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2017年07月 アーカイブ

2017年07月01日

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 「吉見百穴」 埼玉県比企郡吉見町 古墳時代末期の横穴古墳群 
                       太平洋戦争末期 地下軍需工場跡も
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酒田 鳥海山 最上川河川敷
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2017年07月02日

権力の論理と市民の論理

*論理―主張や行為を合理化・正当化する理屈・言い分
*強者・支配者の論理と弱者・被支配者の論理、国家など組織の論理と個人の論理、加害者の論理と被害者の論理、検事の論理と弁護人の論理、資本(企業)の論理と働く生活者の論理
 それぞれ、その立場によって追い求めるもの(目的・結果)があって、(例えば企業なら利潤、国家なら国益、軍隊なら戦勝、生活者市民なら生命・自由・幸福追求権の確保)、その結果(目的実現)を得るのに有益・有用かどうかによって正当性(物事や行為の良し悪し)を判断し、その(それを合理化・正当化する)論理(理屈)を立てる。
 我々、庶民・働く生活者の物の考え方(市民の論理)と政治権力者・官僚・警察官・自衛官あるいは企業家・株主・事業者・組織人(とりわけそれらの幹部)の物の考え方(権力の論理、組織の論理)は、とかく違うもの。
 前者(庶民・一般市民)は個々人それぞれに自由な自分本位の考え方(自分の生活体験に根差した価値観すなわち物事の価値判断や倫理観すなわち良心に即した考え方)をするものだが、後者は、それぞれの組織本位・事業目的本位の考え方(組織の利益・掟や価値判断・損得計算に則した考え方)をしがちとなる。
 庶民・一般市民にとって大事なのは、抑圧・恐怖と欠乏からの自由・安全・安心と幸福追求の自由であるが、その観点から物事を考え、良し悪しを判断する。
 それに対して政治権力者や官僚は国家や公共団体の統治、企業経営者や幹部は企業の統治(ガバナンス)を如何に巧く行うかという観点から物事を考え、良し悪しを判断する。統治をうまく行うには、それを正当化する法令や規則が必要であり、それに基づいて違反は取り締まられる(統制)。

(1)官僚の論理
 国務大臣・国会議員・裁判官・官僚は、公務員として、民主国家では本来、国民に奉仕する立場(憲法15条2項「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」)なのに、「一部の奉仕者」の方に偏りがちとなる。  
 我が国の歴代政権与党(主として自民党)政治家は、とかく財界奉仕とかアメリカ政府への奉仕に、また官僚は政権与党政治家への奉仕に偏りがちであり、その権限行使と任務遂行努力は国民全体の為とはならずに、一部の人たちだけが有利な結果となりがち。
 裁判官や警察官はもとより、公務員らの行動原理・判断基準は法令・規則であり、それに忠実に依拠することだ。それで、国会審議などで官僚が、その対応・処理に問題がないかを指摘・質問されると、とかく「法令・規則に従って適切に執行・処理しました」と弁明する。しかし、法令・規則に合ってさえいればよいというわけではなく、その対応・処理が適切だったかどうかは、奉仕すべき国民の利益に適っているか否(損なっている)かで評価・判断さるべきだろう。とかく、奉仕すべく目を向け、忖度する相手が、国民の方ではなく、上司やその上(官邸の最高レベル)の方だったりすることがありがちだ。公務員たるもの、法令・規則に忠実であり、また上司(組織)に忠実であるにこしたことはないが、いちばん大事なのは国民に忠実であることだろう。
 公務員には公務員法に守秘義務の定めがあるが、内部の不正(全体奉仕に反する一部奉仕)を告発しても不利益な扱いを受けないようにする公益通報者保護法もある。それにもかかわらず、その内部告発が守秘義務違反に問われ、潰され、委縮させられがち。
 昨今の政治スキャンダル、森友・加計問題にそれが見られる。首相と夫人と「お友達」に対する側近政治家による官僚、内部告発者への圧力など。

(2)警察の論理
 「共謀罪」法(改正組織的犯罪処罰法)は、政権与党に一部野党が同調して、「テロ等準備罪」という名目で、あたかもテロ対策上不可欠だとして異常な強行採決によって制定された。それは(政権の政策遂行・権力行使の都合上、秘密にしておきたい情報を特定して非公開とする特定秘密保護法もそうだが)権力者の立場から必要(彼らの権力維持と統治には有利)とされたもの。しかし、それはテロ対策で(その為だったら必要な諸法律は既にあって、事あらためて定めるまでもないのに)、テロを未然に防ぐことを口実にして、277(大半はテロとは無関係)の罪のうちのどれかを、共謀(話し合い)・計画・準備行為をしたと警察や検察当局が見なせば(警察官・検察官が判断すれば)、まだやっていない(実行に及んでいない)段階で裁判所の令状がなくても捜査・検挙できるにようにするもの。
 本人たちが、そんなことをするつもりはないといくら言い張っても、判断するのは警察官や当局だから(いったん嫌疑をかけられたら)どうしようもないわけである。今までは罪刑法定主義で「疑わしきは罰せず」で無罪のはずだったのに。警察当局に、いったんリストに挙げられマークされれば、法と上司の指示・命令に忠実な警察官は任務遂行に全力を挙げ、その「容疑者」をひたすら追求(尾行・追跡・盗聴・盗撮)・捜査・検挙に邁進するのだろう。彼ら(警察官)の論理では、そうするのが合理的で当然の事とされ、今回、この「共謀罪」法の成立によって、それがお墨付き(法的根拠)が与えられて正当化されることになったわけである。
 (しかし、その立法はそもそもが憲法違反。)
 一般市民―善良な市民(個々人の自由の権利を尊重し公正を求める市民)は、権力者による不当な扱いや不正・不公正・横暴に抗し、権力者のその行為(政策や権力行使その他)に対して異を唱え、反対を訴え、討論・議論し、同志や仲間とデモ・集会などを相談・計画・実行し、その暴政・悪政を阻止しようとする。そうすることは市民の論理では当然の事であり、憲法に保障されている権利である。
 ところが、それが公安警察などによってメンバーがリストアップされ、「テロ等準備罪」277のどれかの罪に引っかけられ、特定されて、監視の対象にされ、これまで違法捜査として秘かに行われてきたことが、正々堂々と行われるようになる、それが「共謀罪」法なわけである。

(3)軍事の論理(軍事的に勝つための論理)
 改憲による自衛隊の憲法明記は軍事の論理から言えば有益。何故なら、それによって、自衛隊のあらゆる任務・活動とそれらに必要な措置が憲法上の要請に基づくことになり(それらを正当化する根拠規定になり)、安全保障や国際平和安全維持の軍事的な必要に応じて(最小限ではなく)最大限(出来るだけ何でも)措置を講じなければならないということになって、集団的自衛権の「限定的」行使の拡大も、PKO派遣部隊は「駆けつけ警護」のみならず文民保護などのための武力行使・「戦闘」も、巡航ミサイルによる敵基地攻撃も、防衛費の(GDPの1%から2%への)増額も、あれもこれも可能となるわけである。
 
 週刊新潮6月8日号に「『憲法9条』が自衛隊を押し潰した」と題した元陸将(福山氏)の寄稿が載っていた。それはPKOについて論じたものだが、これには「国際貢献を阻む元凶は、紛争の実情と乖離した、古びた『憲法9条』にあるのではないか―。現場を知悉する元陸将の『正論』である」として、次のようなことが書かれている。
 日本の自衛隊には国内法の制約があって、武器使用は「明確に自分が狙われた場合の正当防衛や緊急避難でしか」使用できず、「『任務遂行のための武器使用』は許可されておらず、とりあえず隊員または車両などの装備品が被害を受けるまで待つしかなかった。まして同じ後方支援を担当する他国の部隊と行動している時に・・・・。彼らがゲリラに襲撃されても、日本隊は傍観するしかない」「一緒に仕事をしている同僚や友人が危険に晒されても手助けもできない。『余計なこと』をしたら『憲法違反』だと騒がれる。日本の常識はまさに世界の非常識」、「いざという時には何もできない」「国連PKO部隊参謀長は『日本隊は使えない』という“正しい結論”に達していたのだ。」「国家の命令で危険地帯に派遣されて、任務上(発砲した銃弾が民間人に当たって相手が死んだ、など)過失を犯しても国は守ってくれないどころか、隊員個人が容疑者として裁判にかけられかねない」「21世紀で生き残るためには、現実の世界と向き合い、大戦のトラウマを超克することが喫緊の課題であろう。」「憲法を改正し、自衛隊を軍隊として法的に位置づけない限り、国際基準のPKO任務はこなせない。」「国民は、そんな自衛隊を、そんな国際貢献を望んでいるのだろうか」と。
 これらは、元陸将で幹部自衛官の立場から彼らの軍事の論理で、その軍事的合理性に照らして現状(9条の下で)の自衛隊PKOのあり方がいかに不合理なものであるかを指摘して、9条を論難しているわけである。しかし、そもそも軍事を禁じている憲法9条が軍事的合理性に全く合わないのは当たりまえだろう。

 一方、朝日新聞6月15日付け「オピニオン&フォーラム」欄の『PKO四半世紀』に、日本国際ボランティアセンター代表理事(谷山氏)が述べたことが書かれていた。それは次のようなことだ。
 南スーダンでは政府軍と反政府軍、それに武装した市民が入り乱れ、「誰が敵か味方かも分からない」、そのような状態で発砲し、もし住民や政府軍を殺傷すれば、PKO自身が当事者になりかねない」、「駆けつけ警護」は「「NGO職員などが、武装勢力に襲われた場合、武器を持って駆けつけて守る」というものだが、「たとえ誤射であっても、住民を撃てば中立的なスタンスや友好国としての信用は一気に落ちる。自衛隊はもちろん、現地の日本人も攻撃対象になり、危険にさらされる。」
 「NGOは紛争当事者のどちらにも加わらない中立性の原則に徹し、貧困や差別など背景にある構造的な『暴力』を、武力を使わずに取り除こうと、支援を積み重ねてきた」、「アフリカや中東などで活動していると、日本への信頼を強く感じる。これらの地域を日本が植民地支配した歴史はなく、米国に原爆を2度も落とされながら、憎しみを超えて平和国家の道を歩んだ、そのイメージが崩れることで、失われるものの大きさを考えるべきだ」、「自衛隊が軍事活動に参加すれば、日本のNGOの中立性が損なわれ、かえって危険になる」、「国際貢献は軍事面だけに限らない、多面的なアプローチがある。  PKOだけでは紛争は解決されない。日本は憲法9条を持つ強みを生かし、『武力で紛争解決しない国』としての役割を果たすべきだ」「紛争当事者の対話に向けた外交的な働きかけや難民への人道支援、国造りの支援に力をいれること。それが憲法の要請だ」。この方が9条の論理なのだろう。
 安全保障と国際貢献それぞれに、9条(平和主義)の論理に基づく非軍事的・外交的方法と、軍事の論理に基づく軍事的方法とがあるわけであるが、自衛隊活用には後者(軍事の論理と軍事的方法)が伴い、9条1・2項に自衛隊を追記するとなると、9条との論理的整合性は難しく、両立も難しくなるだろう。

2017年07月09日

自公連合に対抗する「受け皿」をアピール

 反自民の受け皿は「○○ファーストの会」?
 東京都議会選挙では小池知事に同調する「都民ファーストの会」が自民党批判票の受け皿となって圧勝したが、その会が全国的な政党となり得るかといえば、それは疑問だ。
 小池氏自身が、ニュースキャスターから政界入りして日本新党→新進党→自由党→保守党→自民党へと渡り歩き、自民党では大臣や総務会長にもなったが、都知事になって自民党は離党した。風見鶏のようにも見えるが、日本会議には(距離を置いているとはいえ)親和性をもった右派系改憲派であることは間違いない(ジャーナリストの青木理氏によれば)。また都議選が終わって直後に彼女からバトンタッチを受けて会の代表に返り咲いた野田数氏は、現行憲法は無効で「大日本帝国憲法は現存する」という考えの持ち主で、石原慎太郎や「維新の会」の考えに近いとのことだ(Wikipediaによれば)。今のところ「都民ファーストの会」は地域政党で、小池氏に共鳴して都知事与党として結成された小池新党であること以外には、「都民ファースト」とか「東京大改革」などの抽象的なスローガンを掲げた「綱領」と都政の大まかな構想・プランがあるだけで、国政レベルでの政治理念や基本政策が明確にあるわけではなく、不透明。これから国政選挙ひいては改憲国民投票を展望して、「国民ファーストの会」などの名で全国政党として再編されて国政に進出する可能性はあるが、その場合は結局「第2自民党」になるか、いずれにしろ公明・維新とともに改憲勢力3分の2確保の補完勢力となるだろう。
 このような新党を自民批判票の受け皿としていいものだろうか。「ごうまんな一強」に対して「やり過ぎ」に「灸をすえる」(ブレーキをかける)ためだけの受け皿で、結局は右傾改憲あるいは新自由主義(規制緩和・市場競争主義)など、行き着く先は自民党と同じ所へと連れて行かれてしまう、というのが関の山。働く生活者・市民の受け皿として、それ(○○ファーストの会)が相応しいのかといえば、とてもそうは思えまい。働く生活者・市民が求めてやまないのは、皆が恐怖と欠乏から免れ自由で安心して暮らせる世の中であり、その求めに応ずるのに真に相応しい受け皿だ。
 今後の大争点は憲法(アベ改憲を許すか否か)であり、戦争法・特定秘密保護法・共謀罪法・原発再稼働など、それらを今後とも許すか否かである。
 だとすれば、既に踏み出している「立憲野党連合」こそが、反アベ自民党の受け皿として、それ以外にはないのだということで、市民連合は立憲野党各党(民進・共産・社民・自由)とともに総力を挙げて、それに取り組まなければなるまい。「国民ファーストの会」などに負けないように。
 とりわけ、メディアに対してはアピールが必要だ。これまでのところ野党共闘(立憲野党連合)に対するメディアからの注目度・期待度は、いたって低く、「頼りない野党」「バラバラな野党」としてしか見られていない向きが多い。
 マスメディアは、これまで、二大政党の政権交代を期待して小選挙区制導入の選挙制度改革にマスコミ自らが同調して以来、自民党に対峙する政党として「反自民非共産」の二大政党もしくは「新党・第三極」にこだわるきらい(傾向)があって、新聞・テレビなどの取り上げ方も第1党(自民)、第2党(新進党とか民主党、現在の民進党)、第3極(みんなの党とか維新の会)の順にウエイトが置かれスペースが割かれてきて、その他は泡沫政党でもあるかのように小さく、或は全く無視されることがほとんど。立憲野党と市民連合による共闘の動きに対しても、それに寄せる期待は、いたって乏しく、それを歓迎し激励する論調はほとんど見られない。
 しかし、マスコミ等が期待した「反自民非共産」の新党や連合はほとんど成功しておらず、結局、自民一強体制を許す結果になってきたことを考えれば、マスコミも国民も、小池新党たる「国民ファーストの会」などへの幻想とらわれることのないように、立憲野党・市民連合は自らが反自民の受け皿となるべく戦略(方策)をよく練って精一杯の運動を展開し、マスコミから肯定的・積極的に取り上げられるように、最大限工夫・努力を傾注しなければなるまい。
 そこで、一つ提案だが、野党共闘とか立憲野党・市民連合とか、これといった名称がなく、例えば世論調査の支持政党の選択肢には、個々の政党名が挙げられているだけで、それらの中から選ぶしかない状態だが、今後この共闘連合組織を一つの選択肢として取り上げてもらって選べるようにネーミングして名称を付けたら如何なものだろうか。イタリアの「オリーブの木」(ベルルスコーニュが率いた右派連合に対抗して政権をとったことのある中道左派連合で、小沢一郎が日本版「オリーブの木」として提唱)のように。(「オリーブ」とか「木」とかでなくともいいから、何か適当なネーミングがあって然るべきなのでは。「○○○の○」と。
 それにつけても不安材料は、都議選でも惨敗した民進党に動揺が生じ、分断されてしまうことだ(民進党内に反共意識にとらわれ、離党して「都民ファーストの会」に走った者もいたし)、分断されればこの党は益々、力を失うことになるだろう(旧社会党にように)。民進党は「第2自民党」か「第2公明党」になりはててしまうようなことになってはならず、あくまで立憲主義、平和主義、自由と民主主義を守る党として、即ち民進党というネーミングに相応しく自分たちこそが真の市民ファーストの党であり立憲野党連合の中核なのだという立場と気概を持たなければならず、さもなければ潰れるという危機感を持って自ら奮起するとともに、市民の側も、市民連合や立憲デモクラシーの会に結集して、それ(民進党)に喝を入れて激励し立憲野党連合を盛り上げる、今こそ、その正念場(頑張りどころ)なのではあるまいか。
 いずれにしても、自公連合に対する我々市民の求める受け皿としての立憲野党共闘市民連合を、そのネーミング「○○○の○」とともに、早急に創り上げなければなるまい、ということではないでしょうか。

2017年07月14日

9条に自衛隊追記でどうなるか

 安倍首相は憲法9条に1・2項ともそのまま残しつつ自衛隊を追記するという改正提案を打ち出した。
今までは、自衛隊は、自衛隊法という法律で設置され、憲法で禁止する「戦力」には当たらない「自衛のための必要最小限の実力組織」として、やれることを同法が明示した範囲内で活動してきた。そして何か新たな任務・派遣が行われる場合、政府はその都度説明を必要としてきた。しかし、憲法にそれを書き込めば、それらが単なる追認だけでなく、憲法上の義務となり、憲法上の要請として安全保障や国際平和安全維持の必要に応じて最大限(出来るだけ何でも)措置を講じなければならないということになってしまい、集団的自衛権の限定的行使も追認されたうえに、さらに拡大されることになり、敵基地攻撃も、防衛費の増額も、PKO派遣部隊の「戦闘」も、あれもこれも可能になってしまう。
 いずれにしても、これまでの自衛隊追認にとどまらない、9条の平和主義規定が覆される結果をもたらす改憲となる、ということだろう。

2017年07月17日

核兵器の脅威と自然災害の脅威

 他国の核兵器や武力攻撃は、台風・豪雨や地震・津波の襲来のような自然災害の脅威とは違う。
 自然が相手では、対話・交渉の余地などなく、説得によって思い止まらせることはできないし、又こっち(そこに住んでいる人間、国の憲法や政府)がどうあろうと、そんなことはお構いなしに、自然法則のままに必然的に襲来する。しかし、人間の手による核兵器の開発・維持や他国からの武力攻撃は、人間の意思に基づいており、こっちの対応(あり方、出方)次第で強行されることもあれば、思いとどまることもある。対応を誤って襲来を招いてしまうこともあるが、適切な対応によって回避することはできるのでる。
 北朝鮮にしろ中国にしろ、或はロシア、或は国際テロ組織、或はアメリカにしろ、それらの核兵器その他の武力による威嚇または攻撃の有無は、互いの意思と対応次第なのであって、それらの国や組織が、自然災害のように、国民や国の対応如何に拘わらず、必ず襲来し、攻撃を仕掛けてくるということはあり得ないわけである。
 ところで、そもそも自衛隊の「主たる任務」は、あくまで外国からの侵略に対する防衛出動なのであって、災害出動は(主たる任務に支障のない限度で)「必要に応じ、公共の秩序維持に当たる」治安出動や海上警備行動・領空侵犯措置・在日米軍基地警護・海外における「重要影響事態」に際する米軍等への後方支援・在外邦人輸送・機雷掃海・PKOなどの国際平和協力活動等々とともに)「従たる任務」の一つで、消防隊や警察官にとっては主たる任務である災害救助・救出を支援する立場であり、その災害対応能力(装備や訓練など)も、それなりのレベルで(例えば東京消防庁のハイパーレスキュー隊のような特殊な技術・能力はもとより持ち合わせず)、どちらかといえば、補助的役割をサービス的に引き受けている。
 しかし、近年、頻発・激化している自然災害の現実から見れば、自衛隊に求められるのは、北朝鮮や中国など外国の侵略(その可能性はあっても、自然災害のようにいつか必ず襲来する法則的必然性があるわけでもない、或は「いつ襲ってきてもいいように」などといって機(有事到来)を待つようなことがあってはならず、平時の対応によって予防できるはずのもの)に備えるよりも、自衛隊はむしろ、いつか必ず襲来する災害に、その都度、最大限対応できるように能力と装備を備えたレスキュウー隊として活躍することを「主たる任務」として体制整備を行う(服装も迷彩服ではなく目立つものを着用する)ことの方が現実的であり、賢明なのではあるまいか。

 核兵器や軍事的脅威に対する対応には軍事的対応と非軍事的外交的対応とがある。前者(軍事的対応)は交戦(戦争)もしくは、それを覚悟した軍事的相互抑止(核開発・維持、ミサイル防衛、ミサイル実験や軍事演習の応酬)であり、後者(非軍事的外交的対応)は対話・協議・交渉・説得などだが、前者と後者の間には軍事的または非軍事的(外交的・経済的)圧力がある。この圧力を背景にして交渉・説得するやり方である。
 我が国の現行憲法(前文と9条)は、後者(非軍事的外交的方法)に徹することを要請しているのである。
 我が国・日本が、これまで、武力攻撃されずに済んでいるのはどうしてか、或はこれから武力攻撃されるとすれば、どうしてか、その訳(原因・理由)は?
 まず、我が国が武力攻撃をされずに済んできたのはどうしてかといえば、それには次の二つが考えられる。①憲法によって、我が国が戦争を放棄し、国に武力行使を禁じていて、国民にもその意思がないと見なされているから。②米国との安保条約によって米軍が基地に駐留し、自衛隊と軍事協力体制をとっていて他国からの攻撃が抑止されてきたから、とも見られている。
 この二つの内どっちなのか、それとも両方のお蔭かなのか、それは簡単には決めつけられないが、いずれにしろ、どの国にも我が国に対して攻撃意思がなかったからであることは確かだろう。
 それでは、これから我が国が武力攻撃されるとすれば、それはどうしてか、を考えた場合、
①のような憲法の定めによって、我が国が戦争を放棄し、国に武力行使を禁じていて、国民にもその意思がなく、武力侵攻しても応戦・反撃してくることはないだろうとの安易感(何をしても大丈夫だという安易感)からか。それとも②のように、米国との安保条約によって米軍が基地に駐留し、自衛隊と軍事協力体制をとって対峙している「敵国」と見てとられるからか。
 この二つが考えられるが、日本に武力侵攻しても、①のように、日本は応戦も反撃も、何もしてこないだろうから、た易く事が運べる、などと、それだけの理由で武力侵攻を仕掛けてくるなどとは、戦国時代や帝国主義時代のような優勝劣敗の弱肉強食の時代じゃあるまいし、自衛と制裁戦争以外には戦争が違法化されている現代にはあり得ない話しだろう。
 ②はどうかといえば、そのほうには可能性があるだろう。なぜなら、軍事で対峙して、緊張が激化して一触即発といった事態に達した場合、どちらかからの先制攻撃・敵基地攻撃あるいは同時発射で軍事衝突が起こる可能性は、①に比べればはるかに高いだろう。(現に北朝鮮は、アメリカとの間でそのような事態になった場合には、日本を攻撃する可能性があることを、在日米軍基地の存在を理由にして、公然と示唆している。アメリカは、北朝鮮の核を搭載したICBMの開発がアメリカ本土に達するレベルにまで進歩したと見られれば、「レッドライン」を超えたと見なして軍事行動に踏み切るだろうと言われている。)
 これらのことを勘案すれば、①の憲法上抗戦出来ないことよりも②の日米軍事協力体制を敷いていることのほうが、どちらかといえば我が国が武力攻撃を受ける可能性が高いと考えられよう。
 しからば、今この時点で、北朝鮮(その核・ミサイル実験の強行)などに対して我々日本国民はどのような対応をとればよいのか。その対応も二つあり、一つは、現在休戦状態にある朝鮮戦争が再開して、北朝鮮からミサイルが飛んで来ることを既定のこととして想定して、現政府の呼びかけに応じて避難訓練し、戦争に協力する心構えを持つこと(1)、もう一つは、軍事対応・戦争の用意に反対の声を上げること、即ち米朝・日韓・中ロ・国連安保理事国などの為政者たちに任せて、それに黙って従うのではなく、「どの国も(核保有国も非核保有国も)核兵器禁止条約に応じよ!どの国とも戦争するな!」と反核・反戦を叫び、米朝あるいは6ヵ国協議などの協議を、あれこれ条件を付けずに無条件に開催して話し合い、朝鮮半島の非核化(核兵器の不使用)と朝鮮戦争の正式終結(平和協定の締結)にこぎ付けるようにせよ、と声を上げること(2)、この(1)か(2)かのどちらかだろう。

2017年07月18日

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日本ファースト? 国家なの? 国民ではないの?
      アメリカ・ファーストの真似? 世界の諸国民ファーストではないの?
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「受け皿」

9月のつぶやき                              
                                                     10291
●「朝日川柳」紹介
       「国連でとりわけ2人浮いている」(「好戦の質」)
      「北にすりゃ親分子分の間柄」(大トラ&子トラ)
       「世界規模罵り合いを子らが見る」(恐怖の応酬)
       「国難のルビは二文字で事足りる」(あべ、ですか)
       「またしても票寄せパンダのご登場」(野望欲望秘め)
「希望より野望ちらつく新党首」(手兵集めて)
       「反安保踏絵にされる情けなさ」(憲法9条も?)
       「すっぴんを見てから決めるも遅くなし」(本音と本性)
       「本当に国難らしくなってきた」(離合集散、大勢翼賛)
●首相いわく「国難突破解散」―「国難」?首相個人の難局突破解散じゃないの―「首相による首相のための大義なき解散」(朝日デジタル)、「自公都合解散」(岩手・弥五兵)・・・・座布団一枚!
●国連演説、やっぱり
 ♪名前はシンゾー あだ名はスネオ アメリカ・ジャイアンの傀儡(くづつ)です・・・・♪(フォークグループ「影法師」の歌)だな 
 「ロケットマン」とあだ名を付けられた彼もそうだが、シンゾーもアメリカ・ジャイアンも、戦争を(太平洋戦争も朝鮮戦争も)知らないんだ。そのいきさつも悲惨さも、ろくに知りもせずに(否、スネオは祖父からいいように聞いているのだろうが)。
 朝日川柳に「心配だ総理はトランプの付き人か」
        「アメリカ・ファースト拍手はまばら」
                「手を繋ぎ暴走せぬよう連れてゆく」(「NYにも昭恵氏を」)
        オリジナル川柳 「ロケットマン・スネオ・ジャイアン暴走し合い」
             「トランプの付け人演説聴衆まばら」        
●農道ウオーキング、♪We the Japanese people ・・・・♪
 ん?コンバインが動いている、稲刈りが始まったか。
●3日北朝鮮 「水爆」実験 「成功」と。危機さらに
●防災の日にミサイル避難訓練―アホか
「備えあれば憂いなし」「安心・安全」―地震・津波・台風・洪水など天災(自然災害―止めるに止められないのだから避難するしかない)ならいざ知らず、ミサイル発射・戦争は国の仕業、人間の仕業、国・為政者に対して「やめろ!」「戦争するな!」と叫び、それをさせないことが先決のはず。国民は、それなくして、ただ、為政者・当局に云われるままに訓練をしてりゃいいというものではあるまい。
●民進党はどっちへ?「非自民・非共産の第2自民補完政党」か「反自民市民連合」か          

8月のつぶやき                                    
                                                 10163
●29日早朝、北朝鮮、中距離弾道ミサイル、北太平洋へ(北海道襟裳岬上空通過)。
 北朝鮮・アメリカ・韓国それに日本も戦争だけはすんなよ!
●日本国憲法の朗詠歌―それは当方がYouTyubeに投稿したオリジナルだが、沢田研二は彼の作詞・作曲「わが窮状」 で ♪ この窮状 救いたいよ 声に集め歌おう ・・・・・この窮状 救えるのは 静かに通る言葉 我が9条 守り切りたい 許し合い 信じよう ♪ と。
 日本国憲法を「声に集め歌おう」ということでもあるんだよな!
●心に太陽を 唇に歌を
 心に憲法を 唇にその歌を
 野道をウオーキング、口を突いて出る歌は 「君が代」?まさか、 ♪日本国民は恒久の平和を念願し・・・・♪ やっぱり憲法の歌だ。
●憲法前文・9条その他の条文もオリジナルで歌っている。恥ずかしながら投稿も―「日本国憲法 朗詠歌-YouTube」で検索
 歌う度に、憲法に対する親愛の情が深まり、その言葉・文句の意味理解も深化。
 例えば、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」というと、よく、「そんなのユートピアの話だ」とこき下ろす向きがあるが、よく考えてみると、市民生活では当たり前のこと(詳しくは「新聞に載らなかった私の投稿」の「『諸国民の公正と信義に信頼して』安全はユートピアか?」参照)。
●ウオーキング・ソングは、このところ「日本国憲法の朗詠歌」和文と英文を一通り唄い終わった後、この月にさしかかると、福山雅治の被爆クスノキの歌に、吉川晃司の「イマジン」(♪放射能はいらない もう被爆もいらない・・・・)が口を突いて出る。日本国民の悲しくも決意(不再戦と国の再生)を新たにしたあの夏の日の思いが蘇る。
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2017年07月22日

軍事的抑止力で抑止になるのか?

 これを身近な市民社会に置き換えて考えてみると、どうか。
 市民・個々人が銃を持てば、それが強盗・殺人などに対する抑止力になるのか。アメリカではそれが認められているが、日本では認められていない。それで日本では強盗・殺人などの犯罪がアメリカより多いかといえば、むしろ逆で、はるかに少ない。そこに働いている抑止力は法的道徳的抑止力(「刑罰が怖い」とか「良心が許さない」とか)だろう。
 警察官がパトロール等によって市民に安心感を与える。しかし、その抑止力は法的抑止力であって、警察官がぶら下げている拳銃のお蔭ではない(それは、とっさの時に攻撃や逃亡を阻止するため威嚇発砲をやることもあるが、基本的には護身用にすぎない)。警察官の、その拳銃が「おっかない」からと、強盗がそれだけで犯行を思いとどまるなどということはあり得まい。おっかないのは刑罰で、警察官が武器を持つからではなく、行政権限・司法権限などの強制権限を持っているからにほかなるまい。
 警察力とは「法的強制力」で、警察官の拳銃などの武器は、あくまで護身用・防御用なのだ。
 それに対して軍事力(武力)という場合の軍隊の武器・兵器は防御用(盾)でもあり攻撃用(矛)でもある。それを持つことによって、相手の攻撃を抑止できるのは、それが単なる相手からの攻撃を防ぐ盾にとどまらず、攻撃も(報復攻撃だけでなく先制攻撃・奇襲攻撃も)かけようと思えばかけられることになっているからであり、「いざとなったらやるぞ」という攻撃意思を見せる、それによって抑止できるのである(その武器・核兵器も単なる防御用でもなければ、攻撃用で「ただ威嚇用に持っているだけ」でもなく、実際使う時は使うのだということ)。つまり「軍事的抑止力」が実効性をもつためには、それが単なる抑止力や防御力にとどまらない、いざとなったら全面戦争も辞さない覚悟(意思)があることを前提にしているのだ、ということを見落としてはならないということだ。
 それに対して相手はおとなしく引き下がれば(核・ミサイルなど撤去・放棄すれば)、効果てき面(「うまくいった」)ということになるが、(北朝鮮のように)相手が対抗して、同じように「抑止力」と称して軍備増強(核・ミサイルを開発・維持)すれば、どうなるか。その軍備(部隊・武器・兵器)は、ただ保有しているだけでなく、それには「使う時は使うぞ」(発砲・発射するぞ)という攻撃意思が裏打ちされている(それがあってこその抑止力)となると、その当事者たち(最高司令官から現場の部隊指揮官・兵士に至るまで)には常にその(発砲・発射・攻撃の、或いはその命令を発する)衝動が付きまとうということになるわけだ。そして、彼らのうちのいずれかが発砲・発射して軍事衝突、そこから全面戦争(核戦争)にも発展するに至る、という危険が付きまとうことになるわけである。
 したがって、そのような「軍事的抑止力」というものは危険極まりないもので、まさに「恐怖の中の平和」。それによって安心・安全が得られ安定的平和(真の平和)が得られるようなものではないわけであり、そのようなものに依存している国々が支配的であるのが世界の現実だとすれば、そのような現実からは一刻も早く脱して「真の平和」を目指さなければならないのだ。

2017年07月25日

核兵器禁止条約への核保有国と我が国の反対・不参加

 核兵器禁止条約に核保有国とその同盟国(NATO諸国や韓国などとともに)我が国が反対・不参加。その理由はNPT核拡散防止条約に基づく核保有国と非保有国の合意・協力体制に支障をきたすことになるからだというものだろう。NPTとは、米ロ中英仏の5大国にだけ核保有を認めつつ核軍縮への努力義務を課し、それ以外の国には一切核保有を認めないことにした条約で、そのNPT体制の下で、我が国は「最終的に核兵器廃絶」を目指すとは言ってきたが、又オバマ前大統領も「核なき世界」を提唱したものの、核軍縮はあまり進展をみていない。

 核保有国と我が国を含めたその同盟国(「核の傘」に入っている国)は要するに、自分たちだけが核兵器を独占して核抑止力を維持し、その他の国々には、それを持たせないように拡散・保有を禁ずることによって、核保有国は自らの安全保障を得るとともに、それぞれの同盟国には「核の傘」となって、それらの国々の安全をも保障するというわけである。
 NPTが1968年成立以来、西欧のNATO諸国と日韓はアメリカの「核の傘」に。(日本は1976年NPTに加盟。)東欧のWATO(ワルシャワ条約機構)加盟諸国はソ連の「核の傘」に。北朝鮮もソ連の「核の傘」に入って、1985年にはNPTに加盟。ところが1990年、ソ連が韓国と国交、1991年WATO解体、ソ連も解体。1992年には中国が韓国と国交正常化。北朝鮮はロシア・中国を後ろ盾として当てにできなくなり、1993年NPT脱退、核・ミサイルを自力で開発する意図を持つようになった(北朝鮮は敵対関係にある米韓に対抗して国家を存立・維持するには核兵器にすがるしかないとの考えになった)と思われる。
 イスラエル、インド、パキスタンは、初めからNPTには参加せず、独自に核兵器を開発・実験・保有。(インド・パキスタンは、NPTが5大国だけを核兵器国として認め、それ以外には認めない不平等条約であることを理由に。イスラエルは周辺のアラブ諸国とイランに敵対関係にあるその戦略上、不参加。)イスラエルに対抗するイランも核開発の可能性があるも、米欧側から阻止されている。
 いずれにしても、NPTは核軍縮・「核なき世界」の方向には働いておらず、それに業を煮やした非核保有国が核兵器禁止条約に乗り出したわけである。そして、この7月に122ヵ国(国連加盟国の3分の2)の賛成で条約が成立。批准を待つばかりとなったわけである。

 問題は、核保有国とその同盟国がそれに背を向けて反対、とりわけ唯一の被爆国であるにもかかわらず我が国が交渉にも不参加、反対していることである。
 そこには、核抑止論と「5大国の核独占は正当化、それ以外の国の核保有は違法化」論がある。それらは自国本位の「軍事の論理」に基づいて合理化しているように思われる。「軍事の論理」は軍事的に勝つこと、負けないことが至上目的で最優先され、人道とか平和的生存権などは二の次か、度外視される。兵器というものは、そもそも軍事目的(敵軍を撃破するため)に作られており、平和目的ではあり得ず、武力攻撃や戦争を抑止(威嚇)することだけが目的で、使うことが目的ではないなどということもあり得まい。なぜなら、威嚇は「もし攻撃を仕掛けて来たら、それを使って反撃するぞ」といった前提があるからこそ効果をもつのだから、である。核兵器も然りであり、けっして「張子の虎」ではあり得まい。
 アメリカを同盟国「核の傘」として軍事的に依存している日本政府にとっては、あくまでアメリカの核軍事力にすがり、それによって、とりあえずは北朝鮮からの攻撃、それに中国・ロシアなどからの攻撃も抑止して守ってもらえるようにしておかなければならないとの思惑があるのだ。唯一の被爆国であり、又大戦の最大の責任を負う国でありながら世界平和への責任などは二の次。
 しかし、北朝鮮・中ロも、米韓・日本に対して負けてはならないと、同じ論理で「核抑止力」の開発にやっきとなるか、維持・強化こだわり続けているわけだ。
 これでは、世界に、又アジアに「核なき世界」は訪れず、朝鮮半島非核化、北東アジア非核地帯も訪れはしないどころか、米朝間の核戦争さえも訪れかねないだろう。

 核保有国側は(日本政府も)核兵器禁止条約に対して、核抑止力の必要性(「世界の平和と秩序は核保有国間の相互抑止を基本に維持されてきた」、「核の傘に頼る国も多い」、「条約は核抑止政策と相容れない」などのこと)と北朝鮮の脅威(「(ヘイリー米国連大使)われわれ良いアクター(当事者)に核兵器を持たせないで、悪いアクター(北朝鮮)に持たせてよいのか」「条約は北朝鮮の脅威への解決策を何も生まない」「北朝鮮の核武装への対処に迫られている日本は受け入れられない」などのこと)を反対の理由にしている。

 核保有国側は核兵器禁止条約に反対し、自分たちの核兵器独占・維持には固執し、北朝鮮には一方的なその放棄を強要するとなれば、北朝鮮はそれを理不尽と考え、その制裁圧力に屈して核・ミサイルを放棄するよりも、むしろ、それを(自暴自棄になって「軍事の論理」・合理的計算などそっちのけにして)「自爆攻撃」のように使って核戦争に突入して果てる可能性の方が高いだろう。
 こちら側では、北朝鮮が脅威で、アメリカの抑止力「核の傘」が必要不可欠だと思っているが、向こうにとっては、アメリカこそがこの上もない脅威であり、それに対して唯一の対抗抑止力としてすがりついている核・ミサイルは、アメリカ・日本はもとより国連安保理などが、いくら圧力を加えて放棄させようとしても、それに応じさせることは難しい(リビアやイラクの「二の舞」は御免だと思っているのだろうから)。
 このような北朝鮮に対しては圧力も軍事的抑止力も効かない。ならば、いっそのこと、極限まで圧力をかけまくって追い詰め、自暴自棄にさせて戦争に誘い込み、一気に無条件降伏に追い込む、という手もあることはあるのだろうが、それには計り知れないリスク(北朝鮮側だけでなく韓国側も戦災に見舞われ、幾万幾十万の犠牲を被り、日本にまでミサイル攻撃の被害が及ぶ可能性)がともなう。
 これらのことを考えれば、北朝鮮に対しては核抑止力の効果は薄く、核軍事力は問題解決の手段にはなり得まい。
 尚、北朝鮮もそうだが、そのような弱小国家以下の存在ともいうべきテロリストは命も何も失うことを厭わない、そのような非対称な相手には核抑止など通用しない。

 北朝鮮もそうだが、核保有国には核抑止力の効果・有用性に思い込みがあるが、「軍事的抑止力」というものにそもそも実効性はあるのか、だ。
 キッシンジャー(元国務長官)いわく、「抑止の効果は、実際には(攻撃・戦争が)“起こらない”ことによって、消極的な方法で試される。しかし、それが、なぜ起こらないかを立証することは絶対不可能である」(戦争が起きた原因は立証できるが、起きない原因は立証できないのだから)と。
 軍事力の「抑止効果」なるものは、実際、はたして効いているのかどうか、それは撤廃してみないと分からない(撤廃してみたら、そのとたんに敵が攻め込んできたという事実を見なければ)。しかし、それを実験としてやるわけにはいかない(撤廃して攻め込まれたらお終いだから)。
 核抑止は、実際、はたして効いているのか、それは撤廃してみないと分からない。しかし、撤廃したとたんに、相手から核攻撃されてはお終いだとなれば、それを試すわけにはいいくまい、というわけだ。
 北朝鮮は、自らの核武装をアメリカからの攻撃を抑止するためだという。アメリカも自らの核戦力を相手からの攻撃を抑止するためだと、お互いに自らの核開発・保有を正当化。しかし、いずれも、その抑止効果は立証できないわけである。互いに主観的に「抑止力」だと思い込んでいるだけにすぎない。その効果は心理的効果にほかなるまい。
 中国も北朝鮮も日本を攻撃・侵略しないのは日米同盟の抑止力が効いているからだといっても、それは立証のできない、都合のいい結果論にすぎないのだ
 
 ところで、軍事力が抑止力として実効性を持つのは、その兵力と兵器を「いざという時には(もし、攻撃をしかけられたら)必ず使う」という確信的な意思が前提としてある場合に限られ、それなくして、その兵力・兵器を単に保有しているだけで「張子の虎」の如きものだと相手側から見なされるならば、抑止力は実効性を持たないわけである。
 それでは(通常兵器ならともかく)核兵器に抑止力として実効性はあるのかといえば、あるとはいえないだろう。なぜなら、それは大量破壊兵器といわれるが、その極みともいうべきものであり、無差別「皆殺し」兵器で、実際にそれを使ったら、数多の人命の犠牲とインフラの破壊をもたらし、被害が環境汚染を含めて(国境を超えた)広範な地域に及び、復旧には莫大な費用と年数を要し、計り知れない破滅的事態とダメージをもたらすことが明らかだからである。アメリカの元陸軍大将で国務長官であったパウエル氏は(2013年7月朝日のインタビュー記事で)いわく「(核兵器は)極めてむごい兵器」で「まともなリーダーならば」使えない「軍事的に無用な存在」だと。彼はかつて(国務長官在任中)インドとパキスタン両国が核武装をして緊張が高まった際、パキスタン首脳と話し、広島・長崎の惨害を引き合いに出して「あなたも私も核など使えないことはわかっているはずだ」と述べて自重を促したことがあった。
 尚、日本には自衛隊があり、日米同盟を結んでいて米軍基地も置いているが、日本国民には「いざという時には必ず、それを使う」という確信的な意思があるとは思えない。大戦の悲惨と自責の念が骨身に沁みた日本人であり、憲法に不戦を誓った、その民族的良心がそれを許さないだろうからである。したがって、それら(自衛隊と日米同盟)はあっても、抑止力として実効性は乏しいと考えられ、ましてやアメリカの核兵器を北朝鮮に対しても中国に対しても「いざという時には使ってもよい」などと思っている者は日本人ならあり得ないだろう。
 
 「相互確証破壊」論に基づく核均衡抑止政策というものがあるが、それは要するに、対立する両国が双方とも核兵器を保有し、一方から核による先制第一撃があっても、他方には報復第二撃能力(確証破壊能力)が温存されていて反撃、互いに相手の国民や経済に耐えがたい損害を与えることのできる核戦力を持ち合っているという場合は、その核兵器を有るだけ使えば相互にとって共倒れか、同様の惨害を被る結果となるから、互いに攻撃は控えるしかない、ということで戦争を抑止し合うというもの。
 今、米ロなどが持っている核兵器(米ソ冷戦時代来、「相互確証破壊」論による核均衡抑止政策の下に、シーソーゲームのようにして互いに持ち合ってきて、ロシア7,000発、アメリカ 6,800発、フランス 300発、中国 270発、イギリス 215発、イスラエル 80発、パキスタン 120~ 130発、インド 110~ 120発、北朝鮮 ? に達している)は「威嚇用に、ただ持っているだけ」でなく実際「使う時は使う」のだとしたら、地球的規模の自殺行為。それは狂気の沙汰だろうし、使えもしないものを唯持っているだけだとしたら究極のバカ(やはり狂気の沙汰)という以外にないわけである。
 「核保有国間の相互抑止による平和維持」などと綺麗ごとを言っても、要するに核兵器は「使えない、使わない無用の長物」を唯持ち合っているというだけの無意味かつ危険極まりない核爆発物の貯蔵にしかならない愚策の極み、それが核抑止政策というものだろう。
 いずれにしても核抑止力は実効性を持たないということだ。
 
 こうしてみると、核兵器禁止条約に対する核保有国側の反対理由には正当性もなければ、現実性もない、といえるだろう。
 反対派は「核保有国と非保有国の対立を深める」とか「禁止条約は実効性がない」というが、それは保有国側の責任であり、正当性は条約賛成国側にあり反対国側にはなく、条約に反する核兵器保有・開発・核抑止政策(核兵器による威嚇)を続けることが違法と見なされることになり、それに無視を決め込むことは許されなくなるわけである。
 唯一の被爆国でありながら反対に回った日本政府は、世界の諸国民から不信を買うことになる。日本政府は、これまで唯一の被爆国として「核保有国と非核保有国の橋渡し」役を自任していながら、この禁止条約には「核保有国が参加せず、実効性は乏しいうえに、両者の対立を深める結果となり、核廃絶にはかえって逆効果だ」との理由で反対
 しかし、禁止条約に反対して、アメリカの「核の傘」に入ったままで、「橋渡し」といっても、何ができるだろう。
 本当に核廃絶をめざして「橋渡し」役を務めようとするのであれば、少なくとも(出来ることならアメリカとの同盟から離脱して、フリーで中立な立場で物が言えるのが一番なのだが、そこまでいかずに同盟関係は維持したままでも)米軍による日本防衛には核兵器だけは使用を控えてもらう(「核の傘」をはずしてもらう)ようにアメリカと合意のうえ国際公約し、非保有国と同じ非核の立場に立って、核保有国に対して核軍縮を加速するように働きかけるようにする。それは禁止条約に参加しても矛盾なく両立できるはず。
 そもそも、自国が憲法(前文)に「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」とか「自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる」などと定めておきながら、それと裏腹な態度をとって、自らは被爆を受けた当の原爆投下国アメリカの「核の傘」「核抑止力」に頼り続けている、そんな虫のいい卑屈な国の「橋渡し」に応じる非保有国などありえないだろう。
 北朝鮮に関してこの条約に対する日本政府の対応をいうならば、「『北朝鮮が核開発をしている時に禁止条約に賛成できない』ではなくて、『北朝鮮が核開発をしている時だからこそ禁止条約に参加する』ことが、いよいよ大切」、「日本政府が、この条約に参加して『日本は「核による安全保障」はもう放棄した、だからあなたも核を捨てなさい』―こう北朝鮮に迫ってこそ、最も強い立場に立てるのではないでしょうか」と安保理事会(核禁止条約採択の国連会議が開かれていた間、北朝鮮問題を議題として開かれていた)でウルグアイ代表が述べたというが、このほうが当を得ていると思われる。

 こういうふうに見てくると、核兵器禁止条約に反対する核保有国とその同盟国とりわけ日本政府の言い分に正当性があるとは、到底思えまい。

2017年07月27日

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                         あ~あ
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腹心の友? 腹黒の友?


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