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2023年03月 アーカイブ

2023年03月01日

軍事力による「現実的平和」と非軍事の「理想的平和」―どっちが平和・安全

(1)朝日新聞の「声」に「平和教育」について二つの投稿があった。①「ロシアによるウクライナ侵略という事態を受け、従来の平和教育に疑問を感じるようになりました。」「戦争は絶対いけない」、「しかしウクライナのように平和を願っていたとしても、他国から一方的な侵略を受けることもあります。降伏しても虐殺される場合もあります。」「戦争はなぜ起きるのか、どうすれば防げるのか。たとえ侵略されても、いかなる場合にも、戦争は否定されるべきか。ウクライナ国民が徹底抗戦することをどう考えたらよいか。」
②「『もしミサイルが落ちたら』『他国が攻めてきたら』その時どうするのか」「武器そのものを否定する『理想的平和』に対して、武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』を唱える声は、いまだ教育界ではタブーに近いような気がします。『戦争=悪』であるけれども、平和を維持するためにはどうすればよいか。」と。
 これらは、ウクライナ国民が徹底抗戦する様子を見て、「平和を維持するためには」「武器そのものを否定する『理想的平和』よりも、武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』の方が大事だという考えに傾いてきた、ということなのでは。この投稿者に限らず国民世論もその方に傾いている向きが多くなってきているのだろう。後者(「武器を手に取りつつも平和を」)は要するに「防衛力に依拠した平和」であり「軍事的安全保障政策」「軍事的抑止力による平和」にほかなるまい。
 はたして平和維持、恒久平和実現には、どちらが正解(真理)なのだろうか。
「武器そのものを否定する『理想的平和』」というのは、日本国憲法の9条(戦力不保持・交戦権否認)がそもそも求めている平和であり、それに対して「武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』」の方は、歴代政府が採ってきた再軍備・「自衛隊と日米同盟」による安保政策で、その方向を次第に強め、現在岸田政権が、ウクライナ戦争に影響されてというか、それに乗じてというか、さらに一段と強めようとしているのが、その『現実的平和』政策なるものなのでは。

 「平和」とは、戦争、その危険・脅威・恐怖がなく安心して暮らせる状態。
 「理想」とは、理性によって想像できる完全・最上の状態で、空想・夢想とは異なり実現可能性があるもの。「完全・最上の状態」となると、とても至難の業で見果てぬ夢と諦めがちだが、「為せば成る」(やればできる)可能性はあるのであって、追い求めて然るべきもの。
 どの国にも勝る無敵な兵器と軍備を保持するとなると至難の業だが、「戦力不保持」「戦争放棄」なんて、ただ軍備を持たない、戦争をしない、というだけのこと。その気になりさえすればたやすくできることなのであって、9条は勇気と覚悟を要する至難の業で「武器そのものを否定する『理想的平和』」だというのかもしれないが、それは不可能でもなんでもないわけである。
 「現実」とは、現に存在し展開しているもので、自然現象は自然法則に則って生成・展開している、一方人間の社会現象は基本的に社会法則に則って生成・展開している。それらは人間の理性によって捉えられ、理性によって予め想像・想定できる(その点で、哲学者ヘーゲルは「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と)。現実にはそれ以外に想定外に(思いもよらずに)偶然発生したり、理性によらない感情に動かされ、或いは恣意(気まぐれ)によって行為したりすることから現出する事象も含まれる。
 
 人間には理性・感情とともに自由意志があり、恣意(気まぐれ・わがまま)によって、法則からはずれた不条理な(不合理で、道理からはずれた)現象が人間社会には生じる。
 その最たるものは飽くなき欲望による自然環境破壊であり、戦争(殺傷・破壊)による人間社会の破壊である。戦争は、人間が集団と集団(国と国)の対立に際して、武器を作り出し、軍備を持ち合うことによって行われるようになり、双方の支配権力・政権の都合・思惑・思い付きによる作為・措置など既成事実の積み重ねがあり、それに集団の感情(国民感情)が付け加わって敵対し、遂に激突して始まる。憎悪・殺意に駆り立てられながら戦闘・殺傷・破壊を繰り広げるいうち、理性は失われて止めようがなくなり、停戦・和平は困難を極め、休戦はしても講和、平和の完全回復はいつまでたってもできなくなってしまう(ウクライナ戦争は1年経ったが、いつまで続くのか。朝鮮戦争で北朝鮮と米韓の間では休戦状態にはあるものの講和は未だ。それに日本とロシアとの間では第2次大戦後、戦争状態は終結し国交回復はしているが、平和条約は未だに結ばれてはおらず、北方領土返還は未だ)。それが現実なのだ。
つまり「武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』」つまり軍事(抑止力・対処力)に依拠した平和というのには矛盾が伴い合理性に欠け、脅威・恐怖と背中合わせで、決して安心して暮らせる状態つまり平和とはなり得ないということだ。
 武器・兵器・軍備・軍事同盟は「抑止力」「力による平和」のためのもの、などといっても、それらは、結局は戦争、或いは武力による威嚇のための手段であり、決して戦争・武力行使に無縁ではあり得ず、それに繋がってしまう可能性が付きまとうのであって、そんなものを持ち合って安全だとか、平和だとか、それで安心できるなんてあり得まい。現にウクライナ戦争、それに台湾有事とか朝鮮半島有事の危険を見れば分かりきったこと。なのに、どの国も日本も武器・兵器・軍備を持ち合い、米欧NATOなどは武器供与・軍事支援はしても、戦争を止めようともせずに長引くままに任せている。
 要するに今、現在の世界(現実の世界)―(ウクライナで)戦争が起き(エネルギー危機、穀物・食糧危機などその影響が世界に及んでいる)、或いは戦争が起ころうとしていると(「台湾有事は日本有事」だとか「新しい戦前」だとか)思われていて不安に包まれており、「現実的平和」などというが、それは「かりそめの平和」にすぎず、本当の平和ではない。

 「たとえ侵略されても、いかなる場合にも、戦争は否定されるべきか。ウクライナ国民が徹底抗戦することをどう考えたらよいか」とのことだが、自衛戦争・抗戦は肯定されるべきだというのだろうか。日本は「先の大戦」では「鬼畜米英」に対する「聖戦」と称して「一億玉砕」の徹底抗戦にも何の疑問も持たなかったが、そんなのはもう御免だ。戦争は武器・兵器・軍備を持ち合うから起こるのであり、戦争はいかなる場合にも否定されるべきもの。それが日本国憲法9条なのだろう。(1946年6月新憲法草案が議会に上程されて質疑応答が始まった、その中で共産党議員が侵略戦争と自衛戦争を分け、侵略戦争を否定することを主張したのに対して、吉田首相は「国家正当防衛権による戦争は正当なり賭せらるるようであるが、私はかくのごときことを認ることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認ることが偶々<思いがけず>戦争を誘発するゆえんであると思うのであります」と答弁。この答弁は1954年、政府が自衛隊合憲を打ち出すまでは、9条解釈の政府解釈としてひろく一般に受け止められていた。) 

 日本国憲法は、過去の戦争(アジア太平洋戦争・第2次大戦)における人道に反する未曽有の惨害を二度と諸国民に及ぼすことのないようにとの反省の上に立って、武力・軍備を保持せず、世界に恒久平和を実現すべく、国(政府)に非軍事・不戦を義務付けたものであったが、それは、連合国によって懲罰として押し付けられたなどというものではなく、日本国民自らと世界諸国民の理性によって与えられた憲法{*下記参照}であり、それは現実つまり理性的現実に即したものなのだということである。この平和憲法・9条は、実現不可能・非現実的な「理想的平和」を掲げたなどというものではなく、理性的現実に依拠した実現可能な理想的平和なのだ。平和・安全のために、武器・軍備・軍事力など持たずに、それに代わる何を持てばいいのかって?それは、これまでどの国も手にしたことのない何か格別なものをAIなどによって考案・発明して保持することが必要となるわけではない。何もいらない。ただそれら(軍備)を放棄して何も持たずに、丸腰になればいいだけのことなのであって、その気になりさえすれば、至極簡単、直ぐにでもできる実現可能なものなわけである。しかも、それによって隣国・他国に「安心を供与」できる。
 {*GHQ(アメリカを主とする連合国総司令部)総司令官マッカーサー、同民生局員の憲法草案(骨格)作成スタッフ(ベアテ・シロタら)、連合国極東委員会、首相幣原喜重郎、その後を継いだ吉田茂、憲法草案(政府案)確定、鈴木安蔵ら民間の憲法研究会案、戦後初の男女20歳以上の選挙で選ばれた帝国議会議員(審議・修正協議、両院とも圧倒的多数で可決)、世論調査では賛成85%、反対13%、不明1.3%、9条の戦争放棄条項について必要と答えた人70%、必要でない28%、9条に修正を加える必要なしが56%、自衛権を保留するよう修正すべきが14%など。彼らの理性がこの憲法には込められていると考えられる。}

 また、軍事同盟(日米同盟、NATO或いは準軍事同盟たる日米豪印4国のQUADなど)
を組んで、特定の国を仮想敵国にして包囲したりするから、その国に脅威・不安を与えることになるのであって、そんな軍事同盟を組んだりはしない。国々と関係を結ぶなら、ASEAN地域フォーラムのような東南アジア諸国以外に日韓米中ロに北朝鮮まで加えて、どこかの国を仲間外れにするようなことをせずに包摂する(仲間に加える)、そうすることによってどの国にも「安心を供与」する、そのような仲間づくりをすればよいのだ。
 いずれも実現可能な不戦・非軍事の「理想的平和」の方法なのでは。

(2)「『平和』だけではなく、『正義』を」(朝日「日曜に思う」2月26日国末憲人)
ウクライナの人々―世論調査から見て―「即座に平和を得るよりも、戦う道を選ぶ」「求めているのは『正義』」「市民の怒りが、生命を賭しても『正義』を望む意識に結びついている」と。
 しかし、ロシアの人々の正義は?大統領は「極悪人」でも、国民は別だとでも?
戦時中の日本人は「鬼畜米英」に対して「正義」で、その戦いを「聖戦」と称したが、作家の井伏鱒二は「黒い雨」の主人公の日記に「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く終わりさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも、不正義の平和の方がいい」と綴らせている。
米欧は民主主義国で「正義の味方」、中ロ・北朝鮮は専制主義で「正義の敵」?
 ベトナム戦争では米軍はベトナムを共産主義から守る「正義の戦い」を称し、ベトナム人民軍も米軍の侵攻に対する解放戦争―「正義の戦い」と称して米軍撃退を勝ち取ったが、これはいわば「正義」対「正義」の戦い。
 戦争し合う(交戦する)どの国も大義を掲げ「正義」を振りかざす。そして自国が保持する武器・兵器も正義のためのものとして軍備を正当化。北朝鮮は核・ミサイルをアメリカの核攻撃に対する「抑止力」として正当化し、それに対してアメリカは自国の核兵器は国連で中ロ英仏とともに5大国に認められているものであって、それ以外の国々の核保有は核不拡散NPT条約に反するとして非難・制裁を加えている。
 国々はそうして兵器や軍備を持ち合っているが、国家間で利害対立・紛争があれば、それぞれ自国エゴ(自国優先主義)が働き、「正義」と武器・武力を振りかざして激突すれば戦争になり、敵愾心・憎悪に駆られ殺傷・破壊が展開されて双方とも惨害を被る。ベトナム戦争では、死者は、ベトナム人民軍側は(勝利はしたものの)軍民合わせて100万人台、米兵の戦死者は5万人台。ウクライナ戦争は、これまで、ウクライナ軍の戦死者は(同国政府側からの情報では12月までで)1万3000人台、民間人の死者は(国連高等弁務官の発表で2月までで)8000人台、ロシア軍の戦死者は(イギリス国防省の発表では2月までで)4万~6万人台。
 要するに「国々がそれぞれ『正義』を掲げて国民が武器を手に取って戦い、殺傷・破壊し合って生命を犠牲にする」それが戦争なのだ。いわば「国々がそれぞれ自国に『正義』があり、武器・軍備を持ち合っての戦争」。但し国連憲章にあからさまに違反する侵攻など相手国はもとより多数国から「正義」とは認められない違法行為なら許されず、又は交戦法規で禁止されている残虐行為や無差別攻撃などの違法行為なら「戦争犯罪」として許されないが、そうでない限り(その範囲内であれば)自衛・反撃戦争なら個別的にも集団的にも容認され、兵士(戦闘員)なら何万人殺してもかまわない。つまり殺傷・破壊行為とその武器・兵器・軍隊の保有・使用も軍事同盟も容認されている。しかし、それでいいのだろうか。戦争ルールさえ守ってやれば、殺人兵器を持ち合い、殺し合って人命を犠牲にしても、それが容認されるなんて。戦争(殺し合い)すること自体が犯罪なのでは先に仕掛けた方であれ、仕掛けられた方であれ、侵略戦争であれ自衛戦争であれ、戦争はすべて禁止、核兵器など大量破壊兵器や残虐兵器だけでなく兵器・軍備はすべて禁止・全廃すべきなのではないか。
 国のリーダー(権力者)が掲げる「正義」というものは、それぞれの自国・自分の立場・都合に応じた相対的なものであり、どの国の誰もが認める絶対的な正義ではない。「正義」というものは、とかく、戦争に際して自国の戦争目的・戦争行為の正当性を国内外にアピールし、自国民或いは同盟国を戦争に駆り立てるための「大義名分」となる便法・口実として活用され、武器や兵器とともに戦争に不可欠な、いわば道具に過ぎない。それに対して平和は生命が犠牲にされることも、生存が脅かされることもなく安心して暮らせること。人間誰しも、どの国の国民も、一人一人にとって一番大切なものはといえば生命であり、生命を全うすること、生きること、つまり生命・生存こそが絶対的最高価値なのでは。そして戦争によって犠牲にされ脅かされることなく安心して暮らせるのが平和。だから平和は生命とともに一番大事なもの。それが、「聖戦」だとか「正義の戦争」だからといって生命を犠牲にしてもはばからないのは本末転倒というものだろう。理性(理屈)だけで考えればそういうことになるのだが。
 しかし、人間には感情―プライド・意地・怒り・憎悪、或いは心理―対抗心・闘争心・復讐心・殺意・「攻撃欲動」「死への欲動」といったものあって、その方が理性より先行し、勝ってしまうという場合があるわけである。ウクライナでは「市民の怒りが、生命を賭しても『正義』を望む意識に結びついている」というのもそれだろう。そういったものを掻き立てる、それが戦争なのだ
 だから戦争してはならないのだ。場合によってはやってもいい、自衛戦争ならいいとか「正義の戦争」ならいい、などといった相対的なものではなく、戦争自体が不正義なのである。
 
(3)それに対して「武器・武力を持たず、戦わず、諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持する平和」。そんなのはユートピア、「お花畑」の世界の話だというが、誰しも危険・恐怖・不安のない平穏・無事・安全・安心を求め、そのためには誰もが(交通ルールで信号を守るものと信じることによって、安心して歩行・運転できるように)ルール(国際法)を守り、約束(条約)を守るものと信じて争わず、自分(自国)もルール・約束を守ることによって安全と生存を保持しようとする、そんなことは当たり前の理屈で、格別のことではなくユートピアでもなんでもあるまい。それに諸国民と信頼関係を結んで敵対せず、安全・安心を確保するということだ。
 この憲法を制定する直前まで中国とは15年にわたって、米英とは3年8ヵ月にわたって戦争した最悪の敵対関係にあった。それがアメリカとは「信頼関係」以上のベッタリ親密な関係を続け、そのアメリカが目の敵にし始めた中国それにロシアとは再び関係悪化。ロシアはウクライナとの間に紛争があり、ウクライナが加盟しようとしているNATOの盟主アメリカをはじめとする加盟国の「公正と信義」に対する不信から、話し合い・交渉を断念してウクライナに軍事侵攻を強行した。それに対してウクライナは抗戦、NATOが武器を供与して軍事支援。西側諸国に日本も加わってロシアに対して経済制裁を行っている、というのが現在進行中のウクライナ戦争。また朝鮮戦争以来アメリカに対する脅威から核実験やミサイル発射実験を度々強行して国連安保理の非難・制裁決議を受けている北朝鮮のような国もあるし、中国のようにアメリカに迫る経済・軍事大国にのし上がり、覇権主義が警戒されて、アメリカが主導し日本も加わる「対中包囲網」の軍事的圧力を受けている国もあるわけである。
 しかし、だからといって、どの国も信頼がおけないというわけではないだろう。
 ただ、国連憲章は現在に至るまで各国の武器・兵器・武力の保持・保有を容認しているので、どの国も軍備を持ち合っている。そのような中で、国によっては公正と信義に不信を抱き、交渉・協議(話し合い)を尽くさず断念して、武器・武力に訴え、力ずくで決着をつけようとして、戦争に走ってしまいがちとなる。(30年前アメリカのルイジアナで起きた日本人留学生射殺事件―ハロウィーンで仮装して訪問した家を間違えて、入ろうとした玄関先でその家主から射殺された。その家に銃など置いてさえいなければ、ろくに訳も聞かずに、いきなり発砲したりはしなかっただろうに)互いが武器・武力さえ持たなければ、武力に訴えたりせずに、あくまで話し合い、徹底対話・交渉の方に専心できたものを、武器・武力があるばかりに戦争を仕掛け、仕掛けられた方は「徹底抗戦」に囚われて、いつ果てるともない戦争になってしまっている。それがウクライナ戦争である。
 日本人にとっては、どうなんだろう。いくら「諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持」しようと思っても、信頼のおけない「ならず者国家」がある限り、武力の保持・軍備が必要であり、戦争を仕掛けられたら、徹底抗戦して「正義」のために生命を賭して戦い、戦争ルール(戦時国際法)をしっかり守って「ならず者」の敵兵を殺せるだけ殺して降伏させ、勝利が得られれば、それで万々歳だとか、それで(戦争して殺し合って)「万歳!」などと叫んで喜ぶとすれば、その方が「お花畑」。又、「諸国民の公正と信義に信頼」なんて、そんなことは出来やしない、力(軍事力)こそが安全と平和の拠りどころだなんて、そんな平和に安住していられるんだとすれば、それこそが「お花畑」なのでは。

 日本国憲法は「日本国民は諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持しようと決意し、戦力を保持せず国の交戦権を認めず、国際紛争解決の手段として戦争・武力による威嚇・武力行使を放棄する」ことを定めた。それは、いわば「危険物(軍備)を持たない、危険なこと(交戦)はせずに安心供与、それだけのこと」なのだ。
 「諸国民との公正と信義に信頼」といっても利害の対立・紛争はある。しかし、その解決はあくまで話し合い・交渉に徹し、どうしても折り合いつかない場合は国際司法裁判所などに仲裁・裁決を求める。相手が軍事力で威嚇して押し切ろうとしても、それには応じない軍事侵攻してきた場合には海上保安庁の警察力で対応し、可能な限り阻止・排除に当たる(それが可能な対応能力の量的・質的な拡充は必要になる)も、応戦・反撃など戦争はしない違法な侵攻には直面した我が国に対しては、公正と信義に信頼を寄せる諸国民から支援が得られ、侵攻した国は非難・制裁を受け、かえって損失を被ることになる(だから、結果はそうなると分かりきった愚挙を敢えて犯すような国などあり得ないといっても差し支えあるまい)。
 国際司法裁判所の裁決に際しては、それに従わせる強制力として常設の国際警察軍も必要となる。現状の国連にはそれが出来ていないが、早急にその創設に取り組まなければならない。
 将来的には、これらも含めて(可能な限り我が国が主導して)国連の抜本的改革(国連の現状変更)が必要となる。国連憲章を我が国の憲法9条のように改正して、自衛戦争であれ何であれ、いかなる戦争も禁止し、どの国も「戦力の保持」を禁止し、軍備を全廃する方向に。そうすれば戦争はなくなるし、そうしなければ戦争はなくならない
 現在の国連は、各国が軍隊を持っていることを前提にして、集団安全保障と称して「侵略行為」に対する軍事制裁に際して国連軍に加盟国が兵力を提供、軍隊派遣を要請するとか、個別的・集団的自衛権を認めて自衛戦争を容認するやり方を採っているが、各国に軍備・軍事同盟を許している限り戦争はなくならない。なぜなら、どの国も自国の軍隊と軍事行動を不正な侵略や武力行使のためなんかではなく、あくまで「正義」・「自衛」のための軍隊であり、先制攻撃も、そのためのやむを得ない軍事行動なのだと自認・自己弁護して憚らないからである。
 かつて日本が行った満州事変に始まる日中戦争、それに真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争も、アメリカがやってきたベトナム戦争やアフガニスタン・イラク侵攻、そして今やっているロシアのウクライナ戦争など、どれもこれも「正義」と「自衛」の名のもとにやってきたし、やっているのではないか。

(4)ところで、国際司法裁判所といえば、本県の山辺町出身の人物で、かつてその裁判所長に就任した安達峰一郎という人物がいる。
{その経歴を見ると、1905年、日露戦争のポーツマス講和会議の全権委員随員
          1919年、第1次大戦のパリ講和会議の全権委員随員  
         1920年、(この年、国際連盟 設立―新渡戸稲造が事務次長の一人に
                            選ばれ以後7年間在任)                            
              常設国際司法裁判所規程の起草委員               
         1921年、国際連盟第2回総会から、以後第10回総会まで日本代表
         1929年、国際連盟理事会議長
         1930年、常設国際司法裁判所判事
         1931年、  同 裁判所の所長に就任(この年満州事変勃発)
         (1933年、日本が国際連盟から脱退)
         1934年、死去                       }
 当時は常設国際司法裁判所と称され、第1次大戦後に(オランダのハーグに所在)創設されて、その4代目の所長に就任。ところが折悪しく当時日本は満州事変を起こして国際連盟を脱退。3年の任期を務め平判事に戻ったが、連盟脱退問題の悩みから体調を崩し、心臓病を発症し、アムステルダムの病院で亡くなった。その時オランダは国葬の礼をもって国際平和に尽力した功績と栄誉を称えたという。

 新渡戸稲造は国際連盟の事務次長、安達峰一郎は連盟総会では日本代表として重なる部分があるが、新渡戸の著書『武士道』には、武士道を体現した人物の一人に勝海舟が紹介されているが、その中で、勝海舟は刀を一度も抜いたことがなく(決して抜かないように刀の「つば」と「さや」を紐で結わえていた)、「負けるが勝ち」をモットーとし、西郷隆盛との談判で「無血開城」を決した。刀をむやみに抜くべからず、「戦わずして勝つ」。これこそがサムライだというわけ。
 サムライはかくあるべし。日本人の国際貢献は、かくあるべしで、戦争など軍事貢献ではなく、国際平和貢献でなければならない。中村哲氏は紛争中のアフガニスタンで医療活動とともに荒廃した農地の回復のため灌漑用水建設事業に長年携わり、対テロ戦争の最中にもかかわらず現地で動き回り、その途上テロにあって亡くなった。サムライ日本人はかくあるべし、なのでは。

(5)いずれにしても「武器を手に取りつつも平和を掲げる現実的平和」などあり得ない、ということだ。武器(殺傷用武器)を手に取ったら戦争(殺し合い)になるではないか。
人を殺したり傷つけたりしない武器なんてあるだろうか、人を殺さない戦争なんてあるだろうか。戦時国際法・交戦法規・国際人道法などがあって、残虐兵器や無差別攻撃の禁止、非戦闘員・文民保護・捕虜・傷病兵の保護規定などがあり、それを守ってやりさえすれば、侵略戦争でない限り、自衛戦争ならやってもいい?民間人・非戦闘員を巻き込まず、民間居住区域・非軍事公共施設のない荒野の戦場だけで戦闘をやるなんてできるの?非戦闘員なら何人殺したっていいの?戦闘員でも不必要に苦痛を与えずに殺すのなら殺してもいいわけ?核兵器でも低エネルギー放射ならいいの?「きれいな戦争」・「フェアな戦争」なら、いくらやってもいいの?
 「武器を取りつつも平和」なんてあり得まい。それこそ非現実的平和。矛盾―どんなに優れた「矛」に対してもはね返して防ぎきれる「盾」なんてないし、どんなに優れた「盾」に対しても突き抜くことのできる「矛」なんてあり得まい。
 ♪勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷(くに)をでたからは 手柄たてずにいられよか・・・・・東洋平和のためならば なんで命が惜しかろう♪
 かつてこんな軍歌(古関裕而作曲「露営の歌」)がったが、「平和のための戦争」「平和のための武器・軍備」なんてあり得ないし、恒久平和(持続可能な平和)のためには「戦力不保持・軍備全廃」「不戦・交戦権否認」しかあるまい。

2023年03月05日

軍備さえ廃すれば戦争なき恒久平和が実現

 いつ終わるともないウクライナ戦争に思う。戦争には殺傷・破壊が伴う(端的に言えば「殺し合い」だ)。その戦争が起こる要因は(1)国家間に対立・紛争があること。(2)武器・軍備を持ち合っていること。(3)一方に挑戦(攻撃仕掛けようとする)意志(意欲)が生じ(掻き立てられ)ること。(4)他方に抗戦(応戦)意志が生じ(掻き立てられ)ること。これら4つがあって戦争は起こる。
 このうちの決定的要件は(2)で、互いが武器・軍備を持ち合っていること。それさえなければ、(1)の国家間対立・紛争はあっても、(3)の挑戦意志も、(4)の応戦意志も生じ(掻き立てられ)ることなく戦争は起こらない。なのに、双方とも武器・軍備を持ち合っているばかりに、武力を行使し合って戦争になる。又、(3)で一方に挑戦意志が生じても、(4)で他方が武器・軍備を持たないか、応戦意志がなければ戦争にはならない。
 ウクライナ戦争の場合は1から4まで全てがそろって戦争が起きて止まらなくなっている。
それに対して日本の憲法(9条)は戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認が原則で、(2)の武力・軍備を持たず、(4)の交戦意志も持たないのであれば、どの国も日本との戦争は起きないことになる。
 「武器を取りつつも平和を掲げる現実的平和」論なるものを論じる向きがあるが、それは武器を取って戦い合い殺し合うのが平和のためであるかのように合理化して、「防衛力」(武力)強化を正当化する。そのような誤魔化しではなく、9条の正論(真正の平和・人間の安全保障論)の必要性を自覚し、むしろそれ(9条)を国連憲章にも各国にも「かくあるべし」と世界に押し広げることこそが切望されるのではないだろうか。
 ウクライナ戦争の有様を見て、日本の平和憲法(9条)がいかに大事か、気づかされた。

2023年03月07日

侵攻したロシアがやめなければ、ウクライナは抗戦をやめられず、戦争は終わらないのか

 ウクライナ戦争について、鶴岡慶大准教授は(2月27日付朝日『ウクライナききの深層』で)「戦争を防ぐために外交は大切だが、本気で武力侵攻しようとする隣国を『話せばわかる』では止められないことがよく分かった。そして国を守るためには戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ誰も支援してくれない。日本にとっても重い教訓だ」と。
事実認識―「本気で武力侵攻しようとする隣国を『話せばわかる』では止められない」ということだが、そこのところは、はたしてどうだったのか?
 あたかも、ロシアは初め(以前)から武力侵攻を企図していて、「話せばわかるも、わからないも」相手の対応がどうであれ、いずれ強行する手はずになっていたかのような論じ方だが、ロシアが侵攻に踏み切るに至った、そこには様々な曰く因縁(歴史・経緯)があってのこと。
 ウクライナにはソ連解体以前に伴う独立以前からずうっと、主として東南部(ドンバス地方とクリミア半島にロシア人が住みついていた(人口の3分の1)。それが独立後、親ロシア政権と反ロシア(親米欧)政権の交代が繰り返され、2014年政変(マイダン革命)で反ロシア政権が樹立以来、クリミア半島はロシアが併合、東部ドンバス地方の親ロシア武装勢力とはウクライナ政府軍の間で内戦が続いてきた。ゼレンスキー政権は停戦合意(ミンスク合意)があったにもかかわらず内戦を続行していた。
 一方ロシアはソ連解体に伴うWATO(米ソ冷戦時代、西欧のNATOに対抗して東欧諸国が加盟)解体以降、NATOだけが残って、それに東欧諸国が次々と合流・加盟しロシアだけが取り残され孤立感・危機感を覚えるようになった。それにウクライナまでがNATOに加盟しようとし、ゼレンスキー政権はそれを推し進めようとしていた。
 ロシアは、ウクライナに侵攻する前に(前年12月)、アメリカ・NATO側に対して(「安全保障の不可分原則」ということで)「他国の安全保障を犠牲にする形で安全保障を強化しないこと」、つまり、ウクライナのNATO加盟を認めないこと、アメリカ・NATO側はウクライナに軍事力を駐留させず、攻撃型ミサイルを配備させないことを約した条約・協定案を提示していた。しかし、それはアメリカ・NATO側から受け入れられなかったのだ。
 このような経緯から見れば、単純にロシア側の一方的な「話せばわかる」では止められない「問答無用」の侵攻どころか、むしろ逆に(ロシア側からのウクライナのNATO加盟否認要求を突っぱね、内戦の停戦合意も反故にしていて)、侵攻を仕向けたような感じさえも。
 いずれにしても、ウクライナ(ゼレンスキー政権)には初めから戦わない選択肢はなかったということだ。「国を守るためには戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ誰も支援してくれない(アメリカ・NATOの軍事支援は初めから織り込み済み)」、要するに「話せばわかる」もなにも、「戦争に持ち込む」という選択肢以外に、ゼレンスキー大統領にもバイデン大統領にもなかったということ。これが彼ら米欧NATOとウクライナの対ロ戦略なのでは。
 
 「国を守るためには戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ誰も支援してくれない。日本にとっても重い教訓だ」というが、対中・対ロそれに対北朝鮮戦略でも自衛体は、こうして戦わなければいけない。自ら戦う意思がなければ同盟国アメリカも支援してくれないから、ということか?

 これは、あたかも岸田首相らの政権党政治家の自国本位の戦略的考え方のように感じる。日本国憲法(前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」、「全世界の国民が、恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有する」、9条に戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認、13条に「すべての国民は個人として尊重される。生命・自由および幸福追求に対する権利については公共に福祉に反しない限り、立法その他国政の上で最大の尊重を必要とする」など)が国(政府)に求める外交戦略は、対中戦略でも対ロ戦略でも対北朝鮮戦略でも、不戦・非軍事の平和戦略でなければならない、とされているのとは相いれない考え方なのでは。

 バイデン米国大統領は2月ウクライナ「電撃訪問」からの帰途(21日)ポーランドで言明。いわく「もし、ロシアがウクライナ侵略をやめれば戦争は終わる。もし、ウクライナがロシアに対する自衛をやめればウクライナが終わる」と(そう言ってウクライナ大統領の「徹底抗戦」を励まし、さらなる軍事支援を確約し、ポーランドなどNATO同盟国をも激励)。それは「ロシアがやめない限り戦争は終わらない」ということと「ロシアがやめるまでウクライナの抗戦を軍事支援し続ける」ということだろう。
 しかし、ロシア側は「侵略している」とは思っておらず、ウクライナ軍が抗戦し、それを米欧(NATO)が軍事支援し続ける限り、やめるわけにはいかない、と思っているのでは。
 ということは、互いに相手がやめない限り、やめない、ということであって、戦争はいつまでも終わらないことになる。
 それから「ロシアが(侵略を)やめれば戦争は終わる」というのはその通りだが、「ウクライナが(自衛を)やめれば、ウクライナは終わる」というのは、どうなのだろうか。それは、ロシア軍に対して抵抗をやめ武器を置くということであり、降伏を意味し、ロシアの要求に全面的に従わせられるということなのだろうか。しかし、「ウクライナが終わる」といっても、ウクライナが、滅亡して独立した国(主権国家)ではなくなるということだとしたら、それはあり得ないだろう(日本はかつて連合国に無条件降伏して「大日本帝国」は終わったが、日本という国が終わったわけではなく、領土は千島列島以外は、植民地として領有してきた朝鮮半島や台湾・樺太など返還させられ、武装解除させられたものの、新憲法によって非軍事・非同盟中立・民主の新たな主権国家として存続しているように―ただし、非軍事・非同盟の点は「自衛隊」の形で再軍備、アメリカと従属的な同盟を組むようになって変質はしているが。)
 ロシアがウクライナに対して、かねてより求めてきたNATO非加盟・中立化・非核軍事化とロシア人居住地域(ウクライナ領土の3分の1)の扱い(課題)については改めて交渉、それによって相互の安全と生存権の保障を確定し、ウクライナの戦災復興協力・平和回復を推進するという、そういったことが必要となるわけではあるが、「ウクライナの領土・主権が終わる」ということはあり得ないだろう。
 いずれにしろ、これ以上の殺し合い(殺傷・破壊)の戦争は一日も早く終わらせなければならないということ、それだけは確かだろう。

 しかしながら、大統領―政治家であるバイデン氏にとっては、自分の使命は、人命・人権第一の人道的・道徳的目的よりも、国益など政治目的の達成であり、そのための戦略的考えに立っている。バイデン大統領に限らず、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も、彼ら(政治リーダー)にとって関心事は当然のことながら政治目的と、その達成のための方策・手段。ウクライナ戦争という、この場合のプーチン大統領の目的はロシア連邦国家とウクライナに住む同胞ロシア人の対米・対NATO・対ウクライナの安全保障であり、ゼレンスキー大統領の目的は、そのロシアに対するウクライナ国家の主権と領土の確保(併合されたクリミア半島とドンバス地方の奪還)および安全保障である。そしてバイデン大統領の目的はプーチン大統領に対する政治的勝利であり、そのため手段とされているのがウクライナ戦争なのだが、それへの直接参戦ではなく、ウクライナ軍の対ロシア抗戦への軍事支援。その勝利こそが本命で、そのために犠牲となるロシア兵の人命はもとより、ウクライナ市民・子供たちの人命、戦争の影響が世界に及んで諸国民が被っているエネルギーや穀物・食糧危機などは二の次。だから戦争回避・ストップとはならないのだ。米国大統領である彼にとっては、その戦争は、自国民が犠牲となるアメリカの戦争ではなく、ウクライナの軍民がロシアと戦っていて、アメリカはそれに武器を供与して軍事支援している、いわば代理戦争であり、自国民の命が犠牲になり、惨害を被るという心配はないのだからである。
 
 そこが、当方のような「自分の生命の安全、平和で幸福な生活、人生の全う」を第一と考える庶民の立場とは全く違うのだ。当方にとっても、遠い他所の国のことで、直接自分の命や生活・人生に関わる事では全くないのだが、人間の心情として無関心ではいられない。とにかく、殺し合い、壊し合いの戦争はやめてくれ!侵略の側であろうと自衛の側であろうと、どっちかがやめれば戦争は終わるのだから。
 人間には理性・感情があり、様々な思い・思惑があるが、戦争、それにその道具である殺傷・破壊用の武器・兵器が人間のそれら(理性・感情)を狂わせる―人間愛・正義感・矜持(プライド)・英雄心(ヒロイズム)から意地・憎悪・憤怒・敵愾心・闘争心・殺意へ。それに衝動(「死への欲動」「攻撃・破壊欲動」「自暴自棄」など)も武器・兵器を手にすることによって掻き立てられるのが戦争なのだ。
 だから武器・兵器を無くせ!そしてあらゆる戦争を無くせ!という以外にないのだ。

2023年03月11日

喧嘩両成敗論

戦争が起こる要因
① 対立・紛争(もめ事)があること
② 武器・軍備の保有
③ 仕掛けようとする意志(挑戦意志)
④ 抗戦しようとする意志(応戦意志)
これら4つのうち、①はあっても②さえなければ③④の意志は起こらない、つまり戦争は起こらない。又、③があっても④の意志がなければ戦争にはならない、と考えるに至った。
 そこで気が付いたのは「喧嘩両成敗」論で、それも、そもそも日本の戦国時代に生まれた大名たちの(それぞれの領内で定めた)分国法。それは「問題(家臣・領民たちの間でもめ事)を起こしたら双方を処分するのではなく、問題を訴訟によらず、武力で解決(「故戦」つまり戦争を仕掛け、それに対して「防戦」「自力救済」つまり自衛抗戦)つまり戦争をしようとしたら双方とも処分する、というもの。これらは、③④ともに交戦意志を禁じたもの。
 今川義元の『今川仮名目録』では、「喧嘩に及ぶ輩は理非を論ぜず、双方とも死罪」「喧嘩を仕掛けられても堪忍してこらえ・・・・とりあえず穏便に道理に従ったこと…して罪を免ぜられるべき」と。
 武田信玄の『甲州法度之次第』では「喧嘩はどのような理由があろうと処罰する。ただし、喧嘩を仕掛けられても我慢した者は処罰しない」と。
 「故戦防戦の法」の場合は、攻撃を仕掛けた側を防戦した側より重めに処罰することになっていたが。
 そして、天下統一して天皇の下・関白太政大臣となった豊臣秀吉が『惣無事令』(大名間の領土紛争の裁定を決めた法令で、私闘・私戦の禁止、違反した大名は秀吉が討伐するとして、九州の島津、関東の北条、東北の伊達政宗らに対して)発した。
これらは、彼ら亡き後は、いずれも(喧嘩両成敗の分国法も秀吉の総無事令も)無くなり、徳川の武家諸法度には直接その定めはないものの(大名たちには「一国一城令」で城は一つだけ許し、新築禁止、幕府の許可なく補修も禁止、私闘を禁止、大名同士の政略結婚・同盟を禁止するなど)、その精神は引き継がれている。そして、長らく(250年余の間)戦乱のない平和が続いた。
 これらは、治国平天下を目指した権力者なりの平和戦略であって、(どうやったら戦争に勝てるかの)戦争戦略ではない。
 今の憲法9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)は他国および世界の諸国に対しての平和戦略(その根幹)をなすものと考えられる。それは②(武力の保持)③(戦争を仕掛ける意志)④(交戦する意志)3つとも禁じている。
 それに対して国連憲章は、③(侵攻し、戦争を仕掛ける意志)だけ禁じて②と④は禁じていない。
 その意味では、日本国憲法の方が、国連憲章の先を行っていて、最先端をなしているのでは、といえないだろうか。この9条が国連憲章と世界の諸国にまで及べば戦争はなくなるのだ!

2023年03月15日

命を懸けるべきは戦争か、不戦平和か?―日本人に求められている覚悟

 新聞広告に出ている小林よしのり著『ウクライナ戦争論』の広告文に「『お花畑国家』日本の警告する!」「第3次世界大戦が始まるのか?『国家』がある限り『戦争』はなくならない!」「ロシア、中国、北朝鮮という『核』を保有する独裁国家に囲まれた日本は、いざというとき戦う覚悟はあるのか?」「世界で一番臆病な戦後日本人は、ウクライナ人のように、侵略者と戦うことができるのだろうか」「次は・・・・中国によって台湾が主戦場になるだろう。そうなれば日本は戦争の当事国とならざるを得ない。・・・・日本人は覚悟を求められているのだ」などと。

 朝日新聞の昨年12月の「声」投稿に『平和教育はこのままでよいか』などの投稿があって、「戦争は絶対いけないと叫ぶだけでは・・・・」とか、「たとえ侵略されてもいかなる場合も、戦争は否定されるべきか」「ウクライナ国民が徹底抗戦することを、どう考えたらよいか」
 「もしミサイルが落ちたら、他国が攻めてきたら、その時どうするのか」「武器そのものを否定する『理想的平和』に対し、武器を取りつつも平和を掲げる『現実的平和』
 3月14日の投稿には『未来のロシア国民 支払う代償は』には「ウクライナ人の愛国精神」「諸外国からの武器供与によって持ちこたえている」「子供たちの心にはロシアに対する憎しみだけが、拭い去ることのできない思いとして残ることだろう」「この戦いは、プーチン大統領一人の決断で終えることができるはず」と。

 このウクライナ戦争は、そもそもどうして起こったのか、どうして止められないか。その経緯・経過には地政学的に複雑な絡み合いがあると思うのだが、これらの投稿では、それが「ロシアの侵略戦争」対「ウクライナの自衛戦争」に単純化されているように思われる。
 ウクライナは、歴史を遡れば、ロシア帝国~ソ連という国の一部として組み込まれてきて、そこにはロシア人も住んできた。それがソ連解体にともなって独立することになったのだが、そのウクライナには、ウクライナ系住民(カトリック教徒)が主として北西部に(全人口の)約3分の2、ロシア系住民(ロシア正教徒)が主として東南部に3分の1居住。
 東西冷戦時代ソ連は、西側の軍事同盟NATOに対して東欧諸国と同盟WATOを組んできたが、ソ連解体とともにWATOは解体し、その後東欧諸国は次々とNATO加盟に向かい、ロシアは孤立する形勢となった。ウクライナでは親米欧派(NATO・EU加盟支持派)と親ロシア派の国内対立が生じ、大統領選挙などその度に政変が引き起った。そして2,014年に「マイダン革命」で親ロシア派とされた大統領が追放、親米欧派政権樹立に及んで東南部のロシア系住民が離反、内戦が始まった。クリミア半島はロシア連邦に編入、東部ドンバス地方では2つの人民共和国が独立してウクライナ政府軍と間で攻防戦を続け今に至っているわけである。

 ロシアはウクライナ侵攻を、大統領はもとより、国民の多くも、それが必要だとする理由の正当性を疑っておらず、「侵略」だとは思っていない。愛国精神もあるだろうし、母国ロシアの安全保障にとって米欧同盟NATOとそれへのウクライナ加盟に脅威を覚え、それにウクライナ(東南部)に住むロシア人を護れという同胞意識もあるのだろう。
 それに対してウクライナ人にとっては、その愛国精神とロシアに対する脅威から、侵攻したロシア軍に対する単なる自衛抗戦だけでなく、ロシア人居住地域が分離独立したり、併合されたりした領土の奪還までが戦争目的となっている。

 そういうことで、それぞれの戦争目的があって、その目的を果たすまで戦い続けなければならず、傍から「もう、やめろ」とか、大統領さえ決断すれば終えるはずだ、などといわれても、双方ともやめるわけにはいかない戦争になってしまっている

 戦争は相対するどちらかがやめれば戦争は終わるはず。なのに、双方とも自国の戦いを「正当」或いは「やむを得ざる戦争だ」としてやめようとはしない

 どちらかが力尽きて(武器弾薬・兵力が限界に達して)ギブアップしたら終わる。
ロシアが屈し(敗北し)たら、ウクライナはその戦争目的(クリミア半島とドンバス地方の奪還)を果たし、NATO加盟は確定する。ウクライナを軍事支援した米欧NATOの勝利ともなって結束は強まり、同盟は強固になる。一方ロシアは弱小国に転落。ロシア国民は国際社会で肩身の狭い立場に置かれ、国連安保理の常任理事国から外されることにもなるだろう。しかし、「核大国」ではあり続けるだろうし、その脅威は残る。
一方、ウクライナが屈したら、クリミア半島とドンバス地方などの奪還とNATO加盟は断念。

 それはともあれ、いまはどちらも屈してはおらず、主としてクリミア半島の北に連なる東部ドンバス地方で攻防が続いている。戦争が続いている間に、双方の兵士(死傷者はロシア兵の方が多い)、それにウクライナの戦闘地域で巻き込まれる民間人・子供たちの犠牲者が増す一方となる。
 戦争では(戦時国際法で無差別攻撃とか残虐行為の禁止とか不必要な犠牲や損害の規制はあっても)戦闘員の殺傷や兵器・軍事施設の破壊そのものは免罪され、殺し合いとなる。戦場や砲撃対象が人々の居住地・市街地の中にあった場合は、そこで民間人・民間施設が巻き込まれて死傷・破壊を被る。

 その国の戦争指導者や国民の人命に対する価値観・国民感情によって、人命や人道より国家の運命・戦勝・愛国心・闘争心・復讐心などが優先するか、しないかに違い(戦果に対するリスク計算の違い)があるが、両国民、それにウクライナ軍の戦いを支援する国々の国民は、当方からみれば、命を惜しまず、戦争を厭わないかのように思えて「すごい」という驚異、否むしろ「恐ろしい」という脅威を覚える。かつての我が国の軍民はまさにそのようなものだったのでは―「撃ちてし止まん」(敵を撃つまで戦いをやめない)とか「一億玉砕、火の玉だ」とか

 しかし、かつてアジア・太平洋で大戦争をして未曽有の悲惨を経験した日本国民憲法で「再び戦争の惨禍が起ることのないように決意し」、「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有する」として、9条に戦争放棄と交戦権否認を定めた、その立場からすれば、いかなる理由があろうと戦争はいけない、それは何としても回避しなければならないもの。どちらが勝っても、憎悪・怨念しか残らない、殺し合う戦争そのものが絶対悪なのだ。武器・軍備も、それは(「抑止力」「対処力」などと称しても)殺傷・破壊するための「戦力」であり、そもそも戦争するためのものであって、持続可能な平和のためのものにはならないわけであり、わが国のみならず、どの国も全廃し、「核兵器のない世界」のみならず、「すべての兵器と戦争のない世界」を目指さなければならないのだ。

 ノーベル賞作家の大江健三郎は(2004年「9条の会」発足記念講演で)「人間が身近に死者を受け止め、自分の死についても考えざるを得ないときに、倫理的なものと正面から向かい合う」(戦争直後こそ、日本人がかつてなく数多くの死者を抱え、最も倫理的になった時だった)。憲法と教育基本法は「じつに数多くの死者の身近な記憶に押し出されるようにしてつくった」ものであり、「文体は自然な倫理観がにじみ出ている」と語ったとのこと。
 要するにそれは次のようなことなのでは―
{ 戦争→死→自分の死を意識→死ぬ覚悟で行為を選択・決断→倫理(人道)に照らして
 ―武器を取って戦う(殺し合う)べきか、戦わざる(殺さざる)べきか、敵として撃つべきか、敵とせず隣人として共生べきかを選択・決断
 憲法は戦争に訴えず、武力に訴えないことを求めている }ということ。

 元日本ペンクラブ会長・作家の阿刀田氏は「『軍備を持たず、どこかに攻められたらどうするのか』と訊かれたら、『その時は死ぬんです』と答えるつもりだ。武器を持って誰かを殺しに行くよりは、丸腰で平和を守るために命をかけたい」と。
 大戦で数多くの兵隊・民間人が死に、近親者が死んだ。その辛酸・悲惨から否が応でも戦争は二度とやってはならない。戦争で殺し殺されて死ぬより、武器を取らず殺さずに死んだ方がマシ。戦争(殺し合い)に命を懸けるよりも、平和のために命を懸けた方がマシ。同じ「死ぬ覚悟」なら、対立・紛争があっても、(たとえ相手が武器を保持しても)丸腰で立ち向かい、談判(話し合い)に臨む(「徹底抗戦」よりも「徹底話し合い」)。武器を取って殺し合う戦争はあくまで避ける。
 新渡戸稲造の名著『武士道』で取り上げられている勝海舟は幕臣で剣術は免許皆伝の腕ながらも「負けるが勝ち」(「戦わずして勝つ」)をモットーとして刀を抜かずに通したという。大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いで敗れて徳川慶喜が逃げ戻った江戸城内では、徹底抗戦派と恭順派の両派に分かれていた。一方の薩長・官軍側も、徳川家に対する厳しい処分を断行すべきとする強硬派と穏便に済ませるべきとする両派の対立があり、西郷は徳川慶喜の切腹を訴えていた強硬派であった。勝海舟は西郷との薩摩屋敷での談判に決死の覚悟で臨み、江戸城明け渡し(無血開城)に応じ、江戸の町々を戦火から救った。慶喜は切腹を免れ、自らも殺されずに済んだ。(勝海舟の西郷との会談には、剣客で無刀流の開祖・山岡鉄舟が立ち会っているが、この会談に先立って山岡が慶喜の使者として西郷と面会し慶喜恭順の意を伝え、やはり死の覚悟をもって談判に臨んでいた。)
 サムライはかくあるべし。日本人の国際貢献は、かくあるべし、という手本を身をもって示した人物には中村哲医師がいる。紛争中のアフガニスタンで医療活動とともに荒廃した農地の回復のため灌漑用水建設事業に長年携わり、対テロ戦争の最中にもかかわらず現地で動き回り、その途上テロにあって亡くなった。サムライ日本人はかくあるべし、なのでは。

 「世界で一番臆病な戦後日本人は、ウクライナ人のように、侵略者と戦うことができるのだろうか」とのことだが、臆病な日本人というのはどんな日本人のことを指しているのか。
 かつて「勝ってくるぞと勇ましく・・・・東洋平和のためならば何で命が惜しかろう」(古関裕而作曲・『露営の歌』)と歌いながら自国が侵略戦争をして惨憺たる敗北を喫した。「東洋平和」のためとか、「自存自衛」のためとかの美名のもとに戦争で多く(310万人)の日本人が死に、アジア人2千万人も死んだ。その戦争が終わって後、大江健三郎や阿刀田や中村哲のような、度胸を決めた日本人は、死を覚悟の上、憲法で不戦・戦力不保持を誓って、丸腰で世界に立ち向かうことにしたのだ、という信念で生きてきた。一方、その憲法を余所に、アメリカとの軍事同盟にすがり、武器・武力に頼らなければ中ロ・北朝鮮に立ち向かえないという向きの日本人、その方が戦後・現在に至るまで歴代政権を支持或いは容認してきた多数派日本人なのだが。ウクライナ戦争では、アメリカなどNATO軍兵士は戦闘には直接参加してはいないが、兵器供与・訓練・軍事情報など様々な軍事支援を得ながらウクライナ人は戦えているのであって、自力で頑張っているわけではないのだ。

 「国家がある限り、戦争はなくならない」というが、日本国は憲法で戦争はしないことにしており、国家があっても戦争はなくせるし、なくさなければならないという考えに立っている。(コスタリカなども常備軍は持っていない。)国連憲章は戦争を違法と定めているが、各国の自衛権と軍備は容認している。しかし、その軍備容認が違法な武力行使への抜け道になってしまう(自衛に名のもとに先制攻撃や侵攻を許してしまう結果に)。だったら、どの国も軍備(戦力・武力)は持ち合わないということ、つまり全廃にした方がよいのでは。以前国連で軍備全廃案が出たことがあったし、あり得ないことではあるまい。核兵器は安保理常任理事国だからといって、米中ロなど5大国にだけ保有を認め、他は禁止するというNPT条約は、アメリカから敵対国と見なされ、アメリカを脅威にしている北朝鮮などにとっては、受け入れられないし、核兵器はどの国も禁止とするという核兵器禁止条約に参加を求めても、核保有国とその同盟国(核の傘にある国)は参加しないという難しさがあるが、それはどちらかと云えば、他国や相手国にだけ一方的に廃棄を迫り、自国は廃棄しないという大国の傲慢・我がままの故ではなかいと思われる。廃棄を迫るなら自国が率先して廃棄すべきなのだ。核兵器に限らず、通常兵器も全ての軍備を全廃すれば、世界のどの国の国民も不安・恐怖のない平和的生存権が得られるものを。(密かに武器・兵器・軍備を持とうとする不心得者・ならず者に対しては常設の国連警察軍が違反取り締まりに当たるということにして。)
 要するに「戦争が起こる4つの要因」(かねてより論じてきた①対立・もめ事、②武器・軍備、③戦争を仕掛ける、④仕掛けられて応じる)のうち②を無くしさえすれば起きないし、②③があっても④さえなければ起きないのだ、ということ。

 平和教育は、憲法9条と「教え子を再び戦場に送るな」以外にないのであって、サムライ日本人ならば不戦・非軍事の国際平和貢献の立場で臨む以外にないのではあるまいか。「武器を取りつつも平和を掲げる現実的平和」など欺瞞というほかなく(それこそが「お花畑」の平和ボケなのでは)、そんなことで時代を担う若者や子供たちが納得して将来にわたって持続可能な平和が実現できるとは到底思えまい。

 ここまで書き上げた後3月18日になって、朝日新聞の「声」欄に、『0歳で被爆 戦争とは破壊と殺人』という78歳の方の投稿が出た。それには「生後7か月の時、広島の原爆投下の熱戦で頭半分にやけどを負いました。祖母は即死、父と祖父は約1週間後に亡くなりました。・・・・生き残った母や兄から伝えられた被爆の惨禍・・・・今、ロシアのウクライナ侵略や北朝鮮のミサイル実験などを理由に、防衛費が拡大されるのが非常に残念です。・・・・兵器の購入は戦争につながる行為。戦争とは破壊と殺人であり、絶対にしてはなりません。どんな形であれ、犠牲者をだし、決して解決にはなりません。武力よりも対話を深める努力こそが大事」とあった。
 もう一つ、『捕虜の米兵 その後を今も案じる』という86歳の方の投稿には、「ウクライナでの戦争報道に接するたびに幼い日の故郷での体験を思い出す。大 戦末期の夏、福岡県・・・の自宅で就寝中に衝撃音・・・・恐怖の夜が明け、B29が墜落し米兵が捕虜になったと知った。山狩りが続き数日後、騒々しさに家の表に出ると、軍用トラックの荷台で米兵がひざまずいていた。・・・目隠し、両手を縛られた姿で・・・近所のおばさんが『お前たちのために息子は戦死した』と泣き叫びながらトラックによじ登り、兵士を薪で打ち付けた。私は兵士が可哀想でたまらず、・・・・自宅に駆け込んで一人で泣いた。・・・・成人し、福岡での日本軍による捕虜虐殺や九州帝大の生体解剖事件を知った。あの時の兵士のその後を思うと胸が痛む。・・・・戦争は互いの命を奪い合うが、犠牲はどちらの側にも増え続ける。・・・・ロシアとウクライナで続く悲劇に、各国は止めるための力を及ぼしてほしい。」と。
 これらの投稿には同感。
 

 

2023年03月27日

軍備の保持を容認している限り戦争はなくならない

国連が各国の軍備(武力)の保持を容認している限り戦争はなくならない
 容認理由―侵略や不正な武力攻撃に対して防衛する自衛のため等の理由
 しかし、どの国も自国の軍備と戦争目的を「侵略のためだ」とか「不正な目的のためだ」などと公言する国はあるはずないし、或いは国際紛争の解決のための武力行使であっても、「先制自衛」だとか、「自存自衛」のためだとか、「自衛」を口実とするであろう。防衛のための武力と攻撃のための武力とは、世界の様々な場所・地域や様々な時期によって相対的であって、「専守防衛」とか「他国に脅威を与えない」水準の防御的兵器・軍備とはいっても判然と区別するのは困難であり不可能。
 「敵基地攻撃能力」とか「反撃能力」とか、或いは「非殺傷兵器」とか「きれいな核爆弾」などと称したりして、武器を奪うだけとか、撃ち落とすだけとか、攻撃手段を破壊するだけの、攻撃を阻止するための兵器―そのような死傷者を出さない「非殺傷」兵器や戦法など、もしもあるならば、それだけに限って保持することを容認する、といったことはあり得るとしても、AIロボット兵器などの開発はあるにしても現段階ではそのような戦争技術も兵器もどの国も持たない。
 ウクライナ戦争でも、ロシア軍の兵器・戦法による攻撃で、ウクライナ兵の戦死者は昨年12月までで1万数千人、民間人の死者は7千数百人で、その一方、米欧NATOから供与されている兵器で戦っているウクライナ軍の攻撃で戦死したロシア兵は先月2月までで4万~6万人(負傷者と合わせて20万にとも)ということで、数の上ではロシア人の犠牲者の方が多いくらいだ。
 日本の自衛隊が保持している装備は「他国に脅威を与えない」専守防衛のための軍備と称して、同盟国アメリカ軍の「核の傘」と「矛」の後ろで「盾」を持って構えるという防御的兵器を持つに留まるとされてきたのが、今や「敵基地攻撃能力」つまり「矛」まで持たせる、といったことにもなってきている。又、アメリカの「核の傘」に守られるだけでなく、NATO加盟国並みにアメリカの核共有(運用)できるようにすべきだという安倍元首相の言説もあったり、オバマ大統領当時アメリカの核先制不使用が言われたのに対して、「それは困る」と云って日本側は思い留まるよう申し入れたりもしている。そして核兵器禁止条約には背を向けている。

 このように、「自衛・防衛のため」、「抑止のため」などと兵器・軍備を持ち合っている限り、戦争はなくなるまい。
 国連は「集団安全保障」として、侵略や不正な武力攻撃を仕掛ける国があれば、それに対して加盟国が兵力を出し合って国連軍を結成して対処する(軍事制裁)というやり方をとっているが、その方はこれまで、それを主導する安保理で常任理事国(米・ロ・中・英・仏5大国)のうち一国でも拒否権を行使(反対)すれば決まらないことになっているため、朝鮮戦争と湾岸戦争に際しては安保理常任理事国に欠席や棄権があって拒否権を行使した国がなかったおかげで武力行使容認決議がなされたために、アメリカ軍主導で幾つかの国から派兵が得られ多国籍軍などと称されはしたが、正規の国連軍結成は一度も実行はされてはいない。その代わり、侵略・攻撃を仕掛けられた当事国、或いは「仕掛けられる恐れがあるから」として仕掛けた当事国によって戦争が行われたケースは度々あって、今もウクライナでそれが行われており、これからもあるだろう。現状のままでは。

2023年03月29日

ルール(国内法・国際法)の決め方・考え方

 原則―「嘘をついてはならない」「人を殺してはならない」「戦争してはならない」
①時と場合によっては守らなくてもよい、という例外を認める
「嘘も方便で、善意の嘘ならよい」「正当防衛なら殺してもよい」「自衛のためなら武力行使・戦争してもよい」(相手が悪人や「ならず者国家」なら嘘をついても、殺しても、戦争してやっつけてもかまわない)
②いかなる場合も守らなければならない(基本的に例外なし)
 ―いかなる場合も「殺してはならない」「武力を行使し戦争してはならない」

功利主義哲学―「価値倫理」は①の立場で「初めから例外容認」 
  目的(結果)の大事で、それさえ正ければ、動機や手段は問題にしない
  (国際平和・安全のためなら、それを害する国に対しては戦争に訴え、
   その国の国民の平和・安全を犠牲にし、人命を犠牲にしてもかまわない)
         ご都合主義に陥りがち(都合よく例外として正当化されてしまう)  
カント哲学―「義務倫理」は②の立場で「基本的に例外なし」(ダメなものはダメ)
  自分(自国)のその行為(「強盗に嘘をつく」嘘とか、「正当防衛」での殺傷とか、「自衛のため」の戦争とか、そのような嘘・殺傷・戦争などの行為)が、同じことを時と場合に関わらずどんな状況でも、誰に対して行っても、どの国に対して行っても当たり前のこととして許される普遍・妥当性をもち得るのでなければダメ
  目的(結果)の正しさはもとより、動機も手段も正しくなければならない
  (国際平和・安全のため、それを害している国だからといって、その国に対して戦争             
   に訴え、人命を犠牲にしてはならない。「平和を守るため戦う」というのは間違い。制裁戦争は平和をもたらさない。)
日本国憲法9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)は基本的に②、改憲派は①の立場
国連憲章は①の立場で、侵略行為や戦争を仕掛ける行為は禁止でも、自衛戦争や制裁戦争は容認。兵器の保有・軍備も(核兵器を5大国以外に禁じ、生物化学兵器や対人地雷・クラスター爆弾など禁じている以外には)どの国にも容認している。

2023年03月30日

軍事的国家安全保障から非軍事・人間の安全保障を目指すべき国連

 1945年、国連は第2次世界大戦(日独伊の枢軸国に対して米英ソ中仏などの連合国の戦争で、枢軸国がいずれも降伏)の終結に伴って戦勝国である連合国を母体とし、戦勝に主要な役割を果たした5大国が主導して発足。それは2度繰り返した大戦をこれ以上繰り返さないようにと国際平和機構として結成され、集団安全保障と個別的・集団的自衛権による安全保障に基づく国際平和を目指すものとなった。
 それは基本的に「軍備による安全保障」で、各国の軍備(軍事力)保有を前提として、それに依存。(侵略行為や違法な武力攻撃事態が発生すれば、加盟各国がら兵力を動員して対処するという集団安全保障を原則とし、それが実行されるまでの間は、侵攻された当事国が独自に、或いは同盟国と集団的に対処するというやり方。)
 ところがこういった各国の軍備保有や軍事同盟の容認が、各国間に軍事力の優劣から互いが不安・脅威を感じ、追いつ追われつの軍備強化競争から軍拡の方向へ向かってしまい、互いに不安・脅威が増す一方となる。国家間に対立・紛争があれば、戦争や武力に訴えてはならないと定めても、「先制自衛」などの口実でそれを強行したりしがちとなり、それに対して「自衛抗戦」で応じ、互いに引くに引けない戦争になってしまうということで、戦争が絶えず、繰り返されることにもなる。

 それ以前1927年、国際連盟の軍縮会議準備委員会に、ソ連が「即時完全全般的軍備撤廃協約草案」を提出するも、具体的進展なし。(但し、その翌年の1928年、パリ不戦条約―戦争放棄に関する条約が成立)があって、
 1946年(現在の国連創設の翌年)ソ連がそれを提案―それをきっかけに「軍縮大憲章」(「軍備の全般的な規制及び縮小を律する原則」)を全会一致で採択も実効性のないものだった。
 1959年、ソ連首相フルシチョフが国連総会で演説―「全面完全軍縮に関する政府宣言
     3段階に分けて4年間で全廃を提案。
   その後その年、国連総会で米ソ両国起草の軍縮決議案が全会一致で採択—米ソが中心となって交渉へ。
 1962年、ソ連「厳重な国際管理のもとにおける全面的完全軍備撤廃条約草案」
   アメリカ「平和な世界における全面的完全軍備撤廃条約の基本的規定の概要」提出

   両案を国連軍縮委員会などで審議—3段階を踏んで各国とも軍備を撤廃することとし、国内の治安維持と国連平和軍のための兵力だけを残すというもの—しかし、撤廃の実施期間とか各段階における撤廃の順序や程度など主張が対立—撤廃措置の実施中・実施後における自国の安全保障に不安があるなどの問題で進展せず、それっきりに。

 1978年、国連軍縮特別総会―「軍縮による安全保障」を非同盟諸国が提唱―核軍縮を最優先課題として軍備の大幅な削減と全面完全軍縮の達成によって安全保障目的の実現を目指す―しかし、それは理念の段階に留まり、現実には互いに相手国・他国に対して軍事力が劣弱となってしまう不安の方が先立ち、同等か優勢でなければ安全保障は得られないとして(むしろ大国ほど)背を向けがちで進展がみられない。
(核兵器禁止条約には核保有国は参加せず、NPT核不拡散条約は先行保有国である5大国の他は核保有禁止で、5大保有国は核軍縮に努めることと定めてはいるものの、核軍縮の方はほとんど進展が見られない)
 そして戦争は絶えることなく、繰り返されている。
 だとすれば戦争の惨禍を繰り返さなくても済むような国際秩序を作り上げるには、各国とも一気に軍備廃止(全廃)して非軍事による安全保障体制を確立すればよいのでは。
 日本国憲法は、その軍備廃止を世界に先駆けて宣言したものにほかなるまい。
 それは不可能な理想論だというなら、いつまで経っても持続可能な平和(恒久平和)は訪れないだけでなく、核戦争・世界大戦さえも繰り返され人類滅亡に至る道しかないことになろう。

 軍備全廃
 それは「戦争根絶の唯一確かな道」(花岡しげる氏)。とはいえ、その実現を可能とするには、難題があることも確かである。各国がそれに合意したとしても全廃を実行するか、しているか、点検・確認の検査・査察・検証をどの国にも属しない国連機関によって行うことが不可欠。
 密かに兵器や兵力を隠し持って武力行使・侵略行為を行う「テロ国家」・「ならず者国家」や武装勢力などが出てきたら、どうするか、それを取り締まり、鎮圧・制圧する国連警察軍が必要不可欠。これまでは、何かがあるとその都度、安保理の常任理事国になっている大国の軍事力に頼るか、加盟国(安保理が特別協定を結んだ国)が分担して兵力を提供し合って編成された国連軍によって軍事措置が行われる建て前になっていたが、大国の対立・拒否権で、それらは機能しなかった。それを変えて新たに兵員は国連職員(国際公務員)として各国から直接募集し、資金は各国で分担するが、どの国にも属しない常設の国連警察軍を設け、然るべき統制機関の下に運用するようにする、といったものが必要となるわけであるが。
 各国とも対外的に国を守る戦争や軍事活動を行う軍隊は廃止されても、国内の治安を守る警察活動は、そのままで、それまで軍隊に頼ってきた分むしろ守備範囲(責任・権限)が拡大するとも考えられ、テロ組織や武装集団に対処、武器の密造・密輸や国境警備に当たるも(日本では海上保安庁に自衛隊もそれに当たってききたが)、任務はあくまで犯罪の取り締まり。
軍備全廃には、こういったことが必要不可欠。

 国連などにおいては最重要の関心事は国際紛争とか戦争と平和の問題であり、各国とも他国との関係における自国の存立と安全保障が問題ではあるが、各人にとって日々何事かを行為して生きる目的は生命と人生を全うすることであり、最重要なのは自己の人権(生命の安全が保障され日々安心して幸福を追求しながら恐怖と欠乏と束縛から免れて暮らせる平和的生存権)が国家によって保障されることであって、国家の存立と国際平和はそのための手段にほかならない。その国家が戦争を(仕掛けたのは自国であれ他国であれ交戦)して、そのために国際安全保障環境が覆され平和的生存権が犠牲にされることがあってはならないのであり、各人にとって必要なのは国家の軍事的安全保障よりも人間の不戦・非軍事安全保障なのであって、国家安全保障はそのための手段に過ぎない。非軍事とは非軍備であり、軍備は戦争に備え戦争に応じるためのものであり、それに依存する外交は危険極まりないのであって、それに依存するのではなく脱しなければならないのだ。

2023年03月31日

ウクライナ戦争と国連―日本国憲法の視点で

(1)ウクライナ戦争の原因
①対立・紛争
 ウクライナ国家は以前ロシア帝国・ソ連邦国家に属して、そこにロシア人も居住してきた。  
 独立後、親ロシア派と反ロシア派(親米欧派―NATOやEU加盟支持)の抗争から内戦
②軍備・軍事同盟の存在
 ロシアは核軍事大国
 NATOの存在
 ウクライナの反ロシア派はNATO加盟を求める
③ロシア軍の侵攻(仕掛ける)
④ウクライナ軍の抗戦にNATOの軍事支援(日本は非軍事支援・激励―首相がウクライナ大統 
 領を訪問)

(2)戦争は戦争でしか止められないのか?
 ③か④どっちかが降伏するか、侵攻か抗戦をやめるか、しなければ、戦争は続行
 国連や第3国の積極的な仲介がない(ロシアにやめろ―撤退せよ―としか言わない)

(3)国連の責任
 国連はウクライナ戦争を「止められなかった」というより、国連の集団安全保障(戦争抑止)システムそのものが、戦争が起きてしまう原因(*)になってしまっているということ。
 その原因を除去するということが国連の責任なのでは。
 *その原因とは一般に「戦争が起きる要因」4つ(①対立・紛争があること、②兵器・軍備を持ち合っていること、③戦争を仕掛ける国があること、④仕掛けられた国が抗戦・応戦すること)のうち、国連は③だけ禁じて、②と④は容認している、ということにほかならないのでは?
 今回のウクライナ戦争を仕掛けたロシアはそこを突いているのでは?
 国連は④を容認し、NATOの存在とその拡大を容認しており、ロシアは隣国へのNATO拡大(加盟)を脅威と感じ(安全保障は、それによって他国を犠牲にしてはならないという「不可分の原則」に反しているとしてNATO側に要求するも拒否されて)ウクライナに対して加盟断念を強要すべ侵攻を強行―はたしてそれがロシアの真の侵攻理由なのかは別としても、少なくともそれが侵攻の口実となっていることは否定できまい。)
 国連は憲章を改正して、戦争の要因4つのうち、禁止すべきは③だけでなく、②も④も禁止しないかぎり、戦争はなくせないし、止めることもできまい。

(4)日本の責任
 日本国憲法9条は国際紛争の解決として戦争・武力行使・武力による威嚇を禁じて③、戦力(武力)不保持で②、交戦権否認で④まで、戦争の要因となるもの①の他は(①は禁じるという筋合いのものではないので、それは別として他のすべては禁じている。それは世界に先駆けて宣言した不戦平和主義の理念であり、国際紛争にはその立場で臨み、国連の安全保障にも、その立場で、憲章の改正と合わせて国連改革に積極的・主導的に臨むべきなのでは。G7yなど米欧に追随するだけでなく。それが憲法前文にある「国際社会において名誉ある地位を占めたい」とする日本国民を代表する日本政府の責任なのではあるまいか。現行の国連憲章で未だに削除されていない「敵国条項」(第2次世界大戦以来の「敵国」扱い)を払いのけ、乗り越えて。

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