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2019年10月 アーカイブ

2019年10月01日

原発に求められるのは絶対的安全性

 原発刑事訴訟判決は、原発には「当時の社会通念」から「絶対的安全性の確保」まで求められてはいなかった、として経営陣を免罪。
 「当時の社会通念」というのは原発の「安全神話」に安住するというものであり、それは庶民の間ならいざしらず、原発事業の最高幹部たる者にまで、そんな「社会通念」を反映した法的枠組みを当てはめて、あれで仕方なかったかのように論じている。しかし、常人にはない危機管理能力(最悪の事態まで想定し、リスクを事前に察知して対処できる能力)が求められる彼らに対して、そのような「社会通念」レベルの甘さで評価して済ませてよいものか。
 自動車や飛行機など交通事故に比べれば原発事故のリスクは確率的には微小だが、交通事故の場合は、被害は乗っている人とぶつけられた人だけにしか及ばないのに対して、原発事故の場合は、広範囲かつ長期に渡って計り知れない人的・環境的被害がもたらされる。
 自然の猛威は、人間の科学・技術がたとえどんなに進歩しても、それによってコントロールし切れるようなものではあるまい。それこそが「社会通念」というものだろう。
 原発に求められるのは絶対的安全性であり、それには運転停止・廃炉しかあるまい。 

2019年10月14日

日本は軍事的自衛には不向き(修正版)

 日本の安全保障には軍事的方法と非軍事的方法のどちらが得策か。
 軍事(軍備・軍事的抑止力)による安全保障(防衛)―安全保障を軍事に頼るやり方―はたして得策なのか?それで日本の安全は保障されるのか? かえって危険なのではないか?
 軍事的合理性の観点だが、以下3点から考えてみたい。
(1)軍備―軍隊(「自衛隊」と称する軍事組織も)・軍事同盟(日米同盟)・軍事基地―は相手国を刺激し脅威を与え、相手国はそれらを攻撃の対象として設定するため、攻撃を受けやすくなり、かえって自国の安全を損なうことにも。
 こちらが軍備を保有・強化すれば相手国も負けじと保有・強化し、軍拡競争を誘発、互いに軍拡。「均衡抑止」(互いに攻撃を控える)という局面はあるとしても、それが破れた時、戦禍拡大し、甚大な被害を招く結果となる。
(2)軍備・軍事力が「抑止力になる」とはいっても、それは主観的なもので、抑止力が効いていると自分でそう思っているだけのことで、はたして本当に抑止力が効いているのかといえば、それはわからない(その軍事力を保有していることと、相手が攻撃してこないということとの間に因果関係を客観的に論証することはできない)わけであり、不確かなもの。(相手―例えば中国や北朝鮮―が「こちら(日本)を攻撃した場合、それで得られる利益よりも、こちら(日本)から報復攻撃を受けて被る打撃(損失)の方が大きい、と相手が理解している」とこちらが認識でき、「それにより相手はこちら(日本)を攻撃しないだろう」とこちらには思える、というだけのことで、いずれも主観的な要素によってしか成立しない筋合いのもの。)それに報復を恐れない自爆テロ、或は制裁圧力などによって追いつめられ自暴自棄となって「死なばもろとも」とばかり襲いかかる相手に対しては、抑止は効かない。
 その軍事力が「抑止力」(抑止効果)として成立するには、互いに相手の軍事力と意図(軍事戦略)に関する情報を的確に把握できて、その情報に基づいて理性的に判断できなければならないが、中国の軍事力は「統計が不正確で不透明だ」とか、北朝鮮の最高権力者は「何を考えているか分からない」などと云ってる限り、軍事力は抑止力にはなり得ない。
 (3)日本列島は地理的条件が防衛上は不利―列島が南北に細長く、東西の中央部は山岳地帯で、中国のように敵を内陸部に引き込んで消耗戦に持ち込むことはできない。それに海岸線が長く入り組んでいて、侵攻(接近・上陸)して来るのを待ち構えて直ちに(迎え撃って)撃退することは困難。人口や工業地帯・石油コンビナートなどの生産拠点や生活基盤(インフラ)が平野に集中―ひとたび敵軍から上陸されれば、人口が密集する市街地が戦場になる。それに沿岸部に53基もの原発が配置されており、ミサイルを(核弾頭を搭載していなくても)撃ち込まれれば、核ミサイルと同様の効果が生じる。島国なので、住民が国外に避難することは困難。食料・エネルギー資源や工業製品の原材料を海外からの輸入に頼っているこの国が、敵に海上交易路を遮断されたら、戦争継続は困難。

 要するに日本は軍事的自衛には向かない国だということ(先の戦争のときのように外地―朝鮮半島や中国大陸・東南アジア・太平洋―に打って出るならともかく、本土で迎え撃つ自衛戦―「専守防衛」―は無理なのだ。
 尤も「先の戦争のときのように」「攻撃は最大の防御なり」とばかりに海を越えて「打って出る」とはいっても、それでうまくいったかといえばさにあらず、それは無謀この上もないものだった。日本の過去の対外戦争は、朝鮮半島・満州を「日本の生命線」即ち防衛線として大陸へ撃って出、東南アジア・太平洋にも撃って出た。ところが、いずれも押し返されていったあげく結局「本土決戦」―「専守防衛」のやむなきに至った。それも「一億玉砕」とばかり徹底抗戦するどころか、ほとんど敵軍のなすがままに攻撃―空爆・艦砲射撃、そして原爆投下など―にさらされて都市・工業地帯は廃墟と化し、敵軍の地上部隊が本土上陸する前にあえなく降伏せざるを得なかったのだ)。
 日本は自国だけでの「自主防衛」には向かない。だからこそ、日米安保条約を堅持し、米軍に基地を提供して、そこから撃って出てもらう(自衛隊が「盾」となり、米軍が「矛」となって)というわけ?しかしそれはどうか?
 
 <参考―伊藤真・神原元・布施祐仁『9条の挑戦』大月書店>


2019年10月17日

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   茨城県牛久市                牛久大仏
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     全高120m(像高100m) ブロンズ(青銅)像としては世界最大 1993年完成
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首の下、胸の上に | | |があるが、それは窓のようなもの
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 胴体の内部にエレベーター、それを上がっていくと胸の上のあたりに窓があり、そこからの眺め

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                    藤沢市  遊行寺 一遍上人
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2019年10月19日

日本に必要不可欠なのは防災であって軍事ではない(修正版)

 自然災害は必然的なもので、いつか必ず襲来し、避けられないものだが、戦争や軍事紛争は必然的なものではなく回避できるもの。
 近隣諸国に対して「脅威」とか「国難」というが、それを云うなら、現に次々と列島を襲う未曾有の災害のことであり、必要不可欠なのは防災・災害対策であって軍事なんかではないのでは。今の自衛隊は、侵略に対する防衛出動つまり軍事を「主たる任務」とし、国民保護等派遣・災害派遣・地震防災派遣・原子力災害派遣・海上における警備行動・領空侵犯に対する措置などを「従たる任務」としており、アベ自民党は(軍事を「主たる任務」とする)その立場で改憲(9条に自衛隊明記など)を策しているが、「主たる任務」とすべきは災害・防災派遣と領域警備の方であって、軍事なんかではあるまい。
(1)そもそも日本に軍隊・軍事はどうしても必要なのだろうか
 軍隊とは軍事(外敵と戦い-戦闘、撃滅・排除)を事とする。その主要任務は国家を守ること、即ち国家主権(独立)を守り(自衛隊法第3条1項では「国の平和と独立」を守るとなっている)、国の権益や国家体制を守ること―それが最優先で、国民の生命・財産をまもるのは(二の次で)その結果として守られるにすぎず、国家を守るためには作戦上(部隊・隊員の命・武器・陣地は守らなければならず、戦闘に際して)必要ならば(国民・住民は足手まといで)犠牲にされてしまうことにもなる。敵は躊躇なく殺す―そのために心理的バリアーを除く教育・訓練を積む。それが軍隊というもの。
(2)しかし、国家の最大の任務は、あくまで国民の命と財産を守ることであって、国家自身(国家主権・統治体制・国家機関)を守ることではない。したがって国家のために国民を犠牲にするようなことがあってはならない
(3)国民を侵略(による人権侵害)から守る(侵略・攻撃を抑止する)ために軍事力(軍隊や自衛隊)を保持する軍事的安全保障もあり得るが、軍事力を持たず(使わず)に、どの国、どの民族とも敵対せず、友好関係を結んで侵略・攻撃を招かないようにして国民を守る非軍事的安全保障のやり方もあるはず。
 軍事的安全保障には、軍事力(軍事組織・軍事同盟・軍事基地など)を保持することによって相手国を刺激し(相手国に脅威を与え)、相手国はそれらを攻撃の対象として設定するため、攻撃を受けやすくなり、かえって自国の安全を損ない危うくする。こちらが軍事力を強化すれば相手国も負けじと軍事強化し、軍拡競争を誘発して互いに軍拡。その軍事力均衡で戦争が抑止されるという「均衡抑止」の局面はあるとしても、均衡が破れた時は戦争の火ぶたが切られ、たちまち戦禍が拡大し、国民には計り知れない被害を招く結果となる。
 そのことを考えれば、非軍事的安全保障に徹するやり方のほうが賢明だということになる。
(4)しかしどの国、どの民族とも敵対せず、友好関係を結んで侵略・攻撃を招かないようにしたつもりでも、万一(想定外に)侵略・攻撃されてしまったらどうするか。その場合、被害を最小限に食い止めるためには徒に反撃して大きな被害を招くよりも白旗を挙げる(つまり降伏して国家主権をとりあえず放棄する)。その方が、被害がなくて済むわけである。(先の大戦で降伏した時のように遅きに失することなく「さっさと」白旗をあげていれば、沖縄戦も広島・長崎の原爆もソ連軍の侵攻もなくて済んだものを、抗戦を続けばかりに、悲惨な結果を招いてしまった。今後再びそれを繰り返し、核ミサイルなどで国土が破壊され荒廃し放射能汚染され尽くして回復不能になってしまうことのないようにしなければならない。降伏して日本がたとえ占領されても、人々が生き残れば、独立や自由はやがて回復できるわけであり、「戦わずして降伏」してでも被害を最小限にできる戦術を考えた方が賢明なのである)。その際は、占領されても、まるっきり無抵抗で「何をされてもなすがままに奴隷的に屈従する」のではなく、理不尽な仕打ちに対しては決然と抵抗する。但し、市民が武装抵抗するパルチザン戦ではなく非暴力抵抗主義で、デモ・ストライキ・サボタージュなどに訴えるやり方をとる。そのような非暴力抵抗でも、占領者はダメージを被り、彼らが長期にわたって我が国民全体を軍事的・政治的に支配し続けることを困難たらしめ断念させるのも不可能なことではないからである(「暴力行使費用増大の法則」と「国家管理費増大の法則」で―経費が巨大過ぎるため)。 
 そもそも非軍事・非同盟友好国家に対して、国際的非難・制裁リスクを冒してまで無益・無謀な侵略・攻撃を仕掛けてくる国なんてあり得まい。
(5)「独立した主権国家である以上、自分の国は自分で守る軍隊(自衛隊の軍事力)が必要だ」という考えは?―それは「時代遅れ」―なぜなら今や世界の趨勢は、国家の主権を制限しても、集団安全保障体制(国連の他にもEUやASEANなど地域の多国間安全保障体制)をいかに構築していくか、或は多くの国が予め友好関係を結び、相互に武力行使を禁止する約束をし、万一約束を破って他国を侵略する国があれば、他の全ての国が協力して、その侵略をやめさせようとする仕組みを構想・追求するようになってきているからだ。
(6)「近隣諸国の軍事力増強に現実的に対応するためには軍隊(自衛隊と日米同盟の軍事増強)が必要だ」という考えはどうか?
 中国や北朝鮮の「脅威」とはいっても、それらの国にたとえその能力(核ミサイル・海軍力など軍事力の増強)はもっているとしも、日本に対して侵略・攻撃などやったら、それによって得られるメリットよりもリスク・損失の方がはるかに大きく費用対効果はマイナス(つまり割が合わない)だとか、そもそも侵略の意図をもってその機会をうかがっているのかなどの点から、その可能性(蓋然性)は(歴史上日本による侵略に比べればはるかに)低いだろう。中国にしても、北朝鮮にしても。
 中国とは東シナ海のガス田開発と尖閣列島の領有権を巡って対立があり、尖閣列島は日本が実効支配をしていて、その領海や接続水域に中国の公船や漁船が頻りに侵入するというトラブルがあるが、そこで限定小規模な(日本の海上保安庁に相当する海警や漁民が武装した海上民兵POSOWなどの侵攻に対して海保や海上自衛隊の警備行動で、戦争に至らない)準軍事作戦はあり得ても(その際、自衛隊の出動には、中国側に「日本が先に武力行使をしてきた」と主張する口実を与えかねないリスクはあるが)、本格的な「日中戦争」などはあり得まい
 そもそも中国は日本にとってアメリカを上回る最大の輸入先で、アメリカに次ぐ第2の輸出先。このような日中間で戦争しなければならない国益上のメリットなどないのであり、同盟国アメリカも日本の無人島死守のため中国と戦争しなければならない必然性などあり得ないのである。
 北朝鮮―日本がそれを脅威と感じるのは、両国間に貿易・経済・文化の交流がなく、日本はアメリカの同盟国として北朝鮮とは敵対関係にあるが故に攻撃されるかもしれないと日本人が思っているからであり、北朝鮮から見れば日本を攻撃しても得られるメリットは何もないのである。
 そうはいっても北朝鮮という国は独裁国家で(独裁者が理性を失ったら)「何をするか分からない国だから」、万一に備えて軍備は必要不可欠だ、という考えはどうか?
 北朝鮮のミサイルは日本本土を射程に数百発配備されているという。そのミサイルは音速の10倍(発射から7~8分)で、こちらの迎撃能力を超える量を一度に撃ち込まれたら(「飽和攻撃」)、それをすべて迎撃するのは困難(万全を期すにはPAK3など地上配備型ミサイルの発射機1000基が必要で10兆円では足りない)とのこと。
 独裁者が理性を失ってミサイルの飽和攻撃を仕掛けてくるかもしれない万一に備えて何十兆円もつぎ込んで迎撃ミサイル防衛体制を完備しなければならないなんて。北朝鮮が以前アメリカと戦って以来休戦中の朝鮮戦争が今また再開されることを恐れるあまり核ミサイルにしがみついて虚勢を張っているのを「愚かだ」と云うなら、アメリカの核の傘にしがみついて核兵器禁止条約に背を向けている日本も愚かだといわれてしまうのでは
 相手の国(北朝鮮)を「何をするか解らない(不可解な)国」だから「いつミサイルを発射してくるか解らない」といった不確かな不安にとらわれた(2月19日午前11時頃、郊外の農道をウオーキングで歩いていると突然、丘陵麓の集落の方から「ピンポンパン」という音が響きわたってスピーカーの声が「Jアラートのテストです」と3~4回繰り返した)そんな強迫観念ともいうべき脅威論に基づいてイージス・アショア配備などのミサイル防衛体制がとられている。しかし、そこで唯一確かなことは、日本がそうして日米同盟体制の下に米軍基地を置いている、それがかの国(北朝鮮)にとっては朝鮮戦争がアメリカによって再開されれば米軍が再び日本の基地から出撃してくることは必定、だからそれに備えなければならない(戦争再開・米軍の出撃をくい止めるには核ミサイルを持つしかない)と思っているのだろう、ということなのでは。
(7)戦争はどの国にとっても、相手国の側だけでなく自国の経済にも深刻な打撃となり、戦争だけは絶対起こさないことこそが共通の利益のはず。
 日本は世界第3位の経済大国であり、アメリカ・中国をはじめ世界中の国々が大きな権益を有し、外国の政府や個人が日本に有する資産残高はトータルすれば何百兆(686兆9840億円)。こんな国に戦争を仕掛け、侵略したら世界経済は恐慌に陥り、仕掛けた側も経済的に大打撃を被る結果となることは必定で、国際社会が黙ってそれを許すわけはないのである。
 グローバル経済で各国とも相互依存関係で成り立つようになった21世紀の今、国家間の大規模戦争も侵略も、もはやあり得ないということだ。
(8)ただ、極地的な紛争は残っていて小規模侵犯はあり得、それらに対してどんな国家も常に合理的判断を下すとは限らない。なので、国連などの集団的安全保障システムは必要であり、小規模侵犯に備える国ごとの領域警備体制も必要である。
 領域警備(武装集団やテロリストなどの小規模侵犯対策)については、①現在の海上保安庁には巡視船「しきしま」「あつきしま」といった世界最大クラスで海上保安庁唯一の軍艦構造を有する巡視船もある。全長は150mもあり、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」並の大きさで、航続距離は2万カイリ、35㎜連装機銃または40㎜単装機銃2機や20㎜機銃2機を装備し、ヘリコプター2機を搭載可能。②特殊警備隊(SST)が存在し、ドイツ製MP-5サブマシンガンや89式自動小銃も装備。これ以外にも海上保安庁には各管区に設置されている特別警備隊(89式自動小銃を装備)もある。警察にも8都道府県(北海道・東京・千葉・神奈川・愛知・大阪・福岡・沖縄)に設置されている特殊部隊(SAT)が存在し(ドイツ製MP-5サブマシンガン、89式自動小銃を装備)、全国の機動隊には銃器対策部隊(ドイツ製MP-5サブマシンガンを装備し一部隊で89式自動小銃も装備)が設置されている。
 我が国には、既にこのように十分な装備のある海上保安庁と警察部隊が存在しているのである。(しかし、政府・与党からはそのような既存の「海上保安庁と警察の活用論」が出てこないのは、とにかく自衛隊を出したいからだとされる。)
 いずれにしても、領域警備や国際的な犯罪組織に対する警察力以外に戦争のための軍事力などは必ずしも必要とはしない。特に日本の場合は

 これらのことを考えると、我が国には軍隊など必要不可欠だとは思われないし、自衛隊の災害・防災派遣や領域警備など(それこそが自衛隊の「主たる任務」で)はあっても軍備や軍事などは不要なのでは、と思えるのだが、如何なものだろうか。

 <参考―伊藤真・神原元・布施祐仁『9条の挑戦』大月書店>


2019年10月30日

日米安保条約は日本を守ってもらうためにどうしても必要なのか(修正版)

 それは日本を守るためというよりも、アメリカの国土を守り、アメリカの国益を確保するための世界戦略に役立つからにほかならない。(条約5条はアメリカの対日防衛義務を定めるも、具体的に米軍がどこまで、どんな支援を行うか定めはなく、それらはあくまでアメリカの都合次第であり、大統領がその気になっても、決定するのは議会なのだ)。
 「血の同盟」などと云って日本がアメリカを頼り、アメリカから守ってもらうためにアメリカの云うことには極力応じ、軍事協力を厭わないが、アメリカのほうは、日本に基地を置き、駐留軍を置いているのは、そこから朝鮮半島・台湾・中国・ロシア・東南アジア・太平洋・インド洋・中東など各地域へ出撃する前進基地として利用価値があるからにほかならず、日本防衛などはあくまで二の次(例えば尖閣諸島を巡って日中軍事衝突した場合に、日本が死守しようとしている無人島のために米軍が参戦して米兵が血を流してでも必死になって戦ってくれるかといえば、それはあり得まい)。
そのような安保条約があるために、日本にとって困るのは、それがアメリカの戦争に「巻き込まれる恐怖」を伴っていることだ。
 日本は、それがあるために(安全を「人質」にとられ)アメリカに対して何かと従属を強いられ、無理難題に応じざるを得なくなっている(多額の兵器を大量購入させられ、中東やインド洋・太平洋などへ自衛隊が派遣させられる)。
 米軍基地があるお蔭で、日本は中国・北朝鮮・ロシアなどからの核ミサイル攻撃を免れることができるかといえば、その公算は少ないどころか、むしろ日本に米軍基地があるために中国・北朝鮮・ロシアなどに日本を攻撃する口実・動機を与え、日本各地が攻撃にさらされることになるなど、かえって危険
 朝鮮半島有事で米朝が、或は台湾有事で中台が交戦状態ともなれば、在日米軍基地はアメリカ軍の前線基地となり、その最初の攻撃目標とされてしまう。そしてその核ミサイル攻撃で日本の主要都市・工業地帯が被災し、生活インフラは破壊されて失われ、国土が放射能汚染に見舞われる。米軍がそこへ駆けつけたとしても、もはや時遅し、ということになる。
 米軍基地があるおかげで、その周辺地域(特に沖縄)では、住民が土地を奪われ続け、人権侵害にさらされ、航空機の騒音や墜落・部品落下事故、環境悪化など様々な被害を被り、たえず不安に脅かされ、それが常態化
 
 この安保条約の下で、自衛隊は米軍と一体化し(指揮統制機能は日米統合司令部の下に)、米軍に従属・補完部隊に(米軍が「矛」で打撃力であるのに対して、自衛隊は「盾」で、両方セットになっている)。そして自衛隊は米軍から支援・援護してもらえる、というよりもむしろ自衛隊の方が米軍の世界各地での作戦・戦争に際して支援・警護をさせられ利用される、といったぐあい。

 要するに自主防衛であろうと、安保条約でアメリカから守ってもらおうと、日本は軍事では守り切れないし、安全保障を軍事に頼るやり方は非現実的で得策ではないどころか、かえって危険。だったら我が国には日米安保条約も米軍基地も要らない。自衛隊は、災害救援部隊や国土・領域警備隊などはあっても、軍事・戦闘部隊は要らないのでは、ということになろう。

 <参考―伊藤真・神原元・布施祐仁『9条の挑戦』大月書店>


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