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2018年03月 アーカイブ

2018年03月01日

3月のつぶやき
                                                10893 406
●29日、田んぼの雪もほとんど消え、ウオーキング・コースもアスファルト農道に戻った。人通りのない農道を、いつもの「憲法朗詠歌」(日本語版に続いて英語版を歌い)「風に吹かれて」「イマジン」「花は咲く」を、途中幾度かハクション!鼻をかんで(スギ花粉を浴びながら)歌いきったところで踏切にたどり着き、市街地にさしかかると黙りをきめこむ。
●春の弥生がようやく到来。後は雪解けを待つばかり。歌は「花は咲く」 ♪ 真っ白な雪道を 春風香る 私は懐かしい あの街を思い出す・・・・♪
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                 米沢会場
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                      福島からの避難者

2018年03月12日

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ウーパールーパー
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2018年03月14日

戦争はどうして起こるのか―3つのポイント(加筆版)

 そもそも戦争が起きるのには、まずそれを必要とする理由・紛争要因など動機があること、それに、それ(武力攻撃・戦争)をやっても損にならない(費用対効果がある)こと、そしてその意志があって(その気になって)攻撃能力(兵器・兵力など軍備)を持つこと、これら3つの要因がある。その3つともなければ戦争は起きない。
 (1)武力攻撃・戦争の必要性―ある国または国々(或は勢力)に対してどうしても攻撃・戦争を交えずにはおかない然るべき理由があること。
 紛争要因(争いの種)など動機―いくら交渉し、話し合っても埒が明かず、戦争に訴え、力で決着を付ける(相手を屈服させ、要求に応じさせる)しかない、といった動機があること。
 しかし、この点については、現代世界では第一次大戦後、「国際紛争を解決する手段として戦争に訴えることは違法とされ、国連憲章で、侵略行為に対する自衛と平和破壊行為に対する国連による集団的措置以外には、いかなる理由があろうと武力行使は禁止されている。したがって武力行使に必要な理由といえば、それは「自衛」と国連による集団的制裁措置だけで、それ以外にはどの国も戦争・武力行使する理由をもつ国はないということになる。
 また、その相手に交戦・抗戦する意志がなく、その手段(戦力)も持たないならば、戦争にはならないわけである。(力に訴えず、あくまで対話・交渉でやるしかない、ということになる。国連憲章はそれを義務付けている―「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって・・・・解決しなければならない」とし、その手段として「交渉・審査・仲介・調停・司法的解決」などを挙げている。)
 (2)費用対効果―戦争しても、人的・物的資源の損失(コスト)を上回る利益(メリット)が得られる(勝算がある)こと。
 (3)攻撃能力―兵器・兵力など軍備を保有すること。それを持つのは、その国にとって戦わなければならない(或は戦わなければならなくなるかもしれない)理由(1)のある相手(「敵」)があってのことであり、その相手国(または勢力)に対しては攻撃・戦争をする意志があってのことだろう。
 しかし、(1)で指摘したごとく、現代では正当化される武力行使の理由は「自衛」もしくは国連の集団的制裁措置だけである。(国連の集団的措置といっても、正式の―憲章41条に基づく―国連軍は未だかつて編成されたことはなく、便宜的にPKOの平和維持軍とか有志連合の多国籍軍の形で行われている。)ということは今、軍備(攻撃能力)を持つ国は、基本的には全て「自衛」のためという名目(理由)でそれを保有している、ということになる。日本の自衛隊は勿論のこと、アメリカもロシアも中国そして北朝鮮もである。ということは、どの国の軍備も自衛目的で「抑止力」なのだ、ということになる
 どの国の軍備もそうだとすれば(核・ミサイルなどは脅威といえば脅威かもしれないが、それを保有しているからといって)それだけでは戦争にはならない。つまり、たとえ核・ミサイルなどの攻撃能力を保有する国であっても、それは自衛目的であって攻撃目的・戦争目的ではないというのであれば、こっちは軍備を持たなくても(戦力不保持でも)攻撃され戦争をしかけられる心配はないということでもあるわけか
 日本国憲法は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しよう(つまり世界中の人々を味方にし敵をつくらない―引用者)と決意して」「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は永久にこれを放棄し」「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」としている。ところが、それにもかかわらず「信頼」出来ない国があるというので、そのような国の不正な侵害に備えて、自衛隊を保持し、「信頼」できる国アメリカと同盟を結んでいる、というわけだ。しかし、国によって敵(信頼できない国)と味方(信頼できる国)を分け、敵性国家に対する「自衛のため」を理由に軍備を持ち合い、核・ミサイルを持ち合って互いに脅威・恐怖を及ぼし合って戦々恐々としていなければならない(日本は北朝鮮の核・ミサイルに脅威をもつが、北朝鮮は米韓軍の圧倒的な戦力と斬首作戦などの作戦計画に脅威・恐怖を感じているのでは)。いつまでも、そのような世界であってよいはずはあるまい。
 日本国憲法は、日本国民が、自国の引き起こした戦争が世界にもたらした未曾有の惨害に対する反省から「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」、名誉挽回、「国際社会において名誉ある地位を占め」るべく、「正義と秩序を基調とする国際平和を希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使」を率先して放棄し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を認めないこととしたはず。それなのに、自衛隊は「必要最小限の実力組織」として憲法で禁ずる「戦力」には当たらないと称しながら、世界の軍事力ランキングでは、今や133ヵ国中7位(出典によっては4位とも)で、米ロ中などには及ばないが韓国(12位)をしのぎ、北朝鮮(23位)を凌駕している。しかも最大の核軍事大国のアメリカと同盟を結んでその基地を置いているのだ。
 兵器・武器には次のような問題もある。その開発・製造・売買によって経済効果が得られるということだ。兵器産業・武器メーカーや商社(「死の商人」)は、それによって金儲けができ、政府の経済政策上もそれによって軍需景気・雇用や税収等の効果をはかろうとする。アメリカでは「軍産複合体」と称され、軍需産業から利益を得る経済構造が形成されている。日本では戦後、武器輸出は禁止されてきたが、安倍政権になって、その「三原則」は撤廃され、「防衛装備移転三原則」のもとに武器輸出推進に切り換えられ、それがアベノミクスの成長戦略の一環にもなっている。兵器や武器は、戦争をしなければならないから必要とされるのではなく、それを名目にして、戦争はしなくても経済目的で開発・製造し、売ったり買ったりしている。しかし、それ(兵器・武器)を保有・装備することによって、戦闘・戦争に走りやすくなり(なければ対話・交渉を尽くそうとするが、武器があると、話すより先に、いきなり発砲・発射してしまいがちになり)、偶発的軍事衝突から戦争が起きやすくなる。そういう問題があるということだ。

 要するに、今日では、戦争する理由は「自衛のため」という以外にはなく、すべての戦争は自衛戦争だということになり、どの国の軍備も自衛(攻撃抑止)のための軍備(抑止力)だということになるわけである。(アメリカのベトナム戦争、アフガニスタン進攻、イラク戦争などすべてその名目で行われている。)そうだとすれば、戦争が起こるのは、自衛目的に軍備(攻撃能力)を持合う者同士が、誤認・誤算(相手の意図や行動を読み間違え、或いは判断ミス)から生じる偶発的軍事衝突から起こるのであって、それだけが戦争原因ということにもなるわけか。

 さて、この日本に対してだが、憲法に戦力不保持、交戦権否認を定めて不戦の意志を世界に示して(明確にして)いる国である限り、領土・領海問題など紛争要因(1)のある国であっても、どの国とも戦争が起こることは本来あり得ないはず。
 北朝鮮はどうか(日本に武力攻撃・戦争をしかけてくるか)(1)では領土問題など紛争要因も、戦争して得られるメリット(2)もないはず(植民地時代に受けた仕打ちに対する怨みや被害・損害に対する補償・賠償要求はあり得るが―2002年小泉首相訪朝の際のピョンヤン宣言で国交正常化交渉の開始と正常化後の補償問題など過去の清算について約束があったが、拉致問題は、そこでその存在が認められはしたものの、その後進展しなくなり、核・ミサイル問題等の安全保障上の問題も、そこで国際的合意の遵守や関係諸国間で対話・問題解決を図ることを約束したものの、その後、核・ミサイルは開発・実験が強行され、それに対して日米側が経済制裁を強化してきたことなどにより、約束は実行されなくなった。これらの経過から見れば、過去の清算が果たされない責任―負い目―は北朝鮮側にあり、それをもって日本に対して武力攻撃を正当化―合理化―することが到底できない―それは彼らにも解っていよう)。
 ただし、日本は世界有数の軍事力(自衛隊)を保持し、北朝鮮にとってアメリカに対しては戦争理由・動機(1)のある(1950年以来の朝鮮戦争は米朝間で休戦中ではあるが、未だ終結しておらず、再開される蓋然性があり、それに備えて核・ミサイルを開発・保有して対抗している)そのアメリカと日本が同盟し、米軍基地を置いている。北朝鮮にとってはそれが、対米戦争に際して日本に対する攻撃の理由となる。ということは日本の方に攻撃を誘う理由がある、ということになるわけである
 北朝鮮は、アメリカに対しては(戦っても勝ち目はなく、何のメリットもないが)戦わなければならない理由(1)があって(3)の点でも核・ミサイルを手にして(それは「抑止力」のためだといいつつ)対抗意志を示し、それに対してアメリカ側は、それを「挑発」「脅威」と非難して、その放棄を迫って制裁圧力(経済制裁及び軍事圧力)を加え、日本政府はアメリカ側に「最大限の圧力を」と促している。理性的判断からすれば勝ち目がないかぎり、自分の方から先に攻撃を仕掛けることはあり得ないとしても、アメリカの方から(「予防的」とか「限定的」とかの名目で)先制攻撃が仕掛けられる可能性もあり、どちらかの誤算・誤認による偶発的軍事衝突から戦争になったり、圧力に耐えかねて破れかぶれになって暴発(核・ミサイル発射)する危険を招くこともあり得る。(だから日本は、それに備えて軍備に万全を期さなければならないというのではなく、そのような事態を招かないようにしなかればならない、ということだろう。)
  尚、防衛省防衛研究所の元戦史部長の林吉永氏は「日本では、まるで北朝鮮が攻めてくるような大騒ぎをしていますが、北朝鮮は攻撃されれば仕返しをする、火の海にするぞと言ってるだけです。北朝鮮の軍事的・政治的意図を見据えれば、いたずらに脅える話ではなく、政治的に解決すべき事案」と述べており(週刊紙AELA3月19日号)。また柳澤協二(元内閣官房副長官補)は次のように指摘している。「日朝間には戦争しなければならないほどの固有の紛争要因があるわけではない。戦争の動機はむしろ米朝間にある。北朝鮮が日本にミサイルを撃つとすれば、それは日本の基地から発信する米軍戦闘機が自分を破壊することを恐れるからだ。それ故、北朝鮮が抱くアメリカへの恐怖を緩和することが、ミサイル攻撃の動機を減らす方法となる」と(「世界」2月号)。

 中国はどうか。(1)の点では日本との間の紛争要因には尖閣問題がある。そこでは領海侵犯などで睨み合いや小競り合いもあるが、費用対効果(2)の点では、小さな無人島とその海域を奪取するために戦争に持ち込むメリットは中国にはないだろう。それ以外には、日本に対して武力攻撃・戦争を仕掛けなければならない理由・動機は中国にはあるまい。あるのは(3)(軍事力)の増強で、それが海洋進出とともに諸国に脅威を与えてはいるが、それらのことだけでは我が国との間に再び日中戦争が起るかといえば、それはあり得ないだろう

 いずれにしろ、これらの国の「脅威」が増して「安全保障環境が悪化」したからといって、我が国にとってこれらの国との戦争が避けられなくなったというわけではないのであって、これらの国からの武力攻撃と戦争に備えて9条を変えざるを得なくなったかのように論じ、改憲を言い立てるのは見当違いだろう。

2018年03月16日


米朝首脳会談の一視点

 論壇誌「世界」2月号で、ティム・ショロックというジャーナリストの方が次のようなことを指摘していた。「米当局者たちは、北朝鮮が核開発プログラムを破棄して初めて対話は開始できると主張し続けている」が「それは北朝鮮に降伏しろと言っているようなもの」、朝鮮半島の危機打開の「もっとも重要なステップ」は米朝が和平協定を結んで朝鮮戦争以来の戦争状態を終わらせることだ。そうすれば両者とも核開発プログラム凍結についての対話を始めることができ、交渉の中でそれぞれの問題を解決することにつなげられる」と。また同誌には、柳澤元内閣官房副長官補も「戦争状態の解消に向けた和解を通じて北朝鮮が核を持つ動機をなくす以外に解決はない」と書いている。
 当方もかねてそう思って昨年投稿し、「どうしてそこのところを問題にしないのだろうか、どうも解らない」と提起したことがあったが、やはり、そこのところを問題にして論じている識者がいるではないか。それにつけても日頃目にする新聞・テレビには朝鮮戦争終結の和平交渉に視点を向けた論評は依然として見られない。そんな話は二の次で、あくまで核放棄が先決だというのだろうか。

2018年03月22日

森友問題とはどんな問題か(再加筆版)

 国有地格安払下げ―官僚による特別扱い―政治家・首相・同夫人の関与の有無を巡る疑惑―発覚後、交渉記録・決済文書など公文書改ざん 
 疑惑―事実の全容解明が必要―証人喚問(決まったのは当時の財務省理財局長佐川氏だけで、それ以外、首相夫人の喚問は決まっていない)、その結果どこまで明らかになるかだが、首相・同夫人の直接関与はたとえなかったとしても、首相に対する忖度(配慮)―間接的関与があったことは明らか。
 それらによる国民への実害の程度は?―そこはどう見る(測る)かだが、
 森友学園への国有地払下げは、値引き額が8億円で、タダ同然だったが、学園側の不正(詐欺容疑)と当局側の法令違反(背任・公文書毀棄容疑)がともに疑われ大阪地検により捜査中(学園理事長夫妻は逮捕・勾留中)で、今のところ不成立(用地の行方はストップ)。
 国会審議、改ざんされた文書をもとに質疑応答に長時間費やし(答弁に納得いかない野党の質問・追求は当然)、一年以上にもわたってなお疑惑のまま。この間、担当職員が一人自殺
 それらに対する最終的責任は誰にあるのか。佐川氏で終わるわけではあるまい。首相も夫人も「関与はしていない」と強弁し、たとえ直接関与は(口利きも指示も)していないし、夫人は「小学校の名誉校長」にかつがれて名前が利用されただけ(したがって違法行為による法的責任は問われない)としても、夫人の森友学園との親密な関係とその「首相夫人」の介在が森友側・当局側双方の異常な行為・結果をもたらしたことは紛れもない事実であり、首相にも間接的関与(忖度)があったことは間違いなく(指示も頼みもしないのに勝手に忖度した方が悪いなどという弁解・弁護は通らないし)結果責任・道義的責任は免れず、国政に対する信頼性を損なったその重大性からみて引責辞任も免れまい。
 麻生財務大臣は、文書改ざんは「理財局の一部がやった」とし、最終責任は当時の理財局長佐川にあり、自身の責任は否定。首相は「行政府の最高責任者として責任を痛感している。国民に深くお詫びする」としながらも、「私も妻も一切関わってはいない」し、決裁文書書き換えなど「指示したことは全くない」と繰り返すばかりで、「なぜこんなことが起ったのか」とまるで他人事、「『痛感』と言って責任またスル―」(朝日川柳)。 
 夫人はフェイスブックに、寄せられた野党批判の投稿に「いいね!」と。「反省」など、どこ吹く風のようだ。 

 モリ・カケ事件として並び称されるもう一つに加計学園問題がある。
 安倍政権が始めた国家戦略特区(地域を限定して大胆な規制緩和や税制面の優遇で民間投資を引き出す方法)に愛媛県今治市を指定して加計学園グループの岡山理科大学獣医学部を建設(本年4月から開校)。この学園理事長は安倍首相と親密なの友人、首相夫人は同グループこども園の名誉園長、特区措定、学部建設・開校認可に際して、内閣府から文科省へ首相の意向が働き「加計学園ありき」で進められたのではないか、との疑惑が国会で問題となる。(内閣府が文科省に早期開学を促したとされる文書―「総理のご意向」とか「官邸の最高レベルが言っている」との記述がある文書が省内に存在したと文科省が再調査結果を公表、前川前文科事務次官が同文書は「本物だ」「公平・公正であるべき行政がゆがめられた」と証言。しかし、内閣府側は否定、ヒアリング調査にも誰も「見たことがない」と。)

 これら森友・加計問題には、幾つかの問題点が考えられる。
 ① 政官の関係のあり方―ゆがみ
   日本の官僚は公務員採用試験で合格した知的レベルの高く見識を備えた人材が任用されており、公務員は戦後憲法上の原則で国民「全体」の奉仕者として公正・中立の立場で(政権・政治家の言いなりにはならずに法令遵守を心がけて)行政事務に当たり、政権が変り大臣が変わっても(法律を作成し予算を編成する等の)実務は滞ることなく継続性をもって行われてきた。
   それに対して総理大臣と各省の大臣は主として選挙で(有権者の好み・判断で)当選した議員から選任される。
   以前は、各省庁の幹部人事は大臣には人事権がなく全て省内の事務方トップ(事務次官)が作成する人事案をそのまま承認するしかなく、各省の大臣よりも事務方の官僚に実権を握られがちで、縦割り行政の弊害もあった。そこで2014年から内閣人事局が設けられ、総理大臣を中心とする内閣(官房長官・副長官ら)によって各省庁の上級幹部(事務次官・局長・部長・審議官など計600人)が一括任命されるようになり、官僚主導から政治主導(官邸主導)へと変わった。その結果官僚たちは任命権者である総理大臣や大臣の意向を汲んで(忖度して)事に当たる傾向が強まった。また官僚に対して官邸や与党政治家の圧力が加えられる(官邸に批判的な前川前事務次官が名古屋市立中学校で行った講演について自民党議員が文科省に問い合わせが行ない、それに応じて文科省官房長が市教委と中学校長に報告を求めた、といったこと等)。
 公僕(国民・全体の奉仕者)たる官僚が大臣や与党政治家の下僕に化するといった、そのような弊害が今回、安倍「一強」政権下で顕著に表れることになったと考えられる。(今、佐川氏に替わって答弁の矢面に立たされている太田理財局長だが、自民党議員からの質問で、彼が旧民主党の野田首相の秘書官だったことから「安倍政権を貶めるために意図的に変な答弁をしてるんじゃないか」と言われて「それはいくらなんでも~私は公務員として、お仕えした方に一生懸命お仕えするのが仕事」と答えたが、それを言うなら「国民全体にお仕えするのが私の仕事」というべきだったろう。)
 「忖度」とは、相手から言葉で求められなくても、その意を慮って(気をきかせて)事を為すことであるが、相手が組織の上司だったり権力者であったりする場合は、言葉で指示・命令されなくても圧力を感じてそうせざるを得なくてやってしまう、ということもあるわけであり、それが不正であれば、不本意ながらもそれをやってしまう。そしてそれに耐えきれずに自殺に追い込まれる、といったことも生じる。今回それで一人犠牲者が出た、というわけである。そのような事態(忖度の弊害)をなくすためには、権力者にはその地位・役職から退いてもらうしかないことになる。
 ところで、自民党が今まとめつつある改憲案のように「内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する」などと憲法に明記したら、幹部自衛官が首相の意向を忖度して「敵基地攻撃」にはしる、といったことが起きかねず、非常に危険なことになろうというもの。
  
 ② 公文書管理と情報公開―隠ぺい・改ざん
   公文書―国などの活動や歴史的事実の記録。それは「国民(現在~将来の国民)共有の知的資源」であり、国民(主権者として主体的に利用し得る「知る権利」)の請求に応じて開示さるべきもので、民主主義の根幹を支えるもの。
  政権の都合によって(不都合なことが)隠ぺい・廃棄・改ざん(あったことが、なかったことにされる)
  戦時中の公文書・記録が降伏時のどさくさに紛れ多くが焼却廃棄され、戦争犯罪の証拠隠滅、軍部や政府にとって不都合な真実が闇に葬られ、歴史の真相解明を不可能にしたという苦い経験がある。
  その保存管理の重要性。

 そこで求められるのは、これらの点で不合理・不都合・不当性を、森友問題の全容解明とともに明らかにして、事件の再発を防止することだろう。
 首相の職務は「行政各部を指揮監督する」こととされ(憲法72条)、内閣は「行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負う」ものとされる(同66条)。
 首相は「行政の長として最終的な監督責任は私にあり」、「なぜこのようなことが起きたのか、徹底的に調査を行い、全容解明に努めてまいりたい。二度とこうしたことが起こらないよう組織を根本から立て直す必要がある」などと述べているが、自身に関わる案件にについて省庁の組織の調査を自らの指揮監督の下に組織内でやらせる、要するに身内の調査に信頼性はなく、それを実行したところで問題の再発防止にはならず、それをもって首相が責任を果たしたことにはなるまい。責任を負うと言うのであれば、自らは辞して替った新首相の指揮の下に調査・立て直しを行うか、或は、調査は検事局などの司法当局による捜査(その場合の刑事訴追は個人に対して行われるが、それ)とは別に(組織を対象とする調査機関として、外部の人も加えた独立した第三者委員会を国会で議決して設けて、それによって行うべきだろう。
 いずれにしろ、この内閣の下では内部調査しても結果はたかが知れており、忖度行政は直らず、首相が責任をとるのであれば内閣総辞職しかないだろう。そして国政の私物化・安倍ファスト政治(「戦後レジームからの脱却」改憲など祖父から受け継いだ個人的な思い・情念・野心に基づく政治)を終わらせることだろう。
 森友・加計問題は単なるスキャンダルとして片付けられるような問題ではなく、安倍内閣の本質に関わり、国会と国民に対する背信、国民にとっては我が国の民主主義のあり方として根幹に関わる問題を内包している、解決すべき(何を差し置いても解決しなければならない)最優先課題なのだ。


 

2018年03月29日

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2018年03月30日

森友問題その2

 森友問題―①国有地のタダ同然の格安払下げ―どうしてそういうことが行われたのか。②交渉記録・決裁文書など公文書(国会から求められて提出した文書)改竄は誰が誰の指示で何故行ったのか。
 憲法62条(国会の国政調査権)「両議院は、各々国政に関する調査を行い、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。」
 議院証言法―刑事訴追で罪に問われる恐れがある場合は証言を拒否することが認められている。但し、その場合は犯罪の構成要件に関わる事実か、密接に関連する事項に限られる。
 佐川前理財局長の証人喚問―自身の関与は「刑事訴追の恐れがあるから」と証言拒否を連発(乱用)して関与を認めなかった(やましいところがあって「関与していない」とは言い切れないのだ)。
  それにもかかわらず、首相夫妻や官邸からの「指示」「不当な働きかけ」はなかったし、「影響あったとは考えられない」と言い切る(根拠を示さずに)。

 要するに改竄の認識については証言を拒みつつ、官邸からの指示は明確に否定するというダブルスタンダード。(「指示」「不当な働きかけ」「直接関与」はないとしても、それ以外のなんらかの働きかけ、間接的関与はなかったのか?は不明。(政治家からの「問い合わせ」等、必ずしも「不当」とは決めつけられないかもしれないが、なんらかの働きかけはあるはず。「影響あったとは考えられない」といっても、それは佐川氏の主観にすぎない。)
 結局、真相は何一つ分はからず、疑惑は深まるばかり。

 このような佐川氏の証言態度は誠実な態度とは到底言えまい。そこには政権にはひたすら忠義だて(前時代の「忠臣」根性)と、ひたすら自らをかばう「自己保身」根性がみられ、民主主義時代の公僕(国民全体の「奉仕者」)たるべき公務員精神とは程遠いと思わざるを得ない。

 この種の事件の再発防止―どのようなことが必要か。
 それは省庁の幹部と職員に法令順守など自覚を促すとか、公文書管理のあり方(システム)に手直しを加えるとか、その程度にとどまるとすれば、必ずまた起こるだろう。
 必要不可欠なのは「忖度行政」(国民に対しての忖度ならいいが、国民をさしおいてトップや上層部に対して忖度)を廃すべく内閣官房人事局の見直し(或いは廃止)、もう一つは「一強」長期政権となっている現内閣を総辞職させて(自民党の元行革相・村上誠一郎議員いわく「佐川さんが一人で罪をかぶる姿勢は正しいか。最高責任者が責任をとらないのは一番の問題だ」と、それは安倍内閣は退陣すべきだということだろうが)内閣を一新し、新内閣の手で抜本的な再発防止策を講じるようにすること、そして(自民党の総裁だが)総裁任期を短縮する(連続3期9年を2期6年に戻す)こともあって然るべきだろう。
 そうでもしない限り、このような事態はまた起きるだろう。

 この問題を、とかくすると単なるスキャンダル事件に過ぎないかのように考え、「こんなことばかりに、いつまでもこだわり続け、肝心のことを疎かにしている」などと言う向きもあるが、それは間違いだ。この問題は人事権・任命権を握る権力者に対して有利になるように、官僚(或いは司法官)が、その指示・働きかけに応じ、或は意向を忖度して行政処理(或は司法判断)が行われ、公文書の意図的な廃棄・不作成・隠ぺい・改竄が行われる事態にもなっていることがはっきりしているのに、その不公正・不法行為を曖昧にし、そのような事態を招いている官邸・内閣人事局による幹部人事の一元管理など政治権力の一極集中体制をいつまでもそのままにしておいては、行政処理も或は司法判断・国会審議も(正確な公文書・データが改ざんも隠ぺいもなく提示され、それに基づいているのでなければ)まともに行われるはずはなく、国民の公益は損なわれ、民主主義が大きく損なわれてしまうからである(現安倍政権は昨年の総選挙で大勝して成立しているが、その総選挙は安倍政権下での省庁における公文書記録の改ざん・隠ぺい等が行われている事実を国民は何も知らされないまま投票が行われたわけであり、そんな政権にはたして正当性があるのかだ)。

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