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2011年11月 アーカイブ

2011年11月02日

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   おそとであそびた~い! (山形に避難している)ケンちゃんまってるよ~!
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           馬場・浪江町町長
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           菅野・飯舘村村長
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           佐藤栄佐久・前福島県知事
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           志位・共産党委員長

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               片岡・会津放射能情報センター代表

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小川勲 パステル画展 9~14日 大沼デパート米沢店4階で開催中
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9月19日、東京・明治公園での「さようなら原発」大集会(写真の写真)
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     10月30日福島での「なくせ原発」大集会(以下は現場で撮った写真)             
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TPP問題―容認論・反対論

[日本の産業・貿易の現状]
 日本の貿易依存度(GDPに対する輸出額・輸入額の割合)は意外に低い。そのかわり企業の海外移転が進んでいる。
  (08年)輸出依存度は16.1%、 輸入依存度15.6%
       それぞれ韓国 45.4、 46.8
           ドイツ39.9、 32.7
          フランス21.1、 24.6
             中国33.0、 20.2
           アメリカ9.1、 15.2
対中国貿易のほうが、対アメリカ貿易よりも貿易額が多い。
 対中国輸出は(09年)日本の輸出全体の18.9%だが、対アメリカ輸出は16.1%、
 シンガポール・ブルネイ・ベトナム・マレーシアなどとは、6ヵ国あわせても6.6%にすぎず。

世界の国々は輸入品に関税をかけることで国内産業を保護している。一方、2国間あるいは多国間で関税や非関税障壁を取り払い、国内産業保護の垣根を取り払う「貿易自由化」・経済連携もおこなっている。
 世界貿易機関(WTO)―150ヵ国加盟―自由貿易を推進する立場で、各国が自由にモノ・サービスなどの貿易ができるようにルール(各種の協定)を決めて関税を引き下げたり、非関税障壁を取り除いたりすることを協議し、貿易に関する国際紛争の処理をおこなう機関―多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)は先進国と新興国の対立で行き詰っている(中断・決裂が続いている)。
 2国間or複数国間でFTA(自由貿易協定―関税の撤廃・削減)・EPA(経済連携協定―関税のほか投資の自由化、経済協力など包括的な経済連携)。 
 アジア太平洋地域では①ASEAN(東南アジア10ヵ国)+3(日中韓)or6(日・中・韓・印・オーストラリア・ニュージーランド)・・・・「東アジア共同体」構想
  ②TPP(環太平洋パートナーシップ協定)―シンガポール・ブルネイ・チリ・ニュージーランド4ヵ国が原加盟国、これにアメリカ・オーストラリア・ペルー・ベトナム・マレーシアが加盟交渉参加。
FTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)構想―APEC(アジア太平洋経済協力会議―ロシア・カナダ・メキシコなども加わる21ヵ国)が2020年までに域内の貿易や投資の自由化めざす。

<農業>
食糧自給率39%(カロリーベースで)
農業者―高齢化(平均年齢66歳)
    兼業農家が7割―多くは農業収入よりも兼業する製造業からの収入が多い。
耕地面積―1戸当たり2.2ha―アメリカの100 分の1、オーストラリアの1500分の1、 EU の2割弱
     オーストラリア3,000ha
        アメリカ200ha(稲作は136ha、大型機械・飛行機で)
        北海道20ha
         日本2.2ha その4割は中山間地(大規模化が困難)
    但し、日本では多くは水田だが、アメリカ・オーストラリアはそうではない。
コメの生産費は60k当り1万6,594円(規模別では1~2ha層が1万7,580円、2~3ha層が1万4,579円、10ha以上の層が1万2,496円、15ha以上の層が1万1,531円)、それに対して外国産輸入価格は3,000~4,000円
農業所得―20年前から半減
減反政策(米価維持・コメ余りに合わせて)―耕作放棄地(39万ha―埼玉県の面積に匹敵)が問題
戸別所得補償制度―「バラマキ」、「農地の集約を阻害し細切れ化うながす」などの批判あり。
各国の農産物の平均関税率―インド124.3%
             韓国62.2
             メキシコ42.9
              EU19.5
              日本11.7
             アメリカ5.5
日本への農産物の輸入関税―全品目の4分の1は既に無関税、3分の1は10%以下の低率、野菜などは3%
  コメは778%(輸入価格の7倍以上)、小麦は252%、バナナ50%、牛肉38.5%、緑茶20%、リンゴ20%
高関税で保護されているのは精米・牛乳・乳製品などに限られている。
「非関税障壁」―税関手続き・検査・商品の規格・安全基準・国家資格その他の規制。
       BSEなど病気感染予防(月齢20ヵ月以内の子牛は輸入禁止)
       有害な食品添加物、
       農薬の残留基準値(大豆のばあい、日本では312種類に基準値、ジカンバは0.05ppm以下、アメリカは114種類だけ、ジカンバは10ppm以下と多目)
       遺伝子組み換え表示(日本では表示義務があるが、アメリカは非表示)

[TPP]―関税・非関税障壁の撤廃、競争条件を同一にすることを原則に―関税は10年以内に全て撤廃することが前提
 シンガポール・ブルネイ・チリ・ニュージーランド4ヵ国が原加盟国、これにアメリカ・オーストラリア・ペルー・ベトナム・マレーシアが加盟交渉参加、合計9カ国
 農業・移民労働・医療・金融・保険・郵政・公共事業・法曹など24分野にわたって交渉。
 日本がTPPの加盟交渉に参加するには、これら9カ国の同意とりわけアメリカと事前協議して(その後、最低限90日間、米政府と議会の協議のうえ)米議会の承認が必要―米国の対日要求(60項目にのぼると言われる)を受け入れないと承認が得られないことになる)。
 日本がこれに加盟した場合、加盟各国のGDPの割合では日米だけで91%占める。
             アメリカ    67% 
             日本      24
             オーストラリア 4.5
             その他     4.5

<TPP参加容認論>(反)は反対論
●日本は貿易立国  ()韓国(輸出依存度45%以上)などと比べ貿易依存度はむしろ非常に低い(16%)。
●「第二の開国」・市場開放へ―「鎖国」的既得権益保護はやめ。()自動車は関税ゼロ(アメリカは2.5%)、電機もゼロ(アメリカは0.5%)、農産物も、コメなどは別として一般には既に関税率は低く、「鎖国」などというのは的外れ。
●TPPに入らなかったら、日本だけ浮いてしまう。
 グローバル時代、「守り」より「攻め」―競争力アップして世界に打って出、アジアの成長力を取り込む。
 ライバルの韓国に対してFTA戦略の出遅れを一気にとり戻す。
 「バスに乗り遅れるな」
)中国・韓国・インドネシア・タイなどはTPPには入っていないし、入っているアジア4ヵ国と日本はそれぞれFTA(自由貿易協定)かEPA(経済連携協定)を結んでいる。
  既存の枠組みとしてASEAN+3or6があるが、そこでは各国が互いに自主性を尊重し、やれるものから取り組み積んでいみ上げていく方式(ASEAN方式)をとっている。(中国はASEAN10ヵ国と既にFTAを結んでいる。)
 それに対してTPPは、事実上アメリカ主導(アメリカの基準・ルールが参加国に一律に適用、関税も規制もすべてアメリカ並みにされる)のブロックで、中国・韓国・インドなどは入っておらず、日本がこれに入ってアメリカとは一体化しても、アジアからはかえって浮いてしまう結果になる。アジアの成長力を取り込むどころか、アメリカのアジア戦略・輸出戦略に日本のほうが取り込まれるだけになる。
 日本に「バスに乗り遅れるな」と言って焦っているのは、それを運転するアメリカのほうで、(深刻な不況と金融危機を日本への輸出等の大幅アップで切り抜けようと図る)アメリカにとって日本は「TPPバス」の最上の「乗客」なのだ。
 「外交交渉では、利害を共有できる国々と組んでいくことが通常の外交戦略」「まずASEAN+3(いずれも日本と同様に1~2ha規模の水田中心で、小麦・とうもろこし等の穀物・畜産・砂糖などが競合していないので条件が似ている)とで結びつきを強め、環太平洋レベルでの自由貿易では、中国などが加わる段階で交渉に参加したほうが日本に有利」(金子勝・慶大教授)。TPP参加国はアメリカ以外は小さな資源輸出国ばかりで、日本と利害を共有する国はほとんどない。
 TPPは日本が加入すれば、実質的に日米FTAのようなもの。とはいっても、FTAはポジティブ・リスト方式(関税・規制を撤廃する方を例外としてリストアップして、それ以外はすべて関税・規制は維持)だが、TPPはネガティブ・リスト方式(関税・規制撤廃しない方を例外としてリストアップして、それ以外はすべて撤廃。例外品目の交渉余地が小さい)だから、両者は同じではない。
 TPPは、ネガティブ・リストに記載されていないものは自由化が基本なので、常にアメリカ側が正統性を持つ状況下で、永続的に米国政府および米国企業から要求が出され続けることになる。
 韓国はEUやアメリカなどとFTAは結んだが、TPPには加わろうとはしていない。
 
●関税・非関税障壁など現状のままでは、輸出競争に負け、工場は海外移転・産業空洞化に追い込まれる。()空洞化は、むしろ円高(4年前は1ドル120円台だったのが今は75円台になって、4割近く円高)のせい。
 むしろ日本企業がTPP参加の東南アジアや南米の国へ出てゆき、そこで安上がりの製品をつくり、アメリカや日本に輸出するようになってTPPが空洞化を促すことにも。
●関税撤廃で輸出が増える。()主な相手国アメリカの関税は既に低く(自動車は2.5%、電機は0.5%、電子製品は1.7%)、そのうえ円高で現地生産の方が多くなり(日本企業の6~8割の工場はアメリカにあり)、輸出がそんなに増えることはない。
 輸出依存よりも内需重視の経済運営への転換こそ求められる。
●関税撤廃で安い外国産の輸入が増え、国内産も安くなって沢山買えるようになる。()物価の下がれば、それにスライドして賃金や年金額の引き下げられ、(個人消費が縮小し、企業の設備投資も縮小して)デフレスパイラル(物価下落と景気後退の悪循環)がますます進む。
●「反対派が唱える『国民の生活を守る』という大義名分の陰には、関連業界の既得権益を守る狙いがないか」(10月16日朝日社説)。TPP参加反対は「農業をはじめもっぱら生産者・供給側の立場から」(12日朝日「声」投稿)。「高コストのものを狭い国土で生産する必要があるのか」(前に同じ)。消費者・生活者にとっては、負担が少なく、なにもかも安く買えるにこしたことはないのだ。
 「関税障壁で消費者が不当な負担を強いられているものはたくさんある。TPPはそのような理不尽な負担から消費者を守ることにつながる。」(前に同じ)
)消費者にとって、関税・障壁は生産者・供給側の利益や既得権益を守るためではなく、ほかならぬ消費者の生活を守るためにこそ必要な負担であり障壁なのだということ。
 消費者・生活者にとって是非とも必要で守らなければならないものは、世界の食糧危機と国際価格の急騰からの食糧の安定確保であり、安全性の確保、それに農林漁業による国土環境の保全である。
 関税も非関税障壁も、それらのために必要なコスト負担なのであり措置なのだということをよく認識したうえでTPPは判断すべきなのであって、消費者は、ただ単純に、負担が少なく安く買えさえすればいいというものではあるまい。
●経済効果
  経産省は、TPPに参加すればGDP8兆円増(参加しないと20年までに10.5兆円減になる)と試算。
  内閣府は2.4~3.2兆円増と。
  ()農水省は、参加すると逆に7.9兆円減、農業関連だけで4.1兆円減と(ただし、関税を全世界対象に全廃し、かつ何の手も講じない場合を前提)。
  政府統一見解(10月25日)―10年間の累積で2.7兆円増。()それは1年にすれば、わずか2,700億円。GDPの0.54%にすぎない
   森永卓郎(経済アナリスト)は農業は3分の1に激減する一方、製造業の付加価値(農業の13倍)のアップは数パーセント程度でたいしたことはないと。
<農業>
●GDPで1.5%の第一次産業を守るために98.5%の産業を犠牲にしてはならない。
  ()農業の役割は、食糧生産という基幹産業を担い、かつ国土環境保全など多面的役割をもっており、単にGDPだけで評価されるものではない。
  世界的な食糧危機(地球の気候変動による食糧生産の不安定化、途上国の経済成長と人口増、トウモロコシなどバイオ燃料の需要増、それにヘッジファンドなどの投機による穀物市場の高騰)の中での食糧・農産物の安定確保は今やますます重要。
  とりわけ被災地の東北各県は食糧県であり、農林漁業は主産業。
●農業―さくらんぼ―(1992年20%から8.5%に)関税を下げたら、販売量かえって増えた。
      みかん・りんご―輸出
      コメ粉(パスタ用)―輸出
      コメも―輸入米に門戸を開いても大丈夫。
      「世界一うまい」―高級ブランド― 中国などの富裕層向けに輸出 
      アンケートでは「高くても国産を買う」という人は6割、ただし、3割以上高くても買うという人は34%
 ()これらを日本から輸入して食するのは限られた国の人々、恵まれた層の人々に限られる。 
 日本でもコメ離れやデフレが進む中、海外から安いコメが入ればブランド米も値崩れするようになる。  現在、日本のコメは一俵1万4,000円(戸別所得補償の基準価格)、それに対してカリフォルニア米は3,000円。
 日本産は放射能汚染で敬遠され、むしろ、その対策のほうが先決。
●農業者―選抜・養成―意欲ある主業農家に。法人組織化、一般企業(株式会社)の農業参入。
●農地―分散した農地の集積、規模拡大(10倍化、20~30haに)
 コストダウン(㌔当たり200 円から150円に)、面積当たり収量は1.5倍に。
●「農業のニュービジネス化」
●「6次産業化」―生産者が加工・販売に従事 
●農業改革断行のチャンス―大規模化・合理化・効率化して日本の農業を「強い」農業に。食糧自給率は50%めざす。(政府は「食と農林漁業の再生にための基本方針・行動計画」を決定している) 
)農政の大転換・「農業再生」は必要だが、それは単なる「競争力強化」(中小農家の切捨て・大規模化)ではなく、農家が安心して農業に励める農政への転換。
 必要なのは(米価など市場任せにした結果の価格暴落に対して)農産物価格保障と所得補償で大規模農家も小規模・兼業農家も安心して農業を続けられる条件を整えること。 
 単なる農協任せの「減反」の押し付けはまずいが、需給・生産調整は必要。
 食料自給率のアップ(50%)はTPPとは両立せず、むしろ13%にも激減してしまう。コメ生産の9割が壊滅してしまい、小麦はたった1%に激減。
 そもそも農業は、単なる営利企業とは異なり、個々の農家の経営上の採算・収益など(儲かる、儲からない、外国との競争に勝てる、勝てない)の問題だけで云々されるものではなく、基幹産業で、(世界的な異常気象・食糧危機の中でも)国民の食糧確保、国家の食糧主権の確保(食糧安全保障)、それに国土環境保全にも関わるもの。零細・兼業農家などは、どうせ競争に勝てないし儲からないし採算が取れないのだから、といってやめてもらい、外国に太刀打ちできるだけの競争力のある農家・農業者だけでやってもらえばいい、というものではない。大規模経営・小規模家族経営・集落営農(農事組合法人)など多様な形態があってもいいし、どの農家・農業者もだいじな食糧生産の担い手なのだ、ということ(だから農産物価格保障・所得補償が必要なのだ。新規就農者支援制度も)。
 戸別所得補償は主要国ではどの国もやっている。03年、農業粗生産額に占める直接支払いの割合では、英仏独などは8割以上、アメリカは3割、日本はそれが1兆円規模になってようやくアメリカ並みの3割に達する。
 いくら大規模化(10~20haに)しても、面積当たりの収量を上げても、オーストラリアやアメリカの大規模経営には価格面で太刀打ちできない。
●農産物の輸入条件や安全基準の緩和 ()現在日本で禁止されているポストハーベスト農薬(収穫後使用農薬)の解禁されたり、残留農薬・BSE対策・食品添加物や遺伝子組み換え食品など日本の高い安全基準が、アメリカの農業者や企業の都合で緩められる。
 
<漁業>―農業より自由化が進んでいる。
 あじ・さば、海藻類など50品目は除外―10~20%ほどの関税で守られている。
<医療・保険>
●市場競争原理の導入効果が期待できると。
●医薬品・医療機器の関税を撤廃
●薬価基準がアメリカなどと同一に。血液製剤の輸入規制も緩和。
●外国の保険会社や製薬会社に市場開放―外国企業参入への規制緩和
●公的医療保険制度による薬代の払い戻し(手続き)を内外で公平にする。
●混合診療(保険診療と保険のきかない自由診療の組み合わせ)の解禁
 自由診療(医療ツーリズムなど)で高所得者には便利。
)安全性よりも利益が優先されるようになる。株式会社の医療参入で営利主義になる。
   保険のきかない自由診療―金持ちしか受けられない診療が増える。
   不採算部門の切捨てで地域医療機関の撤退が進み公立病院や身近な診療所は成り立たなくなる。
   公的医療保険制度・国民皆保険制度の崩壊につながる。
   そうなればアメリカ(盲腸手術に2百数十万円かかり、乳幼児死亡率は日本の2倍)のようになってしまいかねない。
(外務省)営利企業の参入や公的保険制度は議論の対象にはなっていないと。
)日本が参加していないTPP交渉で、それらが議論になっていないもは当たり前のこと。参加すれば議論になる。(外務省は混合診療など「議論の可能性はあり」としている)。米国業界団体はそれらを求めてくる。
<官公需>
●政府や自治体の公共事業や物品調達―公共事業の入札を外国企業に開放する、その基準額を下げる。公共工事は23億円以上が7億円に、公共サービスは23 億円から750万円に切り下げられ、630万円を超える物品調達は国際入札へ
)地元企業への優先発注できなくなり、地元・中小企業が外国企業に仕事が奪われる。
 自治体の住宅改修助成などにさいしても地元企業の優先できなくなる。
<「労働力の移動」の自由化>
●労働時間・残業手当・賃金水準の規制緩和
●海外から移民労働・低賃金労働者を受け入れ。看護師・介護士など。
)労働者保護のルール崩れる。
 国内労働者の雇用が減る。
 派遣労働とともに賃金水準が低下し労働条件が切り下げられる。
 不安定雇用が広がる。
<外国人専門家>
●医師・弁護士など、それらの資格を相互に認め合う。
●外国人投資家が投資先の国に対して訴訟が出来るようになる(ISD条項)。
 ()アメリカ(「訴訟社会」)の流儀で、安全・保護を理由に進出を規制された米企業が相手国(日本政府)を訴えて損害賠償を求めるようになるリスクが多くなる。
 野田首相はISD条項があることを知っていたか、と参院の集中審議で野党議員から訊かれ「知りませんでした」と。
<金融>
●新興国の外資規制の自由化で、日本の金融機関が進出しやすくなる。
 ()米国資本が参入しやすいように、日本郵政や共済を民間会社と同じ競争条件にと要求してくるようになる(郵貯や簡保資金の運用をアメリカの金融機関にも割り当てをよこせと。共済など協同組合には、アメリカの保険会社などが民間金融機関と同様のルールを適用せよと。)
<交渉>
●交渉には参加すべき―ルールづくりから関わったほうがいい。(後になってから入ろうとしても、ルールができあがってしまってからでは手遅れになる。)
 交渉しだいで例外商品を設けることが可能かも。
 交渉して、こちらの望んでいることがダメとなったら抜ければいい。
アメリカと一対一でやるのとは違って、他の参加国と一緒に9対1でかかれる。
)その保証はない。あくまで、関税をすべてゼロにもっていくことが前提だから。(カナダの例―酪農製品など例外にしようとしたが、認められず、参加を取りやめ。)交渉に新たに参加するためには、すべての交渉国の同意が必要で、例外なき関税撤廃の原則をのまなければ参加は認められない。
 既にアメリカは自国の産品の輸出や企業の参入を阻んでいる各国の非関税障壁を列挙し、その規制緩和を執拗に迫ってきている。
 コメなども例外扱いの保証はなく、コメ生産の9割が壊滅してしまいかねない。小麦はたった1%に激減。
秘密交渉(非公開)で、交渉内容や詳しい情報・データなど交渉に参加しないと解らない。
 不利益なら抜ければよいといっても、「不利益」を誰が判断するのか。一度交渉に参加してしまったら、抜けられなくなる。
 外務省などにはアメリカなどと渉り合う交渉能力はなく、アメリカ側の言いなりになってしまう。

<情勢>
各分野で何をどこまで交渉するのか。アメリカ側は何を要求しているのか、ほとんど明らかされていない―政府の説明・情報開示が全く不十分―国民はそれにどんなメリット・デメリットや問題点があるのか不明確で、訳けが分からない。
 製造業・輸出企業・農林漁業(その中でも専業者と兼業者)・一般消費者、その他の業界・個々人それぞれに自分の都合(利害・損得)があり、それだけで賛成・反対する向きがある。消費者にとっては外国産であれ、国産であれ、安く買えるにこしたことはなく、「生産者や業界がTPPに反対するのは既得権益を守りたいからだ」などと短絡的に考える向き。
 経済合理性(コスト削減・省力化・効率化など)の追求だけでなく、「食の安全」「環境保全」「食糧主権・経済主権」の観点が必要。
 「安全保障」対米依存とともに親米・反中イデオロギー(「アメリカには親近感、中国は嫌い」感覚)―「中国は脅威」「アメリカは頼れる国」「アメリカについていけば何とかなる」「アメリカにはノーと言えない」という(頭に刷り込まれた)既成観念・「冷戦思考」―への囚われ―「米中対立」「中国とアメリカのどっちについたほうがいいか」「日米同盟が基軸だ」といった発想で考える向き(森永卓郎・経済アナリストが指摘)。(経団連の米倉会長は10月28日の「国家戦略会議の第1回会合で、TPP参加は「通商政策の観点のみならず、外交・安全保障の基準である日米同盟の深化のため」と発言)
 寺島実郎氏(日本総研)は、「『米中対立』というが、米中貿易は日中貿易より2.5倍も多いし、米中戦略対話は『防衛』のことも含めて、日中関係より本気で意思疎通しており、シェールガスの共同開発でも協定を交わしていて、米中関係はメディアが対立構図を描いて見せているが、そんな単純な話しではない」としている(11月20日TVSサンデーモーニング)。 

 
 賛否・国論が分かれ、首相が政治判断して決着をつけるかのように言っているが、それは総選挙のうえ国民の判断で決着すべきもの―TPP参加各国との事前協議、米政府との協議、米議会の承認のうえで交渉参加が認められ(来春)、21分野で合意、国会(衆院で過半数の賛成)で批准は再来年(13年)以降になると見られるが、その間に総選挙。

11月のつぶやき

●「大阪秋の陣」はファシズム方が大勝した。ファシズムとは多数派独裁・強権支配のことだ。
 なんでこうなるのか。それは生業も暮らしもままならなくなり、夢も希望も閉ざされている現状(閉塞状況)に多くの人々が不満を募らせている、そこに「大阪都構想」―「二重行政の解消」「大阪市役所の解体」なるものを持ち出して人々に変革の夢をかきたて、あわせて教育基本条例・職員基本条例をかかげて、既成政党・既存の役所職員・教育委員会・教職員らにそれらを突きつけ、反対者を「既得権益にしがみつく抵抗勢力」にしたてて攻撃の矛先をむけ、バッシングを煽る。その手法が効を奏したということだろう。
 それに「どうなるか分からないが、とにかけやらせてみよう」という賭け―いわばカジノ選挙の側面も。
 これから大阪には冬の嵐が吹きまくる。「起立!右向け右!君が代斉唱!」逆らうとクビ・・・か。「府市合わせでみんな幸せになる。不幸せになるのは逆らう奴どもで、『勝ち組』に従わぬ『負け組』ども」・・・というわけか。現東京都知事と「大阪都」勢力その他が組んでファシズムの天下をめざすというのか?
●高田松原7万本もあったのが、たったの一本だけ残った。ところが、今日、その根が塩水で腐って、水と養分を吸えなくなり、枯れが進んで回復が困難になっているとのニュース。・・・なんということだ。
●NHKスペシャルで、「助かった命が、なぜ―被災者が相次いで自殺」を見て、女房「わかる。先のことを考えてしまうたち(性格)だから。これからどうなっていくのか、先々のことを考えて行き詰ると死にたくもなるんだ」。「そうかな」(こちとらは「毎日毎日『今日はナニしてカニして日々精一杯生きる』というたちだから」というと、「それは、ご飯出しやら、お金のやりくりやら、皆人任せしてるからだ。先々のこと、病気になって動けなくなったらとか、貯金のこととか、子や孫たちのこととか、こっちは常に頭の中にあるんだから」と。
●気仙沼と陸前高田へ行ってきた。荒涼たる廃墟・焼け跡が広がり、瓦礫の丘の周りをブルトーザーやパワーシャベルが動き、ダンプカーが行き交う。一本だけ残った松ノ木、道路端・地面に立ち往生している大きな貨物船、これらにいちいち手を合わせて合掌する代わりに写真をバチバチ撮ってきた。それをここに掲載し記録として残す。小学校の校庭に仮設住宅がならぶ。高田市役所もプレハブの仮設庁舎だった。対応していただいた職員・ボランティアの方々。おー!悲惨から希望へと復興に邁進する人々よ。
●先月30日、「なくせ!原発」福島集会に行って来た。数千人(主催者発表1万人)の大集会だったが、どの放送にも新聞にも報道なし。これが日本のマスコミか。放送局・新聞社にデモをかけろや。

2011年11月17日

消費者の視点からTPP反対

 12日の投稿に「消費者の視点」からのTPP賛成論があったが、TPP反対はなにも生産者・供給側の立場からだけではなく、消費者だからこそ反対なのだということ。
 消費者・生活者にとっては、負担が少なく、なにもかも安く買えさえすれば、あとはどうでもいいというわけではないのだ。
 「関税障壁で不当な負担を強いられている」と決め付け、「理不尽な負担から消費者を守る」とか、「高コストのものを狭い国土で生産する必要があるのか」と書いておられる。しかし、それらのコストは生産者・供給側の利益を守るためではなく、ほかならぬ消費者の生活を守るためにこそ必要な負担なのだということ。
 消費者・生活者にとって是非とも必要で守らなければならないものは、世界の食糧危機と国際価格の急騰からの食糧の安定確保であり、検疫・検査による安全性の確保、それに農林漁業による国土環境の保全である。
 関税も非関税障壁も、それらのために必要なコスト負担なのであり措置なのだということをよく認識したうえでTPPは判断すべきなのであって、消費者は、ただ単純に、負担が少なく安く買えさえすればいいというものではあるまい。

「都知事を応援する」に違和感

 11日の投稿に「宮古市の震災がれきの処理を受け入れた。さすが東京都」とあった。
被災地内で処理しきれない震災がれきは、各都道府県とも可能な限り受け入れざるを得ない状況にあるのだとは思う。東北の本県では受け入れており、当・米沢市にも搬入されている。ただ、埼玉県から搬入した産廃から基準値を超えるセシウムが検出され、その搬入を停止し、未処理の廃棄物を返却するといった事態もあった。
 投稿には、「金で済ます」ことなく「自ら手を汚して助けようとする」都知事と書かれているが、福島県の町に言わば国から「金を出して」もらって原発立地を引き受けてもらい、「自らは手を汚さず」して最大の電力受益を得ているとも言える東京都が、福島の除汚土や汚染がれきの処分場を引き受けるというのならいざ知らず、「岩手産」の瓦礫受け入れを「さすがだ」といって「誇りに思う」というのには、どうも違和感を覚える。
 反対者に対して「原発事故の以前にも放射線は微量に大気中に存在していた。何をいまさら」というが、「福島産」ではない瓦礫を受け入れた都知事を「よくやった」と賛美するそちらの方こそ「何をいまさら」というべきなのではないだろうか。

2011年11月21日

大阪ダブル選挙の争点は、本当は何なのか―民主主義(加筆)

 マスコミは専ら橋本前知事の大阪都構想の是非が最大の争点であり、あとは橋本氏の手法をめぐる問題であるかのような矮小化した取り上げ方をしている。しかし、本当のところは何が問題なのか。
 当米沢の我々にとっては大阪都構想などあまり関係のない話だが、橋本氏の政治手法の問題―「独裁」の話しになると黙ってはおれない。その上、その独裁的手法によって彼ら(維新の会)が強行しようとしている教育基本条例と職員基本条例、これらにも黙ってはいられない。こんなやり方があちこちに波及して、どこでもそんな独裁的手法で行政運営・教育管理をやられたらどうなるのか。そうなると余所ごとではいられない。争点は、それら独裁的手法の是非、教育基本条例と職員基本条例の是非、それこそが最大の争点なのだと思われる。
 マスコミや評論家、恵まれた層の人たち、それに事の本質をあまり考えようとしない人たちはとかく、その手法で断固としてやり遂げた「改革」とその成果(単なる数量的実績)―府の財政赤字を解消させたとか―だけで、「よくやった」「たいしたもんだ」ともちあげがち。
 しかし、それによって切り捨てられ犠牲にされた大事なもの―庶民の生活・人権・民主主義―に対しては無頓着なのだ。

 君が代起立斉唱条例それに議員定数削減条例も、府議会で「何を話し合う必要があるのか」と問答無用で強行採決され、既に制定されてしまっている。

 その強烈な個性、過激な言動と強引な実行力によって「変革」をやり遂げるヒーローとして人気を博する。あたかも信長か秀吉の再来でもあるかのように。世の閉塞状況にうっぷんを募らせている庶民は、そのような人物に引き付けられるのだ。彼らに言わせれば、「独裁者?いいじゃないか、何が悪い」「逆らう方が悪い」「抵抗勢力に屈したらアカン」となる。 

 その背景―経済不況、就職難・格差・貧困など社会の矛盾噴出と閉塞状況。
そこから、わが身と子どもの将来への不安、政治や行政や教育などの既成のシステムとそれらの推進者・従事者(既成政党・議会・公務員・学校・教育委員会・教員など)に対する不信・不満・バッシングの蔓延。    
 それらを背景にして「ヒーロー」が登場、いわく「このざまはなんだ!」「日本を変えるために、日本全体のシステムを変えるために、この大阪からたちあがろう!」と。
  
 橋本氏―独裁を肯定―「日本の政治の中で一番重要なのは独裁」「独裁と言われるぐらいの力が日本の政治に求められる。政治はやっぱり独裁でなきゃいけない」と。
 知事と議会のあり方―選挙で勝ちさえすれば、何でもできる。議会は数の力で押し通せばよい。議論・話し合いなど不要(選挙で争った者たちの間でいくら話し合っても、話しがつくわけないのだからと)。
 橋本氏の率いる「大阪維新の会」―4月の選挙で、一挙に府議会で過半数、大阪市・堺市ともに市議会で第一党。
 それらの手法(ファッショ的独裁的手法)を肯定する向きが多い―
 争点を「大阪都構想」に賛成か反対かと単純化し、敵・味方を分け、自らを「改革者」とし、相手を「抵抗勢力」とか「既成政党」と言い立てる。(マスコミがそれに合わせる。朝日なども)―小泉元首相のように(「郵政改革」だけを争点にして、反対者を「抵抗勢力」と決め付けた)。庶民はそれを面白がる(「小泉劇場」)。

教育基本条例案―教育理念「グローバル社会に十分対応できる人材の育成―世界標準で競争力の高い人材を育てる」(教育を人格の完成―一人ひとりを人間として、また主権者国民として育てる―ためではなく、企業や国策に役立つ人材を育てるための教育に)。
  教育目標は知事が設定、従わない教育委員・教職員は罷免・処罰。
    知事の教育への政治介入を合法化―教育行政の政治的中立性(その役目は教育条件の整備にとどまり、教育内容には介入しないという原則)をくつがえす。        教育目標や教育方針は知事の選挙ごとに変わることになり、学校関係者は知事の意向や選挙の動向をたえず気にしなければならなくなる。
    教育委員会(この制度には問題があることも事実―戦後創設当初は住民の公選だったのが、首長による任命制に変えられた。但し、首長は、誰を委員にするかを決めて任命するが、それより先は口出しできないことになっている。ところが委員は専門家でもなく、非常勤。月に1・2回集まるだけの会議で、役所のつくった案をそのまま追認するケースが多くなってしまうので、「首長から独立」という強い権限が与えられている割には、十分な体制とは言えない、というのも事実)―その現状に不備があることを理由にしてその独立性を奪う。
    校長―公募で任期付き任用―予算要求権を与えられ、教員人事に関与。
       教育者としてよりも、首長が設定する目標の忠実な執行者としてのマネージメント(経営管理)能力が重視。
    教員を5段階評価(相対評価でS-5%、A―20%、B―6%、C―10%、D―5%に振り分けて評価―5%は必ずDにされてしまうことに)―それが給与・任免に反映、2回連続D評価されれば「指導研修」それでも「改善」見られなければクビ。
    教職員の職務命令違反―1回目は戒告もしくは減給、2回目は停職、5回目または同一の違反3回目には直ちに免職。
     (本来は、上司による教員への監督指導は強制力―法的拘束力―のない「指導助言」が相応しいやり方なのに、「命令」と。)
     (教員は生徒よりも校長の顔色ばかり気にするようになる。また教職員同士の協力関係と自由な(本音でつながる)絆が損なわれ、教育現場が萎縮するようになる。知事や校長などの目には「いい先生」でも、生徒にとって「いい先生」はいなくなってしまうということにもなる。)
     憲法(99条「公務員の憲法遵守義務」)よりも職務命令が優先。
     憲法が定める「思想・良心の自由」(19条)「学問の自由」(23条)それらよって支えられた「教育の自由」が奪われる。
    学力テスト、結果を学校ごと公表(序列化)―点数競争のさらなる激化を促す。(橋本知事が、「このざま(大阪が全国最下位)はなんだ」と言って、点数公表を迫ったのに対して市町村がそれを拒否したという経緯がある。)
    公立高校は3年連続定数(入学定員)割れすれば統廃合―学校が民間の会社のように生徒獲得競争へ―(長期的な視点にたった教育活動を充実させるよりも)人々の目に見えやすい短期的な成果(大学進学実績や非行・不登校の表向きの減少など)を追求する傾向を助長―進路が異なり、家庭的な背景や社会的条件の異なる子どもたちの多様な教育要求と矛盾。学校とは、学力も家庭環境も異なる多様な生徒がいて、一緒に学んで人間的成長を図るところなのに。それに学校というところには「地域の核」として住民をつなぐ役割もあるのに。)
     学区は撤廃―学校選択制―自由に学校を選ばせる―結果は自己責任に。
    学校協議会―委員は保護者及び教育関係者から校長が委嘱―①校長や教員を評価、②教科書の選定(推薦)に関して協議、③部活動の運営に助言―現実には保護者たちは忙しく、そんな時間的余裕はないので、結局は地域のボスが牛耳ることに。
     教科書の採択―校長が保護者と教育関係者(といっても教職員は除く)からなる学校協議会と協議して校長が推薦し、それを尊重して教育委員会が採択。(授業を直接担当する教職員の意向が入る余地まったくなくなる。)

 条例案をつくった起案者たちの考え・意識にあるもの―旧来の価値観・人間観・学力観―「強くて頭のいい人間」―エリート至上主義―まずは格差を受け入れてでも、秀でた者を育てる。
 企業の論理(競争主義など)を教育に持ち込む―競争で競わせて切磋琢磨することよって向上するのだとか、競争によって緊張が生まれ活性化するのだとか、厳しく追いたてて強靭な肉体と精神を鍛えるのだ、と。
 優勝劣敗・弱肉強食は自然の習いであり、勝者と敗者が分かれるのはしかたのないことだと。
 「私学助成が削減されると、私立高校に行けない子が増える。教育を受ける権利を奪わないで」と訴えた高校生に「日本は自己責任の国。いやなら日本から出て行くしかない」と。
 「人格形成だけでは生きていけない」といって、市場競争社会を生き抜くための競争的な学力・仕事力・生活力のほうを重んじ、生きていく根っことなる社会性・協調性・情緒的人間的成長・創造力など度外視。
 政治的中立の原則を否定―「教育が過度に政治から切り離された結果、国民の意見を反映させることができなくなった。結局、現場を支配したのは文部官僚。教育を無責任な官僚から国民の手にとり戻すのだ」と(坂井氏・「大阪維新の会」市議で条例案を練った人―朝日新聞)―市民から支持されて当選した知事は民意を代表する―その知事が口出しすることを通じて教育に民意が反映される。結果の是非は選挙で判断を仰ぐ。選挙で勝てば、自らの意見は(公約していないことや選挙で触れてないことまで)すべて市民から支持されたものとみなされ、民意を代表するものだ、というわけ。
 
 実状―大阪の教師の精神疾患の比率は全国平均の3倍、といわれる。

職員基本条例―職員は教員と同様に、5段階評価され、職務命令違反で処分されることに。
 (公務員は「全体の奉仕者」であって、住民の暮らしや福祉のために働く奉仕者であるはずなのに、知事への奉仕者になってしまうことに。)
 人件費削減をねらい、リストラ・整理解雇が可能となる。
 知事や上司にたいしてイエスマン・ゴマスリが増える一方、職場の自由闊達な雰囲気も士気も損なわれ、「全体(住民)の奉仕者」に徹しようとする真面目な職員の意欲が低下―住民にたいする公共サービスも劣化することになる。

大阪都構想―「大阪都」、だったら東京都と肩を並べられるようになるのかと、いかにも庶民の夢がかきたてられる(そこが着け目―イメージ先行)。
 大阪府の大阪市(政令指定都市で税収・予算規模が大で、府税収の中核をなす)との二重行政の無駄を解消するためにと、市(堺市も)を解体(特別自治区に分割、公選区長・区議会を設け)、市の権限と財源を取り上げて大阪都に一本化(「指揮官が一人の大阪」に)して権限と財源を集中させる。例えばカジノ構想など「僕(橋本)は賛成、平松市長は反対だが、大阪の方針はいったいどっちなのか、大阪都制度になればバチンと決まる」というわけ。
 (大阪がラスベガスのようなカジノ都市になり、その昔、信長や秀吉に抵抗した独立の気概溢れた堺の町は大阪市とともに消滅してしまうことになるわけだ。)
 「二重行政の無駄」―余計(不必要)な公共施設を建てるとか、余計な公共事業をやるとか、そのような無駄をなくするのはいい。しかし、そんなことは府と市それぞれが、その施設、その事業はどうしても必要なものか、余計なものか(他方に任せたほうがいいのか)互いに相手の考えを確かめ、或は打ち合わせて決めればいいだけのこと。そのためにわざわざ市を無くして「都」に一本化しなければならない必然性はあるまい。
 指揮官を都知事一人にして役所を都庁一つにし、議会も都議会一つにすれば、即断即決ができて効率がよく財政コストも省けるという理屈なのだろう。しかしそのことは何もかも(諸条例・諸方針)が一つの意志(一人の都知事・一つの都議会の意志)で決まってしまうということだ。
 橋本知事と府議会与党「大阪維新の会」議員の意志で、「君が代」起立斉唱条例と議員定数削減条例は既に決まって制定されてしまっている。そのうえ教育基本条例・職員基本条例が決まれば、都下の教育委員会・教職員・役所職員はすべて、それらの条例に従わなければならなくなり、これまでのように市長・市議会・市教育委員会がそれに反対し、それに相反することを決めようにも、その場がなくなってしまう、ということ。
 すなわち大阪都構想が実現すれば、一人の都知事とその翼賛議会ですべて決まってしまう独裁が貫徹しやすくなるということだ。

 教育基本条例・職員基本条例の両案とも、橋本前知事と「維新の会」が提案、現在は継続審議中。

 このダブル選挙で橋本氏と維新の会が勝てば、これらの条例案はすべて府民からも市民からも支持されたものと見なし、一気に強行採決して施行し、実行に移されるだろう。それに「都構想」が実現するようなことになれば、大阪市も堺市も無くなる運命に置かれことになる。
 そんなことになっていいのか、わるいのか。
 まずはファシズム独裁になってもいいのか、わるいのかだ。

 民主主義の良さとは、自分あるいは自分たちの考えが一番正しいという思い込みの上にたつ独断専行を避けるというところにある。自分あるいは自分たちの考えが一番正しいとは限らず他の人々の考えの方が正しいのかもしれない、だから皆の意見を(全ての民意、住んでいる地域や階層で立場・利害を異にするそれぞれの民意を代表する議員の意見、少数意見でも)聞かなければならない(話し合い・論議を尽くす)。そのうえで、なるべく(最大限)多くの人の納得が得られるようにして決める。それが民主主義なのである。ただし、それには時間がかかって非効率であり、コストもかかるという難点はある。しかし、間違いや不満を最小限にとどめることができる。
 ボトム・アップ(下の意見を聞いて決めるやり方)で住民が主体的に参加・関与し、連帯・協力。
 それに対して独裁はトップ・ダウン、住民は受身に(為政者・権力者に頼り、恩恵を期待)。
 「企業でもワンマン社長でうまくいってる例がよくある。松下幸之助や本田宗一郎のような」と(「報道ステーション」でコメンテータが言っていた)。トップ・ダウン(上意下達)型もわるくないというわけだ。
 独裁―選挙や議会開催など形式的法的には民主的手続きをちゃんと踏んでいるとしても、論議・話し合いを尽くさずに、支持する議員の数にものをいわせて多数決で強行採決をするなど、(朝日などでは「ケンカ民主主義」などという言い方もされているが)それも実質的には独裁にほかならない。
 独裁なら即断即決ができて効率よく、安上がり。
 独裁で、その時はたまたま、彼(または彼ら)が有能かつ人徳に優れ、あるいはそれらはさほどでもないのに弁論術など(ワンフレーズ・ポリティクスの術―「既成政党に抗して、既存の役所の既得権益をぶっ壊す庶民革命をめざすのだ!」などといった歯切れのいいワンフレーズで、人々を彼の言う全てが正しいと信じ込ませる術―など)には秀で、結果的にもうまくいって、それで彼(もしくは彼ら)の考えは正しかったという場合もあるにはある。しかし、間違いも犯しやすく(人々はその間違いを見落とし見逃してしまい)、とんでもない結果―不合理・混乱・争いや多くの犠牲―をまねいてしまうことにもなる(歴史上、英雄や名君はいるが、最近のリビアのカダフィ大佐もそうだったように、当初は英雄とみなされたが、やがて暴政、暴君と化し、民衆を窮状に陥れた)。
 住民・市民が「~派か反~派」のどちらかに分断されてしまい、地域社会に亀裂が生じ、多様な意見や価値観を認めない画一的な同調社会になりがちとなる。真の連帯、自由な心の絆は失われていく。 

 このような多数派独裁でいいのか、わるいのか。そして教育基本条例・職員基本条例など制定されたりしていいのか、わるいのか。それらこそが争点なのでは。
大阪府民・市民が持ち前の(威勢のよさばかりでなく、かつて黒田知事を選んだ時のように)良識を発揮されることをひたすら乞い願うばかりである。

 <参考>世界11月号に掲載の大内裕和(中京大学教授)と平井一臣(九州大学教授)両氏の論文。同12月号に掲載の金井利之氏(東京大学教授)の論文
 10月26~28日の朝日新聞「大阪府教育基本条例とは」(3回シリーズ)

2011年11月22日

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             気仙沼
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             岩手県立高田病院
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竹駒小学校
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            竹駒小学校の校庭 仮設住宅  
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高田松原
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        7万本あったのが一本だけ残った
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           瓦礫の丘に上って撮った
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