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2014年05月 アーカイブ

2014年05月01日

我が国の安全保障政策はどうあるべきか―力か信頼か(再加筆版)

(1)国家安全保障か国民の平和的生存権保障か
  「国を守る」とか「国防」とか「安全保障」とか言うが、国家の論理(「個別的自衛権も集団的自衛権も自衛権は自国の存立を全うするために国際法上認められている国家固有の権利」)に基づく「国家安全保障」と国民の論理に基づく「国民の平和的安全保障の保障」とがある。戦争では前者のために後者が犠牲にされることもある(指導部や部隊を守るため、市民・住民が犠牲にされるなど)。
  国民にとって大事なのは国民の平和的生存権(平和で安全な環境のなかで生存する権利)を保障することだろう。(「国の存立を全うするための自衛権」などといった国家本位の視点ではなく、国民一人ひとり、或いは諸国民の平和的生存権という視点。)(尚、2008年4月の名古屋高裁判決では平和的生存権は全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるとして次のように定義している。それは「戦争と軍備及び戦争準備によって破壊されたり侵害ないし抑制されることなく、恐怖と欠乏から免れて平和のうちに生存し、また、そのように平和な国と世界をつくり出していくことのできる核時代の自然権的本質を持つ基本的人権である」と。)
 国家の存立目的は国民が平和で安全に生活・生業を営めるようにすることにある。国家の在り様は国民の命運を決定的に左右する存在であり、国家(政府機関・警察・裁判所など)は国民にとって有用な手段としてなくてはならない存在ではあるが、国民がそのために(「お国のため」と)その平和的生存権や人権が犠牲を強いられるのでは本末転倒。国民にとっては国家はあくまで(国民の平和的生存権・人権を守るための)手段なのであって目的ではない。「国を守る」といっても、国民が国家を守る(国民に国家防衛義務がある)のではなく、国家のほうが国民を守らなければならないのであって、国家は国民(一人ひとり)の平和的生存権や人権を他国あるいは他の自国民の侵害から守るのと同時に、国家(政府)自らが国民の平和的生存権や人権を犯す結果となるような政策や措置を執ったりしてはならないのである。
 平和的生存権は自国民のもならず世界の諸国民に保障すべき最重要の人権であり、戦争は最大の人権侵害なのであって、国民は国家に戦争をさせてはならないのである。

(2)安全保障の2つの相異なるやり方
①イデオロギーや利害が対立する国に対して対抗力(軍事力)を強めること(軍備強化)による安全保障。
 領土問題など係争問題は軍事力を背景とする外交力によって自らに有利に解決。いざとなったら戦争で決着(それで決着がつけられるような生やさしい時代ではなくなっているのに)。
 軍備は他国からの攻撃抑止のためで、実際戦争するつもりにはしていないとは言っても、戦争を想定しての「抑止力」であり、戦争覚悟を前提にしている。戦争は命の大量犠牲・破壊を伴い、平和的生存権とは相容れないもの。
 軍備強化は他国(対立する相手国)による攻撃を抑止するための「抑止力」と称するが、他国・相手国も自国の軍備強化を「抑止力」と称して正当化→軍備競争となる。
 軍備は他国・相手国は敵対していずれ攻撃してくるかもしれないからという不信(それが信頼関係の妨げになること)を前提。軍備はいざという時には(相手が攻撃してきたら)使うことを前提(単なる「張子の虎」では済まない)のである。使えば(軍事衝突→戦争)大惨害にいたる。その覚悟(最悪の事態想定)が必要。
 なのにそれを、そんなことはあり得ないと高をくくり、強大な軍備があれば安全は保障されると信じ込むとすれば、それは「安全神話」。(圧倒的な軍備・軍事力を持つアメリカはベトナム・アフガン・イラクで失敗を重ね、戦争を泥沼化させ、かえって惨害を大きくしてきた。アフガン・イラクは未だに収拾がついておらず、帰還米兵の3分の1(60万人)はPTSD・心的外傷後ストレス障害で一日平均22人が自殺。イラクの「非戦闘地域」に派遣された日本の自衛隊員も帰還後1~3割が精神不調、28人が自殺。)
 北朝鮮などに対しては自衛隊・日米同盟・集団的自衛権行使容認など軍備を強化しておけば、北朝鮮は手も足も出ず、暴発しても反撃・撃破できるし、あっさり片が付き、国民の平和的生存権は回復・保持できる、などといっても、はたしてそんなに簡単に?

②どの国も敵視せず、敵にまわさず、敵をつくらず信頼関係を築き、ルールを守り、対話・友好協力・交流によって安全保障。
(係争問題は外交交渉によってウイン・ウインで解決)
 攻撃抑止(予防)の最善の方法は軍備を持たないこと(軍備を持つから攻撃されるのであって、軍備を持たなければ攻撃されない)。軍備を持たなければ、隣国に安心感を与え信頼関係を築ける。
 「他国から侵略されて現実に国民の生命や財産が脅かされているときも何もしないのか?」といえば、それは国家のあらゆる手段・あらゆる方法・あらゆる機関(領海・領空警備警察力など)を動員し、国際機関、諸国の支援協力を得て阻止することに努めるのは当然のことであるが、戦争だけはしないということなのである。

 ①と②とでどっちがユートピア的(非現実的)か?どっちが「平和ボケ」(戦争の実態・悲惨さを知らない)か?どっちが戦争が起こる心配がなく平和・安全でいられるか?だ。

(3)安倍政権の安全保障のやり方
 どちらかといえば①で軍事偏重(「積極的平和主義」とは言葉のレトリックで、実質は米軍を補完する自衛隊の軍事力を背景とするアジア・太平洋、インド洋・中東・アフリカその他諸地域への積極的な関与政策)
  軍事依存―自衛隊・日米同盟の強化を背景に中国・北朝鮮に対抗、その他の諸国とは連携強化して「中国・北朝鮮包囲網」を策す。
         軍備は世界第5位 
  中国・北朝鮮に対して(韓国に対しても)信頼関係を築くことには消極的(不熱心―不信をかう原因を除去しようとはせず、それを相手のせいにする)。
    対話を(「扉はいつでも開いている」などと)呼びかけはしても、相手は不信感をもち、それに応じない。その不信感を招いている原因(尖閣の領有権問題は先方が日本側の実効支配を認めつつも「棚上げ」としてきたものを日本政府が一方的に国有化し「日中間に領土問題は存在しない」と言って交渉を突っぱねていることや、先方が靖国神社は中国・アジア各地をじゅうりんした侵略戦争を正当化し、戦争指導者「A級戦犯」を合祀しているところなのに、そこへ首相や閣僚が参拝していること等の不信の原因)を除去しようとはせずに、むしろ対立を助長(アメリカ大統領からたしなめられている)。
 安倍政権が今おし進めている軍事強化(自衛隊と日米同盟の強化、集団的自衛権の行使容認など)は国民の平和的生存権を守るというよりは、むしろ危うくするもの。

(4)我が国はどの安全保障のやり方をとるべきか
 憲法―日本国民は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意し」、国に戦力を持たせず、交戦権を認めず、戦争をさせないことを定めている―我が国の安全保障はこれに基づく。(安倍首相は「平和を愛する諸国民」には北朝鮮も入っている。そんなバカな話はない」、他国民の信義に期待するような憲法では国民の生存や安全は守れず、拉致事件を招いたと言っているが、戦前・戦後の歴史的経緯を振り返れば、日本の植民地支配、強制連行・従軍慰安婦などがあり、それらの清算は日本は未だにつけておらず、相手側から見れば日本の側にも信義が疑われるところを残しており、北朝鮮国民の信義など期待するほうがバカだと一方的に決めつけられるものでもあるまい。海上保安庁・警察・自衛隊それに米軍基地まで置いていて、それでも拉致を防げなかったのを、自民党案の憲法なら防げたというのだろうか。)
 要するに諸国民に対する信義と信頼に基づく政府間・市民間の外交・交流よる安全保障。

 そこで最も必要なのことは― 諸国民・隣国民に対して尊敬(相手の立場を尊重)・理解(相手の立場・心をよく知ること)、過去に行ったことに対して謙虚に反省(自分の非は率直に認める)―それらが信頼を得るには不可欠。
 慎まなければならないこと
     ①自慢・自尊(うぬぼれ)、自分を誇示すること、自己弁護(自分の非を認めず正当化―自分の非を真摯に取り上げ、率直に自己批判すると「自虐だ」と非難する)―「日本はいいこともした」「(植民地支配で)その国の発展の土台をつくった」「向こうにも責任がある」などと
     ②独善―靖国参拝をして「国の為に命を捧げた英霊に哀悼の誠を捧げるのは当然のことだ」としか言わない―問題はそこ(自国の戦争を正当化し、それに命を捧げた軍人をA級戦犯たちをも合わせて祀っている神社)がそれに(公正な追悼施設として)相応しいところなのかが問題なのであり、本音では「あの戦争は正当な戦争であり、戦犯たちも誰も悪くはないのだ」と思っているからこそ参拝したのだということを言い逃れている。
     ③卑屈―こびへつらい(調子よく合わせたり、おもねる)
   これらは相手の神経を逆なで、不信をかう元になる
      自尊・自己愛・愛国・プライド、その裏返しの屈辱感はどの国民にもある自然の情で、相手も同じ。互いにそれにこだわり、自己主張すればぶつかるし、相手の感情を無視した一方的な強弁は反感を招く。特に加害側が被害側に対して強弁すればことさら反感を招く。傷の痛み加害側は忘れていがちだが、被害側は忘れないのだから。それだけに加害側は慎まなければならない。

  歴史問題:韓国併合・慰安婦・創氏改名・強制連行・伊藤博文と安重根
       日清・日露戦争・対華21ヵ条要求・五四運動・柳条湖事件・盧溝橋事件
       南京虐殺・三光作戦
       教育勅語・靖国神社・治安維持法・

      これらに対する認識・・・・歴史教育のあり方が問題

(5)信頼関係を築くには
 歴史認識・価値観の共有を追求し、共通利益(ウイン・ウイン)を追求すること。
 (元駐韓大使の小倉和夫氏の提言に「日中・日韓関係どう打開―自国の歴史見つめる勇気―人権じゅうりんの教訓導いてこそ、価値観共有できる」と。)
 日中・日韓の間で(日米の間でも)近現代史(戦前・戦中)の歴史認識・政治的価値観は一致点共有を追求すべきか、それとも相違点で対決・いがみ合いを続けるか。
 同じ日本人でも、戦前・戦中の世代と戦後世代・若者で歴史認識・価値観にギャップがあるが、一致点共有(ギャップを埋めること)を追求すべきか、それとも人それぞれ立場によって認識の相違があり、世代間ギャップがあるのはやむなしか。
 ①日本による侵略と植民地支配について(それぞれの国民・世代・若者はその実態をどれだけ知っているか)
 ②日本国内に暗黒時代があって、治安維持法などによって自由・人権・反体制運動の激しい弾圧があったことについて(それぞれの国民・世代・若者はその実態をどれだけ死っているか)
 その実態をよく知ること(歴史から謙虚に学ぶ)―知れば(学べば)歴史問題の共通理解はできるはずであり、それぞれの反省・教訓の上に立って、自由・人権・民主主義・平和主義・反軍国主義など価値観の共有も不可能ではないはず。追求すべきは相互理解、歴史認識と価値観の共有、共通利益であって、そうしてこそ信頼関係が築けるというもの。
 安全保障はその信頼関係構築によって成立するのであって、中国・北朝鮮などとの価値観の相違を強調し、それらの国以外の「価値観を共有する国どうし」で仲間をなして経済的・軍事的に対抗(「対中包囲」)するというやりかたではとても危く、けっして安全保障にはなるまい。
                                                        

5月のつぶやき

5月のつぶやき                                       6230
●田んぼ道、道端で作業中の農夫に当方の唄が聴こえそうな距離に近づいたところで唄を中断、脇を通り過ぎるとき顔があうと「ごくろうさまっす」とあいさつ。しばらく黙って歩き、歌が聴こえなくなる距離まで来たところで、また続きを唄い出す。♪空にまた 日が昇るとき 若者はまた 歩き始める♪
●田植えもたけなわ。こちらは田んぼ道をただひたすら♪・・・・歌を歌い 自ら慰める・・・・♪(仕事の歌)♪日本国民は恒久の平和を念願し・・・・・♪(憲法前文の歌)
●今日は街を歩いて叫んできた。さよなら原発!何よりも人格権!命を守れ!
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 どうも盛り上がり・迫力が今一(音量も弱く大人しく、ヤンキーな若者や「怒鳴るオヤジ」がいないんだな)で、田んぼ道を一人歌い歩く時のような声が思いっきり出せないのがフラストレーション。シュプレヒコール。ハンドマイクをもつ婦人。その子どもらしき小学生の兄弟がかわって掛け声「こどもを守れ!未来を守れ!」これには励まされたが・・・・
●水を張った田んぼにはトラクターがゆっくり動いている(「しろかき」)。こちらは田んぼ道を、一生懸命?歌いながら散歩。♪吾妻山麓を滔々と 流るる最上が潤すところ つわものども相生たち 今ぞここに・・・・♪♪頑なまでの一筋の道 愚か者だと笑いますか もう少し時が緩やかであったなら~愛しき日々のはかなさは・・・・♪
 トラクターの響きしか運転者には聴こえてない。こちらはのびのび唄えている。♪目を閉じて何も見えず 悲しくて目を開ければ 荒野に向かう道より 他に見えるものは無し ああ~・・・・♪
●首相いわく「まさに、紛争国から逃れようとしている、お父さんやお母さんやお爺さんやお婆さん、子どもたちかもしれない。彼らが乗っている米国の船を今、・・・・私たちは、自衛隊という能力を持った諸君がいても守ることができない。」それでもいいんですか、と。
 人情話しで危機感を煽るが、応戦中の米艦が日本人を搬送してくれたりすものだろうか、それに前兆があってドンパチが始まるまで呑気に居残っているいる女・子供・老人など民間人がいるわけがないなど現実性の乏しい話し。
 これに対して山下共産党書記局長いわく「若い皆さん、海外の戦場で血を流しますか」「女性の皆さん、息子や夫や恋人を海外の戦場に送り、血を流させますか」と。むしろこのことの方が問題なのではないか。
 この先、ほんとうに朝鮮半島で有事(朝鮮戦争再開)ということにでもなれば、日本に米軍基地を置いている以上日本は戦争当事国になり、日本全体が巻き込まれることになるので、在韓日本人救出の話だけでは済まないわけだ。
 いずれにしても、そのような事態に至らないように、どの国も(北朝鮮はもとより、韓国もアメリカも日本も)自制しなければならないのであって、朝鮮戦争再開などということになったら、それこそお終い。今度はノドンやムスダン(ミサイル)が日本に飛んで来る。それをパトリオット(PAC3)で迎撃してもすべて撃ち落とせるか。東京が「火の海」なんてあり得ないという保証はあるのか?
 首相は「国民の命を守る」と何度も言いい、有事(武力攻撃事態や戦争)に備えなければと人情話でうったえ、だから集団的自衛権の行使も容認しなきゃならないんだと軍事にやっきだが、肝心なことはそっちのけ。肝心なこととは「有事」を予防(攻撃事態や戦争が起きないように)する、その努力(対話・交流・信頼醸成・平和的手段―外交的・経済的・文化的手段―による問題解決努力)だ。
 軍事的抑止力なんていうのは刀(軍事力)を振りかざして「寄らば切るぞ」と相手の攻撃を抑止しようとするものだが、「やるならやってみろ、負けはしないぞ」とばかり対抗心・闘争心を駆りたて、かえって戦争を呼び込む危険をともなうもの。
 「国民の命を守る」「断固として守る」・・・・「中国よ、北朝鮮よ、やるならやってみろ、いつでも受けて立つから」・・・・いいね いいね アベソーリ・・・・・というわけか。しかし、それで守られるのはアベノコッカと、アベノソフ(岸信介・東条内閣の閣僚だった人物)が築いた自民党の政権と名誉、そしてそのために戦争に駆り立てられて血を流し犠牲にされるのは? 
●3Dプリンターでピストルを自作した若い大学職員が逮捕されて、いわく「銃は体力的に弱い者の自衛のための武器で、身を守る権利として認めるべきだ」と。北朝鮮が核ミサイル開発を正当化するのと同じ理屈だ。その北朝鮮や中国の脅威から我が身を守るためにアメリカとの集団的自衛権の行使も認めるべきと言ってやっきとなっているこの国の首相とそのオトモダチ有識者(法制懇)も似たようなもんだろう。
●メーデー。いつもの田んぼではなく、街中を歩いてきた。
 集会に革新懇の関わりで行ってみた。すると在職中の職場から現役の後輩同僚と当方が退職後に入った若手が来ていて、デモでは並んで歩き、馴染みの同僚たちの様子などずうっと話し込み、シュプレヒコールもそっちのけで邪魔になったかな・・・・・いや、一緒に歩いて応援・加勢したつもり。頑張れ諸君!
●女房の叔父・叔母さんから娘がご祝儀の贈り物に書をいただいた。「生きることは一筋がよし寒椿」。女房がネットで調べたら、五所平之助(往年の映画監督)の句だそうな。
田んぼ道散歩。「愛しき日々」♪かたくなまでの一筋の道、愚か者だと笑いますか もう少し時がゆるやかであったなら♪「およげ鯛焼きくん」(娘が子どもの頃流行った歌)♪毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれていやになっちゃうよ・・・♪少々自虐的だが、歌詞はまだ忘れていないな。
桜はだいぶ散った。木下恵介の映画「惜春鳥」♪流れる雲・・・山 山 山よ ああ青春の花が散る どこかで鳥が鳴いている♪ 

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2014年05月05日

国民の平和的生存権を守るのが安全保障

 「国を守る」とういうが、我々国民にとって肝心なことは、国民が平和で安全な環境で生きられる権利いわゆる平和的生存権を守ること。それを軍備で守る、軍備は抑止力といっても、それは周辺国の軍備強化を招き、軍事衝突や攻撃・戦争を招きやすく、かえって危険であり、軍備などむしろ持たない方が戦争を抑止でき平和・安全が保てるというもの。国家は国民の平和的生存権を守らなければならないのであって、それが軍備によってかえって損なわれ台無しになってしまう結果を招いてはならず、むしろ軍備強化はやめ、諸国と信頼関係を構築して非軍事で諸国民とともに平和的生存権を守り合うことに努めるほうが賢明だろう。
 安倍政権は解釈改憲もしくは明文改憲して軍備(自衛隊の国防軍化・日米同盟の深化、集団的自衛権の行使容認など)によって自国を守るだけでなく、積極的平和主義と称して海外諸地域への軍事的関与に意を注いでいるが、我々国民は、政府をして憲法通りに非軍備で他国との信頼関係構築によって自国民のみならず諸国民の平和的生存権を守り合うように9条の精神を諸国に流布しつつ非軍事的関与に意を注ぐべきであろう。
 我々国民は、「国を守るんだ」と言って政府の軍備強化・改憲を支持するよりも、それを阻止し、政府に対して自国民と共に諸国民の平和的生存権を守れと叫ばなくてはならないのだ。「我らは全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。

2014年05月07日

現行憲法と自民党などの憲法観の違い

3種の憲法観
①立憲主義的憲法観―国民が人権を守るために国家(権力)に縛りをかけるのが憲法(「個人あっての国家」という国家観)。
②国家主義的憲法観―国の基本的なあり方を国民に示し、国家の為に国民が守るべきルールを定めた基本法が憲法(「国家あっての個人」という国家観で、国家が国民に縛りをかける憲法観)。
③国家と国民の協働型の憲法観―国の基本的なあり方・目標を示し、国家と国民それぞれに責務を課し、それぞれが守るべきルールを定めた基本法が憲法。「国家と国民が対立するのではなく、和を尊び、家族や社会が互いに助け合い、一緒になって国家を形成する」などと綺麗ごとを言うが、国家中心の視点で、国民は国家に対して責任と義務を負い、社会の安寧秩序を保持し、積極的に社会の福利に寄与すべき義務を負うという考え方であることには②と変わりない。
 国民の間には利害対立や考え方の違いがあるのは厳然たる事実であり、何かにつけ多数派と少数派とに分かれ、多数派権力から少数派が忍従を強いられのが現実である。このような権力から平和的生存権を守り、人権の侵害を防がなければならないのだ。


 ① は欧米の近代憲法観で、現行の日本国憲法もこの憲法観に立っている。
それに対して、改憲をめざしている自民党が打ち出している憲法観は③の憲法観―例えば同党の改憲草案9条の3「国は主権と独立を守るため、国民と協力して、領土・領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。」とか、同12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利・・・・。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」(当方は在職中、生徒によく「お目らな!自由には責任、権利には義務がともなうもんなんだぞ!」と言って説教したものだが、それは上から目線で教え諭す言い方で、そんなことは大人になれば言われなくても分かり切った話だが、憲法は教師が生徒に垂れる説教書とは事が違うだろう。「国民は…常に公益及び公の秩序に反してはならない」ということは、国益や公共の目的のために人権を制限することが認められるということであり、それは政府の政策決定や国家の安全、治安維持の価値が個人の人権に優先されるという考え方なのだ。)それから現行憲法(99条)では「天皇又は・・・及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」と定めているが、自民党の改憲案では(102条で)「全ての国民は、この憲法を尊重しなければならない。2、国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。」として、憲法尊重擁護義務規定から天皇をはずしておいて、現行憲法には無かった国民の憲法尊重義務を加えている。
 
 憲法学者の辻村みよ子氏の見解では「憲法を作って、国家を縛るものが立憲主義であり、憲法は、国民がたえず国家を縛るために、ライオン(公権力)を制御するためにつくりあげた檻である。それなのに、檻の中にライオンと一緒に国民が入ってどうしようというのか。・・・・結局は檻の中で国民が震えている」と。

 どの憲法観がいいのか。為政者にとって都合のいいのは③の自民党流憲法観だろうが、国民にとってはどうなのだろうか。

 <参考―辻村みよ子「比較のなかの改憲論」岩波新書>

2014年05月11日

戦争することを容認する改憲論

 先の(朝日新聞)投稿『万一に有事に備えて改憲を』に、「米国は日本を守るのに、日本は米国が攻撃されているのを指をくわえて見ているだけ」というわけにはいかない。朝鮮半島で有事があった場合、在留邦人が米軍機で脱出する際は「自衛隊機が米軍機を護衛したほうがよい」。「集団的自衛権の行使を容認することが、そのまま日本が戦争することを意味しているわけではない。」「PKOをはじめとする国際貢献を積極的に行うためにも改憲したほうがよい」などとあった。
 しかし、これらの言い分はどうも綺麗ごとで、実際、海外有事で、自衛隊がそのような対応をとり応戦すれば、それは相手側から見れば宣戦布告か参戦と見なされて、日本が直接的な攻撃対象にされ、日本が戦争の当事者となってしまう。そうなると、現地の在留邦人や自衛隊員が他国の戦争に巻き込まれるだけでは済まなくなり、国民全体が戦争に巻き込まれることにもなるわけである。
 安保法制懇の有識者も様々なケースを想定して自衛隊の対応(出動・実力行使)を認めようとしているが、それならば、そこから戦争という最悪の事態に立ち至るところまで想定し国民にその覚悟を問わなければならないのに、その肝心なところをはずして国民に「万一の有事に備えようとしているだけで、戦争するわけではないのだな」と安易な気持ちにさせているのだ。

2014年05月13日

若者に届ける言葉は「非暴力」

 先に掲載された新聞投稿「『戦う』という若者に届く言葉は」について。「生き残りに必要な軍事力を持てないのは理不尽」というが、それは各人が生存権を守るために銃を持てないのは不当だと言っているようなもので、その方が理不尽なのではないか。各人に必要なのは単なる生存権ではなく平和的生存権(平和・安全に生きられる権利)であり、それを国は保障し、国民の命が危険にさらされる恐怖の除去に努めなければならないのだ。攻撃を誘発することなく攻撃を受けなくする最善の方法はむしろ軍備を持たずに反撃意志を持たないことを示すことだろう。
 「戦うという若者に暴力にかわる方法をうまく説明できない」というが、暴力に対して暴力で対抗するというのは戦国時代の論理であり、今はアフガニスタンやシリアでやっているようなもので、暴力・武力行使こそ悲惨な結果を招く最悪の方法なのだということを若者に知らしめなければならないのだ。若者に届ける言葉は「非暴力」以外になく、利害対立・紛争は交渉・話し合い・譲り合いによって解決するしかないのだということ。
 韓国船の沈没事故に際する「危機管理の無さは具体策無しに戦争に反対するリベラル層に重なる」という。船の沈没事故なら、それが起きたらどう対処し、被害を最小限に抑えるには予めどういう措置を講じておけばよいのか危機管理策は必要でありで可能でもある。しかし、戦争の場合は、それらとは全く異なる。なぜなら、沈没事故なら被害は乗船者らに限られるが、戦争は、「戦う若者」や現場の限られた人たちだけでは済まない、子供も老人も数多の人々に被害・惨害が及ぶことになるからである。だから、それは絶対起こしてはならず、招来するようなことがあってはならないものなのであって、危機管理より危機回避のほうが問題なのである。軍事衝突・武力攻撃事態など招かないように自衛隊の出動や実力行使など軍事組織・軍事力を用いることのないようにしなければならないのであって、軍備は、強化・活用するのではなく、用いないように管理することであり、むしろ持たないほうがよいのである。
 そこのところを考えての9条なのであり、それこそが現実的な最善の方法なのであって、改憲して若者を存分に戦えるようにすれば国も守れて国際貢献もできるなどと考える方がきれいごとだろう。

2014年05月16日

集団的自衛権―法制懇の報告書と首相会見(加筆修正版)

(Ⅰ)法制懇の報告書
(1)憲法解釈の変更の必要性(理由)
  ①「我が国を取り巻く安全保障環境が(技術の進歩や国境を超える脅威の拡大、国家間のパワーバランスの変化等によって)より一層厳しさを増している」から
  ②国際社会全体による対応が必要な事例の増大により、我が国が幅広い分野で一層の役割を担うことが必要となっているから。
 問題は主として①の「我が国を取り巻く安全保障環境」が「脅威の拡大」で「一層厳しさを増している」からだ、ということだろう。
 その「脅威」とは中国と北朝鮮を指している。これらの国から攻撃を受けるかもしれず、戦争になるかもしれない、という危機感?(或いは庶民のそれを政治的野望に利用しようとして脅威・危機感を煽るなどの思惑?)をもっているということ。
 問題は、その戦争の危機は回避できないのか、戦争になったらその結果はどうなるのか、である。法制懇には(安倍首相にも)(どうやら「戦争も辞さず」ということで)必ずしも回避しなくてもよいという意識があるのでは。(靖国参拝などをわざわざ控えてまでケンカを避けなくてもかまわない。尖閣問題は交渉の余地はなく問答無用とばかり突っぱねておいて、「対話の扉はいつでも開いている」としかいわず、むこうが折れてくるのを待っているだけ。)
 戦争になったらなったでしかたがない。勝てればいいのだと―楽観主義、安易感―勝っても負けても戦争になったらお終いだという危機感よりも、愛国心(自己愛)とともに中国・北朝鮮に対する対抗心(反中・反朝ナショナリズム)・憎しみ・執念のほうが強烈なのか。
 問題は、戦争がもたらす取り返しのつかない結果―負けても勝っても、自国にも相手国にも計り知れない人命・資源・財産を犠牲・無駄にし、人々の心に癒しがたい傷・恨みが残るということ。だからこそ、戦争だけは絶対避けなければ、ということになるのだが、そこまで考え抜かれてはいないきらいがあるということ。    

(2)法制懇の報告書の結論は―要約すれば
 ①個別的であると集団的であるとを問わず自衛のための武力行使はできる。
 ②国連の集団安全保障措置や多国籍軍への参加もできる。
 ③PKOにおける駆けつけ警護・妨害排除に際する武器使用は自分の身を守る正当防衛だけに限らず認められる(武力行使には当たらない)。
 これらにはいずれも「憲法上の制約はない」のだと。
 それらのための必要最小限の実力は「戦力」には当たらず、それらのための交戦権(武力行使)も認められる(9条2項で禁止する交戦権とは「別の観念のもの」だと)。

 要するに、あからさまな侵略戦争(そもそも、そのようにして武力行使を始める国などあり得ない戦争)や「我が国が当事国である国際紛争を解決する手段としての武力行使」以外なら武力行使も戦争もどんなケースでも(アメリカやかつての日本が「自衛戦争」と称して始めたような戦争も)認められる、という解釈になる。
 ただし、集団的自衛権については、「我が国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態が我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき」(に限定して)(必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加することができる)という、そのような場合に該当するかについては、「日米同盟の信頼に著しく傷がつく」など我が国への深刻な影響が及びうるかなど諸点を勘案しつつ政府が判断する、ということは必要最小限とはいっても集団的自衛権の行使(自衛隊はどこへでも出かけて行って参戦・武力行使)は政府の判断しだいでできるということ(事前または事後に国会の承認を得る必要はあるものの)。それにアメリカからの要請には断れないし、やるしかないことになる。
 このような憲法解釈は事実上9条(「戦争放棄」条項)を骨抜き・有名無実にし、戦争と武力に対する歯止めを取り去ってしまうもの。

 こうして、あらゆる事態(ケース)に自衛隊を活用し、軍事対応・武力行使ができるようにする、ということだろう。

 それを「国民の命を守るため」だというが、自衛隊が出動して、武力を行使して戦争になったら、さらに命は失われる(全面戦争にでもなったら、それこそ大量の命が失われる)ことになるという矛盾がつきまとうのだ。

(3)様々なケースを想定し、戦争までも想定しているとも言えるだろう。どうやったら勝てるか(有利に戦えるか)(そのための装備・作戦・民間の動員・協力・避難対策)まで想定している。
 ところが、そこから先、勝っても負けても、戦争によって両国民にもたらされる結果―人的・物的・精神的被害(帰らない数多の命、消えることのない心の傷など)はどれ程のものか―まで想定しているとはどうも思えない。問題はそこにある。

(4)報告書は「憲法9条1項が我が国の武力による威嚇または武力の行使を例外なく禁止していると解釈するのは、不戦条約や国連憲章等の国際法の歴史的発展及び憲法制定の経過から見ても、適切ではない。同項の規定は、我が国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇・武力行使を行うことを禁止したものと解すべきであり、自衛のための武力の行使は禁じておらず」と。
 「不戦条約や国連憲章等の国際法の歴史的発展及び憲法制定の経過から見ても、適切ではない」というが、それは逆なのであって、同条約が締結以後は日本にしてもどの国も武力の行使はいずれも「自存自衛」の名の下に行われたのであって、この憲法制定当初、時の首相吉田は「近年の戦争はおおく自衛の名において戦われた」として自衛権の発動としての戦争を否定していた(その後、憲法解釈の変更によって自衛隊は合憲とされるようになったが)この間の戦争の歴史的事実は吉田の言うとおりであり、彼の当初の憲法解釈は正論であった。
 それにアメリカ等のベトナム戦争・アフガン戦争・イラク戦争、ソ連のハンガリーへの軍事介入・チェコ侵攻・アフガン侵攻はいずれも軍事同盟を結んだ相手国側からの「要請」による国連憲章で認められた「集団的自衛権」の行使として行われたのであるが、それらはいずれもよい結果はもたらさず失敗に終わっている。
 アメリカのベトナム戦争、ソ連のアフガン侵攻などは、それぞれ親米政権・親ソ政権(事実上の傀儡政権)から要請があったからという形をとり、ベトナム戦争の場合は当時結成されていたSEATO(東南アジア条約機構)の加盟国(韓国・タイ・フィリピン・オーストラリア・ニュージーランド)も参戦させて長期にわたって戦争のあげく空しく撤退している。
 我が国はこの憲法規定の「武力の行使」の例外なき禁止解釈で自衛隊はこれらのいずれにも参戦せず武力行使はしてこなかった。このほうが幸いだったのである。法制懇の報告書は「個別的自衛権だけで国民の生存を守り国家の存立を全うすることができるのか、という点についての論証はなされてこなかった」という。自衛隊のインド洋やイラク派遣は(非戦闘地域・後方支援に限定して行われたが)はたして正当なものだったのか未だ検証がおこなわれていないのは確かだが、上にあげた集団的自衛権の名の下に行われた戦争に自衛隊が戦闘参加しなかったことによって国民の生存も国家の存立も危うくなることなどなかったのも確かなのである。

(5)禁止しているのは国際紛争でも「我が国が当事国である国際紛争」だというのであれば、条文にそう書いておくべきでなのであって、そう書かれていないということは、そんな限定などないというこだろう。
 それに、このような解釈だと、南シナ海での紛争なら我が国は当事国でないから、そこでは(ベトナムやフィリピンから要請でもあれば)武力行使できるということになるのか。

(6)法制懇報告書は国家の存立・安全確保(「侵略されず独立を維持しているという前提条件―外からの攻撃や脅迫を排除する自衛力の保持と行使」)があってこそ国民の生命・財産・平和・安全は守られるというが、軍備・軍事力によって国民の平和・安全が守られというのはむしろきれいごとであり、軍備は、それに対抗する相手側の軍備増強と不信を招き、敵意・攻撃心をかりたて、かえって国民を恐怖にさらし、平和的生存権を危うくするし、戦争になれば、勝っても負けても国民は犠牲を被る。それ故に、国民は国に交戦権も戦力(軍備)も持たせないようにして戦争をさせず、他国と敵対し争うことなく平和友好関係をはかるようにさせることによって平和的生存権を確保する、それこそが現行憲法がめざしているところのものだろう。

(7)法制懇報告書に欠落しているのは肝心の(現行憲法前文にある)「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」という先の大戦に対する反省と決意である。報告書は大戦で自国民(兵士250万人、民間人50万人)、アジア諸国民(2,000万人)ともに未曾有の犠牲と悲惨をもたらした世界にもまれにみる民族的歴史的体験の重さに相応しい決意を踏まえたものとはどうも思われない。
 それに「全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」へのこだわりよりも、そこにあるのは自国の国家の安全と「信頼できる国家との関係を強固にし、連携し、抑止力を高めること」そして信頼できない国家に対抗する、という冷戦思考である。
(8)「限定された集団的自衛権とはいっても、そこで「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性がある」事態が発生したと政府が判断すれば、「地球の裏側でも」どこへでも自衛隊を派遣し、米軍などと肩を並べて集団的自衛権の名のもとに武力を行使できるようにして、国際社会において名誉ある地位を占めようというのが、彼らの言う「積極的平和主義」なのであって、それは現行憲法の平和主義とは全く異質なものである。
(9)集団的自衛権は「固有の権利」などではない―個別的自衛権は個人の正当防衛権と同様に自然権で「固有の権利」といえるが―第一次大戦後、戦争違法化の流れの中で、自衛権の考えが生まれたが、それは自国が攻撃を受けた場合にのみ実力で阻止・排除する「個別的自衛権」を意味するというのが国際法上の常識だった。1944年、国連創設にさいするダンバートン・オークス会議における国連憲章原案にも「集団的自衛権」などという文言はなかった。
 ところが45年3月アメリカ主導で開かれた米州諸国会議で軍事同盟(米州機構)を合理化するため、加盟国のいずれか一国に対する攻撃を全加盟国への攻撃とみなすという決議(チャプルテペック決議)がなされ、それを同年6月に採択された国連憲章成案にアメリカが盛り込むことを提案、ソ連が同意して憲章51条に個別的自衛権とともに「集団的自衛権」なるものも「固有の権利」として記されることになった。というわけで、「集団的自衛権」とは「後付け」された概念にすぎないのだ。

(Ⅱ)この法制懇の報告書を受けた安倍首相の記者会見
(1)政府の「基本的方向性」
 首相は集団的自衛権は容認しても必要最小限という限定を加え、国連の集団安全保障・多国籍軍への参加は控える。つまり湾岸戦争やイラク戦争のような戦争にはいかないと。しかし石破幹事長は「現内閣はやらない」が次の政権も「未来永劫に」それを控えるとは限らず、「日本だけが参加しないというのは、やがて国民の意識が変わるときに、また変わるかもしれない」と。
 
(2)いわく「国民の命を守る」。朝鮮半島有事に際して日本の避難民を運ぶ米国艦船「船には子供たち、お母さん、多くの日本人が乗っている」それを自衛隊が守れるようにしなければならないのだと。(折からベトナムでの反中暴動で慌てふためきながら帰国する中国人企業関係者。日本企業も間違われて襲われたという。このような時に中国軍が救出に駆けつけたりするのだろうか。そして自衛隊まで。そんなことをしたら再び中越戦争になる。今、海でぶつかり合っているのは海上警察。そこに軍が介入すれば戦争になるわけだ。)
 (かつて台湾出兵・義和団事件・シベリア出兵・済南事件・第一次上海事変など日本軍が出兵したきっかけは、この種の邦人保護・救出だった。それらはいずれも侵略戦争につながっている。)
 そもそも北朝鮮が本格的に攻めてくるといっても、ある日突然、不意に一斉攻撃をかけてくるなんてあり得ず、必ず近々攻撃があるかもしれないという前ぶれがあるものであり、その状況は予めつかめるので、攻撃が始まる前に民間機で引き揚げて来られるのである。
 (湾岸戦争の時は、日本の市民団体が民間機を手配して約3,000人移送した。イラン・イラク戦争中に、テヘランに取り残された日本人200人超がトルコ政府が手配した航空機で脱出した、といったことはあったが、米軍に救出されたという例はそもそもないのだ。)
 この先、ほんとうに朝鮮半島で有事(朝鮮戦争再開)ということにでもなれば米軍は自国民を優先し(優先順位は①米国人②米国永住移民③英国人などアングロサクソン人④その他)、日本人は(その他の部類で)後回しされるので、米軍機や米艦を当てにすることはできないし、日本人自身が民間機あるいは自衛隊機で脱出・救出するしかあるまい。しかし、この場合、日本に米軍基地を置いている以上日本は戦争当事国になり、日本全体が巻き込まれることになるので、在韓日本人救出の話だけでは済まないわけだ。

 「駆けつけ警護」―PKOなどで海外に派遣された自衛隊が、宿営地や自己の管理下にある(自分たちが担当する)区域から離れたところで活動している国連職員やNGOなどの民間人(或いは他国軍人)が武装集団から襲われという時に見殺しにはできない、駆けつけて行って助けられるようにしなければならないのだと。
 これまた、きれいごと。そうだ、そうだ、といって賛成するのは現場の自衛官がいるとすれば、「ヒゲの隊長」のような指揮官で隊員に「行け!射て!」と言って命令する立場の幹部クラスが主なのであって、現場に立たされ射ち合って命のやり取りをするのは一般隊員なのだ。
 それに、そんなことをやれば、それがその国その地域の紛争に軍事介入し、一方の勢力に加担する結果になり、他方からは攻撃対象にされ紛争当事国になってしまい、現地の自衛隊だけでなく、日本国民全体が敵と見なさる結果になる、というところまで考えなければなるまい。
 そもそもNGOのボランティアで人道支援に携わっている方々は中立の立場、とりわけ日本人は9条のおかげで平和的イメージで歓迎されているのに、武装部隊を警護につけたりすれば敵視され、かえって危ない、と当事者(アフガニスタンで医療や灌漑用水路建設にあたっているペシャワール会の中村哲氏や日本国際ボランティアセンター代表理事の谷川博史氏ら)は言っている。
 

 さまざまな有り得べきケースを想定して論じているが、そこまで想定するなら、その先の最悪の事態(戦争)まで想定し、その覚悟のうえで論じて決定すべきだろう。原発を再稼働させるなら再び、否もっとひどい過酷事故が起きるかもしれない、そこまで覚悟したうえで決定すべきなのと同じだ。安全神話にはもう懲りなくては。
(3)集団的自衛権の行使容認は限定されたものだとは言っても、「蟻の一穴」で小さな穴でも一度あけてしまえばやがてそれだけでは済まなくなるのだ。
 「国の安全に重大な影響を及ぼす可能性がある」と判断される時しか自衛隊は出さない、といっても、そのようなあいまいな判断基準で、しかも判断するのは政府だから、その時々の政権次第でいかようにでも判断(国会の承認を要するとしても、与党その他賛成派が過半数であればなんなく承認される)。
(4)「抑止力」(攻撃抑止、攻撃を思いとどまらせる方法)には次の二つのやり方があろう。
  ①軍事的抑止力(防衛力)―軍備・軍事(日米同盟、集団的自衛権の行使容認などの法整備も含む)を強化して他国・対立相手国が手を出せなくする、というもの。
 首相いわく「日本は再び戦争する国になるといった誤解があるが、そんなことは断じてありえない。むしろ戦争を回避する抑止力につながる」と。しかし、はたしてそうだろうか
 この軍事的抑止力が高まれば「紛争が回避され、我が国が戦争に巻き込まれなくなる」と言い、「戦争をするためのものではなく抑止するためのものだ」とは言うが、それはあくまで武力行使を前提としていて「いざとなったらやるぞ」という覚悟(即ち戦争の覚悟)を前提としたものだ。
 軍事的抑止力は刀(軍事力)を振りかざして「寄らば切るぞ」と相手の攻撃を抑止しようとするものだが、「やるならやってみろ、負けはしないぞ」とばかり対抗心を駆りたて、かえって戦争を呼び込む危険をともなう。
 そのような軍事的抑止力の強化(自衛隊の装備・日米同盟の深化―集団的自衛権の行使容認も)は他国・近隣国・対立相手国の警戒感・脅威感・対抗心・敵対心を駆り立て軍備増強・軍拡競争を招き、軍事的緊張をつのらせ偶発的衝突の危険を招く。「疑心暗鬼になれば、戦争しようという意思がなくても偶発的に起こり得る」(丹羽宇一郎・前駐中国大使)。それに反米テロとともに日本人もテロの対象にされかねないことになる。
 同盟国その他「信頼できる国」との連携・助け合いを図るなどと言って、それ以外の国(中国・北朝鮮など)を「信頼できない国」として敵(「仮想敵国」)に回し、敵か味方か二分(冷戦へ)。
 軍事力でこちらが強ければ相手はなにもしてこないし、戦争しても勝てば相手は引っ込みうまくおさまるというわけだが(きれいごとなのでは?)。

 ②非軍事的抑止力―外交努力(対話・交流・平和協力―相互理解・信頼醸成)による戦争抑止(予防)。平和的国際貢献で名誉ある地位を占める。
 どの国とも公平につきあい、敵をつくらず脅威をつくらない(というと、きれいごとか?)
 軍事戦略ではなく、外交戦略で、地域に平和と安定の枠組みを構築することに努める。ASEAN諸国を中心とする東南アジア友好協力条約(TAC)―戦争放棄と武力行使の放棄を原則にしている―に倣って、北東アジアにも。9条を持つ戦争放棄国の本場日本がそのイニシャチブを。
 ASEANは、ベトナム・フィリピンなどが南シナ海領有権で中国による海底油田掘削に反発、対立が激化して危機感を強め、「行動規範」づくりに懸命だが、集団的自衛権など軍事同盟を結ぼうとする気配はないようだ。
   
①と②とで、どちらが戦争になりやすく、どちらが平和・安全を保ちやすいか。
       どちらが戦争のリスクが高いか、
       どちらがきれいごとか?
       外国人はどちらを評価するか(湾岸戦争やアフガン戦争などでは他の国は軍隊を出して戦ったのに日本は出さないとか、出しても戦わないなどとマイナス評価をする向きもあるが、中東を含めて世界ではむしろ「平和的国民」という日本人イメージが浸透しているといわれる。)

(5)「内閣総理大臣である私は、いかなる事態であっても国民の命を守る責任があるはずだ。」「立憲主義にのっとって政治を行うのは当然だ。その上で、人々の生存する権利を守る責任を放棄しろと憲法が政府に要請しているとは私には考えられない」という。
 我々国民は(平和的生存権を)安倍首相から安倍流の憲法解釈で守ってもらうのか、それとも我々国民が我々流の憲法解釈で首相・政府に守らせるのか。どっちなのか
 それは後者である。
 憲法の制定権者は我々主権者国民であり、その解釈決定権も国民にあるのであって、それが首相や内閣にあって彼らの都合や思惑で意のままにこじ付けて解釈を変更できるような筋合いのものではないのだ。
 国民(流)の解釈は条文に忠実な、言葉どおりの素直な解釈である。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように決意し」、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と書いてあるからには、字義の通り、いかなる戦争も放棄し、戦力を持たず、国の交戦権は認めないのである。解釈は学校の国語授業でやるような文意解釈だけでじゅうぶんなのであり、政治的な作為的解釈(自己に都合のいいこじ付け解釈)―「自衛のための必要最小限の実力は戦力ではない」とか「個別的、集団的を問わず自衛のための武力の行使は禁じられない」とか「自国が当事者でない国際紛争なら武力の行使は禁じられない」などといったへ理屈)を弄する必要はないのだ。
 主権者としての国民は為政者・政治家による政治的解釈をうのみにしてそれに支持を与えるのではなく、専門家の知見を借りるならむしろ国語学者と憲法学者の解釈を参考にして自ら解釈すべきだろう。その憲法学界では「国家の固有権である自衛権自体は放棄されていないが、憲法9条2項で武力を放棄した結果、「武力によらざる自衛権」のみが認められるだけだ(「自衛権留保説・非武装自衛権説」)というのが通説なのである。
 ところが法制懇には憲法学者は一人しか入っていないのだ。
(6)安全保障には為政者(国政担当者)の立場(論理)に立った国家安全保障と主権者国民の立場(論理)に立った国民の権利としての平和的生存権保障とがあるが、我々国民が求める安全保障は勿論後者(平和的生存権保障)なのであって、その観点から解釈すべきだろう。そしてその解釈のうえに立って国民は首相や政府に情勢の推移(「安全保障環境の変化」)に相応した然るべき安全保障政策を求めはするが、けっして武力行使はさせず戦争はさせないという原則はあくまで守らせる、それこそが憲法解釈のあるべき姿だろう。

2014年05月23日

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2014年05月24日

問題は戦争肯定か否定かなのでは

 安倍首相は「安全保障環境が一層厳しさを増している」として、いかなる国からの攻撃にも対処できるようにと集団的自衛権の行使も可能とすべく解釈改憲を行おうとしています。
 現行憲法は大戦の反省から「政府の行為によって再び戦争の惨禍を起こることのないようにすることを決意」して定められたものです。
 首相は9条解釈の変更によって武力行使を幅広く容認し「いかなる事態にも対応できるよう、備えをする」、「それによって抑止力が高まり、我が国が戦争に巻き込まれることは」なくなりはしても、「日本が再び戦争をする国になる」とか、「そんなことは断じてあり得ない」といいます。しかし、軍事的「抑止力」は「寄らば切るぞ」式の地雷のようなもので、それが空爆やミサイル攻撃を誘い、かえって戦争を呼び込む結果になるもなるのです。
 むしろ9条こそ戦争抑止規定なのであり、その抑止力を生かし高める努力こそ必要なのに、それを骨抜きにして、武力行使を解禁し「戦争放棄」を捨て去る。それでいいのしょうか。
 人々の中には抑止のための軍事力は必要で、自衛のための武力行使も必要であり、攻撃されれば戦うしかないといって戦争を肯定する向きもありますが、戦争には勝っても負けても悲惨な結果がともなうのです。

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