいるが、普通は強盗殺人などでも「殺すつもりはなかったが、抵抗されてやむなくやってしまった」といった言い訳があるもの。
 「武力行使を目的として参戦することは決してない」などといって、最初からそういうつもりにはしていなかったとはいっても、そこに武器を用意して行って事態のなりゆきによっては自ら武力行使に及ぶか或いは他国軍の武力行使と一体化した行動にならざるを得ないと想定されるものであるからには、その否定句は前もってする言い訳け言葉にしかなるまい。

6月のつぶやき

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                            遺影

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      世界遺産 富岡製糸場 
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2014年06月05日

6月のつぶやき

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●都議会での自民党議員のヤジ。中学生の孫に語って聞かせた。長崎に修学旅行に来た横浜のある公立中学校の生徒が被爆者語り部ガイドに対して「死に損ないのくそじじい」とヤジった話。当方がかつて在職中引率した修学旅行中、薬師寺でたまたま一緒になってお坊さんの説明を聴いていた他校の生徒がお坊さんから「どこから来たの?」と訊かれて「水俣から」と答えた、その脇で我が校の一人がすかさず「ええ?うつる~!」と。
 人様の心を深く傷つけるヤジ、ましてや公人たる自民党議員のこのようなヤジは決して許されるものではないのだ、と。
●新聞に載っていた投稿二つ(抜粋)
 東京都の一高校生の投稿「寮の共有テレビで集団的自衛権絡みのニュースにチャンネルを合わせると、「難しい」「つまらない」といった理由でバラエティー番組に切り替えられることが多々ある。政治の話を同級生に持ち出しても拒絶される。私の周りには自衛隊志望の人も多いが、関係がないはずはないその人たちすら集団的自衛権について知らない人がいるから驚きだ。……学校がこの問題について考える場を設けたり、メディアがさらにかみ砕いた解説をしたりする必要がある。…国民投票法改正によって投票年齢が18歳に引き下げられ、高校生にとっても政治が身近になった。」
 北海道の68歳男性「朝にニュースを見ようとしたら、W杯の試合中継・・・。まるでメディアがW杯に乗っ取られたかのようだ。…国内でじわりと進行している日本国憲法のなし崩し的変質の動きに、いても立ってもいられない気持ち・・・。日本全体がW杯にうつつを抜かしていていいのか。W杯や五輪を楽しめるのも、戦争や貧困がない平和があってこそではないか。…スポーツは勝てないときもあるからこそ、スポーツだ。しかし、日本国憲法と立憲主義は絶対に譲るわけにはいかない。これらは先の大戦での310万人もの死者が残してくれた、かけがえのない遺産だからだ。」
 それにしても、コートジボアールのドログバ選手(自国の内戦を止めた国民的英雄)はアッパレ!日本人サポーター(ゴミ拾い)もアッパレ!世界から(中国人からさえも)称賛されているというか、うらやましがられているらしい。
●人々(中高年・若者)の意識・興味・関心・話題
          目先の実利―アベノミクス
          サッカーW杯―戦争に熱狂するよりはマシか
          中国・北朝鮮問題(反感・脅威感)
  マスコミ(テレビ・新聞・週刊紙)のニュース・話題の取り上げ方
     こ・こ・ろ・ざ・し(憲法・9条などに関する志)―どうもないんだな
    いや、「美しい日本」「強い日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」「改憲」というアベノアンビションがある。そして庶民はそれに引きずられてるんだ。
 理想主義か現実主義か、9条平和主義かアベ流「積極的平和主義」(軍事的平和主義)か
      え?夢想・妄想?絵空事?こっちの方が?アベの方が?どっち?
  ♪絵空事かな お伽噺かな 互いの幸せ 願うことなど♪(桑田佳祐)
●♪都合のいい解釈で 争いを仕掛けて 裸の王様が牛耳る世はINSANE(狂喜)20世紀で懲りたはずでしょ くすぶる火種が燃え上がるだけ・・・・♪(サザン・オールスターズ桑田佳祐の「ピース&ハイライト」の歌詞)
●谷村新司のコンサート(9月当地で開催)のチラシが回覧板に挟まって回ってきたので、チケットを買いに行って「未だありますか」と訊いたら、受付の女性職員が「はい、ありますよ・・・谷村さんのようないい声ですね」と。「いやいや」とは言ったものの心でつぶやいた(やっぱりそうか?)。
●バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが・・・・・米沢一のバラ?(市長は3期目だが、初めて当選する前、我が家の軒先を訪れて曰く、「市内全戸を回って歩いて来ましたけど、ここのが一番ですね」と)。ん~ いい香りだな
●田植えが終わって田んぼには、もう誰もいない。そこで思いっきりウォーキング・ワンマンショー♪ワーレも行く 心の命ずるままに ワーレも行く (バタバタバタ!)ん?(カルガモとアオサギ)さらば スバルよ~♪
●田植えはほとんど終わったようだ。このところ30度以上の真夏日が数日続いている。半袖シャツとステテコに切り替え、箪笥の引き出しの中を冬ものから夏物に入れ替えた。今年は冷夏だというが。

2014年06月09日

憲法に関連する米沢出身の先覚者 二人

(当方、最近初めて知った)
① 宇加地新八―米沢藩士、18歳で戊辰戦争に参加、敗れてのち慶応義塾に入学、卒業後自由民権運動に身を投じ、日本最初の憲法草案をつくり明治政府に建白―主権在民をうたうも、画期的なのは欧米にも先駆けて男女同権をも唱っていること。
② 我妻栄(米沢興譲館出身の民法学者だとかは誰でも知っているだろうが)―東大で岸信介の学友で、岸がA級戦犯で巣鴨刑務所に入った時は釈放嘆願書に名を連ねた。
 しかし、岸が首相になって改憲のために「憲法調査会」を立ち上げ、我妻を誘ったが、それを断り、それに対抗して「憲法問題研究会」を宮沢俊義・湯川博士・丸山真夫・家永三郎らと発会。
 岸首相の日米安保推進に対しては「戦前君はドイツと組んで中国と英米を敵として大東亜戦争を断行することが、我が国の発展のための最も正しい道だと確信しておられた。それはとんでもない誤りだったのです。君はまた同じ誤りを繰り返しているように、私には思われて慄然とします。」と(朝日新聞紙上で)。
以上、参考まで

 新聞に載りぱぐった投稿―いったん新聞社側から11日の新聞に載せることにしましたからと連絡があったのに、その後で、どういうわけか「見送らせていただくことになりました」と。

最悪の戦争事態の事例こそ示すべき
 安倍首相は「あらゆる事態に対して対応できる可能性・選択肢を用意しておくのは当然のことだ」として、いくつもの具体的事例を想定して、それぞれに自衛隊を活用できるようにしたがっている。
だが、自衛隊の介入から紛争当事国・参戦国と見なされ、局地戦から全面戦争になってしまったらどうするのか。核ミサイルが東京に飛んでくることだってあるかもしれない。「ミサイル防衛網」をくぐって都心に着弾したら死傷者の数はどれほどになることか。それらにどう対処するのか、避難・疎開などまで考えなければなるまい。
 原発の過酷事故のように確率は極めて少ないとはいえ、それでも起こりうる最悪の事態を、非現実的、「想定外」だとして度外視できるものではあるまい。
 国民に些末な事例をあれこれ示し、自衛隊をいかに活用するかばかりを訴えるのではなく、全面戦争という最悪の事態に発展してしまう場合を示し、そのような事態に至らないためにはどのような方法をとるのが最も賢明か、国民に示すべきなのではあるまいか。 軍事的「抑止力」で本当に戦争が抑止できるのか、国民にきちんと示すべきである。」

 これは、このブログの評論欄にある「アベノロンポウのおかしさ」の文中Ⅱに詳述している、それを要約して当方が出したのを向こうが字数調整(500字以内)で手直しを加えたもの。

2014年06月17日

比較衡量すれば抑止よりリスクの方が

 高村副総裁は、集団的自衛権問題はその行使容認(他国への武力攻撃、他国どうしの戦争でも参戦・武力行使できること)による「戦争に巻き込まれる可能性」と「戦争を起こさない可能性」(抑止力)との比較衡量の問題で、どっちを選ぶか、その判断は選挙で選ばれた政治家がやる以外になく、抑止力の効果の方が大きいと判断してやるのだ、という意味のことを語っていた。(13日報道ステーション)
 戦争に巻き込まれるリスクと抑止力を比較衡量して考えるならば、集団的自衛権の行使(海外の紛争に介入して一方に加担)を容認すれば、抑止力になるどころか戦争に巻き込まれるリスクの方が大きいにきまっている。自衛隊が海外の紛争に出ていけば、自ずから巻き込まれる機会が多くなるからである。
 中国・北朝鮮などに対しては、現実的にこれらの国に近接して米軍基地を置く日本は、遠くに位置するアメリカに比してリスクがはるかに大きい。アメリカの抑止力に頼り守ってもらうにしても、いったん事が起れば、日本の方が、自衛隊員や在留邦人など一部の限られた国民だけでなく本土と国民全体が巻き込まれて攻撃にさらされる可能性がアメリカなどに比べてはるかに高いからだ。 
どう考えてもリスクの方が大きい。
 それに、その比較衡量を選挙で選ばれた政治家(政府・国会)に判断を委ねるのは危険であり無謀というものだろう。選挙制度(小選挙区比例代表並立制)と民度(国民の成熟度)から見て、選挙は「人気投票」的様相を帯びポピュリズム(大衆迎合)政治家が選ばれやすい現状だからである。

 安倍首相は「抑止力が高まることによって、より戦争に巻き込まれることはなくなる」と言い、高村副総裁も比較衡量論でそのことを合理化しようとしているが、そもそも集団的自衛権を行使できるようにすると、どうして抑止力が高まるのか説明してはいない。説明できないのだろう。
 既に自国に米軍基地を置いて同盟関係にある日本の自衛隊に、今さら集団的自衛権の行使が容認されるようになったからといって、中国や北朝鮮或いはイスラム過激派がビビッて、日本以外の国々(米国その他の諸国)に対する攻撃をためらい思いとどまる気持ちに果たしてなるものかである。それはかえって、反米に加えて反日敵対感情をつのらせ、その攻撃の的にされるばかりなのではないか。しかも、中国・北朝鮮から遠く離れたアメリカ本土・国民は無事でも、直ぐ近くに米軍基地を置いている日本本土・国民が無事で済む話ではあるまい(モロに攻撃にさらされることになるのだから)。
 そういったことを考えると、それ(集団的自衛権の行使容認)が抑止力を高めるという根拠はいったいどこにあるのか?それはありえないと考えるほかあるまい。
 
 尚、中国や北朝鮮の脅威に対しては、アメリカの核の傘などに頼らず、むしろ日本自身が核武装すれば、相手は攻撃しかけてこないはずだ、という「核抑止論」もあるが、日本の核武装を最も警戒している国は他でもない、アメリカなのである。アメリカは日本にそれを決して許さない。そもそも核拡散防止条約(NPT)で非核国のうち核兵器保有を恐れる最重要国は他ならぬ日本なのだからである。もし、我が国がNPTを脱退して核武装などすれば、中国・北朝鮮だけでなくアメリカを敵に回すことになるのだ。
 いずれにしても、これらの抑止論はあり得ない、それこそ「絵空事」というものだろう。

刀をどう使うのが武士道か

 7日付本紙に、集団的自衛権問題のインタビュー記事で、政治学者の櫻井淳教授は「武士道では刀を研ぎ、訓練もするが、抜くものではないという考えがある」と言いながら集団的自衛権の行使(刀を抜くこと)を容認する論を説かれていた。
 ところで新渡戸稲造の『武士道』では、勝海舟は、刀の柄を鞘に「ひどく丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった」という海舟の言葉を引き、『負けるが勝ち』(それは「真の勝利は暴徒にむやみに抵抗することではないことを意味」しており)、また『血を見ない勝利こそ最善の勝利』とか「これらの格言は武人の究極の理想は平和であることを示している」と。
 そういえば、「峰打ち」というものもあり、刀は専ら、相手の刃を受け止めて防ぎ、打ち据えるだけで、斬らない(抑止に徹する)という使い方もあるわけである。
 さて、これらのうちどれが本当の武士道の刀の使い方なのだろうか。我が自衛隊は、どうあるべきなのだろうか。
 安倍首相が容認しようとする集団的自衛権の行使は、武力行使を目的とした他国領域への派遣はしないと言うだけで、武力行使しない(刀は決して抜かない)というわけではないのだが。

2014年06月23日

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                    請戸小学校の廃屋と瓦礫
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                  防護服姿はどこかの外人一行   
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                  慰霊碑の向こうに見えるのは請戸小学校
●南相馬の小高~浪江には昨年も行ってきたが、毎回新たな発見・気付きが加わり、認識を新たにした。あれから3年たつが、原発の近辺は廃墟と原野に化してそのまま廃屋・車・船が未だに所々にころがっている。防潮堤からさらに高台の上にあっても津波に襲われた家々の倒壊家屋、大地がずれ動いたあり様(道路のセンターラインの黄線が途中で向こうの道路端までずれている)など。原発、その下の地盤も大きく動いたに違いあるまい。その上に津波が襲った、その結果の大惨害だったのだな、と改めて気づかされた。

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                      除染廃棄物置き場
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                       小高区役所の向かい
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                   浪江町請戸地区 この先、林の向こう(双葉町)に第一原発
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                       道路がこのようにずれている

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                   南相馬市小高区塚原海岸
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                この防潮堤の何倍もの高さの大津波がおしよせ
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                 この右側から丘の上の家々まで襲ったのだ       
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                 丘の上(海抜15mほど)がこの有様
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