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2005年06月 アーカイブ

2005年06月01日

戦争被害各国に追悼碑を

 かつて日本軍から侵略され犠牲を被ったアジア近隣諸国民に配慮して、A級戦犯を合祀する靖国神社への首相参拝を控えるだけではなく、また自国に戦没者追悼施設を設けるだけではなくて、日本軍が侵略した各国に戦没者追悼碑を建ててはいかがなものでしょうか。勿論それぞれの国の意向と儀礼にそくして然るべき場所に建てるのである。そこには、その国の遺族や国民が訪れて追悼する。そしてその国を我が国の首相なり要人が訪問する際に、そこを訪れて追悼の誠を捧げ、不戦を誓う。それは諸国民とも納得できるものではないだろうか。そしてそれを通じて諸国民との和解・友好をはかるのである。
 戦後60年という画期にあたって一記念事業としてこういったことも考えてみてよいのでは。このさい我々は、自国の戦没者の追悼にこだわるだけでなく、日本軍から侵略された諸国の戦没者・犠牲者の追悼にこだわるべきなのではあるまいか。

2005年06月03日

専守防衛ならいいか?

 この考えは虚構の前提のうえに立っているように思われる。「日本は他国に侵略する敵意を持たない善良な国で、自衛隊は専守防衛に徹し、同盟国アメリカも正義の味方であって、その行動は常に合理的である」と。しかし日本人がそう思っても、世界中がそう思ってくれるわけではなく、自国のことを悪い侵略国だと思っている国などないわけである。
 それでも、自衛だけに徹する「専守防衛」ならいいではないか、という。そして「ミサイル防衛」(迎撃用ミサイル網の構築)も結構だと。
 しかしそれを云うなら、相手も「自衛」「専守防衛」のためだといって兵器を開発し、軍備を整えようとするわけである。そして、日米が「ミサイル防衛システム」を構築して相手の弾道ミサイルによる報復攻撃を封じておいたうえで「予防的自衛」と称して一方的に先制攻撃(相手が攻撃をかけてくる前にミサイル基地を攻撃)をかけてくるようなことは許してなるものかと考え、(ミサイル防衛をくぐり抜ける方法は電波妨害や「おとり」などいくらでもあるのだが)「攻撃は最大の防御なり」ということで弾道ミサイルを相手の迎撃ミサイルを上まわるだけ多く発射できるように増強することに努め、さらに相手の迎撃ミサイル網を突破できるだけの能力向上に努めようとするだろう。それを「自分のは防衛用だから善くて、相手のは攻撃用だから悪い」といってみたところで、そのような手前勝手な言い分は通らないわけであり、相手にたいして撤去・廃棄すべきだと要求したり、軍備の制限や軍縮を求めることができなくなってしまうことになる。北朝鮮の核問題にしても、アメリカの核の傘にある自分のは自衛・抑止用だから善くて、相手のは悪いという論理で一方的に放棄せよと云われても、相手は、それは受け入れられない、となるわけである。
 「専守防衛」といっても、お互い様なのであって、結局、相手の脅威を増幅する結果になってしまうのである。それに「専守防衛」ということで、敵が自国(領土)に侵攻してきたらそれに応戦する(迎え撃つ)となると、本土を戦場にし、自国民を巻き込んで大量の犠牲者が生まれ、居住地が焦土に化するなど、かえって危険なことになるし、そんなことならむしろ、「攻撃は最大の防御」とばかりに機先を制して敵国領土に打って出た方が自国民の生命・財産は守られるのである(それがアメリカが先制攻撃戦略をとる由縁であろう)。軍事的手段による防衛すなわち交戦するその限りでいえば、専守防衛ではむしろ防衛しにくく、先制渡洋攻撃すなわち機先を制して海の向こうに打って出たほうが防衛の実があげられるのである。しかし、それは「侵略」か[自衛]か、もはや区別がつかないものとなる。要するに「専守防衛」ならよいということにはならないのである。

抑止論の矛盾

 抑止論とは、相手の武力攻撃を予め抑止するために軍備は有効であるとして軍備を(核兵器も)正当化するものである。しかし、その抑止効果は、はたしてどれだけあるのか。すなわち、はたして、それで相手に攻撃を諦めさせられるのか否かである。
 その攻撃が、(領土や資源・権利・利益の獲得など)何らかの要求を達成しようとする政治目的に発する場合は、抑止効果はある。ただし、その抑止力は相手の戦力を上まわるか、対等でなければならない。相手が核ミサイルを持つなら、自らもそれを持つか、持っている国の同盟国とならなければならない。そして戦力の均衡(パワーバランス)を維持しなければならず、相手の戦力アップに応じて、たえず戦力アップに努めなければならない。そのための財政支出が際限なくなって、ついには持ちこたえられなくなって自滅する。冷戦でアメリカと核軍拡競争を演じたあげくに崩壊したソ連がその代表例である。後ろ盾(ソ連)を失った北朝鮮はアメリカに対して必死に対抗し核開発を進めているが、自滅に向かっているきらいがあると見られている。
 一方その攻撃が、かつて受けた仕打ち或いは現在受けている仕打ちに対する我慢のならない不満の爆発、憎しみ・恨み(復讐心)、絶望・聖戦意識・殉教心などに発する場合は効果は無い。なぜならその場合は、相手はそれを晴らすため「何が何でも」ということで、攻撃自体が目的(自己目的)となり、勝ち目があろうとなかろうと、迎撃・撃破されようが、自爆して果てようが、こちらがどんなに圧倒的な戦力を持っていようともおかまいなしであり、相手は攻撃を諦めず、それは抑止しきれない。かって日本の特攻作戦、アメリカやイスラエルに対するイスラム過激派の戦いがその実例であるが、自滅に向かう北朝鮮も「やぶれかぶれ」になって、それに走る危険性もある。
 アメリカは、ソ連に対しては抑止効果によって戦わずして勝ちを制したが、抑止のきかない後者(テロなど)に対して脅えることになる。
 軍備は相手に同等の軍備を促し、相手の攻撃を抑止するどころか、逆に攻撃を誘うという逆効果もある。なぜなら、それはけっきょく力に頼りがちとなるため、対話・外交交渉を充分尽くそうとしなくなり、「問答無用だ」といっていきなり、或は「もうこれ以上話し合っても無駄だ」といってさっさと開戦・攻撃開始に踏み切るか、「かかってくるなら、いつでもこい。受けて立つ」といって、逆に相手が仕掛けてくるのを誘い込む結果になりやすい。その意味では、それは攻撃を抑止するというよりは、むしろ誘発する。
 圧倒的な抑止力を持つアメリカは、同時多発テロに対していきなりアフガニスタンのタリバンを報復攻撃し、国連の安保理の合意に見切りを付け国連査察委員会の査察継続要求を蹴ってイラク攻撃に走ったし、北朝鮮に対して2国間交渉には頑として応じない。それで事は成功裡にはこんでいるのかといえば、逆である。アメリカなど5大国の「抑止力のため」と称する核保有は、NPT(核拡散防止条約)があるにもかかわらず、諸国家やテロ組織の間に核拡散を促す結果になっている。北朝鮮は「我々の核兵器はあくまで自衛のための核抑止力にとどまる」として核保有を宣言している。
 アメリカは、イラクに対しては予防自衛のためと称して先制攻撃を加え、戦争を招いたし、北朝鮮に対してもそれ(先制攻撃)を選択肢に入れている。戦争を抑止するための核軍備と云いながら戦争を招く。抑止論はまさに自己矛盾なのである。
 領海・領空侵犯やテロや拉致などに対する抑止力としての警察力は必要であっても、我が国に戦力(軍隊)は必要なのだろうか。政府・防衛庁も、近隣諸国で日本に武力侵攻する能力や意図をもつ国の存在は想定できないとしている。係争地となっている「北方領土」・尖閣諸島・竹島などの島や東シナ海の海底ガス田などの問題があるが、そのために戦争になるかもしれないなどという蓋然性は考えられない。それよりもむしろ、警察力以上の過剰な軍備(自衛隊の軍隊化と「日米防衛協力」体制)を持つことによって、かえって近隣諸国に緊張を強い、刺激して攻撃を誘いかねないという、その方が心配されるのである。

2005年06月06日

戦争にたいする民族的責任

 戦後60年にあたって、戦争責任を国民皆で考えてみては如何なものでしょうか。当時の国家指導者・戦争推進者、加担・協力した一般兵士・一般国民、その遺族。これらのうち戦死者・刑死者・その他亡くなられた方々は、もはや責任のとりようがないわけですが、その遺族すなわち現在生きているこの私も含めた全国民が民族的責任として引き継ぐべきものがあるのではないでしょうか。

 被害諸国民にたいする戦争責任には、戦死・刑死など死をもって償うものと、賠償・補         償、それに二度と繰り返さないという約束を守り続けることの3つがあります。賠償等は、いわゆる戦後処理として、政府間では既に済んだとされていますが、個人補償を訴えている被害者は未だたくさんいます。「二度と繰り返さない」という約束にあたるもの、それは憲法9条にほかならないわけですが、それを守ることこそが、今後引き続き日本国民に求められる民族的責任なのではないでしょうか。改憲はその責任を放棄することを意味し、被害諸国民にとっては大問題なわけです。

 これらの観点から、この際戦争責任を国民皆で考えてみるべきなのではないでしょうか。        

参拝で被害諸国民の「心」は?

 首相は靖国参拝を、「私の信条から発する参拝」「他の国が干渉すべきことではない」と言われる。しかし、同神社は単なる追悼施設ではなく、戦死を讃える顕彰施設なのです。神社の当事者は我が国の近代以降の対外戦争をすべて正当なものとし、戦犯裁判の判決を不当としてA級戦犯の合祀を正当化しているのです。そこへ参拝することは、客観的には、侵略の加害責任を否定することを意味します。侵略され多くが殺された被害諸国民から見れば、動員され命令に従っただけの一般の戦死者をその遺族や戦友がそれぞれの思いで参拝する分には目をつむっても、そこに首相が参拝するとなると、それは、日本の国家として、侵略の推進者・加担者を免罪・容認するものと見なされ、道義にもとる非礼この上もない行為として看過できず、苦情を訴えてくるのはむしろ当然ということになるでしょう。

 参拝は「心の問題」といって、自分の心は晴れるのかもしれないが、それで傷つく被害国の遺族の方々の心はどうなるのでしょうか。被害国民にたいして「反省とお詫び」を口では言っても、心の中でベロを出していると受け取られざるをえないでしょう。

2005年06月10日

靖国の首相参拝の客観的意味

「『靖国』は心のよりどころ」「戦争指導者は裁かれても犯罪者にはあらず」「ひたすら御霊の安らぐことを」とか、「心ならずも戦場に赴き、亡くなられた方への哀悼の誠を捧げ、不戦の誓いをする」とか、人それぞれの思いはあろう。しかし、靖国神社に参拝するとなると、それには客観的な格別の意味が付け加わる。その神社の客観的な歴史的役割からみて、また現在の神社当局が公表しているところから見ても、そこは、我が国の近代以降の対外戦争はすべて正当だとしてその戦死者を讃え祀る顕彰施設なのだ、ということ。そこを首相が参拝するということは、主観的にはどうあれ、それは、かの戦争を肯定し、戦犯までも讃えて敬意と感謝を表することを、日本の国家が認めることを意味する。日本軍によってむごい殺され方をした被害者の遺族たちの心は、それによって傷つき、耐え難いものとなるだろう。

それは確かに日本国民自身の問題には違いないが、それは日本国民が戦争の加害責任をどう思っているのかが問われているのだということであり、どう思おうとそれは勝手だというわけにはいかない問題なのである。

2005年06月18日

首相参拝には、やはり配慮を

 私の父は復員してどうにか帰ってきましたが、4人の叔父が戦死しました。肉親が国のために犠牲になって靖国に祀られているその遺族の方々の、首相に参拝に来てほしいという気持はわからないではない。しかし国の内外には、そこに祀られていない数多くの戦没者がおられるのだということです。戦災にあわれて亡くなられ、国から遺族年金など補償は一切なく、お悔み一つとしてもらっていない方々は沢山おられます。それに日本軍から侵略されたアジア諸国には遙かに多くの犠牲者がおられるのです。その遺族たちは、日本の首相に、何をさしおいてもその国へ追悼に来てほしいと思っているのでは。その方々のことも考えるべきなのではないでしょうか。首相にわざわざ参拝に来てもらうとすれば、罪無き人々を殺した側の顕彰施設と謂われもなく殺された側の追悼施設のどちらに来てもらわなければならないのか、と考える人もいるのです。

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