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2015年06月 アーカイブ

2015年06月01日

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                          てっせん
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                           アマリリス
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                           くじゃくサボテン


70年談話問題―先の戦争に対する認識(加筆版)

第二次世界大戦―1940年9月16日大本営政府連絡会議「日独伊枢軸強化に関する件」で、政府と軍部は、ドイツ、イタリアとともに世界再分割をめざし、日本が領土とすべき地域を「皇国の大東亜新秩序建設のための生存圏」として中国・インドからオーストラリア、ニュージーランドまでのアジア・太平洋地域を画定。これに基づいて日独伊三国同盟を結成。ドイツ・イタリアのヨーロッパでの支配権と日本のアジア・太平洋地域での支配権を互いに認め合ったうえで、それぞれに戦争を展開。
ポツダム宣言―大戦末期1945年7月26日米英中3国による対日降伏勧告
                 28日鈴木貫太郎首相(記者会見で)「黙殺」し、「戦争完遂にまで邁進するのみ」だと。
               8月6日広島に原爆
                 8日ソ連、対日宣戦布告
                 9日長崎に原爆                  
                14日日本政府受諾
 13項目
  第6項「吾等は無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は平和・安全及び正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は永久に除去せられざるべからず。」
  第8項「カイロ宣言(米英中3国は『日本の侵略を制止し、かつこれを罰するため今次の戦争をなしつつあるものなり。・・・・日本国は…暴力及び貪欲により日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。・・・・』―引用者加筆)の条項は履行・・・・・」
  第10項「一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし」
  第13項「吾等は日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し且つ右行動に於ける同政府の誠意に付き適当かつ充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす。」

●5月20日党首討論で共産党の志位委員長は安倍首相に対して、ポ宣言で連合国側が示したこのような文言による認識すなわち日本が行った戦争は「侵略」であり「過誤」を犯した戦争だという認定を認めるのか否かを訊いた。ところが首相はポ宣言の「その部分をつまびらかに読んでおりませんので」論評は差し控えたいが、「いずれにせよ、まさに先の大戦の痛切な反省によって今日の歩みがあるわけでありまして、我々はそのことを忘れてはならないと思っております。」このポ宣言を「われわれは受け入れることによって、終戦を迎え」「これが戦争を終結させる道であったということであります。」それに対して志位委員長は、「私はポ宣言が認定している『間違った戦争』という認識を認めないのかと聞いたんですが、認めるとおっしゃらない。・・・・『侵略戦争』はおろか、『間違った戦争』だともお認めにならない。・・・・日本が過去にやった自らの戦争の善悪の判断もできない総理に、米国の戦争の判断ができるわけないじゃないですか。・・・・そういう総理が日本を『海外で戦争する国』につくり変える戦争法案だす資格はありません。」と。

●サンフランシスコ講和条約(11条)には、東京裁判の判決を日本政府が受諾したことを宣明。
 ところが、自民党の稲田政調会長などは、東京裁判の「判決主文(死刑)は受け入れたが、理由中の判断(犯罪事実の認定)に拘束されない(受け入れてはいない)」(カッコ内は筆者加筆)と。
 安倍首相自身も以前(06年10月8日、衆院予算委で)サ条約11条で「いわゆるA級、B級、C級と言われる人たちの犯罪者扱いを約束したものでは全くない」と述べている。

●安倍首相の祖父である岸元首相(東条内閣の商工大臣。A級戦犯被疑者として拘留されたが不起訴。東条ら7人には死刑判決。岸、いわく「今回の東京裁判はその理由において事実を曲げた一方的偏見・・・・」「大東亜戦争を以て日本の侵略戦争と云うは許すべからざるところなり」と。岸は公職追放は免れなかったもののサ条約発効とともに解除・復権。吉田退陣で国会議員となって、いわく、「憲法は改正しなきゃならん。アメリカ、マッカーサーがつくった憲法だ。日本の国体を維持するために認めただけの話」だと。自民党結成・幹事長となり、石橋首相の病気辞職で首相に就任。「自主憲法制定」をめざしつつ、日米安保体制を確立)以来、自民党の政治家は次のように思っているのだろう。
 あの時、日本は連合国の力に屈し、脅しに屈して「やむなく」「不本意に」、ポ宣言の場合は「降伏」だけを、東京裁判の場合は「受刑」だけを受諾したのであって、日本が侵略をしたとか過誤を犯したとは認めてはおらず、罪状は否認。
 日本の戦争は「自衛自存のための戦争であり、植民地解放の戦争」なのであって、「国民を欺瞞し、世界征服の挙に出ずる過誤を犯した」「侵略戦争」だなどとは思っていないのだ。(だから、A級戦犯を合祀している靖国神社に参拝や奉納をしても悪くないと。)
 安倍首相は、自民党幹事長代理だった2005年には、(月刊誌の対談で)「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかりにたたきつけたものだ」と語っていた。東京裁判も、13年3月の国会で、「連合国側が勝者の判断によって、その断罪がなされたということだろう」と答えていたという。要するに米国の原爆など連合国の力に屈して、やむなく無条件降伏と戦犯の死刑判決等は受諾はしたものの、日本の行った戦争を「世界征服の挙」だとか「侵略」だと判断し、戦争指導者たちの行為を戦争犯罪だと断じたその判断は勝者の一方的な判断であり、そのようなことまで全て認めたわけではない、という思いなのだろう。
 (例えば学校の生徒指導で、生徒が「俺は悪くない、逆らったあいつの方が悪い、俺はやっていない、手伝っただけ、見ていただけだ、みんなやってるからやった、まずいことをした、申し訳ないとは思ってる」、(なんで申し訳ない?)「親や学校に迷惑をかけたから」「だから処分には従う」、などと言ってるようなもの。肝心の相手(被害者)に対して申し訳ないとは思わない。そのように反省が不徹底・不十分なまま処分を下しても、当人は「今度はドジを踏まずに巧くやる」とか、同じ行為が繰り返されてしまうことになる。被害者にとってはそれが恐怖なわけである。)
 間違った戦争でもなく、過誤を犯したのでもなかったのだとすれば、「同じことを繰り返してもかまわない」ということになるわけだ。だとすれば、日本と戦った相手の諸国は構えることになる。日本による再度の侵略戦争に備えなければならないと。そして、日本の政治家が「不戦の誓い」「不再戦」といっても、それは「バカな戦争はしない」「下手な戦争はしない」「負ける戦争はしない」ということだけで、今度やるときは「勝てる戦争をする」、だから「防衛力」(軍事力)とその体制を強化しているわけか、と不信にとらわれ続け、信頼関係が築けなくなる。(日本と戦った相手の諸国とは、中国だけでなく米英ロその他の連合国であり、国連を結成した国々。その国連には国連憲章に「旧敵国条項」があり日本はドイツ・イタリアなどとともに「旧敵国」あつかいで、今では有名無実にはなっているが、その条項は完全に削除されたわけではない。「旧敵国」視されるような不信感をいつまでも持たれてはかなうまい。) そこが問題なのである。
●村山元首相は次のように述べている。「単に被害感情の問題だけでなく、(「自虐」か「誇り」か等の問題でもなく―筆者)再び日本が同様の過ちを繰り返しかねない状況にあるかどうかという問題でもあり、簡単に譲れるような問題ではないということを、まず理解する必要がある。」「侵略と植民地支配という過ちを率直に認めて謝罪の念と再び過ちを繰り返されない決意を表明することによって、日本はアジアの一員として立場を回復できるのだ。」「国際社会が問題にしているのは、いまや戦時中の行為というよりも、現在の日本政府の姿勢」(世界6月号より)。

●広島の原爆慰霊碑には「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と書かれてあるが、そこで問われるのは「過ちを犯したのは誰なのかだ」。
●安倍首相は、5月1日の国会(安全保障関連法案を審議する衆院特別委員会)では、民主党の細野政調会長の質問に答えて次のように述べている。「我々はポツダム宣言を受諾し、その後の東京裁判の諸判決を受け容れた。それに尽きる」、「6項の世界征服を含めて、当時の連合国の政治的意図を表明した文書だ。政府としては同項を含め、ポツダム宣言を受諾し、降伏したことに尽きる」。サ条約については「(日本は)極東国際軍事裁判所の判決を受諾しており、それに異議を唱える立場にはそもそもない」。指導者の責任については「戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという決意で、戦後の平和国家としての歩みを進めてきた。そうした結果を生み出した日本人の政治指導者には、それぞれの責任があるのは当然のことだろうと思う」と。
●さて戦後70年談話で安倍首相どう語られるのかだ。
 安倍首相や稲田政調会長らの政治家だけでなく、我々日本国民の認識も世界から問われよう。

●因みに、現在の国民の意識の一端を示すものとして最近の世論調査に次のような数字が見られる。(3月11日~4月10日、朝日新聞による世論調査で4月18日朝刊に掲載。その中から関連するものをピックアップ)
 「70年前に終わった戦争について」「日本がおこなったこの戦争は、どんな戦争だったと思いますか。」―「侵略戦争だった」30%、「自衛戦争だった」6%、「両方の面がある」46%、「よく知らない」15%
 「この戦争について、学校でしっかりと教わったと思いますか」―「しっかりと教わった」13%、「しっかりと教わらなかった」79%
 「『日本の歴史教育は、この戦争について否定的な見方が多く、自虐的だ』という意見がありますが、どう思いますか」―「その通りだ」35%、「そうは思わない」47%
 「なぜ日本がこの戦争をしたのか、日本人は自ら追及し解明する努力を十分にしてきたと思いますか」―「十分にしてきた」23%、「まだ不十分だ」65%
 「戦後、アメリカなどの連合国が日本の戦争指導者をA級戦犯として裁いた『極東国際軍事裁判』いわゆる『東京裁判』をどの程度知っていますか」―「内容をよく知っている」3%、「内容をある程度知っている」30%、「裁判があったことは知っているが、内容は知らない」47%、
                         「裁判があったことも知らない」16%
 「日本の首相が靖国神社を参拝することに」―「賛成」56%、「反対」26%
 「中国や韓国は、安倍首相の靖国神社参拝を批判しています。政府は、中国や韓国のこうした批判を重く受け止めるべきだと思いますか。それほどのことではないと思いますか」―「重く受け止めるべきだ」31%、「それ程の事ではない」55%
 「政府は戦後50年と60年に植民地支配や侵略で、アジアの人々に大きな苦しみを与えたとして、『痛切な反省』や『心からのお詫び』という言葉を入れた談話を発表したことは」―「妥当だった」74%、「妥当ではなかった」13%
 「日本は、戦争などで被害を与えた周辺国と、今、どの程度うまくいっていると思いますか」―「うまくいっている」46%(「大いにうまくいっている」1%、「ある程度うまくいっている」45%%)
 「うまくいっていない」50%(「あまりうまくいっていない」45%、「全くうまくいっていない」5%)
 尚、ドイツでも同国人に同様の質問―「うまくいっている」94%、「うまくいっていない」4%

6月のつぶやき
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左側のバラの枝に一匹  右のアルミ棒に一匹          

●アオサギがポツンと田中に立っているだけで、誰もいない田んぼ道を、今日も散歩しながら歌ってきた。♪・・・・教科書は 現代史を やる前に時間切れ そこが一番知りたいのに なんでそうなっちゃうの・・・・都合のいい解釈で 争いを仕掛けて 裸の王様が牛耳る世はINSANE(狂気)20世紀で 懲りたはずでしょう くすぶる 火種が 燃え上がる~だけ・・・・・悲しい過去も 愚かな行為も 人は何故に 忘れてしまう・・・♪(サザン・オールスターズ ” Peace & Hi-lite ”) ♪We shall overcome We shall overcome ・・・・♪ ♪がんばろう 突き上げる 空に・・・・♪ 空を見上げて ♪雲よ 西へ流れる雲よ 伝えてくれ 俺たちの言葉 俺たちの美しい山 二度と 戦争はしないと 伝えてくれ 西の 国の 友達へ♪
●昨日は、「座り込み」は入れ替わり立ち代わりのスピーチ(リレートーク)、デモはシュプレヒコール(「平和憲法を守れ!自衛隊を戦地に送って殺すな!・・・・」)だけで、いま一もの足りない。歌がほしかったな
 今日は、いつもの田んぼ散歩で一人大声で歌ってきた。♪日本国民は恒久の平和を 念願し・・・・・♪(憲法の歌)、♪がんばろう 突き上げる空に ・・・・♪ ♪We shall overcome  We shall overcome  We shall overcome someday・・・・♪
●マイマイ蛾―昨年来、大量発生(街のあちこちの建物の壁や電柱に張り付いていた)。女房は家の周りに咲き乱れ始めた葵の葉や茎を見てきてみろというので、行ってみると、いるはいるは、その幼虫(5~7cmほどの毛虫)、10匹も。葉っぱごとちぎって踏み殺し、女房は剪定ばさみでチョッキン、チョッキン
●一時間半―田んぼ道と農道を一万歩―その間、バイク一台とすれ違っただけ。思い切り歌えた。♪こうとしか 生きようのない 人生が ある~・・・・・・♪ ♪わたしの お墓の前で 泣かないでください・・・・・♪
●吾妻山の「白馬の騎士」(残雪)は消えた。月山の万年雪は彼方にうっすらと見える。蔵王や吾妻に噴煙が見られる日がいつか来るのかな。
 帰ってきた女房に「収穫あったか」と訊くと、「ほら、ミズナだ」と一束。
 女房のケイタイに孫の小学校から熊(出没)情報が入った。
●田植えが終わって誰もいない田んぼに戻って、吾輩の独壇場、思い切りワンマンショー気分で歌い歩く。
 歌は聴くものに非ず、他人に聴かせるものにあらず、歌詞にもリズム・音程にもとらわれず、唯ひたすら口ずさむもの。(それに合わせて手足・身体を動かせば踊りになる。型にも所作にもとらわれずに唯ひたすら踊る、それが田中泯の言う「心の踊り」なんだろう。)
 この「つぶやき」も、自分の心のほとばしりにほかならない。ああ・・・・とか、ん~・・・・とか、お~・・・・とか。
●女房も、大学ノートに日記のようにして(日付を付して)備忘録を書いている(当方のことまで、格別なことがあると、「その日、亭主は・・・へ行った」とか書いてあるので、「あそこに行ったのはいつだったかな」と訊くと、それを見て教えてくれる。お互いボケ防止のつもりだが、当方のはブログだから、一応公開で(見てくれる人は極くわずかだが)、「つぶやき」などもあるが、提言だ。いずれポックリいけば遺言にもなるというものだ。

2015年06月10日

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               葵


2015年06月15日

脅威・軍事的抑止論に対する議論の必要性(再加筆修正版)

Ⅰ脅威・軍事的抑止論に対する議論の必要性
 安倍政権の集団的自衛権行使容認と安保法整備は、なにも戦争をしたいからではなく、中国・北朝鮮などの脅威に備えて抑止力を高めなければならないからだ、と思っている向きが(安倍首相ら閣僚、庶民にも)あると思われるので、そのような中国・北朝鮮脅威論・抑止論に対応した議論も必要なのではないか、と問題提起したら、そんなことを考えてこれ(安保法案)を出してきたのではあるまい(問題の本質はそんなところにあるのではないし、それに、そんなことを言ってるのは右翼だけ)とおっしゃる。はたしてそうか。
 安倍首相も防衛大臣・外務大臣も官僚も、「日本を取り巻く安全保障環境―東アジア情勢―が一層厳しさを増している」とは言っても、中国が脅威だとか北朝鮮が脅威だなどと名指しして言っているわけではない、というのはその通りかもしれないが、「抑止力を高めるためだ」と言ってるのは事実であり、その際中国・北朝鮮を念頭に置いているのも確かだと思う。また庶民の中には、「中国・北朝鮮などの脅威」を理由に「抑止力」としてそういうものが必要だ(中国や北朝鮮の脅威から尖閣などの島々や日本本土・日本国民を守るため、戦争をしかけられたりしないように、日米同盟も沖縄基地も、集団的自衛権行使も「切れ目のない」安保法制も「抑止力」として必要だ)という肯定論があることも確かだ。
 (テレビの街頭インタビューや朝日新聞の「声」にも見られる。)
 (3月の内閣府世論調査では、「日本の平和と安全の面から関心を持っていること」は一に「中国の軍事力の近代化や海洋における活動」60.5%、二に「朝鮮半島情勢」52.7%、三に「国際テロ組織の活動」42.6%で、「戦争の危険性を感じている」が75.5%。)
 (米沢市議会では、12月、「米沢9条の会」が出した「集団的自衛権行使に反対する意見書提出についての請願」は総務常任委員会で賛成少数で不採択に終わったが、その際の質疑の中でも反対者の意見にはその中国・北朝鮮脅威抑止論があった。)
 そこで、今回のこの集団的自衛権に関する憲法解釈変更とその閣議決定に基づく安保法制関連法案には、改憲論者の中にも反対が多く、世論調査でも法案そのものへの反対とともに「安保法案『説明不足』」と答えてる人が大多数(8割)で、そのままでは通りそうもない形勢だ。
 しかし、「現行憲法の解釈では集団的自衛権行使は認められない」、だから反対だとは言っても、それは「憲法改正しない限り認められない」ということなのであって、憲法を正式に改正して自衛隊を正式に軍隊化したうえでなら、集団的自衛権も安保法制も認められないでもあるまい、という向きも少なくないのでは。
 だとすれば、安倍首相にしてみれば、それならそれ(明文改憲)にこしたことはないとして、現行のままの解釈改憲は断念しても(無理をして通さなくても)、「憲法改正」そのものには賛成だという(小林節教授のような)学者や世論に乗じて堂々と国民投票による改憲に打って出ようという選択肢もあるわけであり、むしろそのあたりに真の狙いがあるのであって、そこにこそ問題の「本質」(核心)があるのでは。
 だからこそ、脅威・抑止論の議論が大事なのだ。

Ⅱ安全保障政策― 一方の国々を潜在的敵国であるかのように脅威視し、他方を同盟国として敵味方(密接な関係にある国とそうでない国)に峻別、自らの軍事同盟・軍備体制を脅威に対する抑止力として強化するやり方。
 そこで疑問は(1)国々をそういうふうに敵味方に峻別することに合理性はあるのか。
       (2)軍備を抑止力にするのに合理性はあるのか。
 時代情況―近代の植民地主義や帝国主義の時代なら資源や権益をめぐって植民地・領土の争奪戦や勢力圏の分割・再分割戦争が公然とおこなわれたものだが、二つの大戦後、国連その他でそのような戦争は違法化され禁止されているのが今の時代。

 (1)について―なぜその国が脅威で、我が国と敵対し、軍事攻撃をしかけてくるものと予測して警戒し軍備を整えておかなければならないのか。
  その理由として考えられるのは、
   ①その国が自国の存立・自衛のために死活的に必要とする資源その他(ハードウェアorソフトウエア)が我が国にあって、それを求めていると判断されるから。
   ②それを我が国に平和的に交渉しても合意する見込みはなく強奪・占領するしかないと意図していると判断されるから。
   ③その攻撃意図のもとに軍備を用意していると判断されるから。
 要するに、その国が自存自衛のために死活的に必要としていて、それを我が国に求めて交渉しても拒絶され合意の見込みはなく、強奪するしかないと考えて武力攻撃をしかけてくるかもしれない(その蓋然性がつよい)と、その国を見なしているからだろう。
 しかし、そのような判断に合理性があるのか。

 中国、中国と言われるが、中国が死活的に必要としているもので、日本の手にあり、強奪してでも日本から獲得しようとしているものなど、はたしてあるのだろうか?尖閣?それを日本に戦争しかけてでも?他にも何かある?
 北朝鮮は?同国が死活的に必要としているもので、日本の手にあり、強奪してでも日本から獲得しようとしているものなど、はたして何があるのだろうか?
 その国や勢力が「脅威」だと言っても、それは、その国や勢力を「脅威」視して敵に追いやっている「こっちの(対応の)せい」もあるのであって、鏡に写った自分の姿でもあり、全面的に「相手のせいだ」とばかりは言えまい。
 尚、「安全保障環境の厳しさ」といえば、それは向こうの立場からすれば、中国にとっては三方は陸続きで、北はロシア・モンゴル・北朝鮮、南はインド、インドシナ諸国、西はパキスタン・アフガニスタンなどと直接国境を接し、東側だけが海で、東シナ海では日韓と、南シナ海ではベトナム・フィリピン・マレーシアなどと領海が重なっている。そしてウイグルとチベットの独立運動(テロや暴動)に悩まされ、台湾にはアメリカから支えられてきた実質的な独立政府が存在しており、太平洋には米・日・韓・豪など国々が同盟を形成して立ちはだかっている。これらは中国にとっては脅威でもあり、安全保障環境の厳しさともいえるだろう。
 また北朝鮮にとっては、米韓とは朝鮮戦争以来未だ休戦状態で戦争は終結しておらず、アメリカはその同盟国・日韓とともに、それこそ脅威なのだろう。
 これらの国の核軍備は、その脅威に対する自存自衛のための「抑止力」だと彼の国では思っており、そう称してもいるわけである。

 かつて日本はまさに「自存自衛のため」と称して(日清・日露戦争以来他国領域で戦争し、朝鮮半島、南シナ海を含む台湾、満州を植民地支配、中国から東南アジア、太平洋諸島にわたって侵攻し)侵略戦争をやってのけたし、今は「国の存立・自衛」のためにと集団的自衛権の行使を正当付けようとしているわけである。
 いずれにしろ、それは我が国のその国に対する対応(平和的交渉に応じるか、拒絶し、強奪に備えて軍備を構えて軍事対決するのか。それに歴史問題・靖国問題などのわだかまりもある)それ如何ということ。
 そこで目指すべきはお互いに強奪(武力行使)には訴えず交渉に応じ合うことだろう。
 
 安全保障には、国々を敵味方に峻別して軍事対決する(軍事バランスをはかる)よりも、全ての国々を味方にしたほうが合理的だろう。
 
 (2)軍事的抑止力の問題点
 ①市民社会なら、銃器を護身用で攻撃抑止のためだとして、米国(殺人事件の発生率は日本の10倍)のように我が国で市民個々にその所持を認めたらどうなるか。
 銃を手にすることによって、その武器に依存してしまい、対話を十分尽くさずに発砲してしまいがちとなる。(以前、アメリカで留学中の日本人高校生射殺事件があったとき、その日本人高校生はハロウイン・パーテーの訪問先を間違えて入っていこうとした家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、「もし銃を持っていなければ、まず言葉を交わしたはず」だった、といわれる。)或いは「やるならやってみろ」と相手からの攻撃を呼び込むことにも。
 それに、互いに銃を持ち合えば、「撃たれるより先に撃ち、殺られる前に殺る」ということになってしまう。
 ②軍備は戦争を抑止する手段「抑止力」だというが、対抗する相手国(或いは勢力)も疑心暗鬼から軍事的「抑止力」を増強し、軍備競争となる。そしてそれ自体が、領有権問題など利害・権益その他の対立とともに、紛争の火種となり、軍拡競争と軍事対決・一触即発の危険をもたらし、偶発的軍事衝突から戦争を引き起こす原因となる。軍備は、それによっては火種を消すことはできず、むしろ燃え上がらせてしまう結果となる。
 ③軍事力が(その規模と同盟拡充によって)いかに優勢であっても、それがあるだけで、その武力を行使する意思(単なるプレゼンスや脅しではなく本気、全面戦争も厭わない国民の覚悟)がともなわなければ抑止効果は充分働かない(相手から見れば、その軍備や安保法制は「張り子の虎」に過ぎないと見なされるから)。
 中国軍の東シナ界や南シナ海への進出に対してアメリカに軍事介入する意思がないかぎり中国にそれらから手を引かせることはできまいし、またウクライナでは東部の親ロシア住民の離反とロシアによるクリミア併合に対してNATOに軍事介入の意思は乏しく、ロシアにそれらから手を引かせることはできまい(国際政治学者・藤原帰一教授)。
 米ソ冷戦時代(1962年)のキューバ危機では、ケネディ米大統領・フルシチョフソ連首相とも全面核戦争になることを恐れ、両首脳が直接交渉、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き替えにソ連がキューバからミサイルを撤去して、辛うじて戦争は回避、といったことがあった。
 1994年(北朝鮮は金日成主席、アメリカはクリントン大統領当時)、アメリカは北朝鮮の核施設空爆を計画したが、シュミレーションしてみたところ全面戦争に発展すれば、死者は韓国の民間人100万人、兵士45万人、米兵5万2千人と予測され、空爆は断念(その後、金日成とカーター元大統領が会談して米朝枠組み合意が成立)、といったことがあった。全面戦争となると二の足を踏むのである。
 かつての日本国民には「一億玉砕」の戦意と覚悟があったように見られるが、その惨憺たる結果に懲りて戦後憲法に戦争放棄を宣明した、その国民に再び全面戦争も厭わない覚悟がないかぎり、自衛隊・日米同盟・安保法制をどんなに拡充・整備しても、その抑止効果は望めまい。
 一方、北朝鮮の(かつての日本のような)玉砕戦法やISなどのような過激派宗教勢力の自爆攻撃には、どんなに強大な軍事力や軍事同盟があっても抑止力は効かない。
 (軍事力・軍事同盟など、そのようなものに頼らなくとも、こちらに武力行使も戦争もする意思がなければ、相手も武力行使の必要はなく、戦争にはならないわけであり、その不戦意思を宣明した憲法9条そのものが、抑止力になるのだ。)
 ④日米安保・米軍基地といい自衛隊といい、それらの軍備はこれまでもソ連・中国・北朝鮮などによる武力攻撃に対する「抑止力」とされてきたが、そのおかげで、これらの国々による攻撃が抑止されたとはかぎらない。そもそも、これらの国々にその必要(大義名分―正当な攻撃理由―はなく、違法な武力攻撃にうったえて国際社会の非難・制裁を被るなどのリスクを冒してまで、それを強行するメリット)もなく、その意思がなかったからにほかなるまい。
 いずれにしろ、これらの国々(中国・北朝鮮)は、それで(日米の強固な軍事力のゆえに)自らの軍備を諦めるどころか、中国はなおもそれを増強し(南シナ海の岩礁に軍事施設建設を始め)、北朝鮮は核・ミサイル開発をやめてはいない。
 それに対して我が国は「抑止力を高める」と称して、集団的自衛権の行使容認、安保法整備を図っている。そういうことをすれば相手も同様に「抑止力をもっと高めなければ」となって、中国はさらなる軍備増強にかられ、北朝鮮も核・ミサイル開発をやめるわけにはいかなくなるというもの(互いに同じことを繰り返してエスカレート)。「高める」のは安全度ではなく、危険度であり、増えるのは防衛費(軍事費)だろう。
 「抑止力」といっても、その軍備は「盾」だけでなく「矛」も持ち、攻撃力でもあるのだ。中国・北朝鮮のは攻撃力で、日米のは抑止力だなどということはあり得ないのであって、どっちもどっちなのだ。
 軍事的抑止力なるものに合理性があるとは到底思われまい。

 これらのことを考えれば、集団的自衛権行使容認の安保関連法整備は「抑止力を高めるもの」という(軍事的抑止主義)が、それは逆で、かえって戦争やテロを呼び込むリスクを高めるもの、といわなければなるまい。

 (3)目指すべきは非軍事的抑止力
  ①「憲法力」―9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)―戦争しない、させない―不戦意思を宣明―自国政府に戦争をさせない、と同時に他国に対しても日本に戦争を仕掛けさせない(宣戦布告には応じず、武力攻撃をさせない)(一方的に武力攻撃すれば国際社会から違法な暴挙・侵略行為と見なされ、厳しい制裁を被ることになる。)
  (これを変えたら―解釈改憲or明文改憲したら―不戦意思を引っ込めて戦争意思があることを宣明したことになり、諸国の対日不信・警戒を招くことになる)      
  ②国際機関―国連―制裁
        国際刑事裁判所などによる懲罰
  ③経済協力・文化交流・人道支援―相互理解・協力・分かち合い―紛争予防
  ④「東アジア共同体」(平和の共同体―「戦略的な信頼」関係)の構築
  ⑤道義―信義―信頼関係―「諸国民の公正と信義に信頼」(憲法前文)―中立・公正で敵をつく
らないこと―に基づく外交力
  ⑥反戦世論・運動

 9条と国民の不戦意思は、自衛隊の装備や訓練、日米同盟や安保法制など、それらをどんなに整えても、その軍事的抑止力は削がれ、政府や自衛隊に戦争をやり難くさせるが、それは相手国・他国に対しても我が国に対する戦争意思・武力攻撃意思を削ぐ、という抑止効果が働く(こちら側に戦う意思がなければ相手側にも戦意は起きないからである)。
 今、我々日本国民に問われるのは、国民の意思であり、どの国に対しても9条の通りに不戦意思(戦争反対の意思)を貫こうとするのか、それとも、相手(国)によっては、いざとなったら全面戦争も厭わない覚悟で自国の軍事的抑止力を支えようとするのかだろう。
 以前、アジア・太平洋戦争に突入する前は、日本国民に戦意高揚(全面戦争も覚悟)があって、それが実行された。戦後、その惨たんたる結果に懲りて新憲法に不戦を誓ったが、今はどうなのか。変わってしまったのか?
 北朝鮮国民にアメリカや日本に対して全面戦争の覚悟(「やぶれかぶれ」意識)は・・・・ないと言えるか?中国国民はどうか?両国民ともアメリカや日本に対してはかつての戦争や植民地支配の怨みからくる反米・反日感情が根強く全面戦争も厭わない国だとすれば、その中国や北朝鮮などに対して、日本がいかに自衛隊や日米同盟を強化し、集団的自衛権行使容認の安保法制を整えても、その抑止効果をはたしてどれだけ働かせられのか、それは甚だ難しいだろうと思われるが、その見極めが必要だろう。
 一方、9条を基調とする非軍事的抑止力はどうかといえば、戦後我が国が、これまで他国から戦争をしけられずに済んだのも、日米安保のおかげというよりは、むしろこの9条のおかげであり、この9条の抑止効果の賜物と思われる。
 この9条を全世界に普及させ、各国ともこれに倣うようにすべきなのだ。

2015年06月16日

戦争にならないようにするのが一番

 先の投稿「憲法9条と96条改正が望ましい」に、「戦争をしないのが一番いいし」「戦争にならないよう最大限に努力する必要がある」としがらも、「東アジアの情勢を見た場合」、「他国と戦争になった場合を想定した備えをしておいたほうが」よく、「戦力は持つべきだし、自衛隊を軍隊として位置づけるべきだ」とあった。
 しかし、「戦争になった場合を想定した備えを」というが、たとえミサイル防衛など「万全の備え」を講じたところで、戦争になってしまえば、たとえ勝ち戦さで被害が最小限にとどまったとしても、人的・物的損害は軽微では済まず、禍根を残さずにはおくまい。
 したがって、むしろ「戦争にならないように最大限に努力する」方を最優先にすべきなのだ。それでは、戦争をくい止めるには軍事的抑止力を強化すればいいのかといえば、それには大きなリスクをともなう。なぜなら、その軍事強化は、「抑止力」といいながら、相手側にも同様な考えから軍備増強・軍事体制強化を招き、軍備競争・疑心暗鬼・緊張が強まり、偶発的軍事衝突を惹起して戦争に発展する恐れがあるからである。
 戦争を抑止するには、むしろ9条(戦争放棄と戦力不保持・交戦権否認)をしっかり守って戦争意思のないことを宣明し続けることの方が得策だろう。

 今、安倍政権の安保政策は、中国や北朝鮮を念頭に「東アジア情勢が厳しさを増しているから」との理由で「抑止力を高める」ためだとして、集団的自衛権行使容認の安保法整備にやっきとなっているが、そのような隣国に対する脅威論と軍事的抑止論は、抑止どころか、かえって双方激突・戦争を招く結果となりかねない。そのような戦争を想定した同盟国との軍事協力体制強化にとらわれるやり方ではなく、むしろ9条(戦争放棄・戦力不保持)をきちんと踏まえて、「諸国民の公正と信義に信頼」できる国際社会を目指して現状を改善する非軍事的方法に最大限努力を傾注するようにすべきなのだ。

2015年06月23日

軍事的抑止主義の矛盾

 集団的自衛権行使容認の安保関連法整備は「抑止力を高める」というが、軍事的抑止主義は次のような矛盾・難点ある。         
 ① その抑止力(武力)に依存してしまい、対話・外交努力を十分尽くさずに、互いに「撃たれるより先に撃ち、殺られる前に殺る」となって攻撃にはしってしまいがちとなる。
 ② 軍備は戦争を抑止する手段だというが、相手国も同様に「抑止力」軍備をすれば、双方の軍備それ自体が、領土問題など他の権益争いとともに、戦争の火種となり、軍備競争・軍事対決から一触即発、偶発的軍事衝突から戦争を引き起こす原因となる。軍備は、それによっては火種を消すことはできず、むしろ燃え上がらせてしまい、かえって戦争を呼び込む結果となりがち。
 ③ 軍事力や同盟が相手に対していかに強大・優勢でも、それを保持するだけでは、その武力を行使する意思(全面戦争も厭わない国民の覚悟)がともなわなければ抑止効果は薄い(相手から見れば、その軍備や安保法制は「張り子の虎」に過ぎないと)。
 一方、相手の軍事力がたとえ貧弱でも、「やぶれかぶれ」の玉砕戦法や自爆テロ戦法をとる相手には、どんなに強大な軍事力を備えても抑止力は効かない。
 目指すべきは、やはり9条に基づいて非軍事的抑止力に徹することであろう。

2015年06月26日

軍事的抑止力と9条抑止力のどちらか

 集団的自衛権の行使容認も安保法整備も、目的は戦争するためではなく、「抑止力を高める」ためだという。しかし軍事的抑止力が機能する(効果をあげる)には、それを運用・行使する意思(戦争の覚悟)を必要とする。その意思・覚悟がともなわなければ、物理的・システム的「備え」ばかりでは「張り子の虎」に過ぎないことになるからである。その意思とは戦争になってもしかたないという覚悟であり、戦争を容認するもの。
 それに対して9条抑止力は「戦争をしない、させない」と決意して、戦争をあくまで拒否するものである。
 軍事的抑止力は軍事力(組織・兵器・同盟協力体制など)をいかに強固に整えても、その武力を行使する意思(国民には全面戦争をも厭わない覚悟)が伴わなければ(「どうせ張り子の虎」に過ぎないと見透かされて)機能しない(抑止効果は働かない)。逆に、軍事力は兵器や装備などはるかに劣っていても、国民の戦意(覚悟)が強烈ならば抑止力を発揮する(たとえばベトナム戦争ではアメリカは敗退したが、それは、アメリカ軍はベトナム軍に対して軍事力では「象と蟻」ほど圧倒的に優勢のはずなのに、戦意の点では逆にベトナム軍の方が圧倒していたからだろう。ベトナム人民には民族解放を求めてやまない強烈な気概があったのにひきかえ、アメリカ国民には厭戦・反戦気分が広がっていたのだ。北朝鮮に対してはアメリカといえども、た易く手出しはできないのだ)。
 しかし、抑止力には不戦意思(戦争反対の意思)を前面に掲げ、自国政府や軍に戦争や武力行使をさせないことを内外に宣明することによって、隣国にも、たとえ係争はあっても軍事攻撃・武力行使は控えるようにさせ、諸国にも戦争反対を訴え、呼びかけることによって戦争を阻止するという非軍事的抑止力があるわけであり、それこそが我が国の平和憲法であり、諸国にその平和原則を広めることによってそれを国際化し、国際反戦世論を形成する、それが大きな抑止力となる。
 (日本国憲法には9条の「戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認」だけでなく、前文に「諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」「政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務」とあるが、正にこれを普遍的な原則として世界に広めるのである。)
 さて、抑止力には軍事的抑止力と非軍事的抑止力の二通りがあるが、そのどちらを選ぶか、優先するか、それは国民次第であるが、国民の意思として軍事的抑止力(中国・北朝鮮などとは全面戦争も厭わない覚悟に裏打ちされた強固な軍事力)を選ぶか、それとも日本国憲法(前文と9条)の平和原則とその国際化による不戦・反戦の国際世論の発展を選ぶか。今、我々日本国民に必要なのは国際反戦運動を盛り上げることだろう。

2015年06月28日

「国を守る抑止力」とは

 政府の立場では「国を守る」とは国家の存立基盤―国土、国家主権、産業・経済インフラ、国家体制―を守るということであり、軍事でそれを守る(攻撃・侵害を抑止する)ということだろう。その軍事的抑止力には物理的・システム的備えのみならず、それを運用(いざとなったら武力行使)する意思(戦争―国民犠牲―の覚悟)を必要とする。その軍事戦略でアメリカ等との同盟国と非同盟国(敵味方)を峻別して集団的自衛権に基づく同盟国への「隙のない」軍事支援協力体制を組めば、同盟国以外の国や勢力をさらに敵に回して「やるならやってみろ」と戦争やテロの危険を呼び込む結果ともなる。
 それに対して、国民にとって守るべきは生命と暮らし―平和的生存権と自由・幸福追求権を守るということであり、戦争などによってそれらが外敵から侵害されず、また自国政府から犠牲にされない、ということだろう。そのため政府にどの国、どの国民をも敵とせず、戦争だけはさせないというのが9条なのではないだろうか。それは戦争を自国政府にさせないということだけでなく、どの国にも我が国に対して戦争をしかけさせないという国際反戦の意思の宣明でもあり、それこそが国民にとっての抑止力となるのだ。

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