9月のつぶやき 12213 1511 1743
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9月のつぶやき 12213 1511 1743
1868年、明治維新
1871年、日清修好条規―対等条約で互いに治外法権を認め合う
1872年、琉球王国を廃し琉球藩として日本の版図に組み入れる
1873年、征韓論(朝鮮政府が日本に対して鎖国政策をとって国交回復を拒絶したのに対して出兵・軍事行動を主張)、強まり、新政府、西郷・板垣らが征韓の方針を決定するも、大久保・岩倉らの反対で実行されず、征韓派は下野。
1874年、台湾出兵―近代日本初の海外派兵
1875年、江華島事件―仁川の付近の島に日本軍艦が接近、砲火を交え、上陸、砲台を破壊
1876年、日朝修好条規―江華島事件の責任を追及するとして、日本の使節(黒田清隆)が軍艦を引き連れて江華島に乗り込み、圧力を加えて締結―不平等条約―治外法権を認めさせ、朝鮮側には自主権がない一方的な関税自主権を認めさせる―日本の貨幣は朝鮮で自由に通用ようにし、日本の貿易輸出品については関税をかけない―日本が欧米によって強いられた不平等条約を、さらに上回る(不平等)
1894年、日清戦争―朝鮮で起きた農民反乱(東学党の乱)に乗ず―清国が朝鮮政府の要請に応じて出兵、それに対して日本も出兵(清国側の数倍の大軍)―朝鮮政府は東学党と和解して日清両軍に撤兵を求めるも、日本軍は、朝鮮政府に難問を突き付け朝鮮王宮を占領(朝鮮政府に清国軍を国境外に追い出すことを日本軍に委託させ、それに応じて清国軍を攻撃(開戦)―「宣戦の詔勅」には「清国が朝鮮を属国扱いしている・・・・日本は朝鮮
の独立のためにかうのだ」と―豊島沖の海戦→日本軍は清国領に侵入、東学党の農民軍が日本軍に抗戦(抗日闘争へ)―朝鮮政府と日本軍により弾圧
1895年4月、日本軍が勝利して日清講和条約(下関条約)―清国側が日本に巨額の賠償金を払い、台湾と遼東半島を割譲(遼東半島の方はロシアなどの三国干渉で放棄)
10月、閔妃殺害事件―朝鮮国王(高宗)の妃(閔氏)、高宗の実父で摂政として実権を握ってきた大院君を失脚させ、ロシアに接近、親日派を追放して政権を握るも、日本軍が王宮を取り囲み、そこへ日本刀を振りかざした壮士らが侵入して殺害さる(朝鮮人同士の争い―「魯国党」対「日本党」―に偽装)、大院君が政権に復帰。
1897年、高宗が朝鮮王国を「大韓帝国」(韓国)と改称して皇帝を称す(清国や日本との対等を表現)
1904年、韓国、日露両国に対する中立宣言―日本はそれを無視。
2月、旅順港のロシア艦隊を奇襲して日露戦争・開戦、仁川港からソウルに進入・占領、日韓議定書を強要―朝鮮半島での日本軍の軍事行動の自由を確保し、韓国の内政に介入できるようにする。
5月、韓国全土を占領、韓国を保護国化(外交・軍事・財政権と経済利権を剥奪)―韓国は主権を喪失、事実上の植民地化。
8月、第1次日韓協約―日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならないことにし、韓国の外交の重要案件は日本政府と協議することを認めさせる。
韓国の貨幣制度を日本の貨幣制度に従属させる。
ソウル―釜山間、ソウル―新義州間鉄道を開通。
日韓通信機関協定―韓国の郵便・電信・電話を委託経営の名の下に日本政府の管理下に。
1905年以降、反日武装闘争が朝鮮半島各地で(義兵闘争)。
4月、韓国保護国化の方針―米英など列強から承認を取り付ける。
9月、ポーツマス条約で日露戦争・終結―日本は韓国に対する保護権をロシアに認めさせる。
11月、伊藤博文が特派大使として高宗(皇帝)に謁見し、保護条約案を変更の余地のない確定案として突きつけ「もし韓国がこれに応じなければ、いっそう困難な境遇に陥ることを覚悟されたい」と威嚇、韓国政府の会議に臨席し、条約案への賛否を問い、反対意思の表示が不徹底なものは賛成とみなし、賛成多数であるとして調印させる→第2次日韓協約―韓国の外交権をほぼ日本が接収―韓国は事実上日本の保護国に。漢城(現在のソウル)に日本政府代表機関(統監府)―伊藤博文が初代統監に。韓国政府の首班には李完用が就任
1907年、ハーグ密使事件―オランダのハーグでの万国平和会議に韓国皇帝が主権回復を提訴しようと使節を派遣するも、会議参加は拒絶される。
皇帝(高宗)は伊藤統監と李完用首相によって譲位させられ退位。
第3次日韓協約―統監府の統治権限を強化(内政権も掌握、中央・地方の要職に日本人官吏が任命)、韓国の軍隊解散。
抗日・義兵闘争が半島全土に拡大―全国義兵連合軍が結成。
1909年、安重根(アン・ジュングン)が伊藤博文を暗殺。
1910年、日韓併合条約―寺内統監(日本の陸軍大臣)と李完用首相が調印、「大韓帝国」滅亡、朝鮮は日本帝国の一地方と見なされ、ソウルに朝鮮総督府―天皇直属で行政・立法・司法・軍事など全権力を行使―寺内が初代総督に。
軍人である憲兵隊が警察署を指揮下に置く憲兵警察制度で「武断政治」(強権支配)。
1910~18年土地調査事業―多くの農民が書類の提出ができず、土地の所有権を失う。取り上げた土地は日本人に安く払い下げられ、農民の80%が小作人となる。
1911年、朝鮮教育令―朝鮮人の「皇民」化教育―教師が剣(サーベル)をぶら下げる。
1912年、朝鮮民事令・朝鮮刑事令
1919年、3.1独立運動―朝鮮全土で110万人参加―弾圧・虐殺(教会に閉じ込めて焼き殺すなど)・拷問で多数の犠牲者(死者7500人、負傷者1万6000人)。
第3代総督・斉藤実―それまでの武断政治から「文化政治」に転換―憲兵警察制度は廃止されるも普通警察を増員・強化。治安維持法を朝鮮にも適用。
日本人に協力する「親日派」を養成・利用(独立運動を分断)。
1923年、日本で関東大震災の混乱下、朝鮮人が暴動を起こすなどのデマが飛び、住民の「自警団」や軍・警察によって朝鮮人が数千人殺害される。
1937年、「皇国臣民の誓詞」制定―学校・会社・工場などで毎日唱和へ。
1938年、陸軍特別志願兵令
朝鮮教育令改定―朝鮮語教育を廃止(日本語だけで教育)、
1939年、朝鮮総督府が労務動員計画を施行―朝鮮から労働者が日本へ渡るようになる(募集方式でも行政・警察当局により強力な勧誘)。
1940年、「創氏改名」(姓名を日本名に)
1940年、陸軍特別志願兵臨時採用施行規則で学徒出陣を定める。
1942年、「朝鮮人内地移入斡旋要綱」―官斡旋方式による徴用。
1943年、朝鮮に徴兵制を適用(日本軍兵士として徴兵)
軍需会社法―軍需工場に指定された会社に勤めている朝鮮人労働者を(「募集」であれ「官斡旋」であれ)徴用された身分で働かせることに。
1944年、国民徴用令の適用(日本の工場や鉱山で徴用。動員は企業による募集、時には威嚇や物理的な暴力を伴った)、女子挺身隊勤務令
1945年8月、日本政府、連合国のポツダム宣言(「カイロ宣言」の「履行」うたう)を受諾。
15日、日本の無条件降伏により朝鮮が解放―「光復節」として祝う。
9月、米ソが朝鮮を南北分割占領。
1948年4月、南朝鮮だけで単独選挙
8月、大韓民国を樹立(李承晩政権)、これに反対して済州島で武装蜂起、米軍と警察により鎮圧(数万人虐殺―4.3事件)。
9月、北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国が樹立
1949~50年に、日本政府が、後(51年)のサンフランシスコ講和条約にむけた準備対策として作成した文書に、朝鮮など「これら地域はいずれも最も未開発な地域であって、各地域の経済的・社会的・文化的向上と近代化は専ら日本側の貢献によるもの」「日本のこれら地域の統治は(補助金や資金注入で)『持ち出し』になっていたといえる」と記す。
1950年、朝鮮戦争
1953年、休戦協定
1965年、朴(パク)チョンヒ大統領(旧日本軍の関東軍中尉だった人物、軍部独裁政権)と佐藤栄作首相との間で日韓基本条約・締結―日韓両国間の外交関係・樹立(国交正常化)。1910年の韓国併合条約(それが合法だったのか不法だったのか、交渉段階で日本側代表は「朝鮮36年間の統治は、いい部面もあった」「日本は朝鮮を支配したというけれども、我が国はいいことをしようとしたのだ」などと発言して争われたが決着つかず)は失効(「もはや無効である」)という表現で折り合った。(その対立が現在に至るまで尾を引いている)
日韓請求権協定も→日本が韓国に「経済協力金」として5億ドル(内無償が3億ドル、有償が2億ドル)支払う。(日本政府はこれに基づき徴用工補償問題は「解決済み」としている―無償3億ドルに個人の補償問題の解決金も含まれる、としているが、この年の11月、参院本会議で椎名悦三郎外相は「これは経済協力であり、韓国の新しい出発を祝う祝い金だ。・・・・これは賠償の意味を持つと考える人がいるが、賠償とは何ら関係はない」と答弁している。)
1979年、朴大統領・暗殺
1980年、全(チョン)ドゥファン、クーデタで実権にぎって大統領に就任(軍部独裁政権)―キム・デジュンら有力政治家を逮捕・追放。
光州事件―学生・市民が民主化を要求
1987年、韓国、民主化―金(キム)ヨンサム大統領
1991年、日本では参院予算委員会での「請求権」問題に関する質疑で、柳井外務省条約局長が次のように答弁―「日韓請求権・経済協力協定の2条1項におきましては、日韓両国及び両国民間の財産・請求権の問題が完全かつ最終的に解決したことを確認しておりまして、また第3項におきましては、いわゆる請求権放棄についても規定しているわけでございます。これらの規定は、両国民間の財産・請求権問題につきましては、日韓両国が国家として有している外交保護権(外国において自国民が身体や財産を侵害され損害をうけた場合に、国がその侵害を自国に対する侵害として相手国に対して国家責任を追及し外交的手続きを通して適切な救済を求める国際法上の権利)を相互に放棄したことを確認するものでございまして、いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではないということは今までも御答弁申し上げたとおりでございます。これはいわゆる条約上の処理の問題でございます。また、日韓のみならず、ほかの国との関係におきましても同様の処理を条約上行ったということはご案内の通りでございます」と。
1991年3月26日、参院内閣委員会でのシベリア抑留者に関する質疑で、高島有終外務大臣官房審議官が、1956年の日ソ共同宣言で日本の国家自身が持つ請求権は「放棄」となっていても、国民個人(抑留者)からソ連またはソ連国民に対する請求権までも放棄したものではないと答弁。
8月14日、「慰安婦」だった人物(金学順)が実名で体験を公表。
1992年、韓国で「慰安婦」問題解決のための「(毎週)水曜日行動」開始。
1993年、河野官房長官談話―日本軍「慰安婦」問題について、軍の強制を認め、「心からのお詫びと反省」を表明。
1995年8月15日(戦後50周年)、村山首相談話(閣議決定に基づく)で「国策を誤り」「植民地支配と侵略によってアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」と公式に植民地支配を認め、「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明。同首相は「韓国併合条約」について、国会答弁で「対等平等の立場で結ばれた条約とは考えておりません」と。
9月、元徴用工・韓国人の遺族11人、新日鉄(釜石)と日本政府に遺骨返還と損害賠償を求め東京地裁に提訴。
1997年9月、元徴用工訴訟、原告(遺族)が訴えを取り下げ和解(新日鉄が行った人道的な見地からの積極的な遺骨調査と慰霊のための協力の申し入れ等を高く評価)―慰霊祭のための費用として一人当たり計200万円支払われる。
12月、元徴用工2人が戦時中そこで働いた新日本製鉄・現新日鉄住金に対して補償を求めて日本の裁判所(大阪地裁)に訴訟を起こした、その際の判決は「日韓請求権協定で個人請求権は消滅した」として敗訴。
1998年、金(キム)デジュン大統領・就任
「日韓パートナー宣言」―キム・デジュン大統領が来日して小渕首相と―朝鮮半島の日本による植民地支配について、日本が「過去の一次期、韓国国民に対し、植民地支配により多大な損害と苦痛を与えた歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し痛切な反省とお詫び」を表明(日本の韓国に対する植民地支配への反省」という表明が、日韓両国の公式文書で初めて盛り込まれた)。
1999年、一韓国人・元徴用工の日本鋼管に対する訴訟が東京高裁(控訴審)で和解(解決金410万円)。
名古屋の三菱軍需工場で働いた元勤労挺身隊の韓国人女性が日本政府と三菱重工を訴えて訴訟。
2000年、韓国人・元女子勤労挺身隊員ら8名の富山市の機械メーカー(当時は軍需工場)・不二越に対する訴訟が最高裁(上告審)で和解(解決金―8人と1団体に計3000万円)。
2001年、国連「ダーバン会議」で奴隷制や植民地主義、ジェノサイド(虐殺)など過去の悲劇に対する反省、謝罪を求める決議を採択。
2003年、元徴用工訴訟(1997年12月提訴)の日本での裁判は最高裁で敗訴確定。
廬(ノ)ムヒョン大統領 就任。
2005年、名古屋三菱・元挺身隊訴訟で名古屋地裁が韓国人女性の請求を日韓請求権協定を理由に棄却→控訴へ。
韓国国会「真実・和解のための過去整理基本法」可決―「日帝植民地支配と南韓の独裁政権における反民族行為と人権侵害・不法行為の真相糾明―被害の実態、責任の所在などの解明へ。
韓国政府、1965年の日韓請求権協定で日本から得た経済協力金の3億ドルのなかに「強制動員被害の補償問題の解決」も含まれるとの見解を発表、元徴用工の補償は韓国政府が取り組むべき課題とした―自国の予算で元徴用工や遺族を支援へ、約22万6千人を被害者と認定し、約6200億ゥォン(約620億円)を支給。
しかし、こうした支援策に不満な元徴用工やその遺族は訴訟に向かった。
1997~2007年日本の裁判所で敗訴した2人は、他の2人と同社・新日鉄住金を相手どって韓国の裁判所に提訴。韓国の裁判所は、1審(ソウル中央地裁)・2審(ソウル高裁)で、日本の裁判所が出した判決は韓国でも効力を持つと指摘。原告の主張を退けた。これは韓国政府の見解にも沿った判断だった。
2007年4月、中国人強制連行被害者が西松建設に対して起こした訴訟で日本の最高裁は、1972年の日中共同声明(その中で中国政府の外交保護権は放棄)によって個人が「裁判上訴求する権利は失った」としながらも、それは「個人の請求権を実体的に消滅させることまで意味するものではない」として、日本政府や企業による被害の回復に向けた自発的対応を促す判断を下す(西松建設は被害者に謝罪し、和解金を支払っている)。
名古屋三菱・元挺身隊訴訟の控訴審で名古屋高裁が「原告(韓国人女性)らの請求する権利はあるも、日韓請求権協定により訴権は失われている(請求を受ける側には請求に応じる法的義務はない)」として控訴棄却―但し強制連行・強制労働の不法行為は認め、「個人の尊厳を否定し、正義・公平に著しく反する不法行為」と断じる。2008年最高裁判決で敗訴が確定。
2008年2月、李(イ)ミヨンバク大統領、就任。
6月韓国政府「太平洋戦争前後国外強制動員犠牲者支援委員会」設立―犠牲者に「慰労金」(本人や遺族から申請のあった8万3829名を認定、死者・行け不明者に対しては一人約200万円支給)
2010年(日韓併合100年)、菅直人首相談話―村山談話を踏襲して、過去の植民地支配に対する「反省とお詫び」を表明。
2011年、韓国の憲法裁判所が、韓国政府が日本軍慰安婦と原爆被害者らの賠償請求権問題(1965年の日韓請求権協定と関連した紛争)を解決するために具体的な努力をつくさない(「不作為」)を違憲と判断。
2012年、 韓国大法院(最高裁)が元徴用工に個人請求権を認定(1997~2003年の「日本の判決は、植民地時代の強制動員そのものを違法とみなしている韓国の憲法の核心的価値と衝突する」と認定。当時の労働実態は「不法な植民地支配に直結した反人道的な不法行為」だと指摘し、請求権協定によって個人請求権は消滅したとは見なせないとして)、1審・2審破棄、控訴審に差し戻し-これを受け13年、ソウル高裁は差し戻し控訴審で新日鉄住金に原告の請求通り計4億ウォン(1人1億ウォン)の賠償を命じたが、新日鉄住金は不服として上告。
10月、名古屋三菱で働いた元挺身隊員(本人・遺族5人)が韓国の光州地裁に慰謝料を請求して提訴(その後、支払いを命じる判決→控訴→上告へ)。
2013年2月、朴(パク)クネ大統領、就任
2014年、韓国で「日帝強制動員被害者支援財団」設立。
2015年8月14日(戦後70年)、安倍首相談話―河野談話・村山談話・日韓パートナーシップ宣言・菅談話に比べて大きく後退―「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」の4つのキーワードは入っているものの、一般論か第三者的な表現で(「我が国が」「私は」という主語がなく)主体的な責任意識が示されていない―「日露戦争は、植民地支配にあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と美化。
12月、日韓が慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認(合意)。
31日「太平洋戦争前後国外強制動員犠牲者支援委員会」の活動終了(委員会解散)―08年設立以来22万件以上強制動員被害申告うち11万件に支援金(「慰労金」)支給。
2016年7月、韓国政府が「和解・癒し財団」設立―そこへ日本政府が10億円拠出(「賠償金」ではなく「支援金」として)―元慰安婦・遺族の多くは現金支給に応じたが、受け取りを拒否して日本政府に加害事実の認定と直接謝罪を求めた要求は満たされておらず。
12月、釜山の日本総領事館前に市民団体が「少女像」設置。
2017年1月、日本政府が駐韓大使の一時帰国など対抗措置発表。
5月、文(ムン)ジェイン大統領、就任
12月、韓国外相直属の検証チームが慰安婦問題の日韓合意は「不均衡な合意」と公表。
2018年10月、韓国大法院(最高裁)は、上告審(2013年、新日鉄住金が上告したもの)で個人の請求権を認めた控訴審判決を支持し、新日鉄住金の上告を退けた。これにより、同社に1人当たり1億ウォン(約1千万円)を支払うよう命じた判決が確定。
韓国最高裁は、日韓請求権協定の交渉過程で日本政府は植民地支配の不法性を認めず、強制動員被害の法的賠償を根本的に否定したと指摘し、そのような状況では慰謝料請求権(未払い賃金や補償金ではなく、植民地支配と侵略戦争の遂行と結びついた日本企業の反人道的な不法行為・強制動員に対する慰謝料)は請求権協定の適用対象に含まれると見なすことはできないとした。
これに対して日本側が反発。河野外相は「請求権協定に明らかに違反し、両国の法的基盤を根本から覆すものだ」と抗議。安倍首相は「判決は国際法に照らして、あり得ない判断だ」と批判。一方、韓国政府は「司法判断を尊重し、被害者たちの傷が早期に最大限治癒されるよう努力していく」とする政府声明文を発表。
2018年11月14日、日本の衆院外務委員会―日韓請求権協定(第2条)についての1991年参院予算委員会における柳井外務局長答弁(「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」と答弁したこと)「これは間違いないか」との質問に対する河野外相の答弁―「(請求権協定によって)個人の請求権が消滅したと申し上げるわけではございません」と。(つまり個人の請求権は消滅していない。だとすれば元徴用工が新日鉄住金に賠償請求する実体的な根拠はあるということであり、請求権協定違反には当たらないということになる。)
また、同質問者が、原告が求めているのは(財産的損害も精神的損害も全ての損害に対する賠償金ではなく反人道的な行為よる精神的苦痛に対する「謝罪」即ち「慰謝料」なのであって)朝鮮半島に対する不法な植民地支配と侵略戦争に直結した不法行為を前提とする強制動員への慰謝料だと指摘。日韓請求権協定の締結に際し韓国側から提出された8項目の「対日要求政綱」の中に「慰謝料請求権は入っているのか」とただし、92年3月の衆院予算委員会で柳井条約局長が「慰謝料等の請求に」は「いわゆる財産的権利というものに該当しない」と言明していたと指摘。日韓請求権協定で個人の慰謝料請求権は消滅していないということではないか」とただした。また、日韓協定と同年に制定された「大韓民国等の財産権に関する措置法」で韓国民の権利等を消滅させる措置をとったことに関連して柳井氏は、「(日韓請求権協定上)『財産、権利及び利益』について、一定のものを消滅させる措置を取ったわけでございますが、そのようなものの中にいわゆる慰謝料請求権というものが入っていたとは記憶しておりません」とも述べており、「個人の請求権は請求権協定の対象に含まれていないことは明らかではないか」との質問に対し、三上国際法局長は「柳井局長の答弁を否定するつもりはまったくない」「権利自体は消滅していない」と認めた。
これらの質問によって①1965年の日韓請求権協定で個人の請求権は消滅していないこと、②韓国の「対日要求政綱・8項目」に対応する請求権協定には個人の慰謝料請求権は含まれておらず、慰謝料請求権まで同協定によって消滅したとはいえないこと、③日本国内で韓国国民の財産権を消滅させた措置法も、慰謝料請求権を対象とせず、措置法によって慰謝料請求権は消滅していないことが確認。
同質問者が、河野外相に「日韓基本条約及び日韓請求権協定の交渉過程で、日本政府が植民地支配の不当性を認めた事実はあるか」とただしたのに対しては、外相は「ないと思います」と答弁。(ということは韓国最高裁が指摘した「植民地支配と侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為・強制動員に対する慰謝料請求権は請求権協定の適用対象には含まれると見なすことはできない」としたことに反論はできないことになる。なぜなら、慰謝料は生命・自由・名誉などを侵された時、その精神的損害(苦痛)に対して(それを金銭的に評価して)支払われる賠償であり、謝罪を前提として支払われるべきものであって、何ら誠意ある謝罪の意志もなく、いわば「こっち(日本政府)は何も悪くないが、そっち(韓国政府)がカネを求めているから、それを『経済協力金』として『供与』した」などと、政府間ではチャラに済まされるとしても、当の被害者にとっては、それで済まされてはかなわない、となるだろうからだ。)
2018年11月21日、慰安婦問題「財団」解散、発表
29日、韓国最高裁―いずれも三菱重工の、広島工場で働いた元徴用工と名古屋工場で働いた元挺身隊員が訴えた両裁判で、原告の訴えを認め、日本の不法な植民地支配や日本企業の反人道的行為を認定し、賠償を命じる。
2019年1月、日本政府が韓国政府に対して請求権協定に基づく2国間協議を要請―韓国側は応じず。
5月、日本政府が韓国政府に対して請求権協定に基づく仲裁委員会(委員―日韓から各1名、第3国から1名」)の設置を要請―韓国側に委員の任命を求めるも応じず。
6月、日本政府が韓国政府に仲裁委員会の委員3名とも第三国に選定を委ねることを通告も、韓国側は応じず― 日本政府は国際司法裁判所に提訴、検討へ 。
(韓国政府関係者は、仲裁委員会設置に慎重になっている理由について「その手続きに入れば、植民地支配は不法だったと主張する韓国と、それは国際法上合法だったとする日本の立場がぶつかり合い、両国関係は双方の国民感情を巻き込んで制御不能になるとの認識がある」と説明)
韓国側が「日本と韓国の企業が資金を出し合い、原告らに賠償金に相当する額を払う」という案を発表―日本側は拒否。
7月、日本政府が韓国への半導体材料の輸出規制を決定。
8月2日、日本政府が韓国に対して安全保障上の輸出管理で優遇対象国から除外を決定。
22日、韓国政府が日韓軍事情報協定の破棄を決定。23日、大統領府の国家安保室第2次長が記者会見・その決定に至った経過説明の中で、「われわれとしては心から偏見なしで日本と強制徴用問題を外交的に解決するために、すべての方策について肯定的に検討する用意があり、そのような立場を日本側に伝えてきた。しかし、これに対する日本の対応は単なる『拒否』を超えた私たちの『国家的自尊心』まで毀損するほどの無視で一貫しており、『外交的欠礼』を犯した」と。
毎日新聞(8月27日)―河野外相の記者会見の記事で、前年10月の韓国最高裁が原告の元徴用工に対して日本企業に賠償を命じた判決に対し、「日本側が韓国政府に賠償の肩代わりなど判決の無効化を要求。韓国政府は日韓企業が元徴用工に金銭を支払う案を提示したが、日本側は『協定違反の是正にならない』として拒否した」と報道。
長らく交友関係を結んできた酒飲み友だちの間柄だが、話題が当方にとっては、一番の関心事―このブログにあるような話題は、「政治の話になると酒がまずくなるから話題にしないようにしよう」となって、話題からはずされ、どうも「あたりさわりのない」ような話ばかりになってしまってる。それが、たまたま話のなりゆきから日韓問題に話が及んで、とうとうぶつかってしまい、「ケンカ別れ」。これで絶交になるのか―まるで日韓関係と同然。
そこで色々考えた。
思想傾向が右(保守)系か左(リベラル)系か、どっちか同系で気心の知れた人同士なら政治問題を話してもどうということはなく、それどころか(SNSなどで)「そうだ、そうだ」「いいね、いいね」と同調し補強し合って、中には益々強硬・過激になったりしがちだが、左右ごっちゃに入り混じって談話・対話して政治問題に話が及ぶと、とたんに場がシラケたり口論になり、酒席の場では険悪なムードになりケンカになったりする。
酒を飲むとこの種の話題(政治談議)は感情が激し、冷静な話ができなくなって、口論になってしまうしまいがち。「酒がまずくなる」。確かにそうかもしれない。
酒には「悪酔い」とか、かえって心身のストレスを悪化させる弊害がある。しかし、ざっくばらんに(オープンに本音で)語れて、ストレスを発散できるという効用もあるのだが。
世間(この国?)では、「酒飲みの場で(職場の)仕事の話はしないようにしよう」とか、政治と宗教とプロ野球(対戦)の話は禁物(話題にしないこと)とされる。
しかし、宗教やプロ野球の話はともかく、政治を話題にしないのは如何なものか。
時と場合によっては酒席(冠婚葬祭・祝賀会・懇親会など)の場で、開催の趣旨にそぐわず場を壊すような話は控えるのが常道ではあろう。しかし、こと政治に関する限り、社会の全ての人々にとってどんな語らいの場でも自分の思い・考え・意見をオープンに本音で語り合うことは必要であり、大事のことである。
民主主義はそのためのもの。自分も、その場で対話する相手も、或は交信する不特定多数の相手たち全員が主権者として思想・信条・言論の自由が保障されて参政権を行使しなければならない制度のもとにある限り、政治を話題にすることは必要不可欠なことであって、けっしてそれがはばかられるようなことがあってはならない。
ところが、この国では、どうもそれ(政治を話題にすること)が敬遠される風潮がある。
それは国民性からくるのか?日本人はナイーブ(神経が繊細―「傷つきやすい」性格―傷つくのを恐れて、そんな話題を避ける)?古来から「村社会」における「和」―同調圧力の意識が強く、「和」を乱し排除されることを恐れて自主規制し互いに忖度し合う気風?だから「和」を乱して自分が傷つくことを恐れて、政治向きの話は極力控えようとするのか?
いずれにしろ、人との会話で政治を話題にすることを避け、そこから関心をそらすという風潮が国民を支配している、それが問題なのである。それでは民主主義が成り立たない。
日頃から、しょっちゅう政治を話題にすることによって政治の意識も知識も向上し、実のある主権を行使することができる。さもなければ民主主義などといっても、それは単なる「形式だけの民主主義」になってしまう。「国民的議論を」などと訴え(呼びかけ)ても、なんら実のない空論的かけ声にすぎないことになる。選挙の低投票率(先の参院選は48.8%で、政権与党である自民党の全有権者にしめる絶対得票率は16.7%、公明党票を合わせても23%に過ぎない。そのような政権、その首相を憲政史上最長政権たらしめている、その異常)、それはこの国の民主主義のこのような実態を示している。民主主義はまだまだ成熟しておらず、不徹底で、国民の政治意識・主権者意識・自覚がまだまだ低いと云わざるを得まい。政治の話になると引いてしまうとか、政治のことなど話題にしたがらず、関心が持てない、ということはそういうことなのだろう。
この国の民主主義を、形式的な「お任せ民主主義」ではなく、もっと実のあるものに向上させなければならないと思うなら、その基礎的動因となる国民の間の政治談議を欧米並みに活発化を図り、市井での政治談議は避けるという悪しき風潮を廃することだろう。
かくいう当方も、先日の失敗には懲りず諦めずに誰とでも政治談議を心掛けたいものだと思うが、それにつけても、その失敗を繰り返さないためには気を付けなければならない注意・心得・「鉄則」というものがある。それは次のようなことだろう。
相手に対してリスペクト(尊敬の念)と友愛(寛容)の精神を貫き、けっして敵意を抱くことのないようにすること。アルコールが入ったからといって感情的に激することのないように、なるべく冷静を保ち、相手の意見や指摘・批判に対して逆批判・反論をしても、あくまで事実と論理をもって(それも「ロジハラ」―ロジカル・ハラスメント―相手の感情を無視して「正論」で攻め立てる―ようなことにならないように)し、エキサイトしても苛立って暴言(人格・人間性・プライドを傷つけるようなこと)は口走ることのないようにすること。議論が最後まで歩み寄ることなく平行線で決裂して終わっても、ケンカ別れはせずに、スポーツのゲーム終了時のように礼・握手を交わして分かれる、といったようなことを鉄則とする。
なかなか難しいことかもしれないが、民主主義には主権者・国民間の政治対話は必要不可欠であり、それらの鉄則は対話・議論には最低限必要不可欠な原則なのではなかろうか。
先の飲み会での議論で当方は「世代間の相違だろうな」とか「私的レベルの相違だろうな」などという言葉を吐いてしまったが、それらは「それを言っちゃお終いよ」というべき禁句で、相手に「上から目線」と受け取られ、心の中で「何を、えらそうに」と憤慨させる類の言葉だったな、とつくづく反省している。
それにつけても、政治談議をタブー視する風潮が世の中を支配してしまっては、それこそ「民主主義はお終いよ」というものだろう。
主権者・国民の間で政治対話・意見交換・意思疎通がなければ、みんな互いの間に自ら設けた「見えない壁」で仕切られた状態で、バラバラ分断状態になる。それは政権にとっては思うつぼで、反対する国民が数多いても、彼らが結束して大規模な反対運動を起こす心配がなく、政権は意のままに統治(支配)できることになる。そのような分断支配を許してはなるまい。
9日NHK「ニュースウオッチ9」の中で「いじめ・仲直りの握手で終わらず」という話題が取り上げられていた。
小学校で、先生が双方を呼んで、いじめた子に「そういうことをしたらダメだよ」と叱った後、直ぐに「これで仲直りね」と、促されるまま握手に応じてその場は収まった。ところが、いじめはそれで終わることなく、その後も続いた―と、今は20代になっているいじめられた方が証言していた。「そこで受けた言葉や暴力、先生からの言葉が全部ずっと頭の中にあって、これから先も一生消えることのないものだと思います」と。
仲直りの握手をして収まったと思いきや、それで終わることなく、ずっと尾を引いていた、というのだ。
「いじめ問題」などで、「いじめた」側はとかく「そんなことをした覚えはない」などと、無自覚であったり、「そんなに酷いことをしたとは思っていない」などと、さほど罪悪感をもたないが、「いじめられた」側は、その心の傷の痛みはいつまでも残って忘れ去ることはできない、といったことが多い。いわゆる「足を踏んだ側は、踏まれた側の痛みがわからない」ということで、加害者側は被害者側の痛み(精神的損害)に対して評価が甘くなりがちだが、被害者側は厳しい。
また、とかく、いじめた加害側の当人はもとより、仲裁に立った先生や親同士が、早々に事を収めたいばかりに、とりあえず、いじめた本人に自覚・反省が不十分なまま「御免、御免、悪かった」といって謝らせておいて、「よし、これで仲直りだ。それじゃ握手」「あとは、これまでの(過去の)ことは、いつまでも引きずらず、水に流して忘れることにしよう」などと云って済ませてしまいがち。
そういえば、このような「いじめ問題」めいたトラブルが国をまたがって起きている。1965年、日韓請求権協定を結んで握手を交わし、日本政府側は、韓国側にカネは出しても「これは『賠償金』ではなく、国への『協力金』或いは『支援金』だとして、これで清算・和解した」ということで、それで「完全かつ最終的に解決した」と思いこんでいたのに対して、韓国側ではその後、被害者(元徴用工や慰安婦)たちの間で「個人への謝罪と慰謝料なしでは済まされない」との訴えがもちあがって、訴訟を起こした元徴用工が相手取った日本企業に対して韓国最高裁が慰謝料の支払いを命じる判決を下すに至ったことによって、日本政府はそれに反発し、日韓の関係はここにきて極度にこじれる事態となっている。戦前・戦中の日韓の間のいわば「いじめ」問題は1965年の「仲直りの握手」で解決し終わってはいなかった、ということがはっきりしたわけだ。
韓国を叩けば視聴率が上がり、週刊紙は売れ、SNSが炎上。そして内閣支持率が上がる。この嫌韓ムードは、いったい何でなんだろう。
徴用工問題の焦点は1965年の日韓基本条約に伴う請求権・経済協力協定であるが、そこへ至る経緯と態様に対する事実認識の違い―日本側(政府)は日本による韓国併合と統治は合法であり、半島民には恩恵を多々与えはしても、そんなに損害・苦痛を与え犠牲を強いたという加害意識はなく、戦後補償問題は協定によって「完全かつ最終的に解決された」(なのに徴用工訴訟で韓国司法はそのことを無視している)との認識。それに対して、韓国側は日本による韓国の併合と統治は不法であり不当な植民地支配だったとの認識で、協定では国家間の請求権問題は解消されたとしても、それでもって被害者個人の請求権までも消滅したわけではないし、国が持つ外交保護権を放棄したとしても被害者個人の日本企業に対する慰謝料等の請求権自体が失われたわけではない、という認識。
近現代日韓関係史における日本側(西郷隆盛らの「征韓論」以来の朝鮮圧迫・派兵、日清・日露戦争を経た韓国併合・植民地支配、その間)の加害事実など事実認識の違い・ギャップは平行線のままだ。
1965年の日韓請求権協定で日本政府は、「謝罪」を抜きに、カネは「賠償金」ではなく、韓国政府への「経済協力金」として済ませた。植民地支配に対する謝罪はその後、1995年の村山談話、1998年の小渕・金大中両首脳の共同宣言、2010年の菅直人首相談話などがあって、それらには「反省」と「お詫び」の言葉が明確にあったが、2015年の安倍首相の「戦後70年談話」では「反省」・「お詫び」の言葉は入っているものの、それは「先の大戦における行い」について連合国に対してのお詫びであり、朝鮮半島の植民地支配に対しては「お詫び」どころか、韓国併合に至らしめた日露戦争を「植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」などと恩着せがましく。
ドイツの場合は、第二次世界大戦の端緒となったポーランド侵攻から今年80年、そのポーランドで行われた記念行事にドイツのシュタイン・マイヤー大統領が訪れて「どのドイツ人もこの蛮行から無縁ではありえない」「ドイツの歴史的犯罪に許しを求める」「ポーランド人の苦しみを決して忘れない」「ドイツ人は痛みを伴う歴史を受け容れ、引き継いでいく」とのスピーチ。安倍首相の韓国に対する姿勢はこれとは対称的だ。日韓は過去の清算・和解が未だなんだな。
日本人の場合は、明治以後、福沢諭吉の「脱亜入欧論」(日本は欧米の文明を受け容れていち早く近代化し、遅れているアジアを脱して欧米列強の仲間入りを目指すべしという主張)以来、アジア諸国を一段下に見る優越意識を持つようになり、相手が米欧なら黙ってるものを中国や韓国・北朝鮮となると目をむく。それがともすると互いに必要以上に(「反日」対「反中」「反朝」「嫌韓」などと)いがみ合う動因になっているのでは。
日本と近隣アジア諸国の間では、侵略・被侵略の事実関係や加害・被害の事実関係について(ドイツと近隣ヨーロッパ諸国の間では、ほぼ共通認識に達しているのとは異なり)事実認識に違い・ギャップがあり、大戦後の「和解と過去の清算」が、日本と北朝鮮との間だけでなく、日韓の間でも未だまだということが今回明らかになったということだ。
しかし、その(近現代日韓関係史における日本の朝鮮国家侵食・植民地支配・加害事実など事実認識の)違い・ギャップは平行線のままにせず、少しでも埋め直して共通認識に達する努力が必要だ。但し、それは双方が同等に譲り合って歩み寄るというのではなく、いわんや、被支配国・被害国の方が支配国・加害国に歩み寄るのではなく、主として支配国・加害国の方が歩み寄らなければならない。なぜなら、「いじめ問題」などでも「いじめた」側はとかく「そんなことをした覚えはない」などと無自覚であったり、「そんなに酷いことをしたとは思っていない」などと、さほど罪悪感をもたないが、「いじめられた」側は、その心の傷はいつまでも痛みが残って憶えているもの。いわゆる「足を踏んだ側は、踏まれた側の痛みがわからない」ということで、加害者側は被害者側の痛み(精神的損害)に対して評価が甘くなりがちだからである。また、加害者側には、その罪を免れるか軽減するために加害事実を隠蔽しがち(事実、旧日本軍が文書焼却など証拠隠滅を行っている)であるが、被害者側には被害事実を隠蔽する必要などあり得ないからである。尚、国際司法裁判所や第三国に仲裁・判定を頼む場合でも、その判断が公正かといえば、必ずしもそうとは言い切れない。なぜなら、その場合でも「当事者ではない彼らには『足を踏まれた』被害者の痛みが分からないからである。それに証拠調べでも、加害者側による焼却・隠滅によって失われた場合にはどうしようもないからである。
支配国・加害国(足を踏んだ側)がどっちで被支配国・被害国(踏まれた側)はどっちかは、どちらかといえば、日本の方が支配国・加害国(足を踏んだ側)であって、その逆ではないことだけははっきりしている以上、日本側が自らの事実認識や解釈を正当化して相手の韓国側に押し付けてはならず、可能な限り、被支配国民・被害国民の側(韓国側)の認識・理解を優先的に重視して、その方を基にして共通認識・合意にこぎつけるようにしなければならないだろう。
さもなければ日韓は永遠に「和解」に達することはなく、真の善隣友好関係に達することはないだろう。
この場合、我々国民は、それらのことは自国ファストの政府・為政者の主張を応援してその判断に任せればそれでいいとか、日本側・韓国側どちらの事実認識が正しいのか、その判断は歴史家・専門家に任せればそれでいいというものではなく、国民自らが考えて然るべきものだ。何故なら我々は皆、この国の国民である以上、この国の過去と未来の歴史に対して日本人として民族的責任を負っているのだから。
日本は、韓国とは日韓基本条約で一応国交正常化。しかし、北朝鮮とは未だに国交も何もなく、あるのは核ミサイル問題と拉致問題。朝鮮半島の南北分断。それは日本が朝鮮に遺した負の遺産にほかならない。そういったことには我々国民にも民族的責任があるのでは。
日韓関係の悪化。発端は昨年10月、韓国の最高裁が元徴用工に日本企業が賠償するよう命じる判決を下したことに対して日本政府が猛反発をしたことだ。
焦点は1965年の日韓請求権・経済協力協定で、そこで過去は清算されて両国は和解したはずなのに、実はそうではなかったということが明らかになったということだ。
日本側は、あそこで(協定によって)「完全かつ最終的に解決された」はずなのに韓国側が再び賠償問題を持ち出して、それが覆されてしまったといって韓国側を責めているわけである。しかし、あの時「解決された」といっても、その解釈(認識)には立場の相違(韓国側は日本による韓国併合・統治は違法であり不当な植民地支配だったというのに対して、日本側は適法であり瑕疵はないとの認識、など)があり、完全一致というわけではなかったし、仮に政府間では「解決した」ことに合意・納得したとしても、当事者である被害者個人サイドでは納得がいかない人たちがいたということなのだ。
ところで、ここで問題を2点整理してみると、①国権と人権とがあり、国家の請求権と個人の請求権とがあるのだということ。前者については、国の主権や国土・国益が侵害されて、その損害賠償を求めるという「国家の請求権」―その中には自国民が外国で、或は外国によって身体・財産が侵害され損害を受けた場合に、その侵害を自国に対する侵害として国家が相手国の国際法上の責任を追及し、賠償を求める請求権=「外交保護権」というものもあるわけ。
後者については被害者個人が加害者を直接、裁判等で責任を追及し、損害賠償を求めるという「個人の請求権」。その両方を分けて考える。
日韓請求権協定では、国の外交保護権は日韓相互に放棄し合ったことは確かでも、「個人の請求権」はそれで消滅してはいないとされる。ということは元徴用工ら被害者が個人として日本の加害企業を訴え、それを韓国の裁判所が受理して判決をくだしたとしても何ら問題はないということになる(日本政府は「国際法に照らしてあり得ない判断だ」と異議を唱えているが)。
②「損害賠償」と「損失補償」とがあり、その違いは、「賠償」の方が「違法な行為」(不法行為や債務不履行など)によって生じた損害に対する代償・補てんであるのに対して、「補償」の方は「適法な行為」によって生じた損害(災害や事故によって生じた補償金や未払い賃金など)に対する代償・補てん、(つまり両者の違いは原因となる行為に違法性があるか否かの違い)なのだが、その両方を分けて考える。
そうして考えてみると、日韓請求権・経済協力協定は不法な植民地支配に対する「賠償」を請求するための協定ではなかったのだ。日本側は、協定交渉では植民地支配の不法性を認めず、協定の趣旨は(賠償のあり方を定めるものではなく)「あくまでも経済協力だ」として譲らず、韓国側はやむなく「合法性」を前提に、徴用された韓国人への「補償」として被害の回復を求めざるを得なかった。(日本側は、「韓国政府は協定に基づいて無償資金協力として3億ドルを受け取ったが、その中に強制動員で苦痛を受けた被害者の救済に充てる補償金が含まれていることを、韓国政府は確認している」としている。)
しかし、仮に徴用そのものが当時の日本の国内法に基づく「合法」なものでも、監禁状態で過酷労働を強いられるなどの不法な仕打ちに対しては損害賠償を求めることはできるはず。そこで考えられたのが、元徴用工たちが求めているのは「補償」ではなく、日本企業の反人道的な不法行為を前提とする日本企業への慰謝料すなわち損害「賠償」であった。彼ら元徴用工たち(徴用されて人権が侵害された)被害者個人を救済(人権回復)しなければならない義務は、少なくとも彼らを直接使用した日本企業にはあり、それを放置することはできない。そこにこそ問題の核心があるのではないか。
いずれにしろ、政府間で国益上の利害の観点から、或は国民同士でナショナリズム的感情から主張・非難をぶっつけ合うのではなく、あくまで徴用されて人権侵害・苦痛を受けた被害者個々人を具体的に救済しなければならないという人道的観点から問題解決をめざさなければならないのでは。
日韓両国民の間で(日本の韓国併合と統治は違法な植民地支配であったか否かなど)歴史認識にギャップがあることも大いに問題であり、なんとかして共通認識に近づけ、真の和解に努める努力も必要ではあるが、まずは人権侵害を受けた被害者の救済に両国政府・両国民とも心を一つにして関心を傾注し取り組むべきなのでは。
東電旧経営陣3人の業務上過失致死傷罪・訴訟
争点①巨大津波を具体的に予見できたか(予見可能性―危険な事態や被害が発生する可能性があることを事前に認識できたかどうか)。
②原発事故は防げたか。対策を講じて原発事故を避ける義務があったか(結果回避義務―予見できた損害を回避すべき義務・注意義務―それを怠ったかどうかで過失責任が問われる)。
検察官役(指定弁護士)の主張
①について―国の地震予測「長期評価」には科学的根拠がある。これをもとに東電が事故前に出した「最大15.7m」の津波予測は、巨大津波を予見させる具体的な情報だったのに、先送りした。
②について―防潮堤の増築や防水対策などをしていれば避けられた。措置を講じるまでは運転を停止すべきで、遅くとも震災前の3月6日までに運転を止めていれば事故は確実に防げた。なのに「長期評価」に基づいた津波対策を怠り、運転停止もしなかった。
3人は「最高経営層にもかかわらず、何ら対策を講じなかった責任は極めて重い」として禁錮5年を求刑。
弁護側の主張
① 長期評価に信頼性はなく、15.7mの津波予測は試算にすぎない。専門家の土木学会に試算の評価を委ねたのは合理的判断で、先送りではない。巨大津波は予見できなかった。
② 15.7mの津波予測は敷地の南側からの襲来を想定していたが、実際は東側全面からで、試算に沿って対策を講じても防げなかった。原発停止は相当な根拠がないと無理だ。
証言―東電社員(被告人の部下・担当者)や専門家、計21人。
そのうち元原子力規制委員長代理で当時政府の地震本部の長期評価部会長を務め、長期評価の策定に関わった地震学者の島崎東大名誉教授の証言―「(長期評価の根拠となった)東北地方の過去3回(1896年の「明治三陸地震」、1677年の「廷宝房総沖地震」、1611年の「慶長三陸地震」)の大きな津波が非常に重い」と云い、部会に出席した専門家も一致していたと指摘。長期評価で予測した津波地震の確率は「十分注意すべき大きさだ」と述べ、それに基づいた対策を取っていれば「福島原発事故は起きなかったと思う」と。
判決
① 15.7mの津波予測のもとになった国の「長期評価」は具体的な根拠を示しておらず、信頼性があったとは認められない。(巨大津波の可能性について、信頼性・具体性のある根拠を伴っているとの認識は被告ら3人にはなかった。)
② 事故を避けるには運転停止しかなかったが、停止を義務づけるほどの予見可能性はなかった。(事故当時の知見では、3人に高さ10mを上回る津波を予見し、安全対策が終わるまで原発を止める義務があったとはいえない。)当時の法規制や国の指針は、絶対的安全性の確保までは前提としていなかった。
よって3人に刑事責任は問えない(無罪)。
被告側・東電旧経営陣の主張に沿った判決で、訴訟を起こした被害者側にとっては「門前払い判決」。
「釈然としない無罪判断」「腑に落ちない判決」(朝日・社説)
検察官役の指定弁護士は「国の原子力行政を忖度した判決」と批判。
柳田邦男氏(ノンフィクション作家・元政府事故調)は「問われるべきは、これだけの深刻な被害を生じさせながら、責任の所在があいまいにされてしまう原発事業の不可解な巨大さ」「これが一般的な凶悪事件なら、被害者の心情に寄り添った論述が記されるのが通例」(なのに反対側の心情に寄り添っている―引用者)と。
「無罪でも消えない責任」(朝日の佐々木英輔編集委員)
「個人の責任 特定にハードル」―賠償責任が争われる民事訴訟と個人の刑事責任を問う刑事訴訟では、求められる立証のレベルが異なる(誰が見ても反論の余地がないという高いレベルの立証が求められる―水野智幸・法政大法科大学院教授)。
しかし、だからといって責任(業務上過失の罪)を問えない(追及できない)ということはあり得まい。それがなければ、どんなに無謀な事業運営をしても免罪され野放しとなってしまうからだ。とりわけ電気事業は広範な人々が利用に供し影響を被る社会インフラであると同時に「潜在的に極めて大量の毒性物質を抱える」危険施設を扱う公益事業なのだ。それ故、それを担う事業者たち、その最高幹部には、それ相応の重大な責任が課せられている。(原子力規制委員会設置法には「天災だけでなく人災に対して、事故発生を常に想定し、その防止に最善かつ最大の努力をしなければならない」とある。)彼ら最高幹部は、その責任を負わなければならないし、そのポストを引き受けている以上、組織に業務上過失があれば、その罪をかぶらなければならないわけである。巨大組織で、多くの部署に責任が分散していて、幹部の責任を問うのが難しいからといって、責任逃れが許されるわけでもあるまい。
ところで、人には「大丈夫、心配ない、うまくいくから」といって「いい方、いい方」に楽観的・肯定的に考えるプラス思考と、「危ないな、心配だ、うまくいかないかも」といって「悪い方、悪い方」に悲観的・否定的に考えるマイナス思考(ネガティブ思考)とがあるが、とかく「悪いこと」「最悪の事態」など想像したくないとして、マイナス思考を嫌がってネガティブ思考を停止し、プラス思考(楽観主義)の方に傾き、そこに安住してしまいがち・・・・「安全神話」に安住。
しかし、プラス思考のデメリットは鈍感・能天気で、リスクや問題を見落しがちとなり、気づくべきことに気づけなくなってミスを犯してしまいがちとなる。その点、マイナス思考の方が、リスクや問題を事前に察知して対処できる「危機管理能力」に優れ、「最悪の事態が起こったらどうなるか」ということにこだわって慎重になるのでミスを犯さない。
そこで、そもそも電気事業者の責任は、電力消費者に安全かつ安定的に電力を供給することにあるが、最高幹部たる者が、その任にある限り、常に念頭に置かなければならないことは、その事業施設の一つである原発は巨大な危険施設で、それには人々に深刻な惨害をもたらしかねない事故発生が付きまとっているということ。天災(地震・津波など)・人災(テロ攻撃・戦争など)に伴うその事故発生は、確率は極めて低いとしても、あり得ることなのだという前提に立って、常に最悪の事態まで想定してかかって、万一そのような事態に立ち至ったらどう対処するか考えておかなければならないし、そういう事態に立ち至っても大丈夫なように対策を講じておかなければならない。原発事故というものは、確率・頻度は小さくても、万一起きたら広範囲に及ぶ深刻な被害、計り知れない惨害が生じる恐れがあり、原発事業者・最高幹部はそのことを考えて、万一の場合に備えて対策(未然に事故を防ぐ対策)を講じておかなければならないものだからである。
その事業者・最高幹部が、もしもその事故発生の想定・対策を怠っていて、その結果事故が起きてしまい、人々が深刻な被害・惨害を被ったとしたら、その(結果回避義務違反の)責任を負い、罪(死傷者が出れば業務上過失死傷罪)を負わなければならない。
最高幹部たるものは、東電社内・他の原子力業者・専門家・行政機関から意見や異論が寄せられたり要請を受け措置を求められたり、またそれら社内外のいずれかに検討を委ね意見を求めたりすることはあっても、最終的判断を下して責任を一身に負うのは自身なのであって、それら社内外から「巨大津波の可能性について、信頼性・具体性のある根拠を伴った知見が示されなかったから」とか「直ちに安全対策を講じるべきであり、その工事が完了するまでは原発を停止すべきだ」という積極的な意見や「求め」がなかったからといって、彼ら最高幹部が巨大津波の対策工事にも運転停止にも踏み切らなかったのはやむを得ないことだったかのように見なして不問に付す裁判官の判断は如何なものか。
「巨大津波の可能性について知見が示されなかった」かのように云うが、
2002年7月、政府の「地震調査研究推進本部」が「長期評価」を公表。三陸沖北部から房総沖の海溝寄りのどこでも、マグニチュード8.2前後の津波地震が30年以内に20%程度の確率で起きる可能性があると。
2006年(事故5年前)3月の衆院予算委員会では、共産党議員から、チリ津波や明治三陸地震(38mに達した津波)など巨大津波があったこと、そのような津波によって最悪の場合は炉心の冷却機能が失われ、炉心溶融に至る危険が指摘され、経産省の旧原子力安全・保安院に抜本的な対策が求められている。
2007年7月、原発の安全性を求める福島県連絡会などが東電の勝俣社長宛に、津波による過酷事故に至る危険があるとして、津波対策で抜本的な対策を申し入れている。これらの事実は無視されているわけだ。
2007年11月、東電設計社が、「長期評価」を踏まえて簡易計算した福島第一の津波予測を「7.7m以上」と東電に報告。(福島第一原発の設計時に想定した津波の高さは5.7m)
2008年3月、東電設計社が、詳細計算した福島第一原発の津波予測は「最大15.7m」(原発敷地の高さ10mを超える)と東電に報告。(それにもかかわらず、旧経営陣は津波対策を取らずに先送り。)
2009年2月、吉田昌郎・原子力設備管理部長(故人)が、勝俣会長・武黒本部長・武藤副本部長が出席した「御前会議」で「14m程度の津波が来る可能性」に言及。
同年、日本原電(東海第2原発)が「長期評価」に基づいた対策―「盛り土」と「建屋の防水対策」―を実施(社外には公表せず)。
2011年3月7日(大震災発生の4日前)、東電が、15.7mの計算結果を原子力安全・保安院に報告(それまで東電はその数値を隠していたことになる)。
2011年3月11日、対策は講じられないまま大震災を迎えた。(試算とほぼ同じ高さ15mの津波が原発を襲う。)
尚、2019年2月20日、原発事故避難者訴訟(福島県から神奈川県に避難した60世帯175人が損害賠償54億円要求)で横浜地裁が国と東電両者の責任を認め同避難者の内152人に計4億1900万円を支払うよう命じた。その際、国は2009年9月時点で、東電からの津波の試算に関する報告を受け、浸水被害で全電源を喪失する事態を予見できたと指摘。対策となる電源設備の移設(10年末まで可能)を進めていれば「大量の放射能物質の外部放出という事態は回避できた」としている。
それにつけても判決では
原子炉の安全性―については「当時の社会通念」で―「法令上の規制や国の指針、審査基準のあり方は、絶対的安全性の確保までを前提としてはいなかった。」「原子炉等規制法の定める安全性は、放射性物質が外部の環境に放出されることは絶対にないといった、極めて高度の安全性をいうものではなく、最新の科学的・専門的知見を踏まえて合理的に予測される自然災害を想定した安全性の確保が求められていた」として、福島第一原発は「地震および津波に対する安全性を備えた施設として、適法に設置、運転されてきた」と評価。
(原発の安全性の「当時の社会通念」とは、いわゆる「安全神話」にほかなるまい。)
以前、1992年の伊方原発訴訟では、原発事故が起れば従業員やその周辺住民等の生命・身体に重大な危害を及ぼし、周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがある、と指摘。このような災害は「万が一にも起こらないように」しなければならないと、原発に求められる安全性の大原則を示していた。
ところが判決は「結果の重大性を強調するあまり、予知に限界がある津波という現象について、想定しうるあらゆる可能性を考慮して措置を講じることが義務づけられれば、原発の運転は不可能になる。」「運転を停止することは、ライフライン、ひいては地域社会にも一定の影響を与えることも考慮すべきだ」などとして、原発の運転を生命や身体の健康に優先させる論立てをとった。「長期評価」についても、それは生命・健康の安全確保のために無視できない知見だとは見なさず、それを以て、あえて原発を運転停止させなければならない根拠とするには信頼性に欠けるものであったとし、原発運転維持の方にこだわり、生命・健康維持の方は二の次として安全の水準を引き下げた。そして経営陣を免罪したわけである。
判決は又、東電の組織的問題は、事故当時は全く問題なかったとの認定で、組織的な問題点を一切指摘していない。
この判決は、経営最優先の東電旧経営陣の姿勢を追認し、旧経営陣の主張をほとんど追認したもの、といってもいいだろう。
被害者たちにとっては到底納得し難い不当判決だと言わざるをえまい。
尚、馬奈木厳太郎・生業訴訟弁護団事務局長によれば、「判決のこの安全水準の考え方は、原発再稼働の是非を判断する国の新規制基準の考え方とも共通している。新規制基準は住民の生命や健康を確保することが再稼働の前提条件とはされておらず、事故の教訓が生かされていない。
利益を優先し、安全をないがしろにした経営陣の背後には、国が規制権限を適切に行使しなかったという問題がある。国が経営陣らの姿勢を許容してきたのである」と。
馬奈木氏は「今回の判決を通じて、改めて国の責任の重大性が浮き彫りになった」としている。