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2011年12月 アーカイブ

2011年12月01日

大阪の民意は、本当はどうだったのか(再加筆版)

 「橋本派、圧勝」「民意の圧倒的な支持をうけた橋本氏」というが、はたしてそうか。
 他候補との比較ではそうも言える。
 それは大阪の府民・市民がいかに現状に不満だったかを示していることは間違いない。そして、その現状打破を橋本派に賭けた人が多かったということだ。
 民主主義の現状―国政を見れば、首相はコロコロ変わり、国会は与野党の勢力比が衆院と参院で「ねじれ」、震災・原発事故など国難を前にして一刻も早く手を打たねばというこの時さえも審議はダラダラ、決定は遅れ、国民の多くは苛立つばかり。
ケンカ民主主義と言われようが「独裁」と言われようが、どうでもいいから、とにかく、この危機、この閉塞状況を早く何とかしてほしい、という人々の焦燥感。それが「独裁者」(自ら「それでいいんだ」と言い切った)勢力を、(既成システムに対する変革者として既成政党に対して敢然と立ち向かうチャレンジャーというイメージも効を奏して)大勝に導いたものと思われる。
 朝日川柳(朝日新聞の投稿)に「独裁に賭けたくもなる閉塞感」というのがあったが、まさにそのとおりだ。
 反橋本派は独裁か民主主義かを争点にし、当方もそれだと思った。しかし、その点では民主主義派は敗れた。選挙民は独裁派のほうを支持したかのようであるが、実はそんなこと(独裁か民主主義かなど)は問題にはしなかったのだ。どうでもいいからとにかく現状打破をしてほしい。民主主義派といっても既成政党で守旧派(というふうなイメージに)。彼らなんかよりも橋本らのほうが改革派であり、やってくれそうだ、やらせてみようと。
 「大阪都」構想は人々の夢をかきたて、魅力的に映ったし、「大阪教育基本条例」は、学力テストの全国最下位といった結果に「このざまは何だ」という思いなどから、この条例によって教育委員会のあり方を正し、教職員にはもっとしっかり取り組むように規律を厳しくして気を引き締めさせようとするものであり、「職員基本条例」は、それによって役所の職員にも、(生活保護受給率全国最多を許しているのは職員が本人は働けるのに審査をいい加減にして申請を受理しているからだとか、そんなことのないように、また国保料の滞納者に対する取立てなども)もっとしっかり取り組むように規律を厳しくして気を引き締めさせようとするものだとして、既に制定済みの「君が代起立斉唱条例」とともに、さして問題を感じることなく、カジノ構想にさえも「ええヤンか」と。
 しかし、府民・市民はこれらの構想や条例に「みんな」支持を寄せたかといえば、そうだとはけっして言えまい。
 橋本派は「民意の圧倒的な支持をうけた」のであり、府議会では過半数を制しており、市議会でも第一党なのだから、熟議などといって長々と議論に時間をかけずに強行採決してもかまうまいといって、なんでもかんでも「民意は我に」とばかり反対を押し切ってやれると考えたら、それは大間違いだろう。
 彼らが当選したからといって、選挙民は彼らになんでもかんでも好きなようにやってくれていいと白紙委任したわけではないのである。
 それに第一、得票数は他候補に比べれば圧勝のように思えるが、有権者全体からみれば、その得票数―市長選で橋本氏がとったのは35.9%であり、知事選で松井氏がとったのは28.9%でしかないのだ。大多数の有権者は彼らに民意を託してはいないということだ。
 
 「独裁vs民主主義」には、大阪府民・市民はそんなにこだわらなかったとはいえ、その対決の構図が当を得たものではなかったというわけではあるまい。民主主義の危機であることには間違いない。にもかかわらず、その危機感よりも閉塞感のほうがまさり、「どうでもえーから現状を打破してーな!」といったぐあいに。
 そこにはマスコミの存在もあろう。マスコミが描いた構図は、「独裁vs民主主義」ではなく「橋本流vs既成政党」か「維新の会vs既成政党」で、選挙結果は「既成政党の完敗」だと。それに教育基本条例と職員基本条例については、簡単に「教員や公務員の規律を強める」ものと肯定的に触れるだけで、批判はほとんど加えられてはいない。府民も市民も、そのようなマスコミ情報を真に受ける向きには、「既成政党より橋本・維新の会」とならざるをえないことになろう。
 橋本・維新の会「大勝」の選挙結果には、このようなマスコミの影響(幻惑)を見ないわけにはいくまい。既成政党と「維新の会」の対決とは言っても、(共産党は別として)自民・民主は及び腰で全面対決は避けていたといわれるし、「維新の会」の所属議員の大部分は自民党からのくら替え(元自民党議員)だったのであり、選挙が終わったとたんに民主党も自民党も橋本・維新の会と互いにすり寄っているとみられている。マスコミが描いたその構図は虚構にすぎなかったのだ。

●野中広務氏(自民党元幹事長)いわく「政党が支持しながら、政党の人が(府議会議員も市議会議員も国会議員も)選挙事務所におらないんですよ」「ビラをまいてやっとったのは共産党くらいで、他にそういうことで動いている団体というのは私、見たことがない」と(4日、TBS「時事放談」)。
●前田史郎氏(朝日新聞社説担当、8日朝日「社説余滴」)によれば、平松・倉田両候補がともに63歳なのに対して橋本候補42歳、松井候補47歳、「維新の会」の府議は46 歳平均(30~ 40代が過半数)、同会市議は 42歳平均( 20~ 30代が4割強)で、橋本・維新の会が有権者のうちの若い世代の期待を集め、投票率も若年層によって押し上げられたという。要するに朝日の社説が書きたてた「既成政党VS維新の会」という対立構図のイメージとあいまって、「旧い既成政党系の歳とった候補より新しい維新の会の若い候補」というイメージが、理念・政策(「独裁か民主主義か」とか「教育基本条例」の是非など)よりも先行したということだろう。
●7日、文科省は大阪維新の会が府議会に提出している教育基本条例案―「知事が府立高校の教育目標を設定する」―は地方教育行政法に抵触するとの見解を示す。同法は「教育に中立性・安定性が求められることから、首長から独立した教育委員会が教育事務の大部分の権限を担う」ものとしている。府教育長は「教育委員の罷免も知事の権限には属さず、知事が教育委員を罷免することはできない」と。

2011年12月05日

12月のつぶやき

●この「つぶやき」は去年の12月から始めたものだが、あっという間に1年。激動の1年だったな。国の内外に次々と出来事や問題が起きて、この「評論」も書くのに事欠かない忙しさだった。これから、いったいどうなるのか。間もなく年があける。
●テレビ映画「坂の上の雲」―戦争スペクタクルは「格好いい」。「真珠湾からの帰還」は考えさせられる。ドキュメンタリー「証言記録・日本人の戦争」は辛く悲しい。この月は太平洋戦争の開戦から70周年ということもあってこれらの番組が相次いだ。
 「坂の上の雲」はリアルではあるが、日本の戦争を美化したキレイごとに描かれている。テレビは茶の間で見る配慮からだろうが、死体がちぎれて飛び散ったり、バラバラ死体がコロがっていたり、腐乱死体などグロテスクな場面は写さない。震災でも死体はテレビ画面には出てこない。しかし、ドキュメンタリーの方には「証言記録」の言葉に悲惨な戦争の実態が語られていた。
 それを見て思った。「あの時代、俺だったらどうしてたべ・・・どっちみち惨めな死に方をしていたべなあ」
●8日は、70年前にアジア・太平洋戦争が勃発した日。当方が生まれて1年近く後。
日中戦争はもっと前からやっていたが、その延長線上に拡大したもの。未だもの心つかない歳だったが、今にしてみれば可愛そうでしかたがない。この後生まれた弟は戦争が終らないうちに死んだ。出征した父が帰還する前で、一度も顔を見ることなく、生まれて逝ってしまったのだ。
●「あの日あの時」―NHKテレビの平日昼のニュースの後に放映されている被災地関連ニュース。そこに折り込まれている被災者の証言シリーズ―この時間帯は震災以前は「ふるさと一番」、今は東北以外では「ひるブラ」?。東北では、9ヶ月も過ぎ12月に入ってもまだこのシリーズが続いている。毎回一人づつ、現場であの時の行動を再現しながらインタビュー。今日は陸前高田で幼子を抱え義母の避難誘導で命拾いした若妻の証言。見る度に戦慄・恐怖と涙の感動を覚える(「はらはら、ぞくぞく」、そして「じーん」とくる)。東北だけでなく全国でも放映すればいいものを。「がんばろう日本!」のはず。「がんばろう東北」だけで済むものではあるまい。
●友人と車に同乗して隣県へ小旅行。あちこち見物(横田めぐみさんが拉致された当時通学していた中学校の脇を通って近くの海岸に行ってみたりも)して、ビジネスホテルに泊まり、カラオケにも行ってきた。久々に「イヨマンテー!」。それにフランキー・レーンの「OK牧場の決闘」。カラオケでは初めてそれを歌えた。友人の一人もこの映画と歌を知っていて、合わせてくれた。「gunfight at O.K corral!」
 家に帰ったら、市社会福祉協議会地域包括支援センターから手紙が来ていた。それには、「基本チェックリストの結果、介護予防事業に参加することが望ましいと判断された方」「質問用紙に回答された内容から、低下の恐れあり」「『運動コース』・『栄養コース』・『お口コース』のうち、あなたにおすすめするコースは「お口」コースです」とあった。なんのこっちゃ?「(参加者の声)Bさん―「カラオケも声が出なくて嫌だったが、以前のように声が出るようになって、カラオケも行けるようになりました」と付記されている。ほ~。

2011年12月10日

あの戦争はしかたなかった?あの戦争の結果は想定外?(加筆版)

(1)12月8日といえば、真珠湾攻撃・日米開戦・太平洋戦争勃発の日などと言われる。しかし、その日は、海軍機動部隊による真珠湾攻撃開始よりも前(約65分前)に陸軍を中心とした部隊が、マレー半島のコタバルに上陸し、東南アジアへの全面侵攻を開始した日だったのだ、という(上智大学・根本敬教授)。米海軍太平洋艦隊の基地・真珠湾に奇襲攻撃をかけたのは、それ(日本軍の東南アジア侵攻作戦)を同艦隊が邪魔するのを阻止するためにほかならなかった。つまり、真珠湾奇襲は東南アジアへの全面侵攻と占領を目的にして行われたのだ。したがってこの戦争は、中国で継続していた日中戦争とも合わせ、単なる「太平洋戦争」ではなく「アジア・太平洋戦争」と呼ぶのが至当なのだという。
 要するに、この日は、正確にはマレー半島コタバル上陸および真珠湾奇襲と「アジア・太平洋戦争」突入の日なのだ、ということ。

(2)あの戦争はしかたなかったとか、あの結果は想定外だったとか、そう言って済むものだろうか。
 数年前、米軍の広島・長崎への原爆投下は「しょうがなかった」と言って辞任に追い込まれたのは日本の元防衛庁長官だったが、アメリカ人のあいだでは、米兵の犠牲をこれ以上増やさないように戦争を一日でも早く終わらせるためには、原爆投下は「しかたなかった」と思っている向きが多い。
 日本にも、日本軍の真珠湾攻撃・日米開戦はやむをえなかったという向きが少なくない。(日中戦争は駐留日本軍を攻撃しかけた中国軍を制圧するためにやむなく始められ、それが長びいたのはアメリカが中国軍を支援していたからだ。その上、アメリカは日本への石油輸出を禁止するなど経済封鎖を行い、日米交渉では日本軍はインドシナからも中国からも撤退せよと無理難題をふっかけてきたからで、やむなく開戦せざるを得なかったし、勝つためには奇襲作戦もやむを得なかった。日本の戦争はすべて自存自衛のためだったのであり、しかたなかったのだと。)

 「しかたなかった」という言葉には、「勝つためには」とか「生きるためには」とか、「~のためには」という前提がある。そこを決定づけるのは、その人の立場(軍部か政界・業財界か一介の庶民かそれぞれの立場)と人生観・価値観。人道を最高価値とする立場からは、「己のために他の人々を犠牲にしてはならない」というモラルによって「しかたなかった」という理由決定づけられる。その立場で考えるなら、「人を殺して、(戦争だからとか、生きるためには)しかたなかった」(といって人を殺しに行った言い訳をするの)ではなく、「人を殺すくらいなら、死んだ方がまし。それで(戦争に反対・拒否して)殺されたとしても、それはしかたのないこと」といって潔く死ぬ。そのような場合こそが、言い訳や自己弁護などではない、本当に「しかたのないこと」なのであって、自分本位・自国本位だとか「臆病・意気地なし」などと言われる筋合いもない。

 ところで、今年福島で起きた原発事故は、想定外だから「しかたなかった」といって済む話ではあるまい。
 原発の「安全神話」を信じ込んだ(まさかこうなるとは思ってもみなかった)、それが間違いだったのだ。それと同様に「聖戦・不敗神話」を信じ込んだ、それが間違いだったのだ。原発の事故は絶対起きないなどということはそもそもあり得ないのと同様に、日本は神国、故に日本軍は絶対負けないなどということは、そもそもあり得ないことだった。にもかかわらず、負けること(負けたその後のこと)は想定せず、あのような惨禍(死者、日本人310 万人、アジア全体で2,000万人)を招くことも想定しなかった。いや侵攻した国々の人びとはもとより自国兵士が死ぬこと(「生きて帰るな」とか、或は兵士だけでなく一般国民までも「一億玉砕」などと)、それだけは(何百万・何千万人死のうが)想定内だった(というよりは当たり前と思われていた)わけか。

 しかし、日本は中国を一撃で屈服できると予想していたのに、日中戦争は8年にも及んだし、米英など連合国との戦争は3年8ヵ月にも及び、敗れて降伏した後、「国体」(天皇統治体制)の変更ひいては戦争放棄・戦力不保持の不戦憲法までも制定されるとは思いもよらない、全く想定外のことだったわけである。

 「しかたなかった」というのには、次の二つがある。
①まさかこんなことになるとは思いもよらなかった(想定外だった)というケース。
 信じ込んだ―「自存自衛・アジア解放の聖戦」「皇軍は不敗」だと。他に考えが及ばず、あり得べき可能性を度外視(計算外)―それは要するに騙されたということであり、信じたのがバカだったということにもなる(「時代が時代だったので」とか「それがその時代の常識だった」とはいっても、それはやはり言い分け―突き詰めて言えばそういうことになる)。
 要因―権力によって支配・統制された教育とメディア(情報操作)、軍隊では「戦陣訓」(「生きて虜囚の辱めを受けず」など)。これらによって信じ込まされ、煽られた。
 教訓―騙されず、信じ込まない賢さ(科学的合理精神と批判精神)を持つこと。
反対できず、命令には拒否できなかったというケース―それは精神的に弱かったということ(「時代が時代―軍国主義の時代だったのだから」とはいっても、それはやはり言い分け)。
 要因―強権・圧制システム―逆らえば過酷な制裁。
 教訓―踏んでも蹴られても、或は殺されても(戦場で人を殺して死ねと言われて殺し殺されるよりはまし)断固として反対・拒否できるようになること。

 「しかたなかった」というのは、結局は、真実を見抜けなかったことの言い分けであり、反対も拒否もできない弱さに対する言い分け・自己弁護で、責任逃れにほかならないのであって、そういって済まされることではない。
 教訓―騙されることなく反対・拒否できるように、賢く精神的に強くなること(知恵と度胸を持つこと。但し、それは口で言うほど簡単ではない至難の業には違いない―かく言う自分にそんな知恵も度胸もあるのかと言われれば、それはない。もしこの自分があの時代、あの状況に置かれていたならば、騙されようが騙されまいが、逆らおうが逆らうまいが、どっちみち生きてはいられなかったろう。だからこそあんな軍国主義と戦争がくりかえされてはたまらないというのだ。それに、あの時代、人々はお上の言うことには一切疑いを差し挟むことも逆らうことも許されない軍国主義下に置かれていたのだから黙って従うほかなかった、だからといって、どんなに良心に反する人殺しや理不尽な行為であっても、ただ「しかたなかった」で済まされていいのかといえば、そんなことはあるまい。当時、極めて数少なかったとはいえ、お上の言うことを真に受けることなく戦争政策への反対・命令拒否を貫き弾圧・迫害に耐えた不屈の人々は厳然として存在していたのであり、彼らから見れば、「しかたなかった」と言うのは言い訳であり、自己弁護であり、責任逃れ以外の何ものでもないわけである)。

 原爆も原発もつくってしまった結果、未曽有の惨禍を招いてしまった。つくらなければよかったのだ。どの国も核兵器は廃絶し、我が国は原発も率先して廃絶しなければならない。
 戦艦大和も伊号潜水艦も零戦もつくって軍備を拡大したその結果、未曽有の惨禍を招いた。そんなの無ければよかったのだ、との反省から憲法9条(戦争放棄・戦力不保持)が制定されたのだ。
 軍備を持たず、どこかに攻められたらどうするのか。「『その時は死ぬんです』というのが私の答えです」という阿刀田氏(作家で日本ペンクラブ会長)。彼は次のように語っている。「軍国少年であった子どものとき、天皇陛下のために俺は死ぬんだと思った。同じ死ぬならば、よく分からない目的のために死ぬより、とことん平和を守り、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。丸腰で死ぬんです。個人のモラルとしてなら、人を殺すくらいなら自分が死ぬ、はありうるでしょ。突き詰めれば死の覚悟を持って平和を守る、命を懸けるということです。そうである以上、中途半端に銃器なんか持っていない方がいいですね。死ぬのは嫌だから、外交などいろんな努力は全部やる。やり尽くすべきだと思います。」

 要は、核兵器はもとより原発にも頼らなくても済むような方法を鋭意研究・考案して実行することであり、軍備などに頼らなくても済むような方法を鋭意研究・考案して実行することなのであって、その賢さと勇気を持つこと(それは至難の業だとしても)、そして命を犠牲にする愚を繰り返さないこと、これこそが我が日本人が未曽有の戦争の辛酸から学んだ教訓なのでは。

 今、問われているのは我々の生き方、人間としてのモラル、命と知恵の使い方(人を殺す戦争に使うか、非戦平和に使うか)、それらがどうあるべきかであり、自分あるいは自国のために人々の命を犠牲にしてはならないとの信念に徹した生き方こそが求められよう。


 

2011年12月13日

NHK「真珠湾からの帰還」と「証言記録・日本人の戦争」―セリフ

(1)「真珠湾からの帰還」―実話
 酒巻少尉(ブラジル・トヨタ社長、12年前81歳で死去、70年前特殊潜航艇に搭乗・真珠湾攻撃に参加、座礁した艇から脱出するも米軍から捕らえられ、太平洋戦争の捕虜第一号になり、終戦まで米国本土の収容所に)
 「自分が生きていたのは、もっと大きなことのために死ななくてはという思いからだった」「岩佐大尉(上官)は『命の使い方を間違えるな』といわれた」「自分の命の使い方は真珠湾攻撃だと信じていた。しかし私は生き残った」「自分は生き残って日本へ帰ってきました。なのに私は自分の命の使い方を見つけられない。何もできない。何をしたらいいか分からない。いったい何のために生き残ってきたんだ。教えて下さい」
 岩宮緑(酒巻が出撃前・訓練中に宿泊した旅館の娘)「命の使い方が見つからなければ、見つかるまで生きていればいい」
(2)「証言記録・日本人の戦争」2部―元軍人・兵士・その妻・親族・村の関係者たち(80~90代)がインタビューに応じて。
 「戦争のこと、本当のこと言えないよ。言うと夜眠れないさ」
 「すべきでないことをしてきた。申し訳ない。とんでもない人殺しをしてしまった」
 八路軍(中国共産軍)と住民の区別・見極めがつかず無差別に攻撃した。
 中国の戦場での体験は家族にさえ語らず「戦争の話しはせんようにしています」
 住民虐殺―「そういうことはしゃべりたくねえな」「軍隊というところは、命令に従わねばなんねなだからな、やらねば死刑になる、殺される」
 上官や古参兵のビンタは日常茶飯事、逆らうと銃殺されることを恐れ、精神的にまいって自殺する者が。
 初年兵に刺殺訓練―立ち木に中国人をくくりつけ、右胸を銃剣で突き刺した。
 「今生きていても明日死ぬ、明日生きていてもあさって死ぬ、死んだやつがうらやましい、生きているのは、そのぐらい苦しいもんだと思った」
 「死体がごろごろ、腐敗して死臭をはなつ、そういうところで飯を食った」
 「全身火葬できない、そんな暇がない、腕か指だけ切りとって飯ごうを炊く火で焼いて遺骨にした」
 「神様が守ってくれるから大丈夫だ、大丈夫だ、日本は勝つに決まっている、負けるわけはないと、みんな思っていた」
 「武運長久」祈願―日の丸に寄せ書き―「尽忠報国」「国に命を捧げる」「君が代は巌(いわお)とともに動かねど、くだけてかえれ、おきつしらなみ」―「『死んで帰って来い』という意味かな、まあ結構な言葉だ、そりゃ、本当に気が狂っているようなもんだ」
 歌―「タマ(弾丸)もタンク(戦車)も銃剣も、しばし露営の草枕、夢に出てきた父上に、死んで帰れと励まされ」
 元テニアン島住民、当時18歳、米軍が迫る中、やむなく銃を手にする。お袋に「よしわかった」と言って座らせると、「ありがとうね、長い間ありがとうね」と言って手を合わせた。その心臓をねらってバン、すると親父は自分の額に手をやり、ここへと・・・。そばで見ていた9つの妹が「こんどは私の番だと」ばかりに、お袋が今死んだところに座って手を会わせる。鉄砲をかまえると「あんちゃん!ちょっと待って!水を飲みたい」水筒のふたに二杯さしだした。それをごくん、ごくんと飲むと「うまいわ、あんちゃん!もういいわ、撃ってよ、母ちゃんのところへいくから」と。
 ニューギニアで―日本兵同士の間で食糧の奪い合い―「缶に塩が入っているのを見てとってやろうって手榴弾を投げつける、そんなことがあった」。
 「人肉事件」―「『共食い』の話しがひんぱんに聞こえる。軍司令官が『兵隊は一人で歩いてはいけない』と。連隊会報に『人肉を食する者は厳罰に処する。但し、敵国人は除く』と」
 「残虐だよ、虐殺だよ・・・・この時の大本営とか方面軍とかのあれ(上層部)を恨むよ・・・だいぶ帰ってから自殺しておられるけどね、旅団長もね・・・俺なんか、こうやって偉そうなことを言えた義理じゃないけど・・・あんた達が(取材に)こうやってせっかく来てくれるけど、こんなことを偉そうに話するのは辛いんだよ、死んだ人に申し訳けなくて」
 日露戦争に従軍歴のある教師が村の若者たちに「好きで敵兵討つのじゃないが、東洋平和の為なれば抜かざなるまい日本刀」と詠んで戦争に駆り立てた。教え子は「粉骨砕身、一意奉公致す覚悟」と。
 戦地に行くことにためらいを見せる夫に対して、妻は励まして「私の兄さんは2回も3回も泣かないで元気で行ったのに、なんだおめえ、気が弱いね、元気で行ってこい」と言った。その5ヵ月後、夫はルソン島で戦死。「悔やまれてなんねよ、あんなことを言って」
 ニューギニアで集団投降―中佐は玉砕覚悟の総攻撃で辛うじて生き残った兵士42名を率い、投降に踏み切った。これに対してニューギニア作戦を統括した元参謀(93歳)―中佐のとった行動は「今もわりきれない」「みんな生きたい、苦しみから逃れたいですよ、しかし使命をおびている軍人ならば心を鬼にして大義に生きなきゃならないと僕は思いますね」と。投降した兵士の中には米軍側に「殺してほしい」、「日本に送還しないでほしい」と訴えた者がいた。帰還後は戦友と会うことは戦後一切なかったという方―顔を写さずにインタビュー、「私だけ帰ってきて、申し訳ない・・・もうニューギニアのことは思い出したくないんだ・・・なんであんなとこへ行ったんだか」と。
 沖縄の伊江島、砲弾の轟く壕の中で、みんな息をひそめていた。突然、母親の腕の中で生後6ヵ月の弟が泣きだした。みんないらついている。日本兵は義勇隊の青年に「貴様、撃て!」と。母親は弟の顔を息ができないほど胸に押し当てた。戦後、母親は塞ぎ込むことが多く、亡くなる間際は死なせた息子の名を叫んでいた、という。

 最後のナレーション―「誤った国策を信じ、時には熱狂的に支持した多くの日本人、そしてもたらされたあまりに多くの死」

2011年12月18日

「坂の上の雲」時代には水野広徳も

「坂の上の雲」の原作者・司馬遼太郎は生前、「戦争賛美」の誤解が生まれることを懸念して、その映像化を拒んでいたという。それにもかかわらずNHKは映像化し放映し続けているわけである。
 ところで、この物語の主人公は秋山兄弟であるが、同時期・同郷人(松山出身)に水野広徳という人物がいる。秋山弟(真之)より7歳下で、秋山にあこがれ海軍軍人となった。日露戦争当時は海軍中尉で、真之と戦艦(「初瀬」)に同乗していたこともあり、日本海海戦では水雷艇長として武勲をあげている。
 (以下は、静岡県立大学・前坂俊之教授の「水野広徳」に関するウェブサイトとNHK「その時歴史は動いた」を参考)

 水野は、日露戦争が終わった(1905年)後に書き著した「此一戦」(当時ベストセラーになる)に、「軍隊はいかに国民を守る存在であるか」と訴えていた。そして「小国の富は畢竟大国の餌、これを防ぐは軍国主義にあり」などと、軍国主義と帝国主義を正当化していた。
 1916年第一次大戦中ヨーロッパ視察
 1918年秋山真之の病死に際して「中央公論」に追悼文
 1919第一次大戦が終結した後、2度目のヨーロッパ視察旅行、戦場を見て周り、近代戦のすさまじい破壊力による都市の惨状や市民の苦しみを目の当りにして衝撃を受け、「国家とは国民を守るために存在するのではなかったか。然るに実際は軍隊があることが国民に犠牲を強いているのではないか」と疑問を抱くようになった。
そのあげく「戦争を防ぎ戦争をさくる途は各国民の良知と勇断とによる軍備の撤廃あるのみである」という考えに達し、「国を守るためには軍備は必要ないのだ」という軍備撤廃主義者へと変わった。
 1920年海軍大臣への帰朝報告―「日本は如何にして戦争に勝つかよりも、如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」と(自伝『剣を解く』)。
彼は海軍大佐にまでなっていたが、25年6ヵ月の軍人生活に終止符を打ち、ジャーナリストに転身した。

 水野は欧州大戦の「その凶暴なる破壊、残忍なる殺戮の跡を見て、僕は人道的良心より戦争を否認せざるを得なかった」のだと。
 そして、「ヨーロッパと違い、木造と紙でできた家屋が密集する日本の都市は空襲にはひとたまりもない。日露戦争は第一次大戦と比べれば、子供の戦争ゴッコのようなもの。ところが日露戦争に勝って、おごる軍部は近代戦の恐ろしさを知らない。・・・日本は戦うべからず」と論じて、「軍国主義者から180度転換して反戦平和主義者となった」(前坂)のである。
 1923年、加藤友三郎首相がアメリカを仮想敵国とする新国防方針を決めると、これに対して、日米戦を徹底分析し、「次の戦争は空軍が主体となり、東京全市は一夜にして空襲で灰塵に帰す。戦争は長期化し、国力・経済力の戦争となるため、日本は国家破産し敗北する以外にないと予想、日米戦うべからず」と警告した(その予言は的中している)。
 1931年、満州事変が置き、全国の新聞の多くが「満州国」建国を共同声明で歓迎したが、水野はそれを批判、満州問題は日米戦争に発展し日本は敗れ甚大な被害を被ると指摘。
 水野は軍縮論・国際協調論を展開、「中央公論」や「改造」に寄稿し、「軍人は戦争を好むが故に、動もすれば総ての国家機関を戦争の目的に供せんとする」「軍閥、国を亡ぼす」と論じた。
 しかし、1930年、日米戦争の仮想物語「興亡の此一戦」など著書は発禁処分、講演活動も右翼に襲われたりして、彼の言論活動は封殺されていった。
 1932年、小冊子(『僕の平和運動に就いて』)に「日本は今世界の四面楚歌裡に在る。いずれの国と戦争を開くとも、結局全世界を相手の戦争にまで発展せずには止まないと信ずる・・・・世に平和主義者を以て、意気地なしの腰抜けと罵るものがある。テロ横行の今の日本に於いて、意気地なくして平和主義者を唱え得るであろうか」と。
 1937年、海軍大臣に公開質問状―「戦争を防ぐことこそ、国家百年の安泰を得るの道で、それが国務大臣としての真の責であらねばならぬ」と。(しかし黙殺さる。)
 1941年2月、情報局の出した執筆禁止リストに載せられ、一切の発表の場を奪われる。
 1943年、郷里の愛媛県越智郡津倉島に療養疎開。
 1945年8月16日、同友・松下への手紙に「日本において最も緊急を要するもの、国民の頭の切り換えであります。まず第一に神がかりの迷信を打破すること・・・」と。
 同年10月18日、死去(享年71)

 水野が書き残した膨大な原稿の中には「時代から理解されなくても、同じ過ちを繰り返してはならないと訴え続けることが必要だ」とのメッセージが書き連ねられていた。
 そして晩年に書き残した言葉には「反逆児、知己を百年の後に待つ」と。

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           新潟市
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             めぐみさんが通学していた
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           日本海 佐渡島を隔てた向こうは北朝鮮
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           彼方に向かって「返せ―!」と叫ぶ海岸

2011年12月23日

北朝鮮とかつての日本―危ない共通点(加筆版)

●経済危機―かつて日本も世界恐慌以来、経済危機にあった。 
     北朝鮮は1980年代から経済停滞(韓国に差をつけられる)、ソ連・東欧社会主義圏の崩壊で軍事・経済の支援が得られなくなって窮地に(韓国はロシアとソ連崩壊前に国交、その後中国とも国交)。中国は、食糧と重油だけは支援し続けている。
     北朝鮮もかつての日本も、国民の欠乏・飢えが深刻
       閉塞感―現状打破を求める
       不満のはけ口を外に向ける―対外強硬路線―日本は米英敵視(「鬼畜米英」)
●ともに独裁体制へ―かつての日本は軍部独裁
●ともに軍国主義―軍事力に依存―軍備拡張―かつての日本は戦艦・空母・伊号潜水艦・ゼロ戦・中攻(96式陸上攻撃機)など、北朝鮮は核・ミサイルに頼る。
●ともに全体主義―個人の自由・人権抑圧・言論統制(がんじがらめの相互監視・抑圧体制―かつての日本には特高警察と隣組み)
  かつての日本は朝鮮人その他を強制連行、従軍慰安婦も、北朝鮮は日本人その他を拉致
●北朝鮮は対米戦争状態(朝鮮戦争は53年以来休戦しているが終結はしていない)、かつての日本は対中戦争とともに対米戦争へ
●ともに諸国から経済圧力うける―北朝鮮は経済制裁をうけ、かつて日本はABCD包囲網で米英など諸国から経済封鎖された。
  苦し紛れの開戦―日本は真珠湾攻撃・対米英開戦、北朝鮮には「暴発」(戦争を仕掛ける)の危険
  日本は戦争で自国民310万人、アジア全体で2,000万人を犠牲にした。
  日本はアメリカ軍から占領され、大日本帝国の体制は崩壊した。
  北朝鮮がもしも暴発し(戦争しかけ)たら、たちまち反撃されて占領され、体制は崩壊し、韓国主導の統一国家が樹立されることになる。しかし戦争の犠牲者は100万人に達するだろう。
  (1994年、クリントン政権当時、北朝鮮がIAEAの査察を拒みNPTから脱退しようとしたのに対して、北朝鮮の核施設空爆を計画したが、その時のシュンミレーションでは全面戦争に発展すれば、朝鮮半島で死者は軍・民間人合わせて100万人、米国人10万人に達すると予測され、結局、空爆計画は断念した、ということがあった。)
  それに、戦争と体制崩壊にはさらに何百万人という大量難民がともなう。韓国にしても中国にしても、彼らを引き受けられる(経済的・物理的)収容能力はなく、大混乱と社会不安を招く恐れあり。
  だから、中国も韓国もロシアもアメリカも、暴発・戦争など起きないように慎重にならざるを得ないわけ。

●北朝鮮はどうなるか(金正日死去にともない、その未だ若くて経験の浅い三男―金正恩―が後継者となって)、三つ方向
 ①権力内部の抗争―キム・ロイヤルファミリー(正恩とその後見人と目される叔母―金正日の妹―とその婿―張成沢)と党の長老と軍の派閥の間で。それが軍主導の方向に向かい「先軍政治」(軍国主義)がかえって強化
 ②張成沢の主導で改革開放
 ③民衆蜂起―その可能性は少ないと見られる
●関係諸国(日米中韓ロ)の対応は―「対話か圧力か」硬軟両用か
 ①強硬策―「圧力」「北風政策」―軍事・経済制裁圧力で締め付ける
 ②静観策(黙って様子見)
 ③懐柔策―「対話」「太陽政策」―支援の手をさしのべる
 これらのうち、どれが得策か。
 いずれにしても「6ヵ国協議」の枠組みは維持しつつも、実施は未だ。
 日本は国交がなく、非公式にもパイプ(対話の窓口)がなく6ヵ国協議に頼るしかない。
 国交がないため、日本のマスコミ等は情報が取れない。
●肝心なのは、諸国にとっては朝鮮半島の非核化(核開発と核物質・核製造技術の流出の防止)、日本にとってはもう一つ「拉致被害者の解放」、
 北朝鮮側にとっては、アメリカと平和協定(不可侵条約)を結び、脅威を除去して、国家を維持。日本とは過去の清算(植民地支配に対する謝罪と補償)で国交正常化、
 それらが一番肝心なところだろう。
    

民主主義と独裁―イシ=ハシズム?(再加筆版)

民意―多様性―選挙で大勝したとしても、彼の言説のすべてが支持されたとは限らないし、他候補に投票あるいは棄権した人たちを除いた一部の人たちの限られた民意であって、民意のすべてではない(「民意は我にあり」などと豪語することはできない)。
●国民の政治意識・民度(レベル)―成熟度―未成熟なら情緒的でイメージ先行型に。
                      衆愚政治(大衆が政治家の威勢のいい言葉や扇動や利益誘導に乗せられる民主政治)
民主政治の方法
 ①直接民主制―首長選挙、住民投票・国民投票―民意をストレートに反映
 ②間接民主制―民意は議会(二院)を通ず。
  政党―多党制―様々な民意をすくいあげ、練り上げてから議会や内閣に持っていく。
  官僚(選挙では選ばれない)―行政の継続性・一貫性を保ち、民意にはいちいち左右されない―「公務員は全体の奉仕者」であって、大臣や首長への奉仕者ではないし、大臣・首長の意向や命令が直ちに民意・「民の命令」とはならない。
  これらによって民意は抑制
  これら(多党制・二院・官僚制・住民投票など)は権力の横暴を抑えるブレーキに。
  難点―合意・決定には時間がかかり(なかなか決まらなず)、停滞・対立抗争・迷走(首相がコロコロ替わるなど)―国民に閉塞感・イライラ感―特に国難(国家的危機)に際して―強いリーダーを待望―リーダーシップ(決断力・実行力)に期待―独裁・強権政治をも容認
国民の政治意識―朝日新聞社の12月30日発表の世論調査では
「日本の政治をどの程度信頼しているか」―「まったく信頼していない」15%、「あまり信頼していない」55%、「ある程度信頼している」28%、「大いに信頼している」1%
「いまの日本の政治は、国民の意思をどの程度反映していると思うか」―「まったく反映していない」21%、「あまり反映していない」59%、「ある程度反映している」17%、「大いに反映している」1%
「いまの政治があなたの意思をどの程度反映しているか」
「まったく反映していない」が25%、「あまり反映していない」が59%
、「ある程度反映している」が12%、「大いに反映している」は0%。
 「震災後の政治にどの程度満足しているか」―「どとらかといえば不満」52%、「不満」28%、「どちらかといえば満足」15%、「満足」1%。
 震災復興と原発事故への民主党政権の対応「評価しない」71%、「評価する」25%、
 野党の自民党の対応「評価しない」80%、「評価する」16%.
いまの自民党に政権を任せてよいと思うか」―「任せられない」56%、「任せてよい」30%
政党は全体として、国民のほうを向いていると思うか」―「向いていない」85%、「向いている」10%
政治の責任は、政治家だけでなく、政治家を選んだ有権者にあると思うか」―「有権者にもある」86%、「有権者にはない」12%
「いまの日本の政治をみて、首相には何が求められると思うか」―決断力63%、責任感34%、政策立案力17%、国際性16%、調整力11%、理念11%、発信力8%、庶民性8%、クリーン5%
首相にはだれがふさわしいと思いますか(国会議員かどうかにかかわらず、一人だけあげるとすれば)」―石原慎太郎8%、橋本徹6%、小泉純一郎4%、ビートたけし3%、池上彰3%、東国原2%、小沢一郎2%、孫正義・石破・前原・安倍晋三・枝野・野田・田中真紀子各1%
「これからの日本は、どんなふうに呼ばれる国になってほしいか」―「平和国家」32%、「福祉国家」24%、「経済大国」14%、「環境先進国」11%、「科学技術先進国」8%、「文化国家」5%、「防災先進国」4%
●「独裁」―個人独裁・一党独裁・二党独裁(二大政党制)・大政翼賛会(オール与党)型など諸形態あり
 橋本氏―独裁を容認―「日本の政治の中で一番重要なのは独裁」「独裁と言われるぐらいの力が日本の政治に求められる。政治はやっぱり独裁でなきゃいけない」と。 
  独裁の利点―事態を一気に動かし、改革を断行できる
  仁徳に優れ有能な人物である場合―善政(富裕層に増税し、民衆に分配。特権階級から特権を奪い民衆を助ける)「英雄」として民衆から迎えられ、人気を博する。
  単なるデマゴーグ(煽動家)―敵をつくって叩く(バッシング)、破壊的な言動が大衆にうけて人気を博する。
  弊害―権力の横暴(暴政・圧政)へ―少数意見は排除され、弱い人たちが犠牲にされる。

●その肝心なところは―そのやり方・その政策で市民・国民をいったいどこへ導くのかだ。はたして良いほうへか、悪いほうへか。幸福へか、不幸へか。

●ハシズムorイシ=ハシズム(石原・橋本ライン)は?
  彼らによる教育基本条例は?               
 12月21日両者対談―教育基本条例と職員基本条例で意気投合―教育基本条例は東京都も検討へ、と。
●現在の教育委員会制度には問題があることは確かだ―当初は公選制だったのが、首長による任命制(首長は自分の気に入った人を任命でき、首長の息のかかった人が任命されがち)に変えられてしまっていることなど。ところが、それをもっとストレートに首長の意思が貫かれるようにと、教育目標を首長が決めることを可能とするのが、この教育基本条例。民意を取り入れるのであれば、公選制こそがいちばん望ましいはずなのに。
  このような条例によって戦後民主教育の基本原則である政治(時の権力者)からの教育の独立性・中立性が突き崩されてしまうことになる。
  それに、この教育基本条例と職員基本条例によって、教員や職員は職務命令と5段階評価でがんじがらめに締め付けられ、その専門性や「全体の奉仕者」たる公務員としての信念(良心)に基づく自由裁量権が奪われてしまい、職務上の上司に対しては必要以上に(心象を好くしようと)気を使い(首長の言いなりになり)、生徒・住民に対しては心を通わせた真の教育や住民サービス(そのために日々悪戦苦闘している、それが)ができなくされてしまう。
 それらは権力の横暴を許す結果になる。それは生徒・住民にとっては不幸なこと。
 そのような方向に導かれていく。それこそが重大なことなのだ。
●それにつけても、首相がコロコロ替わり、足を引っ張り合うだけの与野党など既成政党の政治家に嫌気をさしている国民の多くが、今、さっそうとして強烈なリーダーシップを持った人物に引き付けられていることは確か。しかし、鼻っぱしらが強くケンカ言葉上手でありさえすれば誰でもいいというわけにはいかず、どういう志向性もち、国民や市民をどこにもっていこうとしているのか、よく見極めなければならない。やらせてみたら、いつの間にかアメリカのような競争・格差・自己責任社会かつての大日本帝国あるいは今の北朝鮮のような権威主義国家(国旗・国歌での起立斉唱など命令を絶対視する)など変な方向へもっていかれてしまってはたまらない。ヒットラーとムッソリーニの「ベルリン・ローマ枢軸」ならぬ「東京・大阪枢軸」・・・危ない、危ない!


 

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