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2015年07月 アーカイブ

2015年07月01日

7月のつぶやき
                                                   7606

●このところ孫(小1)の野球に付き合せられ、三角ベースの子供らの後ろで球拾い。一仕事だ。打球が外野に抜けると、「じーじ、ダッシュ!」・・・・「バカ言え、高齢者を何だと思ってるんだ!」とつぶやきながら、ヨロヨロ走り、もんどりうってドデン・・・あ~あ!
●13日猛暑35度、熱帯夜、窓を開け、掛布団なしの薄い毛布だけで寝る。
15日衆院特別委員会で安保関連法案を与党だけで強行採決、16日衆院本会議でも強行採決。熱い夏との闘いが、いよいよ本格的に始まったな!
●田んぼ、空を見上げると吾妻の山の向こうから走る飛行雲の先に銀色の機が小さく見える。四方は空から見れば緑の絨毯、人家には誰の目にも耳にも届かない田んぼ道を、麦わら帽子をかぶって、大声で♪We shall overcome, We shall overcome, We shall overcome someday~~・・・・♪と歌いながら歩き、立ち止まって小便。アオサギが4~5羽、長い首が稲原の上に見える。警戒心が強いと見えて、50m以上も距離があるのに飛び去って行く。♪さよならを もう一度 あなたに 去って行くその方に 今日で終わるわけではないと 声を出して 叫びたいの・・・・♪
●欽ちゃん74歳、舞台を引退して、駒澤大学の仏教学部に、社会人入試に合格して入学し。「仏様の教え」を英語やドイツ語などとともに学んで、教授や学生から「欽ちゃん、欽ちゃん」と呼ばれて対話しながら大学生活を過ごしているのだそうな。負けられねーな
●何これ? アオムシ その胴体に蜂が針を刺して産み付けた卵から返った(蜂の)幼虫が(アオムシの体を突き破って)体外に出てきたところ  きもい!
 (女房がネットで調べたところ、アオムシはモンシロチョウの幼虫。蜂はアオムシコマユバチ。アオムシの9割は、この蜂から刺され卵を産み付けられて、後は死ぬ運命。それを免れた1割だけがモンシロチョウになるんだとか)知らなかったな~
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            アオムシ 2cmぐらい(胴体から何匹もの蜂の幼虫)
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     アオムシに抱かれてるように見える蜂のマユの束(その下のは別のマユ束)
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          窓ガラスにへばりついているアオムシ(下方)と蜂のマユ束

2015年07月02日

抑止戦略―個別的自衛権と集団的自衛権

 軍事的抑止戦略か非軍事的抑止戦略か―どちらが賢明か
 その前に先ず、そもそも現代世界では、戦争というものが在るのが当たりまえなのか、ないのが当たりまえなのか。国々には敵もあれば味方もあるのが当たりまえなのか、当たりまえでないのか。人や国は戦うのが当たりまえなのか、当たりまえでないのか(世界価値観調査では、「もし戦争が起ったら国のために戦うか」という質問に『はい』と答えた人の割合は、日本が最低だという)。 
 考え方の違いがあると思われるが、実際問題として(実態は)どうなのか、である。
 (中東ではイスラエルとパレスチナ国家その周辺諸国との間の根強い対立・抗争があり、シリアとイラク両国にまたがってイスラム過激派と政府軍の戦乱、アフガニスタンでは未だ戦乱が続いている。アフリカではリビア・スーダン・ソマリアその他で戦乱が続いていおり、ウクライナでは親ロシア派と政府軍との間で内戦があってそれにからんでロシアとNATOとの対立があるが)国家間の戦争は国連憲章で違法とされ禁止されている。
 (第一次~第二次大戦後、自衛権行使と国連による不正な武力侵攻・武力攻撃に対する軍事制裁以外は禁止。自衛権行使も、安保理事会が措置をとるまでの間に限った暫定的なもので、集団的自衛権はもとより個別的自衛権も例外的なものとされているのだ。国連は、国連の目的に軍備を利用する以外には、国ごとの個別的な軍備は制限・縮小するなど軍備の規制目指している。
 集団的自衛権とは、本来の自己保存の本能に基づく自然権としての正当防衛権たる自衛権とは言えず、そもそも集団的自衛権なるものは国連憲章51条に書き込まれた経緯から見ても、米国などの政治的思惑による後付けされた概念にすぎない。(自然権としての正当防衛権には当たらない。個別的自衛権は個人の正当防衛権と同様に自然権で「固有の権利」といえるが、集団的自衛権はそもそもが「固有の権利」などではないのだ、ということ。)
 第一次大戦後、戦争違法化の流れの中で、自衛権の考えが生まれたが、それは自国が攻撃を受けた場合にのみ実力で阻止・排除する「個別的自衛権」を意味するというのが国際法上の常識だった。1944年、国連創設にさいするダンバートン・オークス会議における国連憲章原案にも「集団的自衛権」などという文言はなかった。
 ところが45年3月アメリカ主導で開かれた米州諸国会議で軍事同盟(米州機構)を合理化するため、加盟国のいずれか一国に対する攻撃を全加盟国への攻撃とみなすという決議(チャプルテペック決議)がなされ、それを同年6月に採択された国連憲章成案にアメリカが盛り込むことを提案、ソ連が同意して憲章51条に個別的自衛権とともに「集団的自衛権」なるものも「固有の権利」として記されることになった。というわけで、「集団的自衛権」とは「後付け」された概念にすぎないのだ。
 このように、集団的自衛権とは、そもそもが軍事同盟を合理化するものであり、軍事同盟は、国々を戦争に巻き込んだという、とりわけ第一次大戦の苦い経験から望ましくないものとして否定されてきたものなのだ。(セルビアの一青年がオーストリア皇太子を暗殺したことをきっかけにオーストリアがセルビアに宣戦布告して開戦したが、双方それぞれの同盟国が次々と参戦し、日本までが日英同盟のよしみで参戦、世界大戦となった。)

 このように現代世界では原則として戦争は禁止されていて、実際、(イラク戦争以後、主権国家間で正規軍が激突し合う戦争は)近年はほとんどなくなっているし、戦争があるのが当たりまえだなのではなく、むしろないのが当たりまえなのだ。

(1) 軍事的抑止戦略
 それは、国々には敵国が存在し、その国から武力攻撃があり、戦争はあるもの、という考えを前提に、仮想敵国を(それが存在するものと)想定し、戦争・武力攻撃(があるものと想定して、それ)に備えて軍備、「抑止戦略」をたてる、というもの。
 軍備―より強大に・・・・軍事費かさむ―費用対効果が問題
 敵味方を峻別―同盟国・友好国(アメリカ・オーストラリア・NATO諸国など)と非同盟国・非友好国(中国・ロシア・北朝鮮など)と分けて対決→緊張→戦争やテロを呼び込む(テロの標的になる) 
 同盟政策―「集団的自衛権」行使―同盟国or「密接な関係にある国」を攻撃した国(A)を攻撃―そうすれば、その相手国(A)から見れば我が国による攻撃は先制攻撃したことになり、それに対して(A)は反撃してきて我が国との戦争になる
 同盟国(の戦争に)軍事支援―たとえ「後方支援」でも、相手から見れば、また国際法上は武力行使と一体な「兵站」行為として参戦と見なされる―武器使用は自己防衛につもりでもあっても、武力行使と見なされる
  
(2)非軍事的抑止戦略(安倍政権の安保政策・抑止戦略に対する対案になるもの)
 「諸国民の公正と信義に信頼」(醸成)、9条(世界に普及)を基調に
 どの国とも友好・協力―敵をつくらず、どの国も味方か敵にあらずとして―平和友好条約or中立保障条約
 地域平和共同体―東南アジア友好協力条約(TAC)
        北東アジア平和友好協力条約もめざす―地域の平和と安定へ
 紛争・係争は対話・交渉によって解決―紛争をエスカレートさせない行動規範を構築
              北朝鮮問題を「6ヵ国協議」の枠組みで解決
              領土問題の外交的解決

2015年07月09日

「抑止力」論の欺瞞(加筆修正版)

 安倍首相は「平和安全法制」など、それらは戦争することを目的にしてはおらず、むしろ、それを抑止することを目的にしているのだと。
 しかし、軍事的抑止力とは軍備(物理的・システム的備え)の運用・武力行使を控えることではなく、それを運用・行使する、その意志(戦争の覚悟)があることを前提としている。しかも、それを行使するのは、相手が自国にたいする攻撃に着手してからそれに応戦して行うとはかぎらず、その前に(先制攻撃)やらなければ(迫りくる「存立危機事態」に)間に合わないという場合には、同盟国など他国に加えられた攻撃に対しても応戦する―それを集団的自衛権というわけだ。これらは攻撃を思いとどまらせる抑止力というよりは、「いつでも来い」とばかりに迎え撃つ応戦力・参戦力と言ったほうがよく、このような軍事的「抑止力」論は欺瞞というほかあるまい。
 軍事的抑止力は相手の受け取りようによって、それを相手がどう見なすかであって、自分は「抑止力」のつもりだからと言って、相手もそう思ってくれるとはかぎらず、自国のそれは「戸締り」「町内会の防犯パトロール」の如き抑止力だ(安倍首相)と言っても、相手はそうは受け取るまい。
 単なる「戸締り」や「町内会の協力」なら、家に鍵をかけるだけとか、丸腰で見回りするだけだが、それがどの家も、どの町内も銃刀を所持して、となると穏やかではなくなり、かえってその濫用・殺傷事件の頻発を招く結果にもなるだろう。だから我が国では、警察官以外には銃器の保持は禁止されているし、急迫不正の侵害に対する正当防衛は認められるにしても、予め武器を準備、集合する過剰防衛は禁じれれている。
 自国と同盟国の軍備と安保法制を「抑止力」と手前勝手に称しても、相手(中国・北朝鮮・ロシアなど)がその通りに素直に受け取って軍事も軍備増強も控えるかといえば、そういうわけにはいかないだろう。これらの国々にとっては、我々が彼の国の軍備増強や核・ミサイル開発に脅威を感じるのと同様に、我が国の軍備と同盟強化に対して警戒心・対抗心を募らせ、さらに軍備増強と緊張を招く結果になってしまう。
 沖縄の基地を「抑止力」だと自分たちは思い込んでも、敵と見なされた相手にとっては、そこを攻撃対象からはずすようなことはありえず、むしろ真っ先に標的にされる可能性の方が強い。
 個人に自然権として正当防衛権が認められていても、銃刀の所持は、我が国では法律で禁じられているのと同様に、国の自衛権は認められていても、戦力の保持は憲法で禁じられている。急迫不正の侵害に対して自衛権に基づく実力行使は認められるとしても、自国にではなく同盟国など他国に加えられた侵害に対してまで集団的自衛権の名のもとに(国連憲章ではそれが認められているからといって)その国と連携して武力行使することまでも(たとえ「後方支援」であろうと、それは兵站活動として武力行使と一体と見なされ)我が憲法では到底認められはしないだろう。
 いずれにしても、集団的自衛権の名の下に安保法制で構築された同盟協力体制は「抑止力」だと幾ら称しても、相手の中国・北朝鮮などの非同盟国や勢力から見れば、日米の脅威が増して対抗心を駆り立てる以外の何ものでもなく、国際平和・安全を害する以外の何ものでもあるまい。(首相はもう一つの例え話―「不良とのケンカ」で、「私の友だちのアソウさんという人が『おれはケンカが強いから一緒に帰って守ってやるよ』といって一緒に帰ってくれて、そこに3人ぐらいの不良が出てきて、いきなり私の前にいるアソウさんをまず殴りかかった。私もアソウさんと一緒に対応する」と。「対応する」とはケンカの相手になるということだろう。そうなると、それは抑止だけでは収まらない、実力を行使して加勢する―即ち参戦する」ということだろう。)集団的自衛権の行使容認は「抑止力」ではなく、いわば「参戦力」なのだ。
 「抑止力」と称して軍備や安保法制などいくら強化・完備しても、それらにはそれを運用・行使するうえで、国民の意志・覚悟(いざとなったら全面戦争も辞さない覚悟)が伴わなければ「張り子の虎」に過ぎず、逆に相手は(北朝鮮やISのように)、たとえ軍備や軍事システムは劣弱でも、意志力が頑強・激烈な(自暴自棄的な決死の覚悟の)相手には、さほど抑止効果は働かない。我々日本国民は、そんな戦意・覚悟など持ち合わせない。だったら今からでも彼らに負けない戦意・覚悟を持つように扇情教育したらいいではないか、なんていっても、無謀・悲惨な戦争のバカらしさをすっかり知り尽くして憲法に不再戦を誓っているという意識が多少ともある日本国民に、そのような戦意・戦争の覚悟などありようはずがあるまい(たとえ首相がその気になっても)。だとすれば我が国がアメリカに合わせて軍備や安保法制をどんなに整えたところで抑止力にはならないのである。「軍事的抑止力」なるものは多分に神話的な思い込みに過ぎないということだ。
 60年安保反対闘争、65年べトナム反戦運動、それに70年安保反対闘争も、それで日米安保条約を破棄することはできなかった。それで、その後日本が戦争に巻き込まれずに済んだのは(安倍首相など)「安保のおかげだ」という向きがあるが、実はそうではなく、むしろ多くの国民が参加した安保反対闘争や反戦運動のおかげであり、そこで示された国民の強烈な反戦意志が9条とともに根付いたからにほかなるまい。
 戦争や武力攻撃を抑止するのは、「戦争しない」、「武力攻撃しない」という国民の意志であり、戦争するな!武力行使するな!という国民世論にほかなるまい。その抑止力を強めることこそ肝要なのであり。まずは我々日本国民が憲法(9条)に誓っている不戦意思を互いの心に再確認して国の内外に宣明し、アメリカにも、中国・ロシア・北朝鮮にも「戦争するな!武力攻撃するな!」と声を大にして訴えることであり、それこそが抑止力にほかなるまい。
 それにつけても、日米同盟・米軍基地・アメリカの「核の傘」そのうえ集団的自衛権行使容認の安保法制、これらはその抑止力を損なう以外の何ものでもあるまい。自らはアメリカの「核の傘」を背に「いつでも、どこでも、切れ目なく」軍事対応できるように、そして戦争もできる準備をしておきながら、相手に「戦争・攻撃しかけるな」などと、いくら言い立てたところでなんの説得力もあるまい。
 7月13日衆院特別委員会の中央公聴会で、自民党の議員が「隣の家が火事になったら、公述人も当然火消しに行きますよね」と質問。(木村草太教授から「火事と武力行使を同一視する比喩が成立するのか」と返された。)火事は火を消して終わるが、集団的自衛権の武力行使は、火種を消すのではなく、かえって燃え上がらせ戦争に発展させてしまう、その違いがわかっていないのだ。
 「軍事的抑止力神話」に騙されてはならない!

2015年07月10日

国を守ってきたのは平和主義

 本紙3日の「異論のススメ」佐伯教授の「国を守るのは誰か」に異論があります。教授は「日米安保体制によって国が守られてきた」「戦後日本の防衛の核は、実際上、米軍による抑止」「戦争は国家の主権的権利」だと。
 しかし、それには、日米安保の仮想敵国とされたソ連にしても中国・北朝鮮にしても、これらの国が戦争放棄を宣明した日本にわざわざ戦争をしかける蓋然性はいったいどこにあったというのか、その理由・根拠が示されていない。
 それに、米軍・自衛隊の強大な軍備と緊密な同盟協力体制を備えても、その運用・行使には意志がなければならず、国民に全面戦争の覚悟ないかぎり、その軍事的備えだけでは「張り子の虎」の抑止効果しかないわけである。大戦の深刻な反省から憲法に不再戦を誓った国民には戦争の覚悟などあり得ず、この不再戦の意志こそが、この国の平和を守ってきたのでは。
 これらのことを考えれば、我が国の平和を守ってきたのは米軍などではなく、平和憲法に基づく不再戦の意志のほかあるまい。
 自衛権は自然権として固有の権利ではあっても、戦争は国際法上違法と見なされているのである。個々人の正当防衛権はあっても、我が国では護身用に銃刀など武器を所持することは法律で禁止されているように、自衛権そのものは留保しつつ、戦力・交戦権を放棄しても、主権的権利を放棄したことにはなるまい。

2015年07月13日

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安保法案「抑止力」論は独善

 朝日10日の声・投稿「安保法案は『危機管理法案』」は、北朝鮮の軍事力向上のことを挙げて、「敵国に攻撃された時」、「平和主義を唱えてさえいれば攻撃されないと言えるのか」として、それは「『抑止力』を最大化することによって国民を守る緊要な法案」だという主旨。
 北朝鮮は敵国で、いずれ我が国に攻撃をしかけてくるものとして、それに備えて「抑止力を最大化」しておくとの考えだが、このような軍事的抑止力論には、とかく独善的な思い込みや決めつけがあるように思われる。「抑止力」とは、相手がそれをどう思うかであって、こちらが思うように素直にその通り受け取って攻撃も軍備増強も控えるかといえば、そうとはかぎらず、日米側の軍事強化と見なし、さらなる脅威を感じて対抗心を募らせ、相互に「抑止力」強化合戦になって、かえって緊張を招き、危機を増幅させる結果になりかねない。それに北朝鮮が日本に攻撃をしかけるのは、台風や地震・津波のように必然的不可避というわけではなく、こちら(日米)側の出方如何によるわけである。
 「危機管理」と称して軍事的「抑止力」強化にばかり熱中するのではなく、憲法の不戦平和主義に基づく諸懸案の外交的解決と国交正常化の方に意を注ぐことこそ、緊要なのではあるまいか。

2015年07月16日

平和国家・民主国家・立憲法治国家の存立危機事態

①恣意的な解釈変更で実質改憲・違憲立法の強行―立憲主義(個人の人権を守るために憲法によって権力に縛りをかけることで、為政者・権力保持者は憲法に従って権限を行使しなければならず、憲法に定める以外のことを恣意によって執り行ってはならないという原則)の蹂躙
②不戦平和国家から(「平和国家ブランド」―日本外交の「資産」―をかなぐり捨て)対米従属の軍事国家へ変質―中国もさることながら、世界から「脅威の的」とされるアメリカをフォロー・補完して積極的「国際貢献」に乗り出そうとするアジアの一大軍事国家に変容。
③熟議なき多数決強行―対米公約(米国議会で「夏まで法案を成立させる」との約束)を先行、憲法学者大多数と内閣法制局長官OBも違憲見解、マスコミ各社の世論調査で反対が多数(60%前後―賛成の2~3倍)で、説明・審議不十分との受けとめが大多数(80%以上)、首相自身も「国民の理解が進んでいないのも事実」と認めていながら、「選挙で選ばれた私たちには、国民の命を守り、幸せな暮らしを守り抜く責任があるのだから」と強弁して審議を打ち切らせて採決強行し、「(かつて日米安保改定やPKO協力法を採決した当時は反対が強かったが、その後の実績を見て理解・支持されるようになったのと同様に)いずれ国民は理解してくれる」と都合よく弁明・合理化―民主主義の蹂躙(国民主権のないがしろ)
④集団的自衛権で高まる自衛隊リスク―子や孫が心配
 少子化が進む中、今の自衛隊(21万人前後)を維持するには、毎年一万人前後(?)の自衛官を採用しなければならず、25年後には新生児の30人に1人が入隊しなければならない計算だそうな(?)。
 集団的自衛権の行使容認の安保法制改変で、今後、自衛隊の任務と海外活動の範囲が拡大(それに伴い隊員の生命の危険も拡大)すれば、人員確保(隊員募集)は難しくなる一方だろう。そこで18歳成人に達した若者に兵役義務を課する徴兵制―それは憲法上、不可能と、安倍首相は今のところは言明しているが、またしても「憲法解釈の変更」によって可能にされないとも限らない。(石破大臣などは憲法上不可能とは言えないという考え。)それはともかくとしても、「経済的徴兵制」という手があるのだそうな。
 労働者派遣法の改定で低賃金・不安定雇用が拡大する中、「安定した仕事がある」「奨学金がある」と勧誘して志願させるアメリカ式の募兵方法だ。
 いずれにしても、若者、子や孫たちが心配だ。

 「国際平和・安全貢献」とあわせて「国の安全保障をより確実なものに」し、「抑止力を高めるため」のものだなどと、いくらいっても、軍事的抑止力では、抑止しきれないばかりか、その同盟協力体制の強化・法整備は中国・北朝鮮など相手側の軍事強化(日米に対抗する軍拡の正当化)をも誘い、軍事対決・緊張を高め、軍事衝突から戦争に発展・エスカレートする結果を招きやすくなり、国内外における過激派のテロ攻撃を招く(反米テロの矛先が日本にも向けられる)結果にもなる、その可能性がますます強くなるだろう。
 日本国民が、この後、再び戦争に巻き込まれ、テロに巻き込まれるリスクが高まる国になるのかと、心配でならない。

 これらのことこそが、まさに戦後日本の存立危機事態だろう。

⑤戦争法案に対する対案は平和法案で―国際平和と日本の安全は非軍事でこうやって確保するという対案。
 今、政府が押し通した法案は「平和安全法制」というが、それは戦争法案にほかならない。
 維新の党や民主党も「対案」なるものを提出したが、それらは修正案というべきもの。対案というなら文字通り非軍事の「平和法案」であるべきだろう。憲法(9条)に違背する軍事戦略ではなく、9条に忠実に率先垂範して、それを世界に普及・普遍化する国際平和戦略と自国の安全保障戦略及びそれに基づいた具体的な方策から成る対案である。
 例えば、ASEAN諸国を中心とした東南アジア友好協力条約の「北東アジア版」など
⑥明文改憲論への警戒
 引き続き警戒すべきは「集団的自衛権の行使容認もその法整備も抑止力として必要だが、それは憲法を正面から改正して堂々とやるべきだ」という明文改憲正当化論だ。

2015年07月22日

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                       クロアゲハ
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このサナギからかえった

2015年07月25日

短絡的な脅威論・抑止論

 安倍首相の安保関連法案に賛成という人たちは、中国や北朝鮮などに対して、不信感と脅威イメージが先行して「いつか攻撃をしかけてくるかもしれないから、守りを固めなければならない」、だから、そういうものは『抑止力』としてあった方がいいんだという考えなのだろう。 
 しかし、そもそもこれらの国が日本に軍事攻撃をしかけてくる(可能性―攻撃能力は持ったとしても、メリットと意志の有無からいって)蓋然性(必然性)は、はたしてあるのだろうか。 
 相手のことを考えれば、おそらく向こうも(同様に)、日米同盟強化と日本の軍事大国化に対して脅威・警戒感もち、自らの軍事的抑止力の強化にこだわり、遅れをとるまいとやっきになっているのだと考えられる。軍事的抑止力には、それに頼るあまり、「やるならやってみろ、受けて立つ」とばかりに強気になって対決姿勢になり、話し合い、交渉、歩み寄りには応じなくなるという難点もある。
 お互いにそれでは、さらなる軍備強化、軍事対決に傾き、偶発的な軍事衝突から戦争に発展する危険性が高まるばかりだろう。
 「お互い軍事でいがみ合うようなことはやめにして、問題はあくまで話し合いで解決するようにしよう」と呼びかける。そしてそれをこちらから率先垂範。それこそが憲法に不戦・平和主義を掲げる我々日本国民の立場なのではないだろうか。

2015年07月29日

安保法制は戦争を近づける

 24日の投稿に「安保法制は日本の抑止力を高め、戦争を遠ざけるため」と。しかし、相手は、それで退くどころか、対抗心を募らせ、さらなる軍事強化にはしり、かえって対決・緊張を強め、軍事衝突から戦争を惹起しがちとなる。それは「70年前の過ちを繰り返さないためのもの」というが、むしろ再び日中戦争が繰り返されかねないことになる。中国に対して、その「侵略を未然に防ぐことが必要」というが、相手も日本に対して再度の侵略に備えなければと構えるとなるだろう。
 多くの憲法学者の反対があったにもかかわらず、新たな憲法解釈で自衛隊を創設、それが「抑止力を高め、平和の維持につながった」と言われるが、平和が維持されたのはその自衛隊があったからというよりも、それがあっても憲法(9条)そのものは維持され、そこに打ち出されている不戦意思が厳然として貫かれていたからこそだろう。それが、集団的自衛権・武力行使までも事実上容認するとなれば、それはもはや、不戦から転じて戦争意思の表明と見なされよう。
 日本が「70年前の教訓と民主主義に別れを告げようとしている」というのは、けっして極論ではあるまい。日本国民にとって不戦平和国家は「愛せる国」だったのに、それが軍事国家となってしまったら、と思うのも尤もなことだろう。

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