« 2016年04月 | メイン | 2016年06月 »

2016年05月 アーカイブ

2016年05月01日

自衛権と国家緊急権(加筆版)

(1)日本国憲法は9条1項に「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決付する手段としては永久にこれを放棄する。」2項に「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と定めているのだが、実態は「自衛隊」を保有し、その実力は世界有数 。自衛隊といっても、安倍現政権は、今や(昨年の閣議決定と新安保法制で)個別的自衛権にとどまらず、集団的自衛権の行使まで限定的にではあるが容認し、実質改憲から、さらに明文改憲まで企図している。
 そこで、これらの問題を考えてみたい。

●そもそも「自衛」とは、自らの生命・権益を武力(暴力装置)で守ること自衛権とは、その正当化であり、武力(他者への暴力)の正当化―なのだが。
 国際法では―国連憲章51条に「この憲章のいかなる規定も、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間個別的又は集団的自衛権固有の権利(フランス語版では「自然権」)を害するものではない。この自衛権の行使にあたって加盟国がとった措置は直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能及び責任に対しては、いかなる影響を及ぼすものではない。」
 (第一次~第二次大戦後、自衛権行使と国連による不正な武力侵攻・武力攻撃に対する軍事制裁以外は禁止。自衛権行使も、安保理事会が措置をとるまでの間に限った暫定的なもので、集団的自衛権はもとより個別的自衛権も例外的なものとされているのだ。国連は、国連の目的に軍備を利用する以外には、国ごとの個別的な軍備は制限・縮小するなど軍備の規制を目指している。)
 国連憲章51条には、このような自衛権の規定の仕方で、時限的・暫定的な消極的な権利として定められており、それによってすべての国が自動的に拘束されるとか、常に国内法に優越するなどという定めにはなっていない。(同憲章の武力行使・威嚇の禁止規定、根本的な人権を保障した条約や国際人道法などの強い「義務」を定めた国際法規の場合は、いずれの国も拘束されるが、自衛権に関するこの規定は、そういうものとは違う。また「個別的及び集団的自衛権は固有の権利」だからといって、無理やりその権利を行使し、その法規を実施しなければ国際法違反になるというものでもないわけである。
 国連国際法委員会が2001年採択した国家責任に関する条約案(『国家責任条文』)21条でも、(個別的自衛権の場合も)「自衛は権利ではなく違法性阻却事由」ということで、それは、本来は違法な武力行使なのだが状況から判断して違法性が取り除かれる(免除される)行為として認められるにすぎない、といった規定の仕方になっている。「権利」だからといって乱用してはならない(そもそも権利ではない)というわけ。乱用―「先制的自衛」と称して先制的に使われがち(例:同時多発テロ→アフガン攻撃)
 自衛権なるものは、こうしてみると現行国際法上、国々の権利として積極的に認められているとは言い難く、やむを得ざる場合に限られた限定的な権利なのだ
 自衛権行使に必要とされる3要件―1837年、英領カナダで起きた反乱に際して、反乱軍が物資運搬に利用した米船籍のカロライン号を英軍が破壊、米側の抗議に対して「自衛権の行使だ」と主張した英側に米国務長官ウェブスターが提起(「ウェブスター見解」)①急迫不正の侵害があること、②他に、それを排除して国を防衛する手段がないこと、③必要な限度にとどめること
 ●集団的自衛権―国連憲章には定義や行使要件など一言も書かれていない(意味内容の不明な概念)―自然権ではない
 同盟政策―特定の仮想敵を念頭(想定)―敵対関係を潜在的に抱え込む―集団安全保障とも本来の自衛権(個別的自衛権)(仮想敵を想定しない)とも論理構造を全く異にする。
 集団的自衛権とは、本来の自己保存の本能に基づく自然権としての正当防衛権たる自衛権とは言えず、そもそも集団的自衛権なるものは国連憲章51条に書き込まれた経緯から見ても、米国などの政治的思惑による後付けされた概念にすぎないのだ。
 第一次大戦後、戦争違法化の流れの中で、自衛権の考えが生まれたが、それは自国が攻撃を受けた場合にのみ実力で阻止・排除する「個別的自衛権」を意味するというのが国際法上の常識だった。1944年、国連創設にさいするダンバートン・オークス会議における国連憲章原案にも「集団的自衛権」などという文言はなかった。
 ところが45年3月アメリカ主導で開かれた米州諸国会議で軍事同盟(米州機構)を合理化するため、加盟国のいずれか一国に対する攻撃を全加盟国への攻撃とみなすという決議(チャプルテペック決議)がなされ、それを同年6月に採択された国連憲章成案にアメリカが盛り込むことを提案、ソ連が同意して憲章51条に個別的自衛権とともに「集団的自衛権」なるものも「固有の権利」として記されることになった。というわけで、「集団的自衛権」とは「後付け」された概念にすぎないのだ。
 (安倍内閣が前に任命した小松内閣法制局長官も、国会答弁では「集団的自衛権は、国際法学者の一般的見解としては、自然権的なものではなく、国連憲章によって創設されたものであるという見方が一般的だ」としていた。)
 要するに、個別的自衛権なら、個人の正当防衛権と同様に、「自然権」・「固有の権利」と言えても、集団的自衛権はそもそもが「固有の権利」などではないのだ、ということだ。
 このように、集団的自衛権とは、そもそもが軍事同盟を合理化するものであり、軍事同盟は、国々を戦争に巻き込んだという、とりわけ第一次大戦の苦い経験から、望ましくないものとして否定されてきたものなのだ。(セルビアの一青年がオーストリア皇太子を暗殺したことをきっかけにオーストリアがセルビアに宣戦布告して開戦したが、双方それぞれの同盟国が次々と参戦し、日本までが日英同盟のよしみで参戦、世界大戦となった。)

 以上のことから確認できることは、日本国憲法9条と国連憲章51条とのあいだに矛盾はないということ。(国連憲章で個別的自衛権・集団的自衛権ともにみとめているのに、日本国憲法でそれらの行使を認めないのはおかしい、ということにはならない。)
 9条と自衛隊・日米安保条約には、歴代政権は矛盾はないとし、最高裁もそれらが違憲だとは判断はしてこなかった。しかし、9条と自衛隊・日米安保の現実には乖離があることは事実だろう。とりわけ安倍現政権による集団的自衛権の行使容認と新安保法制はその極限を越えるもの。そこで、9条と現実との乖離を解消すべきだとして、次のような改憲論が説かれる。
 いわゆる「護憲的(平和主義的)改憲論」「リベラル改憲論」―改悪ではなく「改正」だとして「新9条」論
  中島岳志―「人間は不完全で、暴力性を持たざるをえない。国際秩序を維持する上で、一定の軍事力が必要」
  井上達夫―「自衛隊は『戦力でない』から合憲だ、というのは欺瞞」
  小林節
  今井一 ―「護憲派の欺瞞性」を指摘 
  加藤典洋
  伊勢崎賢治
  田原総一郎―集団的自衛権の「新3要件」も容認
  池澤夏樹
 これらはいずれも、自衛隊の存在を明記し、専守防衛に徹すること、個別的自衛権の行使には交戦権を認めるも、集団的自衛権の行使は(田原氏を別として)認めないことを明確に定めて、拡大解釈の余地のないようにして歯止めをかける、というもの。

 しかし、9条からの乖離をただすため、9条の方を改正して現実に近づけるべしという改憲論は、本末転倒。
 文芸評論家の斎藤美奈子氏は、その9条改憲論のデメリットを次のように指摘している。「私が官邸の関係者なら『しめしめ』・・・・『意外と使えますよ、総理』『だな、改憲OKの気分が先ず必要だからな』・・・・現行の条文でも『地球の裏側まで自衛隊を派遣できる』と解釈する人たちだ。条文を変えたら、おとなしく従うってか。・・・・『あとは新9条論者と護憲論者の対立を煽るだけですよ、総理』『だな、もう新聞も味方だからな』となるでしょう」と。つまり、これら「リベラル改憲論」はいずれも「もっともらしく」はあっても、「他に解釈の余地がないように」どんなに細かく規定したところで、解釈の余地は残るもの。(現行9条では、あのように明確に、はっきりと規定しているのに、それでさえも、都合のいいように解釈されてしまっているのだから。)それに、これらの改定案は個々には(単独では)国会で取り上げられても発議に必要な3分の2以上の賛成は到底得られず、結局は安倍自民党の主流改憲案の方に押し切られるか、取り込まれはしても都合よく利用されるだけになってしまうだろう。また護憲派・安保法反対派を分断す結果にもなるだろう、ということだ。

 井上教授らは「9条のため憲法上『戦力』は存在しないことになっている。だから戦力を統制する規範がない」などと、現存する自衛隊に対して歯止めが必要だとして9条2項削除を主張しているが、「歯止め」は9条2項(戦力不保持・交戦権の否認)そのものが究極の「歯止め」なのであり、その歯止め(統制)を弱めてきたのは、「憲法尊重擁護義務」に不忠実な政権のせいなのであって、9条自体のせいではあるまい

 自衛隊の設置と統制は、警察・消防などと同様に、憲法に定めはなくても、自衛隊法など法律で規定すれば、事足りるはず但し、その法律は憲法の規定(9条)を逸脱してはならない。自衛隊は、歴代政権によって「必要最小限の実力」であることには変わりないとして増強されてきたが、安倍現政権によって集団的自衛権の行使を容認する新安保法は極限をはみだしている。そこが大問題なのだ。
 自衛隊の実力は「必要最小限」といいながら、当初の「軽武装」からかけ離れ、今やイージス艦や大型ヘリ空母、ステルス戦闘機などを保有し、そのうえ核兵器さえ「持とうと思えば持てるのだ」としているが、それらは装備・その規模など物理的な能力のレベルだけから見れば世界有数の「立派な戦力」には違いない。それ自体、9条の「戦力不保持」に反していると見ざるをえない欺瞞性があるには違いないが、それは9条の規定のせいではなく、それを悪知恵・詐術を弄して都合のいい解釈を積み上げ、増強を積み重ねてきた政権とそれを容認してきた与党のせいであり、その好戦的な軍事志向と憲法に対する不忠実と狡さ(悪いのは9条だと責任転嫁)にあり、その方が問題なのである。それでも(自衛隊はその実力・能力のレベルから見れば世界有数の軍事力だとは言えても)、「軍隊」とは言えない他国の軍隊との決定的な違いがある。それは9条によって交戦権が認められていないことである。それが決定的な歯止めになっており、この9条がある限り、自衛隊はどんなに強大でも戦争はできないことになっているのだ
 万一、急迫不正の侵害・武力攻撃事態が発生し、全国民の生命と安全が危機に瀕した場合には、政府は急きょ超法規的な「国家緊急権」を発動して憲法(9条)を一時停止し、自衛隊に交戦権を付与して戦わせるしかないわけである。
 次に、その国家緊急権なるものについて論及。

(2)国家緊急権の問題―4月19日、朝日新聞(オピニオン&フォーラム欄、「憲法を考える―国家緊急権」)に掲載された槁爪大三郎・東京工大名誉教授の見解。
 「おりしも大災害や戦争・テロなどの非常時に政府の権限を強める国家緊急権を憲法に位置づけるかが国会で議論になっている」が。
 国家緊急権とは想定外の(例えば「大量の放射性物質が漏れ出し、それが首都圏に向かっており、関東全域の住民を48時間以内に強制的に域外に立ち退かせる」などといった緊急事態に見舞われた場合など)非常事態に遭遇し、災害法制や緊急事態法制など予め用意された法令では対応しきれないという事態に際して、憲法が保障する国民の自由や権利を制限する法律など作っている暇がなく、すぐに政府が行動しないと、国民の生命や安全を守れないし、社会秩序も維持できないという場合に、政府が超法規的に行動する権限のこと。その国家緊急権は、そもそも主権者である国民が、自分の生存や安全を守る権利に基づくものであり、その権利は人間の自然権(憲法成立以前に、人間が生まれながらにして有する生存に不可欠な固有の権利)に依拠しており、憲法や法律よりも根源的なもの。主権者・国民は自らの権利を守るために、お互いに契約を結んで(憲法はその契約書)政府をつくり、その政府に権力を付与して(授権)安全や秩序を確保し、自らの権利・自由を保障してもらう。その政府が、もしも権力をほしいままに不当に(憲法を逸脱)行使して人民の権利を侵害したら、人民はそれに抵抗できる(抵抗権)が、緊急事態に見舞われて人民の生命と安全が危機に瀕した場合には、政府が平時の憲法や法律に基づかず、超法規的な権限を行使してでも、必要で適切な措置・行動をとるのは、権限である以上に国民への義務としてやらなければならないこととして人民にとってそれは受け容れられる、というものだろう。そのような国家緊急権の行使は正しい(国家緊急権正当化の根拠)としても、「憲法違反」「法律違反」には違いない。そこで、それが果たして必要やむを得ないものだったのか、それとも恣意的で不適切だったのか、その時の政府の行動を事後に(立法府の国政調査権によって)検証することが必要不可欠となる。その検証によっては、政府(その首脳)は政治責任あるいは刑事責任(「100人救ったが、10人死んだ」などと過失責任)が問われなければならないことになる。政府にはその覚悟なしに国家緊急権は行使すべきではない。
 だからといって、自民党改憲草案のように、予め憲法に「緊急事態条項」など盛り込むというのは賢明ではなく、弊害にもなる。なぜなら、それでは政府の国家緊急権の発動が「憲法違反」に問われることもなく合法的になってしまい、事後の検証も政府の追及も安易なものとならざるを得なくなり、その(緊急権の)乱用を許してしまう結果になる。それにダムにあいた穴のように、憲法秩序を掘り崩してしまう結果にもなるからだ。
 大日本帝国憲法には天皇が国家緊急権を行使する非常大権・緊急勅令権・戒厳大権も定めらいたが、規定が曖昧で、日比谷焼打ち事件・関東大震災・2.26事件で緊急勅令に基ずく行政措置として戒厳が実施された以外には、いずれも発動されたことはない。
 しかし、当時、世界で最も民主的な憲法と思われていたドイツのワイマール憲法にも国家緊急権の条項が大統領の非常措置権限として定められていて、ヒトラー(首相で少数派内閣だった)は大統領(ヒンデンブルグ)にそれを乱発させて国会を形骸化し、しまいには全権委任法を通して完全に独裁権を掌中にし、憲法を事実上葬り去った。これが最悪の結果を招いた典型例。

  橋爪教授は9条と自衛権については言及していないが、武力攻撃事態(急迫不正の侵害)に際する国家緊急権の発動・行使も考えられよう。
 自衛隊に憲法9条では認めていない交戦権を急きょ付与して戦えるようにする、という措置(9条の一時的停止)を断行するなど。
 そうであれば、改憲して9条を削除するとか、新規定を設けて「自衛隊を明記して、集団的自衛権の行使は認めないが、個別的自衛権の行使には交戦権を認める」などと、(「中国が脅威だとか北朝鮮が暴発するかもしれないから」といって、わざわざそれだけの理由で)改憲する必要などないわけである(仮にそれらの武力侵攻があれば、その時は国家緊急権の発動―9条は一時停止―という非常措置で対処、ということになるのだから)。
 「新9条」で、中島岳志教授の言うように「自衛隊はどこまでやるべきか、何をしてはいけないかを明示」したり、いくら拡大解釈の余地のないように細かく定めても(現に自衛隊法など安保法で定めているリストでも)、それらは歯止めになるよりは、かえって、「合憲・合法なのだから」と安易になってしまい、やろうと思えば何でもやれてしまう結果になりやすい(例えば「集団的自衛権は行使しない」と定めても、「フルスペックではなく、限定的ならできる」などと意訳されてしまう)。

 こうして見てくると、自衛権(集団的自衛権は別として)も国家緊急権も、憲法には規定はなくても、個々人の「正当防衛権・緊急避難」の権利などと同様に、人間が生まれながらにして持つ生存に不可欠の自然権を根拠として正当性が認められる論拠となり得るわけだ。

日本国憲法を歌う

日本国憲法を歌う
 日本国憲法の前文に節を付けて歌っている。シンガーソングライターの北川てつ氏が、前文の(前半は朗読で)後半部分と9条の全文に曲を付けて歌っているが、それをCDで憶えて、日頃から時折口ずさんでいる。最近になって、前文の前半部分にも自分で曲を付けて歌ってみようと試み、色々口ずさんでみたあげく、結局、北川氏の9条の曲をベースにアレンジしてみると、どうにか合わせることができたので、それを歌ってみている。
 歌で憶えると忘れにくく、歌いながらその文句が口ずさめる。格調高く、朗々と歌える素晴らしい憲法ではないかとあらためて感じる。
 この憲法は、日本国民自らの痛切な歴史的反省を踏まえ、諸国家・諸国民相互の関係の世界史的現実を踏まえつつ、崇高な理想を掲げて構想され制定されたもので、人類普遍の原理を含んだ世界史的意義をもつ憲法なんだなと、歌いながら感じ入る。
誰もいない野道を一人、散歩しながら大きな声で歌っているが、この歌を子や孫たちに伝えられたらいいなと、つくづく思う。
 ♪日本国民は・・・吾らと吾らの子孫のために、諸国民との協和による成果と、我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する・・・♪ 

2016年05月11日

改憲よりも順守が先

 憲法問題といえば、今は改憲が先にありきで、それに賛成か反対かという議論になっている。
 その改憲の理由は、憲法を一生懸命順守して諸政策を実行した結果、不都合を来たしたからではなく、為政者が憲法に抵触・背反するような政策を無理に合憲解釈してそれを積み重ねた結果、不都合・不合理を来たしたからにほかなるまい。とりわけ、9条の規定にもかかわらず、当初、政権はソ連が脅威だとして軍事的に対抗する再軍備路線を採り、自衛隊の名の下に軍事力保持。それに対して反対派は、戦争は絶対避けなければならないと9条厳守を主張した。その自衛隊も専守防衛から海外派兵も容認へと拡大、今は中国・北朝鮮が脅威だとなって、集団的自衛権の行使さえ限定的ながら容認、その9条拡大解釈は極限を超えたと見られ、その不都合・不合理から改憲の必要に迫られているのだ。
 現行憲法は70年経って、すっかり定着したかのようではあるが、はたしてその前文・各条文の通りやられてきたのかといえば、そうではあるまい。未だ中途半端できちんと実行されていないか、実現への努力が充分傾注されていない部分が幾つもある。9条以外にも、14条、21条・25条・27条・29条、それに99条(憲法擁護義務)など。
 改憲の前に、まずは現行憲法を、為政者にしっかりと順守させて、その通りやるべきことをやらせることが先決なのではあるまいか。
 それをせずに、今この段階で為政者の都合や思惑で改憲を許してしまうようなことになったら、現行憲法に掲げた崇高な理想は放棄され、二度と取り返せないことになってしまうだろう。

2016年05月13日

国に「戦争をさせない」と「させることも」の違い

 朝日(5月11日)の「声」に「憲法9条改正案を作ってみた」という高校生の方の投稿、なるほど尤もな案だと感心しました。
 ただ、この改正案の9条2項には、現行憲法の2項にある「国の交戦権は認めない」という文言が削除されている点に決定的な違いがあるような気がします。この文言は、要するに、いかなる理由があろうとも国に戦争はさせないという、曖昧性のない明確な、いわば「究極の歯止め」ともいうべき禁止規定なのだが、それを削除して「個別的自衛権の発動は妨げない」「自衛隊は専守防衛に徹し」と定めることは「国の交戦権を認める」ということであり、それは、自衛のためなら国に戦争をさせる、つまりいざとなったら政府が自衛権を発動して交戦することを前もって認めることとする、ということ。
 国には「いかなる場合も戦争をさせない」と憲法に定めてきたのと、それを変更して「場合によってはさせることもあり」と定めるのとでは、国際社会に対して示した日本国民の決意と国民が自らに誓った覚悟の程はかなり違ったものとなるのではあるまいか。
 それに、「集団的自衛権の行使は認めない」と明記しても、解釈によっては「フルスペックのそれは認められないが、「3要件に限るなら」認められるなどと、やはり解釈の余地(曖昧性)はどうしても残るわけである。そのあたりのことは如何なものだろうか。

 尚、「いかなる場合も国には戦争をさせない」という憲法は憲法として、フクシマ原発事故以上の原子力災害などの非常事態に遭遇した場合と同様に国家緊急権として、急迫不正の武力攻撃事態に遭遇した場合に国民の自然権としての正当防衛権と抵抗権に基づいて、政府と自衛隊に超法規的に(やむを得ざる違憲措置として)一時憲法停止・交戦権を付与するということはあって然るべきだろう。

2016年05月18日

DSCN1319.JPG
         浪江町請戸地区に小学校とともに、その直ぐ近くに残った二本松
DSCN1321.JPG
                   請戸小学校 校舎
DSCN1285.JPG

DSCN1284.JPG

DSCN1289.JPG

DSCN1293.JPG

DSCN1298.JPG
 津波襲来時刻 生徒(80数名)は、その一時間近く前の地震発生直後に一斉に避難(1kmほどの距離にある丘に)、全員無事だった(死者・行け不明は、請戸地区を主に浪江町全体で182名)

DSCN1296.JPG

DSCN1326.JPG
この校舎は ↓
DSCN1308.JPG
                                              
DSCN1318.JPG
                      南向こう(双葉町側)
DSCN1330.JPG
            福島第1原発 1号機の屋根が見える
DSCN1314.JPG
 校舎の北側 この向こうには小高地区とまたがる所に東北電力の原発建設計画が数十年前からあったが、根強い反対運動で着工には至らぬまま、福島第一原発の大事故が起きて正式に取り止めとなったとのこと。もし、それが建っていたならば・・・・。
 広大な原野に化したこの地の復興をどうするのか。いっそのこと全域にメガソーラーでも建設すればいいのに?。
 南相馬の原町海岸には東北電力の火力発電所がある(震災の翌年、近くを視察した、その時は津波で大きなダメージを被った様子が見えた)が、その発電所は2年後には早くも復旧し、現在稼動中で、しかもそこにはメガソーラー併設されているとのことだ。
DSCN1328.JPG
            放射性廃棄物(1kg当り8,000ベクレル以下)の焼却場
DSCN1342.JPGDSCN1347.JPG
(丈六公園)公設線量計では1.617マイクロシーベルトだが、付近のこの看板の下の藪の中を直接測ると
DSCN1333.JPGDSCN1338.JPG

DSCN1281.JPG
     飯館村 除染草木・表土を詰め込んだフレコンバックの仮置場 いたるところに
DSCN1278.JPG

2016年05月21日

「命がなくて何がお金か」なのでは?

 「原発反対派の経済軽視は疑問」という投稿(15日朝日)について。「放射能に対する恐れは人それぞれ」とのことだが、感じ方では楽観派と悲観派とがあって人それぞれでも、放射能の有害・危険性は客観的事実であり、命の最高価値性も誰しもが認めざるを得ないところだろう。
 電力の需給関係を「冷静に分析した意見は誠に少ない」と決めつけておられるが、電力確保や経済の重要性を考慮するのは誰だって当たり前のこと。ただ、それらは利便性と経済効率性の問題で、最高価値たる命を害さず滅ぼさないようにすることとは比べようのない二義的なこと。
 「老朽化した火力発電所がみな停止すれば、即電力不足となり、計画停電」とは極論。火力発電には原発のように廃炉に要する莫大な費用・困難性や過酷事故の危険性はなく、再建は原発に比べれば簡単で安価、「みな停止する」なんてあり得まい。それに再エネの開発・発展にもっと力を入れ、それが主電源になれば火力は補充的な運用で間に合うことになるはずだ。
 「お金がなくて何が命か」といわれるが、いくらお金を稼げても、命を害し滅しては元もこうもあるまい。いくら電気があっても、命を危険にさらしては、人は住めないだろう。浪江や南相馬には数回行って目の当たりにしてきたが、つくづくそう思う。

2016年05月30日

オバマ大統領に求められるのは自国民に“No more・・・・”を言える勇気(再加筆版)

●オバマ大統領は広島(原爆死没者慰霊碑前)でのスピーチで、次のようなことを述べた。
 「空から死が降りてきた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 1845年8月6日の朝の記憶を薄れさせてはなりません。その記憶は、私たちが自己満足と戦うこと(”to fight complacency")を可能にします。それは私たちの道徳的な想像力を刺激し、変化を可能にします。
・・・・・。米国と日本は同盟だけでなく、私たちの市民に戦争を通じて得られるよりも、はるかに多くのものをもたらす友情を築きました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 ・・・・・私の国のように核を保有する国々は、恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければなりません。私の生きている間に、この目標は実現できないかもしれません。しかし、たゆまぬ努力によって、悲劇が起きる可能性を減らすことができます。私たちは核の根絶につながる道筋を示すことができます。」と。
 その後で安倍首相は次のようなことを述べた。
 「熾烈に戦い合った敵は70年の時を経て、心の紐帯を結ぶ友となり、深い信頼と友情によって結ばれる同盟国となりました。・・・・・。日米両国の和解、そして信頼と友情の歴史に新たなページを刻むオバマ大統領の決断と勇気に対して心から敬意を表したい。・・・・核兵器のない世界を必ず実現する。その道のりがいかに長く、いかに困難なものであろうと・・・・努力を積み重ねていくことが、いまに生きる私たちの責任であります。」と。

 しかし、彼らの「勇気」は、広島に来て、こう言うのが精一杯。真の勇気は核兵器も戦争も「率先して放棄する」こと。そしてそれを自分が生きている間に、できれば最後の被爆者が生きているうちに実現することなのでは?
 国連総会で採択されている核兵器禁止条約に関係するいくつかの案には(中国・北朝鮮まで大多数の国々が賛成しているのに)アメリカは反対、日本は棄権し続けている。昨春のNPT再検討会議でも、今月スイスで開かれた国連の核軍縮作業部会でも、非核保有国グループが提案した核兵器禁止条約の国際交渉を求める決議案には「時期尚早」として賛同しなかった。(期限を切った「禁止」ではなく、期限を切らずに「段階的に」削減・縮小したほうが賢明だと。それに核兵器使用が国際法違反だとは一概に言えないとし、安倍内閣は、それは日本国憲法9条2項で禁止されている「戦力」には当たらず、保有も使用も憲法違反ではないとさえも表明している。)
●オバマ大統領にとっては、広島に来て「人の好い」日本人に向かって原爆や戦争のことを話すのにはさほど「勇気」なんか要らないし、或いはロシアや中国・北朝鮮・イランなどに対して相手国の核・軍備に対して縮小・放棄せよと強気に出て要求するのは、そんなに「勇気」の要ることではあるまい。大変なのは、トランプ大統領候補などに熱狂する好戦的な(というと語弊があるが、その歴史―先住民インデアンに対するヨーロッパからの白人入植者、本国に対する独立戦争と建国、アフリカからの黒人奴隷、諸地域からの移民、その間の抗争―から「武力で相手を従わせ、武器で身を守る」という風習いわば武器・武力依存体質が互いにしみつき、諸個人は銃に、国は核兵器にしがみついて手離せなくなってしまっている)自国民を説得する勇気だろう。自国の彼らに向かって“No more war” “No more Hirosima・Nagasaki”(「戦争はもうよそう」「核兵器は廃棄しよう」)と。それを言える勇気こそ本当の勇気というものだろうが。
 大統領選の共和党候補トランプ氏は、オバマの広島訪問を「謝罪しない限りは結構」といい、その有力応援者(ペイリン)は「私たちが始めたわけでもない戦争を、米軍が(原爆投下によって)終わらせた」のだと。
 スタンフォード大学のスコット・セーガン教授が実施した世論調査で「仮に米国とイランが戦争になった場合、2万人の米軍犠牲者が出る恐れがある地上侵攻と、イランへの核兵器使用で10万人を殺害し、降伏に追い込むことのどちらを選択するか」との問いに59%が「核兵器を使う」と答えたとのこと。それが米国民の意識なのだ。その自国民を教化・説得する勇気こそが求められるのだ。
●オバマ大統領は「広島・長崎は道徳的に目覚めることの始まり」とも述べた。
 原爆投下は「戦争を早く終わらせ、多くの米国人の命を救った」などと正当化されてきたし(それこそが"complacency"「自己満足」なのでは?)、核兵器の維持・開発・高度化―オバマ政権下で計画されている「スマート核兵器」開発、それに今イラクやシリアで行われている空爆―数多の民間人まきぞえ、大量難民を追い返すのも同様に、それを正当化する論理(理屈・言い訳)はいかようにも立てられるが、市民・住民の大量犠牲は道徳的には決して許されることではなく、謝罪すべき所業であることには間違いない。その気持ち(道徳心・罪の意識)の乏しい国民やその指導者は同じ過ちを繰り返す。そして、その度に言う言葉は「しかたなかった、そうするしかなかったのだ」などという言い訳になるのだろう。
 人間関係において寛容や「許し」或いは和の精神は必要。しかし、そこには「けじめ」というものがある。すなわち道徳的な(善悪の)判断で悪かったなら「悪かった」と謝罪・償いが必要不可欠で、それ(道徳的な判断と謝罪)を曖昧にしたまま、ただ「水に流す」とか「気にしない」「無かったことにする」というのは、ご都合主義でしかあるまい。その謝罪(形はどうあれ、その心)なくして許しも寛容も和解もあり得ず、互いの関係はその時々の利害・打算(有利か不利かの都合)によって支配され、安定的な信義・信頼関係も真の友情も築くことはできないことになる。
 非を犯した相手に謝罪(の心)がないかぎり、恨み・怒りの情念は消えず、厳しく追求して非を認めさせ、謝罪を求め続けなければならないわけである。
 それをせずに、相手の非をうやむや・曖昧にして済ます無原則な寛容・宥和のまずいところは、その甘さが自分に対してもそうなってしまうことだ。自分が犯した過ち・非道・(アジア・太平洋諸国民に対する)加害責任を厳しく反省することなく、あいまい・うやむやにして済ますという結果になってしまう。だったらお互い様だからいいではないか、といって済まされることでもない。互いに不問にして無反省で済んでしまえば、同じ過ちを再び繰り返すことになるからだ。
 現に、広島・長崎市民が原爆投下で悲惨な目にあっていながら、そのアメリカの核兵器(核の傘)で守ってもらうとか、日本がアメリカから守ってもらいたければ基地経費は100%日本に負担させるべきで、さもなければ撤退させるまでで、日本が独自に核武装するならそれでもかまわない(トランプ発言)、といったように双方ともに「ご都合主義」を通している。
 日本国憲法前文には「政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは・・・・・、他国と対等関係に立とうとする各国の責務である」とあるが、この憲法制定後、現在に至るまで、日米関係は今なお対等な「トモダチ」関係にあるとは言えず、アメリカ側には「上から目線」、日本側には卑屈な「下から目線」があることは、安保条約・日米地位協定など沖縄基地問題を見ても、それは否めまい。

 原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」という日本語の言葉には主語がないが、英文の説明板では“we shall not repeat the evil”となっていて、その”We”とは日本人とかアメリカ人とか特定の国民ではなく「人類」を指しているといわれる。それにしてもオバマ・スピーチの「死が空から降ってきた」という言い方は、文学的ではあっても他人事に聴こえる。それを言うなら主語を明確にしてアメリカ(時の大統領の命令で米軍機)が「降らせた」と言うべきなのだ。真珠湾(米軍太平洋艦隊の軍港)に奇襲攻撃(死者2,400人、大部分は軍人兵士、民間人は57人)をかけて戦争をしかけたのは日本軍だが、広島の無辜の市民(死者14~20万人)の頭上に原爆を投下したのは一機の米軍機(エノラゲイ)で、投下命令を与えたのはアメリカ大統領だったのだから。
 オバマ大統領が広島を訪れてスピーチしたその場には、(アメリカが現在保有する6,970発の)核兵器の核基地に発射命令を伝える通信装置(核のボタン)を持って大統領に同行し付き添う将校が控えていたのだ。その「核のボタン」はあと数か月もすればトランプかクリントンのどっちか次期大統領に引き継がれるわけだ。

 広島県被団協理事長の佐久間邦彦氏は次のような感想を述べている。
「オバマ大統領は・・・・核兵器廃絶の目標を、自分が生きているうちに実現できないかもしれないと言いました。これでは平均年齢が80歳を超す被爆者は核廃絶を見届けられません。・・・・核兵器廃絶は人道的観点からも究極的課題ではなく緊急の課題です。私たちが、今回の訪問で謝罪を求めなかったのは、核兵器廃絶に向けた具体的な道筋を示して欲しかったからです。その道筋が示されれば、私たちは納得できます。」と。
 大統領は原爆資料館で記帳して”Let us now find the courage,together,to spread peace and pursue a world without nuclear weapons"「共に平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」と書いて行ったが、それを書くなら”I must have the courage to realize a world without nuclear weapon in my lifetime"「私が生きている間に、核兵器のない世界を実現する勇気を持たなければ」と書くべきだったろう。
 


About 2016年05月

2016年05月にブログ「米沢長南の声なき声」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2016年04月です。

次のアーカイブは2016年06月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34