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2017年06月 アーカイブ

2017年06月03日

9条に自衛隊追記でどうなるか(再加筆版)

 そもそも憲法9条が国・政府に課し要請しているのは、1項で戦争と武力を用いることを国際紛争を解決する手段にしてはならないということで、紛争解決の手段は非軍事的(平和的)手段に限ること。2項で戦力の保持を禁じ、交戦権を認めないということで、侵略や国の主権・権利侵害に対しても、そのために戦力を保持してはならないし、国には交戦権も認めないので、自衛権はあっても非武装で、ということは外交交渉、物理的には警察力による侵犯者の排除、或は群民蜂起(民衆の自発的抵抗・レジスタンス)で対応・対処しなければならない、ということであろう。
 自衛隊については、9条による制約要請によって、政府は創設以来それが急迫不正の侵害に対する自衛のための必要最小限の実力で戦力には至らないとして保持してきたが、その装備や活動は自衛隊法など法律によって出来ること(ポジティブ・リスト)が限定されている。
 それに前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しなければならない。」「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有すること」、「自国のことのみに専念して、他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則に従うこと」「他国と対等関係に立とうとする各国」と協調・協和する、ということで、安全保障を得る。
 また「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたい」ということで、国際社会には軍事的貢献(安倍首相のいう積極的平和主義とはその軍事的貢献にほかならないが、そのような国際貢献)ではなく平和的貢献に努めなければならないということ。
 これらの事が、憲法上、国・政府に課され要請されているのだ、ということである。

 そこで安倍首相が憲法9条に1・2項とも(前文もそのまま)残しつつ自衛隊を追記するという改正提案
 自衛隊の最高幹部(統合幕僚長)がこの首相の9条改正提案に「自衛隊の根拠規定が憲法に明記されることになれば非常にありがたい」と日本外国特派員協会での記者会見で発言(公務員の政治的中立性と憲法擁護遵守義務に対する違反が問われている)。
 首相はこれら自らの改憲提案に沿った具体案・原案づくりを自民党憲法改正推進本部(保岡本部長)に指示・要請している。(この原案は衆参両院の憲法審査会で審議され、最終的に採決で過半数の賛成があれば発議原案として国会にかけられ、総議員の3分の2以上の賛成があれば発議案として国民投票にかけられることになる。)
 さて、保岡氏ら自民党憲法改正推進本部ではどのような具体案がつくられるかだ。 
 このような首相の9条改正提案に対して3人の論評を新聞とネットで見かけて注目した。
(1) 渡辺治・一橋大名誉教授(朝日新聞5月30日付け「憲法を考える―視点・論点・注目点」)は「自分が自民党の立場ならこう書く」と。
「日本の平和と独立を維持するため①、自衛隊を保持する。自衛隊は国際社会の平和と安全を維持するために活動に参加する②。」と。
 ① と書かれれば、安保法制では限定的だった集団的自衛権の拡大ができることになる。
 ② と書かれれば、多国籍軍にも参加することが可能となる。結果的に、自衛隊の海外での武力行使に道を開くことになり、かねての自民党改憲草案と同じ危険をもつことになりかねない。
(それに海外での武力行使にともなう殺傷行為の当否を判断する事実上の軍法と軍法会議も必要となる)というわけである。
(2) 古賀茂明・元経産省官僚(赤旗日曜版6月4日号及びネット・サイト「2020年安倍改正案は“加憲”ではなく“壊憲”―AERAdot」で)
(今までは解釈上「自衛隊は保持してもよいのだ」といって保持してきたが)「憲法に『自衛隊を保持する』と書き込めば、(単なる追認だけでなく)憲法上の義務となる」。(9条に自衛隊追記と合わせて、義務教育の無償化を定める26条に「高等教育の無償化」の追記をも提案をしているが、それはそこには高等教育のことは書かれていなくても、法律や予算確保によってやろうと思えばやれるはずで、わざわざそれを書き込まなくても、と異をとなえると、それに対して、憲法に明記すれば政権の如何にかかわらず、憲法上の義務として必ず行わなければならなくなるのだから、そのほうがいいにきまっているではないかという理屈で強弁する。それと同じ論理でもあろう。もっとも現行の26条には義務教育以外の無償化は書かれていないからといって、そうしなくてよいのかといえば、そうではなく国際人権規約もそれを促しており、憲法に書き込む、書き込まないとにかかわらず高等教育の無償化はしなければならないことになっているのだ。)
 それでは9条1・2項に追加して、具体的にどういう条文が書き込まれるかだが、次のような条文が考えられると。
 「3項、前項(2項の戦力不保持)に規定にかかわらず、我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため①、国際法上認められた自衛権を行使する②目的で自衛隊を保持する」。
 ① と書かれれば、それに足る(中国などから戦いを仕掛けられても対抗できるだけの)十分な実力(自衛力)が必要だ(それが憲法上の要請だ)ということになり、その増強が憲法によって優先度の高い政策課題となり、核武装や徴兵制の議論にさえつながっていく。
 ② と書かれれば、途端に個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権の行使も認められる、ということになるわけである。(集団的自衛権の行使容認など、今までは内閣法制局による解釈の変更を承認する閣議決定をしただけであって、今後、それに対して違憲訴訟―既に出ている―が行われて裁判所から違憲判断が下される可能性がつきまとうが、もしも憲法にこの自衛隊保持が明文化されるようになれば、それが追認されることになる。そればかりか、憲法に根拠規定を得て、政権や自衛隊最高幹部は、集団的自衛権行使や武器使用・装備基準・防衛予算など、これまでの限定にはもはや縛られることなく、自衛隊がその時々で役割を果たすためにはそこまで必要だと彼らが思えば、その必要に応じてさらに上限を上げ、「必要最小限ならぬ必要最大限に」ということになってしまい、それが憲法上の義務を果たすものとして正当化できるようになってしまうわけである。)
(3)長谷部恭男・早大教授も次のような指摘をしている(赤旗日曜版6月11日号の紙上で)。すなわち自衛隊は、これまでは一応「自衛のための必要最小限の実力組織」として必要やむをえないぎりぎりの範囲内で装備や活動は出来ること(ポジティブ・リスト)を(自衛隊法等に)明示したうえ政府の説明責任(何か新たな任務・派遣が行われる場合、その都度説明)を必要としてきたが、自衛隊が憲法に明記されれば、いちいちその必要はなく(政府にとっては楽に)なり、むしろ憲法上の要請として(安全保障や国際平和安全維持の軍事的な)必要に応じて最大限(出来るだけ何でも)措置を講じなければならないということになってしまう(集団的自衛権の限定的行使も拡大されることになる)と。(巡航ミサイルによる敵基地攻撃も、防衛費の増額も、PKO派遣部隊は文民保護などのための武力行使「戦闘」もと、あれもこれも可能になってしまう、というわけか。)
 尚、長谷部教授は、首相が自衛隊9条追記の理由を「国のために命を捧げる自衛隊が違憲の存在などと言われないようにするため」とか「自衛隊が誇りと自信をもって活動できるようにするため」といった情緒論で語っているが、安全保障や防衛は理性的判断(合理的な計算)に基づかなければならず、感情・情緒をそれに入れることは極めて不適切だとも指摘している(ネットのサイト「立憲デモクラシーの会」で)。

 いずれにしても、これまでの自衛隊追認にとどまらない、9条の平和主義規定にとって致命的な結果をもたらす改憲となる、ということだろう。

2017年06月05日

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   影法師(長井市のフォーク・グループ)
  
戦争を知らない 子供たちへ 
♪ 僕らは戦争を 知らない子供たち 戦争をしない 国で生きてきた
  けれども平和を 当たり前と思い 何かをおろそかにしてはなかったか
ふと気がつけば ひたひたと  戦争が僕らに 近づいている
     戦争をしらない子供たちよ 僕らは戦争を 知ってしまうのか
      戦争を知らない 子供たちよ 僕らも平和を 残せはしないのか

    アメリカは絶え間なく戦争を繰り返し この国はアメリカを 支援しつづけた
  とりたててそれを 咎めもせず 見過ごしてしまった 僕らのあやまち
 アメリカに従うだけのこの国は 今度は自衛隊を 戦場に出すのか
     戦争をしらない子供たちよ 僕らは戦争を 知ってしまうのか
      戦争を知らない 子供たちよ 僕らも平和を 残せはしないのか

 国家に酔う者が 政治の舵をとり 戦争ができるよう 国を変えていく
 僕らの子供や その子供たちが 殺し殺される 世界にはするまい
 戦争を知らない 子供たちよ なすべきことが 僕らにあるはず
     戦争をしらない子供たちよ 僕らは戦争を 知ってしまうのか
        戦争を知らない 子供たちよ 僕らも平和を 残せはしないのか ♪

ジャイアンとスネオ(シンゾー編)
     ♪ 名前はシンゾー あだ名はスネオ アメリカ・ジャイアンの 傀儡(くぐつ)です
  おだて上げられ その気になって ジャイアンの手玉にとられています
   ジャイアンにはYES 何でもYES NOなど言うはず ありません

 戦うジャイアン 支えるために これまでたんまり 貢いできたけど
 ジャイアンこのごろお疲れ気味で 一緒にやろうと 誘ってきます
   ジャイアンにはYES 何でもYES NOなど言うはず ありません

 砂漠だろうとジャングルだろうと ジャイアンのためなら 参ります
 多少の犠牲は厭いません それが友達と いうものです
    ジャイアンにはYES 何でもYES NOなど言うはず ありません ♪


2017年06月14日

憲法を歌う 

 作詞家のなかにし礼氏が本紙で「憲法は芸術だ」と論じていた。「世界に通用させるべき美しい理念をうたい、感動を与えることができるから」と。それを読んで「やはり、そうなんだ」と気をよくしたところです。
 当方、実は毎日ウオーキングで野道を唄いながら歩くのを日課にしていますが、歌は『昴』とか『千の風』『花は咲く』『イマジン』など7~8曲づつ。唯ひたすら心身の健康のためにと。それが、近年は憲法の歌もレパートリーに加えて唄っているのです。当初は、シンガーソングライターのきたがわてつ氏が憲法前文や条文に節(曲)を付けて唄っているのを憶えて唄っていましたが、最近では自分で節を付けてオリジナル曲で唄っています。前文は全文、条文は9・12・13・14・25・97条。それに、これらの英文まで。文章の暗誦だけだと忘れるが、歌にすればすらすら言葉が出てくるし、唄っているうち馴染んでくる。
 それを一通り唄った後には、ボブ・ディランの『風に吹かれて』とか、美川憲一の『生きる』なども唄って、それで自己満足しているわけです。
 きたがわてつ氏作曲の憲法前文の歌は格調高く朗々たる曲調なので、皆で合唱して唄えたら、ベートーベンの第九(『歓喜の歌』)のような感動を味わえるのでは。
 

2017年06月28日

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この子らのために 平和憲法を
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7月のつぶやき
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●「ミサイルが飛んでくるのにこの大臣」(朝日川柳から)
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戦争する意図は全くありません 誤射でした 発射命令は撤回してお詫び申し上げます
   OH ! NO ! 否だ!否だ!否だ!
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 忖度政治―「上様は自分の口から言えないから、拙者が代わりに言う」、上様「余は何も言っておらぬ故、余に責任はあるまい」
 某国でも独裁者の口からは何も言われなくても忖度してやってるのだろう―それと同じこと(むき出しか、粉飾・カムフラージュ付きかの違いだけで、独裁であることには変わりないのでは)?  

2017年06月30日

諸国民の友愛に頼るか、力に頼るか、現実的な選択の問題(修正版)

 6月13日の朝日「声」投稿『自衛隊 改憲で位置づけ明確に』について(その2)。
 現行憲法で日本国民は(前文で)「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想(それは友愛―筆者)を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」として、(9条に)戦力を保持せず、国の交戦権を認めないと定めた。それに対して、投稿者は「善意にばかり頼っていられない時代」なのに、それは「理想主義に過ぎる」として、憲法で自衛隊の保持と交戦権を認め、「9条は現実に即応できるように改めるべきだ」と。
 それは、現行憲法のいわば「諸国民の友愛(投稿者は「善意」というが)に頼るやり方」に対して、自衛隊の戦力、いわば「力に頼る」ことも必要だというもの。
 しかし、そこで、「平和を愛する諸国民の公正と信義」なんてユートピアを信じて「友愛に頼る」とか「善意に頼る」などという、そんなやり方は非現実的で、「力に頼る」やり方のほうが現実的なのだと思いがちだろう。世界の歴史的現実には、優勝劣敗の抗争・力の支配(覇権主義)、権謀術数(謀略)など「力と知恵に頼るやり方」がほとんどで、「友愛・善意に頼るやり方」(「仁愛・徳治政治」)など教説としてしか存在しないというのが事実だが、だからといって、「力に頼る」やり方で不安・恐怖のない平和・安全保障を実現・維持できた国など現実に存在するだろうか。むしろ軍事力に頼っている国ほど危険で不安な国となっているのが現実なのでは(国際シンクタンクIEP経済平和研究所が出している「世界平和度指数ランキング」では、2017年は1位がアイスランドで、日本は10位、北朝鮮150位、南スーダン160位、イラク161位、アフガニスタン162位、最下位の163位がシリアだが、アメリカは114位、中国が116位、ロシアが151位)。その意味では力に頼れば、平和・安全保障が得られるという方が、むしろ非現実的なのでは。
 日本国憲法の平和主義というのは、単なる理念だけではなく、平和・安全保障の方法論として、軍事的安全保障などに比してより有効・確実な方法だという現実的な選択の問題であろう。
 北朝鮮の核・ミサイル開発や拉致問題、中国の海洋進出や尖閣問題、或は国際テロなどの現実には、わざわざ改憲して自衛隊の保持と交戦権を認めて軍事対応する(軍事的即応体制をとる)というのは一つの選択肢ではある。しかし、そのやり方は戦争やテロが起こることを覚悟し、それを前提とした対応であり、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」(憲法前文)という決意に反して、(それは戦争の抑止にはならずに)むしろそれを呼び込み「再び戦争の惨禍」を招く結果にもなりかねないという危険がそれには伴う。だからそのような方法は控えて、あくまで非軍事的・外交的方法で対応するという当初からの路線を貫く、そのほうが現実的な選択なのだ、ということだろう。
 尚、軍事ジャーナリストでリアリストの田岡俊次氏は『日本の安全保障はここが間違っている!』(朝日新聞出版)で次のように論じている。
 「安全保障は軍事力だけではなく、外交や情報、経済関係、信頼醸成など多くの要素が加わって確保」、「一国が軍事力を増強すれば、それと対抗関係にある他国も増強して軍備競争になりがちで、相手も強くなれば金はかかるが安全性は一向に高まらず、互いの破壊力が増すから、かえって危険にもなりかねない。」「『安全保障の第1目標は抑止力強化』とか『安全保障とは国の安全を軍隊で守ること』というのは幼稚な論であり、日本が国力に不相応な軍事力を持ち、第2次世界大戦で320万人の死者を出し、疲弊して降伏した教訓を忘れた説」、「安全保障の要諦は、敵になりそうな国はできるだけ懐柔して敵意を和らげ、中立的な国はなるべく親日的にして、敵を減らすこと」だと。
 これらの語句のうち最後の「安全保障の要諦・・・云々」は、要するに、どの国も敵とせず、どの国からも敵視されず、どの国とも友好的な信頼関係を築く、ということは即ち「諸国民との友愛」にある、ということでもあろう。憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持」という言葉はきれいごとのように思われるが、それは砕けた言い方をすればこのこと(「どの国も敵とせず・・・・」)を指すもの解され、それは単なる理想主義ではなく、それこそが平和・安全保障を得るのに現実的で確かな方法なのだ、と思われるのだが、如何なものだろうか。

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