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2005年04月 アーカイブ

2005年04月01日

山形県議会議長殿―戦争を美化する教科書不採択請願

 先日県議会で、ある問題を積極的に取り上げた教科書の採択を求める請願が採択された。議会がそのような請願を採択するのであれば、私は次のような請願をしたい。
 「戦後60年、戦争の悲惨にたいする記憶が薄れ、それを体験的に知る世代が少なくなってきた今、その記憶を、次代を担う子どもたちに正しく伝え、あのような悲惨が二度と繰り返されないようにし、子どもたちが世界のどの国民とも仲良く平和の世に暮らしていけるようにするうえで歴史教育は極めて重要なものとなっている。
 ところが、その記憶の薄れに乗じて、ある種のイデオロギーからその戦争を肯定し、教科書から、それが近隣諸国民に与えかつそれによって自国民が被った悲惨な事実を「自虐史観だ」と称して意図的に省き、戦争を正当化・美化するような教科書が出版されている。
 そのような教科書で歴史教育が行われたのでは、60年以前に国民が被ったあの悲劇(第二次大戦での本県戦没者は約3万3200人)、近隣諸国民に与えたあの惨害を子どもたちの前途に再び呼び込む結果になりかねない。
 よってそのような教科書は、山形県内各校の使用教科書として、くれぐれも採択しないようにすることを請願いたします。」

常任理事国となる上で改憲は?

 政府は今、我が国が国連の安保理事国に加わる意思を表明している。それが認められるうえで、平和憲法の改変は、アメリカがそれを望ましいとしているが、中国や韓国などアジア諸国は否定的である。
 一方のアメリカは「日本がもし国連の安全保障理事国入りをしたいのであれば、九条を変えることを考えなさい」(パウウェル前国務長官)と云っているのに対して、他方は「日本は自衛隊の海外派兵の法的根拠を準備し、再軍備論議を活発に進めている。我々の苦しい過去を思い出させ、未来を不安にさせている。」「日本が普通の国家を越えてアジアと世界の秩序を主導する国家になろうとするならば・・・確固たる平和国家として国際社会の信頼を回復しなければならない」(ノムヒョン大統領)というわけである。
そこで、我が国が加盟国の3分の2以上の賛成を得て安保理事国入りを果たすには、アメリカが望むように九条を変える方向でいくのがよいか、それとも九条を守る方向でいくのがよいか、である。

自衛権があるからといって軍隊は?

 文明社会では、危機に瀕した場合、自力救済(自分の身は自分で守る)か他力救済(お巡りさんから守ってもらう)か、原則はどちらなのかといえば、それは他力救済なのである。勝手に報復したり、勝手に制裁・処罰(リンチ)したりしてはならないのと同じであり、警察・司法機関などの公権力によらなければならないのである。
しかし、それが、公的機関による救済の手が差し伸べられるまで待っていたのでは取り返しのつかない結果を被る恐れがある場合は、例外的に当事者または近くにいる誰かの助けを借りる自力救済が認められる。その際は、腕力・武力の行使その他、本来ならば違法となるような手段にうったえることもできる。それが正当防衛権ともいう自衛権である。

その正当防衛権・自衛権には三つの制約がある。一つは、急迫不正(差し迫った侵害)に対するもので、即時に食い止めなければ取り返しのつかない損失を被る恐れがあるか、または後日公権力の手で救済してもらうよりは、今阻止するほうが、利益が大きいという場合にとどまること。二つめは、他に適当な手段がないこと。三つめは、とられる手段は、侵害を遮止・排除するのに必要な範囲内(必要最小限)にとどまること、である。

個人の正当防衛の場合、暴力攻撃に対して身を守るには、手段を選んでいる暇がなく、警察や司法機関の出動を待っていたのでは取り返しのつかないことになるので、即時、自分の腕力か器物を使ってでも抵抗せざるをえない(「やらなければ、こっちがやられる」)わけである。それにたいして国家の自衛の場合は、他からの武力攻撃に対して軍隊が守るものには、自国の主権(独立)・領土・権益と国民の生命や死活的な生活手段とがあるが、国民の生命を守るといっても、軍隊が応戦(武力行使)をすれば、ミサイル(北朝鮮には日本が射程内にはいるもの200基以上、中国には大陸間弾道ミサイルは20基にその他中距離ミサイル・潜水艦発射ミサイルも)、作戦機(北朝鮮は610機、中国は2400機もつ)、艦艇(北朝鮮は600隻、中国は740隻もつ)など何百発か何百機か何百隻か撃破・撃退はしたとしても、すべてを撃破・撃退し尽すことは不可能であり(小泉首相も、3月15日の議会答弁で、将来導入しようとしているミサイル防衛システムについて、どのような兵器でも百発百中を保証することは難しいと言っている)、一発一機でも撃ちもらせば、それに搭載した大量破壊兵器によって、或は原発や石油化学施設、人口密集地帯が攻撃されれば大惨事となることは免れない。独立も領土も守らなければならないが、それらは、即時武力行使して反撃しなければ取り返しがつかなくなるというものでもない(何らかの他の手段、国連安保理などの措置を待つことができる)。

 したがって、国家は自衛権を有するとしても、それを軍隊によって行使(武力行使)するのは避けるべきなのである。

 尚、個人に正当防衛権があるからといって、我が国では、市民の銃刀の所持は一般には許されていない。ところがアメリカでは、それが西部開拓時代からの伝統で、銃の所持は憲法で認められていて、全米の家庭の半数が銃を所持しているというが、それでアメリカ市民は安全かといえば、さにあらず。殺人事件が人口比では日本の10倍近く起きており、戦火にある国以外では「世界で最も危険な国」ともいわれるのである。

 ところで、1992年ルイジアナ州で留学中の日本人高校生射殺事件があった時のことであるが、彼は訪問先の家を間違え、その家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、その時「もし、相手(その家の人)が銃をもっていなければ、まず言葉をかわしたはず」といわれる。武力をもてば武力にたよってしまい、「問答無用」となりがち、ということである。

 個人に正当防衛権はあっても、一般市民に銃刀の所持を認めるのは、かえって危険だということであるが、それは国家の自衛についても云えることであって、国家に自衛権はあっても軍備は持たないようにした方が、むしろ安全なのだということである。社会の安全と秩序を守るのに警察機関や司法機関が必要ではあっても、個々人に正当防衛権があるからといって銃刀の所持は許されないのと同じように、国際社会にも国際警察機関や国際司法機関が必要ではあっても、国ごとに自衛権があるからといって軍隊(戦力)は必ずしも必要とはされないばかりか、あることの方がかえって危険を招きやすいと云えるのである。

 それにたいして、皆が自衛用の武器・武力を持って抑止し合えばよいものを、それを持たない無防備な者がいるから攻撃を誘う結果になり、侵害や侵略がまかり通ってしまうことになるのだ、という論理がある。しかしそれは、無防備でいる方が悪い、襲われる方が悪い、弱いのが悪いといって、力(腕力・武力)の行使を正当化する「力の論理」であり、侵害行為を正当化する「無法者の論理」とも云えよう。弱い者や無力な者がいれば、強い者や力ある者がすべて無法者に化して彼らを食い物にするのが自然の理なのではなく、無法者がいれば、強い者・力ある者が弱い者・無力な者を守るか、さほど強くはなくとも多数が力を合わせて守ることの方がむしろ道理であろう。それは、「弱きを助け・・・」とか、「義を見てせざるは・・・」などという綺麗ごとでそうするのではなく、そうして無法者に制裁を加えることによって無法を許さず国内・国際社会の法と秩序を維持することが彼らの利益・国益を保障することになるからにほかならない。無法者は孤立し、制裁をこうむる。その制裁は、必ずしも腕力・武力(物理的強制力)によらなくともそれ以外の何らかの形でおこなわれ、無法者は痛手をこうむり、自滅に陥ることにもなるわけである。

 だからといって、無法者の出現に備えて、どの国も独自の力を身につけ強くなる必要も、助けてもらうために予め特定の仲間と手を組む必要もなく、警察・司法機関を設け、或は皆で力を合わせる体制をつくっておけばよいのであって、国際社会では国連の集団安全保障体制がつくられているわけである。

 国連憲章は武力行使の全面的禁止を原則とし、加盟国がどこからか武力攻撃を受けた場合には、例外として、安全保障理事会が措置をとるまでの間、攻撃を受けた国が個別的に、または集団的に自衛の措置をとることができると規定している。そこで個別的自衛権も集団的自衛権も認めてはいるが、そもそもは国連安保理が対処(非軍事的措置あるいは軍事的措置)すべきなのだということである。

 それに、集団的自衛権が認められているとして、武力攻撃をうけた時に、他の国から助けてもらうことはできても(その際、共同防衛のための条約などは必要としない)、それを当てにして予め安保条約などを結んで基地を提供し、外国軍の駐留を認めたりはしなくてもよいのである。(それはかえって、その国と敵対する勢力の攻撃を呼び込むおそれがあるのであって、そんなことはやめた方がよいのである。)

 要するに、個別的・集団的自衛権はあっても、国に軍隊は必要不可欠というわけではなく、日米安保条約など同盟条約が必要不可欠というわけでもないのである。

2005年04月13日

近隣諸国が日本に求めているのは?

このところの隣国における「反日」激化に対して我が国では様々なことが言われている。
政府は「未来志向で、これからの友好を」とか、「冷静な対応を」とか、過去の戦争や植民地支配に対する反省とお詫びの「立場は変わっていない」と言い、デモ被害には毅然と対応し謝罪・賠償を要求したという。マスコミ等では、反日は「愛国主義教育」のせいだとか、対日ジェラシーやライバル意識のせいだとか、政府に対する不満の「ガス抜き」だとか、隣国の側に問題があるからだといった論評が多く、「反日」に対して「反中」「嫌中」感情の高まり、ナショナリズムの衝突が論じられる。これらの指摘はいずれももっともなことではある。
 しかし、それだけでは何ら事態の根本的な解決にはならないであろう。
 そもそも近隣諸国民が日本に求めているのは何なのか。それは、過去の加害事実を曖昧にしたり否認したりせずに、その加害行為を二度と繰り返さないようにと定めた憲法の保証(いわば国際公約でもある)を守ることにほかなるまい。問われているのは我が国がその保証・公約をきちんと果たしているのかであろう。

近隣諸国の我が国に対する危機感

 隣国における反日の激化にたいして様々な論評がなされているが、事の本質は果たして何なのかである。
そもそも近隣諸国民が日本に求めているのは、過去の加害事実を曖昧にしたり否認したりせずにその加害行為を二度と繰り返さない、という確かな保障であろう。日本国憲法の戦争放棄条項は国際公約ともいうべきものであり、まさにその保証であったはず。
 しかし今や、改憲によってその保証が取り消されつつあり、日本はアメリカを後ろ楯にしながら再びアジアの覇権国家として蘇りつつある、と受け取られる状況になってきていることである。日の丸・君が代の強制や教育基本法改変による忠君愛国教育の復活的動きとともに、戦争と植民地支配を肯定する歴史教科書の公認、戦争肯定を含意する靖国神社への首相参拝、そして国連常任理事国入り表明。これらはいずれも、その懸念と結びつくわけである。日本に対して近隣諸国民は、それら一つ一つに危機感を覚えるのではないだろうか。

2005年04月17日

中国と何とかして和解を

 私が在職した高校は天津市のある学校と姉妹校を結んで生徒を派遣し合っておりますが、それが断絶してしまいかねない日中関係の情勢悪化を心配しております。
 反日激化の原因・背景は、日本と中国、どちらかといえば、我が国では中国国内の方に愛国教育など様々な問題が指摘されていますが、いずれにしても中国における今回のデモ騒ぎの結果は、中国にとってマイナスとなり、日本人の「反中」「嫌中」感情を強めてしまったうえ、中国側が問題にしている歴史問題など肝心の事が日本人にとっては「そんなことを問題にする方がおかしい」「それよりもそっちの方が問題だ」という結果なってしまっているということ。一方日本側にとってのマイナスは、根強い反日感情はますます払拭するのが難しくなってしまっているということ。
姉妹校である両校の生徒が、この後戦い合うなどということのないように、両国が和解すべく勇断されるよう、首相をはじめ政治家の方々に願うばかりです。

2005年04月18日

自らの非を正す率直さを

 中国の反日激化について、このところ我が国では「反中」感情が高まり、問題は日本よりもむしろ中国側にあると云わんばかりに愛国主義教育や民衆不満のガス抜きなど中国政府のやり方を問題にする様々な指摘がなされている。それらの批判や指摘は当を得たものかもしれない。
 しかし我々は「ひと」の事をとやかく言うのはほどほどにして(先方から見れば「そんな事は余計なお世話だ」「問題のすりかえだ」となり、感情を逆なですることになるから)、中国側がかねてから問題にし、日本側に訴えてきた問題を正面から受け止め、戦犯を合祀する靖国神社への首相参拝も、侵略肯定教科書の公認も不適切であることを認めて、それらをやめさせることに意を注ぐべきなのではないか。日本では、首相をはじめ、それらのことは歴史認識とは別問題だと強弁する向きがあるが、そのような言い分には無理があり、それが不適切であることは否定できないし、それらをやめないということは、反省し詫びたはずの過去の侵略をその実依然として肯定していると受け取られ、それは許しがたいことだとならざるをえないからである。
 われわれ日本人には、「悪い事は悪い」と認めてそれを正す率直さ・潔さが必要であり、「悪くない」「間違っていない」と強弁する頑固さや意固地よりも、その方がむしろ世界からも信頼が得られるのではないか。それは、相手に譲歩するとか、弱腰だとか、単なる面子の問題ではなく、そうすることこそが、何より、両国民和解の根本的な解決法だからである。

2005年04月23日

それとこれとは別か?

 隣国の反日激化の沈静化に苦渋し、首相がジャカルタに集まった各国首脳を前に過去の侵略に「反省とお詫び」の言葉を述べたそのやさきに、国会議員が大挙して靖国を参拝した。
 その政治家たちは参拝批判に対して「それ(戦争の肯定)とこれとは別だ」と言って受け流すか突っぱねる。
 しかし、靖国といい、歴史教科書といい、それらの問題は教育基本法・憲法の改変と底流でつながっている一連の動きとして見られるもので、特に憲法の9条は、近隣諸国にとっては、安全保障上、侵略の再発防止の保証をなすものであるが、肝心のその「戦力不保持・交戦権否認」が削除されるという一大事に関わるものなのであって、単に過去にとらわれているだとか日本の国内問題だといって済まされるような問題ではないのである。
 言葉と行動を使い分け、相手の神経を逆なでするようなことはもうやめるべきだ。

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