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2015年08月 アーカイブ

2015年08月01日

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短絡的な脅威論と抑止力論(加筆版)

 安倍首相は「安全保障環境の大きな変化に中で、我が国のみで日本を守りきることはできない。同盟関係をより機能させることで抑止力を強化し、事前に戦争を防いでいく。」「中国は急速な軍拡を進めている。27年間で41倍に軍事費を増やしている(筆者―それは文革の大混乱後の改革開放初期、極めて低水準にあったところからスタートした軍事費の増加率で、過去10年間では4倍。日本の防衛費も高度成長期には10年間で4倍だった)だからこそ、日米間で同盟関係をしっかりと強化し、抑止力を確保していく」と述べ、尖閣諸島周辺での頻繁な領海侵入などに触れて「活発な活動を展開している」と。また中谷防衛大臣は「北朝鮮は日本の大半を射程に入れる数百発もの弾道ミサイルを保有している」と。
 つまり、安保関連法案が今必要なのは、安全保障環境が大きく変化しているからで、とりわけ中国・北朝鮮の脅威それにイスラム過激派などテロ組織の脅威も増しているからなのであって、この新たな法案で米国などとの軍事的な連携が深まれば、これらの国や勢力が日本を攻撃するのを思いとどまらせる「抑止力」を高めることができるようになるからだというわけ。

 尚、「27年間で41倍に軍事費を増やしている」というが、それは文革の大混乱後の改革開放初期、極めて低水準にあったところからスタートした軍事費の増加率で、過去10年間では4倍。日本の防衛費も高度成長期には10年間で4倍だった。
尖閣諸島海域への頻繁な領海侵入は、中国が同諸島の日本による実効支配は認めつつも領有権は「棚上げ」という合意があったにもかかわらず、日本側(石原都知事~野田首相)がそれを覆して国有化してしまったという反発から始まった。「公船」を繰り出しているといっても、日本の海上保安庁の巡視船と同様の「海警船」で、軍艦まで出しているわけではなく、互いに軍事行動でない警察行動にとどまっている。(そこに海上自衛隊が出て行けば、向こうも海軍を出してくることになるのだろうが。)
 東シナ海のガス田も福田首相当時、両国共同開発の合意があったものを、中国漁船衝突事件をきっかけにそれが中断して、この間に日中首脳会談もないまま一方的に掘削施設建設を進めていたという経緯がる。
 また、南シナ海は日本が第一次大戦から南沙・西沙諸島とも占領し続けてポツダム宣言で放棄したものの、帰属先があいまいにされたため、その後、周辺諸国の間で領有権争いが生じ、中国が実効支配を(岩礁埋め立てはベトナム・フィリピンも中国に先んじてやっているのを)制しようとしているが、ASEANと中国の間で武力行使・威嚇の禁止、平和的解決を合意しており、法的拘束力を持つ「南シナ海行動規範」を策定しようと協議を重ねてもいるのだ。(デニス・ブレア米太平洋軍元司令官は4月外国特派員協会で、南シナ海について、対立は統治権をめぐる紛争であり、海域全体についての規制、油井掘削船の配備などであり、軍事対立よりもはるかに低い水準。どの国も、軍事対立へのエスカレートを望んでいない、と発言しているとのこと。)
 米中関係、日中関係も同様だが、貿易・経済・金融・人的交流など相互依存関係にあり(日本企業は中国に4万社以上が進出し、中国は日本にとって米国に次ぐ第2の輸出先であり、第1の輸入元で、貿易総額では米国を上回る第一の貿易相手)、戦争など起こして一方が倒れたら、他方も一緒に倒れることになるのだから、(「やれ!やってしまえ!」などといくら煽っても)戦争などできる状態ではないのだ。
 5日の参院特別委員会で、大門議員(共産)の質問に、中谷防衛大臣は「中国を含めて特定の国を脅威とみなし、軍事的に対抗していく発想にはない」と答弁し、岸田外務大臣も「日本政府は中国を脅威とは見なしていない」と明言。
 いずれにしろ、中国がどうのこうの、北朝鮮がどうのこうのと安全保障環境が変化しているというこのような指摘は、状況の変化を大まかに説明しているにすぎず、そういう状況があるからといって、我が国がそれら(中国や北朝鮮、過激派テロ組織)から侵略・攻撃される蓋然性があるのかと言えば、その恐れ(脅威)を感じられるとか、懸念(心配)されるとか、ことによったらそういうこと(我が国への侵略・攻撃)もあるかもしれないという一つの可能性として考えられはしても、自然災害のようにいつか必ず襲来するという必然性などあり得ないし、なんらかの理由によって我が国にそのうちいつか必ず侵略・攻撃を仕掛けてくるに違いないという蓋然性とその根拠は何も示されてはいない。つまり、そのような状況があるからといって、なぜそれが即我が国への侵略・攻撃に結びつくのか、その根拠となる理由{①日本に対して侵略・攻撃をしなければならない理由・必要性、②侵略・攻撃を可能とする能力(軍備)を持つ、③その意思があること、等}だが、そのうち③(軍備)は持ったとしても、そのこと以外には具体的な事実は何も示されていないのであって、脅威イメージで論じているにすぎないのである。その「脅威」論は安倍首相をはじめ安保法案肯定派の政治家とNHKや読売・産経などのマスコミによって何度も吹聴され(煽られ)るうちに、それが反中・反北朝鮮感情とも結びついて先入観・固定観念となって、まるで今にもそれらが攻撃を仕掛け、攻めてくるかのような感覚に陥っている向きもあるのだろう。
 また、朝日などでも、その辺り(中国・北朝鮮の現在の状況が、単なる脅威イメージではなく、それがなぜ我が国への侵略・攻撃に即結びつくのか、その根拠の有無)の詳しい調査報道も解説も指摘もほとんど見られない。

 「抑止力」などと称して軍備体制(同盟・連携協力体制)を強化する新安保法制に基づく軍事対応(軍事対軍事、力には力)・軍事依存(軍事に頼るやり方)は、それを「世界に発信」することで抑止力が高まり、侵略・攻撃を受ける可能性がなくなっていくというが、それどころか、いたずらに危機事態(一触即発・軍事衝突)を呼び込む(誘発する)もととなる蓋然性の方が高い。そのやり方には戦争を抑止する効果もある程度あるが、逆に戦争を惹起し、戦争に巻き込まれる蓋然性もあり、戦争を遠ざけるよりも、むしろ近づける蓋然性の方が高いのではないか。なぜなら軍事的「抑止力」というものは暴力装置であることにはかわりなく、それによって威嚇して相手が侵略・攻撃をしかけようとする気を起こさないようにするのだが、家に鍵をかけて泥棒の侵入を抑止する施錠と違って、或いはまた火災の消火に当たる消防力とも違って、攻撃力にも転化する暴力装置であり、それを備えること自体が紛争の火種となり、それを構えて対峙(軍事対決)し、何かのきっかけで激突(軍事衝突)して火種を燃え上がらせる(戦争に発展する)原因ともなるのである。したがって、そのような暴力装置(軍事力)は(軍事システムとしての安保法制も)むしろ取りはずして、非軍事的・平和的手段による抑止力を追究すべになのであり、それこそが憲法の9条が政府に求めている平和的安全保障なのである。
 さて、新安保法制のことだが、中国や北朝鮮それに過激派勢力も、このような日米の軍事同盟・連携協力体制の拡充・強化に恐れをなして、中国は尖閣・東シナ海からも南シナ海からも軍拡からも素直に引き下がるのか、北朝鮮は核開発からも弾道ミサイル開発からも手を引くのか、過激派勢力は日本人を攻撃対象からはずすのか、それとも、いずれも逆の方向に向かうのかといえば、それは後者の方(逆の方向に向かう)だろう。新安保法制に基づくこのような日米軍事同盟体制の拡充・強化のやり方で相手にプレッシャーをかけるよりも、そんなことは、むしろ控え、平和的対話(協議・交渉)に全精力を傾けた方が相手を軍事抑制・戦争回避に向かわせるものと考えるが、いかがなものだろうか。
中国・北朝鮮のことならば、今むしろ必要なのは、ASEAN諸国が主体となって結成した
 東南アジア友好協力条約(TAC。日中韓・北朝鮮・印パ・豪・ニュージーランド・仏・米ロ、EUなどまで、計28ヵ国加盟。主権・領土保全等の相互尊重、武力による威嚇・行使の放棄、紛争を戦争にはしないで、あくまで対話・外交による解決をめざす)に倣った北東アジア友好協力条約(日・中・韓・北朝鮮・ロシア・モンゴル等で結成)だろう。そしてこの地域を非核地帯とし、朝鮮半島の問題は6ヵ国協議(の枠組み)を維持して、その中で懸案を解決することを目指す。それらによって平和的安全保障を目指すべきなのであって、軍事的安全保障にいつまでもこだわり続けるのは、もうやめにした方がいいのでは。

「安保反対は中国を利するのでは」に異論

 7月25日の朝日投稿に「安保反対は中国を利するのでは」と。それに対して異論
(1)安保関連法案は「中国のさらなる軍事力拡大に口実を与える」とは「思いません」とのこと。私は、法案は「中国側に口実を与える」という方に同感で、その意味では「安保賛成こそ中国を利する」のでは。
 中国の国防費の激増、海洋進出で「アジアの安定は大きく揺らいでいる」との指摘だが、 日本の防衛費は、中国に先行して高度成長期には10年で近年の中国と同じく4倍に膨らんでいた。また、南シナ海は日本が第一次大戦から南沙・西沙諸島とも占領し続けてポツダム宣言で放棄したものの、帰属先があいまいにされたため、その後、周辺諸国の間で領有権争いが生じ、中国が実効支配を制しようとしているが、ASEANと中国の間で武力行使・威嚇の禁止、平和的解決を合意しており、法的拘束力を持つ「南シナ海行動規範」を策定しようと協議を重ねてもいるのだ。
 いずれにしろ、賛成・反対どちらが中国を利するかといった議論は水掛け論的な言い合いになってしまうだけ。また「東シナ海で中国がガス田開発をしているから日本も」などと「相手がこうしたから、こっちも」といって張り合うのは子供のケンカ、とりわけ「軍事には軍事」で「やるならやるぞ」の如き対応は戦争を呼び込む結果となる。
(2)安保法案に反対するのは、それが日本国民を利するよりも害することの方が大きいと考えられ、戦争を抑止するよりも、むしろ戦争に近づける結果になってしまうことを恐れるからだろう。
 集団的自衛権・武力行使を事実上容認する安保法案は抑止力向上に資する、とりわけ米国にとっては軍事負担を日本が肩代わりしてくれるという点で最も利が得られるということもあるかもしれないが、日本国民にとっては次のような「害」もあり、むしろこの方が「利」を上回ると考えられるからだろう。
 ①自衛隊が米国など他国の戦争に事実上参戦、或いは海外で武力行使するようになり殺し殺されるリスクが格段に広がる。
 ②軍事対決に傾き、軍事衝突を招き、戦争を引き起こす結果にもなりがち。
 ③軍事力を背景にした外交、パワー・ポリテックスになりがち。
 ④中国・北朝鮮などを事実上「仮想敵国」と見なし、敵対関係が強まって、地域情勢が不安定化する。
 ⑤違憲立法は立憲主義をだいなしにする。
 ⑥平和国家ブランドを損ない、日本人に対する不信・憎悪が強まる。
 安保法案には、このような弊害があると思われるから反対するのであり、今、日本国民にとって焦眉の急を告げる大問題は事実上の解釈改憲に関わるこの法案の成立を許すか阻止するかなのであって、中国の国防費とか南シナ海などの問題ではあるまい。中国の軍事力拡大や海洋進出を糾弾し、中国に対して「軍事に頼ることなく地域の安定に取り組むように積極的に訴える」というのであれば、まずは自国政府に対して日米の「軍事力に頼ることなく」と訴えなければ説得力を持ち得ず、単なる「言いがかりだ」として逆に糾弾されることになるだろう。
 それに、「安保反対は中国を利する」というのは、反対するのは利敵行為だといって、反対運動を封じ込めようとする権力的発想とも受けとられよう。

2015年08月03日

安保法案―米沢市議会はどうしたことか

 安倍内閣の安保関連法案に対して、全国自治体のうち300を超える地方議会が意見書を採択しているという(「賛成」の意見書は8議会、「反対」の意見書は144議会、「慎重審議を求める」意見書は181議会)。本県では山形市・尾花沢市・南陽市が「反対」の意見書、天童市・河北町・西川町・真室川町が「慎重審議を求める」意見書を採択、県議会と新庄市議会などは継続審査、それに鶴岡市や三川町など不採択となったところもあるが、米沢市議会が何もないのはどうしたことか。
 米沢市は昭和63年以来「平和宣言都市」。この大問題に対して米沢市議会の議員として、市長として意見があって然るべきだろう。米沢市議会は昨年12月「集団的自衛権行使に反対する意見書」請願は総務常任委員会で、賛成少数で不採択になっているが、その後、市会議員は改選され、安倍内閣のこの法案の国会審議が開始されて、既に衆院で強行採決はされたものの様々な問題点が明らかになり、世論調査では反対が6割、慎重審議を求める意見が8割という状況の下、現在参院で審議中という段階に至っている。今、この国会審議・採決が終わらぬうちに米沢市議会としても、改めてこの問題を真剣に取り上げ、議論の上、何らかの態度を表明しても可笑しくないのではあるまいか。

2015年08月04日

集団的自衛権行使の限定容認の矛盾

自衛隊の実力行使の3要件
 個別的自衛権の場合―①自国への急迫不正(武力による攻撃・侵略など)の侵害の排除。②実力行使以外に適当な手段がない。③必要最少限度の実力行使(その限界は「日本への侵害を排除することを超えて敵国に攻め入ったり、敵を追いかけて殲滅したりはしない」という一線)。
 それに対して、集団的自衛権の行使を限定的に容認した武力行使の新3要件―①我が国と密接な関係にある他国(味方)に対する武力攻撃をも排除。②他に手段がない。③必要最小限度の実力行使―問題点―公海上から他国領域のどこまで行って武力行使したら他国(味方)攻撃を排除したことになるのか、明確な一線が引けない。「海外派兵は一般的には認められない」と言って、「例外」として「ホルムズ海峡(或いは南シナ海)での機雷掃海等は受動的・限定的なので認められる」というが、それらの判断基準は明確な規定がなく、時の政府が実際に発生した事態の個別的な状況に照らして総合的に判断するということで、政府の裁量に任され、「限定的」といっても歯止めがなく、どこまで広がっていくか分からない。
 また、仮に他国(アメリカ軍)が攻撃された、それを我が国の存立危機事態(それで我が国の存立も危うくなり、国民の危険につながることも明白)と判断して自衛隊を出動させて反撃、その後、我が国への危機は去った(日本の安全は回復された)が、他国(アメリカ軍)の危機はまだ続いており、戦闘が止んでいない、そのような時に我が方の自衛隊だけが、さっさと打ち切って撤退することはできまい。だとすれば、他国(アメリカ軍)に対する攻撃全体を排除するまで戦闘を続けなければならないことになる。つまり、最初は我が国の存立危機事態との判断から参戦だったとしても、その後は自衛(自国防衛)ではなく他衛(他国防衛)のために、しかも他国(アメリカ軍)の戦略・戦術・作戦に従って戦闘を続けなければならないことになる、ということだ。
 未だ自国が攻撃されていなくても、他国が攻撃されて我が国の存立危機事態が予測されれば、我が自衛隊が出動して先に敵国を攻撃する、となると、それは「先制攻撃」ということにならないか、その質問(参院特別委員会で民主党の大塚議員)に、岸田外相は「国際法上は先制攻撃に当たります」と答弁している(国際法上、それが、攻撃が差し迫っていると判断される「自衛的先制」の場合ならそれは合法だとする説もあるが、その判断は主観に支配され危うい)。アメリカが、(ベトナム戦争やイラク戦争の時のように、或いはその以前日本がアメリカに対して行った真珠湾奇襲攻撃のように)「自衛的先制」と称して攻撃を開始(その決定に際する判断理由は自作自演のトンキン湾事件とか、ありもしない大量破壊兵器保有など事実のでっち上げに基づいていた)、そのようなアメリカが行う「自衛的先制」攻撃に対して、攻撃された国からアメリカが反撃されれば我が国の存立も危うくなると判断して、それを阻止しようと、我が国が攻撃されていないのに、我が国の自衛隊までも先制攻撃に加わる、そんなことまで許されることになるのか。こうなると、「何でもあり」といったようなことになる。
 こんなのは自衛権ではあるまい。「集団的自衛権」なるものは、自己保存のための正当防衛権たる個別的自衛権とは本質的に異なる「他衛権」にほかならないのだ。
 自衛隊に個別的自衛権に限って最小限の実力行使だけを容認してきたものを、他衛権まで、「集団的自衛権の限定的行使」と称して、その行使を容認することは憲法9条の単なる解釈変更にはとどまらない違憲立法であることが益々明らかになっているのだ。

 

2015年08月11日

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               普通の猿
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 ん~・・・・

「抑止力高まる安保法案」というが

 8日の朝日新聞の投稿に「抑止力高まる安保法案に賛成」と。「ソ連などの脅威から日本を守った」のは米国の強大な軍事力。法案は中国やISなどの過激派組織の脅威に対して「抑止力」を高め、「いざという時に臨機応変に対応できる」ようにし、国際テロ組織に立ち向かうなど「世界平和への貢献」もできるようになるからだと。
 しかし、このような見なし方には、どうも一方的な思い込みや決めつけがあるように思われる。
ソ連には、米軍が日本の基地からソ連に出撃したならともかく、何の敵対行為もその意図もない日本に侵略・武力攻撃を加える必要性・必然性はどこにあったというのか、その根拠が示されず、検証もされていない。
 中国には尖閣や東シナ海の領土・領海をめぐって認識に対立があり、不当・不適切な行為に対して日本政府が非難・抗議するといったことはあるとしても、日米で軍事対応しなければならない必要性・必然性はどこにあるのか。過激派組織も、そもそも日本人に怨みがあるわけでもなく、日本政府がアメリカの軍事介入に加担しない限り、彼らに対して軍事対応しなければならない必要性などないのである。
 軍事対応力の強化で抑止力が高まるとはかぎらず、それは相手しだいであり、かえって相手の軍事強化を促し、軍事対決から軍事衝突ひいては戦争を惹起する危険性もある。
 また国際テロ組織に軍事で立ち向かうのが世界平和への貢献どころか、アフガニスタンやイラク・シリアなどの現実を見ればあきらかなように、それはかえって逆効果になって、事態を混乱させ長引かせることにもなるし、国際平和貢献はむしろ非軍事で行うほうが賢明なのだ。
 国民の安全保障や国際平和貢献は軍事力がないとできないわけではあるまい。

抑止力効果は相手しだい(加筆修正版)

 安保法案は「万が一への備え」で、「戦争を未然に防ぐため」「抑止力を高めるため」のものだと言う。しかしそれは、こっち(安倍首相)はそのつもりでも、相手がその通り受け取って挑戦を控えてくれるとはかぎらず、その抑止効果は相手がそれをどう受け取って、どう対応するのかにかかっており、こちらの思惑・期待通りにはいかないもの。相手はそれぞれ、日本政府のそのような軍事的「抑止力」政策に対する信頼度と政治的・経済的・道徳的得失などコスト計算・リスク計算に基づいて対応を決めるのだ。
 その対応には次の5通りが考えられる。①こちらの期待通りに恐れをなして挑戦を完全に断念(屈服)して武装解除か専守防衛のみに、②挑戦は一時控えて、こちらを上回る攻撃力アップに努める、③挑戦は控えるも対抗的抑止力アップに努め、パワー・アップを図る、④挑戦を断行、⑤初めから挑戦する気はなく専守防衛か非武装さえも。
 これらの対応は、その相手国(もしくは勢力)それぞれの状況に応じたコスト計算・リスク計算に基づいて割り出されるが、ISなどの過激派勢力の場合は計算を度外視してでも挑戦は強行される(自爆攻撃による非対称戦)。
 ②と③の場合は競争的軍拡と軍事対決を招き、軍事衝突から戦争を惹起する危険性がある。
国々の大部分は③か⑤の専守防衛にとどまっているのではないか。
 旧ソ連・ロシア・中国・イラン・北朝鮮などの国は③或は②とも考えられるにしても、いずれにしろ、①のような対応をする相手、即ちこちらの期待通りに軍事的抑止力を効かせられる国(或いは勢力)というのは、はたしてどこなのだろうか。中国或いは北朝鮮がそんな(威嚇に恐れをなして引き下がるような)国だというのだろうか?ISなど過激派組織はそんな勢力なのだろうか?
 北朝鮮の立場から見ればリビアやイラクはアメリカに対して①の対応をとって核武装をやめたから滅亡するはめになったのだと考え、「核抑止力」に執着しているのだと見られよう。
 アメリカの立場から日本を見た場合、日本はかつての挑戦国で、敗戦で①の対応をとらざるをえず武装解除したが、やがて自衛隊を創設して「専守防衛」に転じ、今や③に転じようとしている。それが仮にもし改憲されて軍事制約が解除されれば(それは軍事制約があるが故の軍事的対米従属からの脱却をも意味し)、日米同盟は維持したとしても、現在の不平等な安保条約を改定(一方的な基地提供義務や治外法権的な特権を認める地位協定や思いやり予算などは廃止)して、かつての日英同盟のように対等な攻守同盟に改変されるかもしれず、そうなると、②ともなりかねず、日本はアメリカにとって不安な存在となる。なぜなら、「時の政権」によっては、アメリカに忠実な親米政権ばかりとはかぎらず、脱米・脱戦後レジーム政権(ポツダム宣言や東京裁判に反対し、アメリカの核の傘に頼らず自前の核武装さえも目指す極右政権)もあり得るし、非暴力平和主義を唱える政権もあり得、米国の紛争に軍事介入するのをためらい、米国に対する防衛義務を果しえない政府が存在することもあり得るからだ。
 9条を改憲すれば、アメリカはもろ手をあげてそれを歓迎するとはかぎらず、ましてや中国・韓国・北朝鮮・ロシアなど隣国はなおさらのこと、日本に対して脅威感がおぼえ、これらの国々の方が、対日「抑止力」(軍事)強化に向かいがちとなるだろう。
 
 首相は「不戦の誓いは堅持する」と言い、この法案は「戦争を未然に防ぐために抑止力を高めるためなのであって、戦争をするためのものではない」というが、そのために「あらゆる事態に切れ目なく、日米が一層協力して対応できるようにしておく」、ということは(名護市辺野古の新基地建設―普天間基地移設―などとともに)戦争の用意(戦争準備体制)を常に整えておくということであり、(それは中国や北朝鮮など相手に対して「やるならやってみるがいい、いつでも受けて立つ用意があるから」と戦争を呼び込むことにもなあり)、戦争する意思を示す戦争法案であることに違いはないのだ。

 この法案の提出者(安倍首相や政府与党)は「これらは抑止力のためで、戦争するためのものではない」と言うが、彼らはそのつもりでも、相手の国々や勢力はその通り受け取って対応してくれるとはかぎらないのと同様に、国民もその通りには「素直に」受け取ってはいない人たちの方が多いのである。たとえどんなに「丁寧に説明」を受けても。このような軍事的「抑止力」論には、そもそも論理矛盾があり(それは防御用の「盾」だとは言っても、攻撃用の「矛」ともなり)、多分に主観的で実証的な検証も不可能に近いからである。

2015年08月24日

8月のつぶやき
                                                     7716
●朝日川柳「『申し訳程度にチラとデモ映し』―安保法案反対で最大規模でもNHKは」と。”みなさまのNHK”というが「政府広報のNHK」だってことよ
●今日は小雨の中、傘をさして集会・デモ。シュプレヒコール「・・・・はんたーい! ・・・・撤回しろー! ・・・・は国民の声を聞けー! ・・・隊員を戦争で殺すなー! 若者を戦場に送るなー!」と皆に合わせて叫んできた。喉がいまいち、声に濁りが…田んぼ道で歌ってもっと鍛えねば。集会でボーカル-バンド・グループが歌ってた「教訓1」(加川良作詞・作曲)という歌のことを主催者代表が挨拶の中で紹介していた、それが印象に残って、ネットで調べて動画を聴いてみた。「命は一つ 人生は一回 だから命を捨てないようにネ・・・・・死んで 神様と言われるよりも 生きてバカだと言われましょうよネ・・・・」 よ~し 憶えて、田んぼで歌ってみよう
●この辺りでは一番最後の盆踊り(20日)が終わったとたん、めっきり涼しくなり、残暑のないまま、♪今は もう秋 誰もいない海・・・・♪
 今日は 午後、 デモクラTVのいつもの政治トーク番組も終わり、新聞も要所を一通り読み上げたところで、雨は晴れ止んだので、田んぼ道ははずしてアスファルト農道を歩き♪花は 花は 花は咲く・・・・♪ やおら「いい声だね」と後ろから、散歩姿の叔母タリアン。一瞬トーンダウン、小さく咳払いしながら、脇によけてやり過ごした(やれやれ)。間もなく田んぼ道へそれて、もう聴こえまいという辺りから再び歌いだした。♪私は 何を 残しただろう♪
●ブログは自己満足。「だったら日記帳に書くだけでいいようなもので、それ以外に何の意味もないのでは?」と。
 このブログの存在を知らず、或いは(毎年、当方が出している年賀状に付記されているのを見ている人は)知っていても、こんな当方のブログなんかに興味関心のない人は見てはくれないわけで、結局ほとんどは自己満足で終わっている、とは言える。
 ただ、人々から多少とも呼んでもらうことを期待して発信しているメッセージではある。或いは子や孫どもには、これが遺言のようなもの。父・祖父はこんなことを考え、望んでこの世を生きたんだとか、その生き様の一端がそこに見て取れるだろうからな。
 このブログに文章と写真を載せる過程で、新聞・テレビ・ネット・月刊誌その他文献から情報をあさり、思考を巡らして文にまとめ、写真を撮ってきて取捨選択して取り込むなど、脳と指先を使う一仕事だ。キャッチしてくれる人は極くわずかでも、発信し続け、己の存在の証としてそれが残り続ける(消去しない限り)。たとえ自己満足ではあっても、空しくはないのだ(なんて自分に言い聞かせる)。
●今日はクリスタル・キングスの「大都会」に挑戦してきた。♪ああ はてしない 夢を追い続け~る ああ いつの日か 大空駆け巡る~ 裏切りの言葉に 故郷を離れ わずかな望みを 求めさすらう 俺なのさ・・・・♪ 2オクターブの音程差。美空ひばりの「川の流れのように」も同様だ。加山雄三の「君といつまでも」も唱ってきた。田んぼ道で。
低音から高音まで、けっこう声が出るようになったな
●兄弟。小1と中3。テレビの前で、寝ころがってテレビを見ている兄の頭のうしろで、婆々に寄りかかりながらボールをもてあそぶ弟に「うるさい!」。ころがったボールを取り上げた兄に「返して!」。兄の身体にのしかかって手からボールを取り返そうとするも、掴んで離さない。弟が「このやろう!」とわめき立て、兄が婆々からたしなめられてやっと手放したそのボールを、泣きわめきながら兄の頭に投げつけ、それが命中。兄が立ち上がって追いかける。逃げる。二人を婆々が追いかける。「痛い、痛い!」・・・・
われ思う。「戦争ってこうして起こるんだな」と。兄弟喧嘩はボールと素手でだけで済みはしても、力の非対称なものどうしでは、小さい方が仮にバットや何か危ないものを振りまわして血を見る、といった事態にエスカレートしかねない。目を離せないな!危ないものを置いておけないな・・・・武器・兵器・基地・武力行使を合法化する安保法制なども
●8月9日、70年前のこの日、ピカ・ドンがもう一発、長崎に。♪ 我が魂は この土に根差し 決して朽ちずに 決して 倒れずに・・・・・涼風も 爆風も 五月雨も 黒い雨も・・・・葉音で歌う 命の叫びを ♪(福山雅治作詞・作曲『クスノキ』)
●川柳 一句 「若いのに 高速逆走 安倍チルドレン」
もう一句「メリケンの傘で風切るサムライとは これ如何に」
●また8月が来た。70年目の8月だ。
●ピカ・ドン、あれから70年目の8月6日が来た。米沢市役所の敷地内に6年前植樹された「被曝アオギリ2世」(広島で被爆して生き残ったアオギリの種から育てられた苗木を広島市から譲り受けて植樹)の前に集まって、市長、市議会副議長らとともに黙祷・・・・原爆許すまじ ! No more Hirosima !
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                       芙蓉
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                     カサブランカ                      
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                     ガラスに孫の落書き

2015年08月25日

日米安保条約の事実上改定こそ根本問題―15年安保(加筆)

 集団的自衛権の行使容認を伴う安保法案だが、これによって日米安保条約の内実ががらりと変わるところに問題の核心があるのでは。
 この条約は、そもそも、大戦後の米ソ冷戦期に、アメリカが日本を自陣営に確保して、有事に際する前進基地・補給基地として利用するために、国連憲章で合法化した「集団的自衛権」に基づいて結成され、その後、共同防衛義務を定めはしたものの、日本は憲法で集団的自衛権の行使は認められないとの憲法解釈で、共同防衛は米軍基地を含む日本領域内だけに限定され片務的なものにならざるを得ず、中途半端だった。それを今回、憲法解釈の変更で集団的自衛権行使を(「三要件」付きではあるがその当てはめは政府の判断しだいで)容認することによって、自衛隊は米軍の支援要請に応じて、日本の領域外でも共同防衛に携わることができるようになり、双務性が強まって、日米安保条約は完全に軍事同盟化する(安倍首相の言葉で「日米同盟は完全に機能」できる)ようになる。
 日本は米軍の為に基地を提供しているのに、その上なおかつ、自衛隊は世界のどこへでも行って米軍に支援協力しなければならなくなる、ということである。
 集団的自衛権の行使を日本にも課することを期待しそれを前提として結成された日米安保条約だが、その条約が先にあって、それに合わせて憲法解釈を変更、即ち実質改憲をしてしまう。そのようなやり方が許されるのか。またこのような軍事同盟がこの日本に許されるのか。この日米安保条約の存在こそが根本問題なのではあるまいか。

 <加筆>3日朝日新聞に山口・元最高裁長官の「集団的自衛権行使は違憲」というインタビュー記事が出たが、その中で日米安保条約について触れていたので、その部分を抜き書き―「腑に落ちないのは、肝心かなめの日米安全保障条約についての議論がこの間、ほとんどされていないことだ。条約5条では、日本の領土・領海において、攻撃があった場合には日米共同の行動をとるとうたわれている。米国だけが集団的自衛権を行使して日本を防衛する義務を負う、実質的な片務条約です。日本が米国との関係で集団的自衛権を行使するためには、条約改定が必要で、それをしないで日本が米国を助けに行くことはできない。」

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