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2014年01月 アーカイブ

2014年01月01日

1月のつぶやき(随時、下に加筆)

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ワインはスペイン産で一本528円、晩酌はこの小コップに一杯だけ。新聞読み、テレビ見、ブログつくり、それに歌の散歩、今年もこれで行こう。
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♪わ~れは行く 心の命ずるま~まに わ~れは行く さらば 昴よ♪(ああ、自己満足した)
●やや吹雪ぎみ(小雪が横なぐりに)、フードをかぶって重い長靴で散歩。♪冬が来たぞと海鳥啼けば 北は雪国 吹雪の夜の・・・・♪(「喜びも悲しみも幾歳月」)
●NHKで漫画家やなせたかし特集をやっていたのを、たまたま見た。そこで「アンパンマン」の歌の謂われを改めて知った。その歌詞をインタネットで調べて書き写した。
 今日は正月も7日目にして初めての快晴、雪原・雪山の上に太陽が燦々。散歩の歌はアンパンマンの歌。
 ♪何のために生まれて 何をして生きるのか・・・・・・♪
 メモした歌詞を見ながら口ずさんで、覚えながら歩いてきた。帰ってきてその歌詞をサインペンで清書し、棚に張り付けた。が孫どもに反応はない。(やはり自己満足)
●「アンパンマンの歌」は3番目まで、「喜びも悲しみも幾歳月」は4番目まで、カンニングペーパーを見ないで唄えるようになった。ただひたすら認知症に抗して。
 ♪星を数えて 波の音聴いて 共に過ごした 幾歳月の 喜び悲しみ 目に浮かぶ 目に浮かぶ♪
 人通りも人家もない雪道を 歌いながら ふと思い浮かんだ女房の顔
 そういえば(家に帰ってきて風呂に入りながら思い浮かんだ)亡き父が詠んだ歌
              「月よみの真白にさやぎ吹く野分き 新田原に馬のいななく」
              「朝な朝な妻が水汲む井戸の辺に 藁ぐつ履きて雪踏む吾は」
●ニュースはプロ・サッカーの本田選手のことで持ちきり。すごいなと思ったのは、彼が小3の時、学校の文集に、夢は「セリエAで10番をもらうことだ」と書いていたこと。そしてそれを実現させたことだ。それに記者会見での英語の受け答えも。
 一方、某紙のコラムに上中別府チエというお婆さんのことが出ていた。戦争時代を生き、小学校しか出ておらず、夫を亡くして2年後76歳で「英語を学びたい」と「一念発起」、夜間中学に入って定時制高校に入り、83歳で野球部に入部して「県大会で一度だけレフトを守り、決勝では伝令も務めた」。そして今春卒業を迎えるという。このような夢の追い方もあるんだな、と孫に語ってきかせた。
 陸前高田では津波でいなくなった娘の修学旅行のスナップ写真を父親が写真屋に頼んで着物の晴れ着姿に加工してもらった写真を、成人式に臨む同級生に託した、というニュースもあった。失われた夢もあるんだな。
 当方が居間で座っている後ろの壁に貼っている紙には「目標(夢)←チャレンジ・努力」と書いてある。アンパンマンの歌詞も張り付けたが、それには「何のために生まれて、何をして生きるのか」「何をして喜ぶ」「生きる喜び」「忘れないで夢を」「いけ みんなの夢守るため」と。(なあ、孫どもよ!)
●何のために生まれたかは問わない。生きるべくして生まれたのだから生きるしかないのだ(それが生物本能なんだから)。とにかく生きる。
 問題は生きるために何をするかだ。それ(生きるために必要なもの)は、食べ、身体・健康を維持し、学び、言葉を交わし、助け合って働く(生活の糧を得る)ことを含めて生活目標(それを果たすことによって生きがいが得られる長期目標・「夢」・「志」と短期目標・日課)をもって取り組むことだろう。目標をうまく果たせれば喜び・生きがいが得られる。うまく果たせず落胆・悲しみに打ちひしがれることもあるが、それが目標を立て直して再チャレンジする(意欲がかきたてられ)活力ともなる(その意欲・活力を失ったらお終い)。
 生まれたからには、とにかく何かをして生きることだ(ラジオ体操でも、散歩でも、歌でも、英語でも、新聞・テレビでも、たまに革新懇話会や友人と飲み会・小旅行でも、ブログで「声なき声」でも、投稿でも、グラス一杯の安ワイン晩酌でも)。
●そういえば、当方もこの歳で英語を毎日短時間だが(「スピード・ランニング」のCD一式16枚を買っていて、それを聴きながら、繰り返し繰り返し、もう10年にもなるが「聴き流し」だけでは覚えきれず、今は書きながら)やっている。何のために?趣味・自己満足。ささやかでも、それで生きがいを得て生きられている。それでいいんじゃないの。
●かく言う当方の夢はなんだろう?
 現行憲法を死守し生かし続けること。その下で、孫どもがそれぞれの夢に向かって取組み、うまくいけば喜び、失敗すれば落ち込み悲しむだろうが気持ちを切り替えて新たな夢に向かって再チャレンジすればいいし、とにかく夢に向かって生きていくことだ。そうだ、みんなの夢を守るアンパンマンが我が夢か。
 解釈改憲であれ明文改憲であれ改憲を推進・支持する勢力と闘うアンパンマンになる、それが我が夢―なあ、孫どもよ!(笑うな!女房)
●名護市長選は新基地建設反対派が勝った。負けたら終わり―日米同盟権力とカネのまえに屈従する情けない結果―と思っていたが、そうではなかった。沖縄人・名護市民の大半はまともだった、ということだ。
●録音機(ラジカセ)を買ってきて、「憲法の歌」を唄って吹き込んで孫に聴かせた。♪日本国民は恒久の 平和を 念願し・・・・♪「ジジ(爺)の生前の声」が残ることになるわけだ。
 孫にも唄わせて吹き込ませた。♪きどうせんし ガンダム ガンダム♪(拍手)「よ~し!上手 上手!」
●NHK新会長(籾井氏)、やっぱり百田氏ら経営委員たちとともに首相と同じ考え。就任会見で従軍慰安婦や強制連行の問題について、首相と同じことを言った。同じ歴史認識なんだ。しかも「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」という。NHKは首相寄り(右寄り)の放送局になるわけだ。
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2014年01月03日

マスコミ各社の安倍政権との遠近(再々加筆版)

 各政党の秘密法に対する態度で、安倍政権に対する遠近の度合いが分かった(自公は政権与党だから分かりきっているが、「修正協議」談合に応じた維新・みんなの党とも「すり寄り政党」「翼賛政党」と見なされる)が、マスコミ各社も秘密法に対する見方(論調)と報道の仕方でそれぞれの報道姿勢・スタンス―政権と国民間のどの立場に立っているか―がわかる。
 NHK・読売・産経は政権寄り。朝日・毎日は批判的で、日経もやや批判的。東京新聞をはじめ地方紙の大部分も批判的(社説で反対論)。
 NHKは、首相や政府与党、野党でも修正協議に応じている維新・みんな各党の要人のコメントをそのまま流すか、その見解をなぞるだけで、他の野党の反対意見はちょっとだけ出して、あとは自公・みんな・維新各党間の修正協議のなりゆきを追い、政局の動向を伝えるだけで、独自に法案の中身・問題点を掘り下げ、本質に触れた論評はほとんど見られない。

 読売―「与野党の修正案は評価できる」(11月23日社説)、「与野党の枠を超えた多くの支持によって衆院を通過したことは評価できる」(11月27日社説)、「秘密保護法成立 国家安保戦略の深化につなげよ」(12月7日社説)
 産経―「成立に向け大きな前進だ」(11月27日社説)、「秘密保護法成立 適正運用で国の安全保て 知る権利との両立忘れるな」(12月7日社説)
 朝日―「民意おそれぬ力の採決」(11月27日社説)、「秘密保護法成立 憲法を骨抜きにする愚挙」(12月7日社説)
 毎日―「民主主義の土台壊すな」(11月27日社説)、「特定秘密保護法成立 民主主義を後退させぬ」(12月7日社説)
 日経―「『知る権利』揺るがす秘密保護法成立を憂う」(12月7日社説)
 東京新聞―「秘密保護法が成立 民主主義を取り戻せ」(12月7日社説) 

 読売とNHKは、メディア総合研究所から「最大の発行部数を誇る読売新聞、公共放送であるNHKでは十分な報道が行われているとはいいがたい」と批判されている(同研究所が11月18日に報道各社に出した要望書で)。

 安倍首相のメディア戦略―アメとムチでメディアをコントロール
 主要新聞・放送キー局首脳(会長・社長)や政治部長・論説・編集・解説委員らと相次いで会食―欧米では「ジャーナリストの政治家との会食は堕落の象徴だ」とされている。
 テレビには、ニュースや情報番組・バラエティー番組にさえ積極的に生出演―アベノミクスや重要政策をアピール、政策から趣味にいたるまで気さくに話し、外遊の模様など「獅子奮迅ですね」と女性キャスター(某紙の記事)。マスコミをまさに自らの宣伝機関としてフル活用。
 圧力―参院選の時期、TBSに対して取材拒否(出演者の発言を理由に)
  NHK(予算は国会の承認を受けなければならず)に対する政治介入―01年(官房副長官当時)従軍慰安婦関連番組でNHK幹部に持論を展開したうえ「公正中立の立場で報道を」と。この問題で07年東京高裁、判決で番組改変に安倍氏の関与を指摘。
 直接、介入・干渉は受けなくても、現場は圧力を感じて委縮、NHK幹部は予め政権与党の意向を忖度して、その意に沿った報道や番組編集を指示(「自主規制」)
 現政権与党は、それでも原発やオスプレイなどの関する報道内容には「偏っている」と批判。

 NHK経営委員会に首相寄りの委員を送り込む―
  百田氏―自民党総裁選で「安倍総理大臣を求める民間有志の会」発起人。首相の靖国参拝を「安倍さんは参拝するという思いをずっと持っており・・・・。国のために亡くなった英霊に手を合わせ、感謝の念を捧げるのは国民の代表として当然だ。中国や韓国が批判するのは内政干渉にあたる」と。また、改憲に反対する人たちを「妄想平和主義」と呼び、ブログに「もし他国が日本に攻めてきたら『9条教』の信者を前線に送り出す。そして他国の軍隊の前に立ち『こっちには9条があるぞ!立ち去れ!』と叫んでもらう」などと。
 そして「NHKが日本の『国営放送局』として国民のためになる番組や報道を提供できる放送局になれば素晴らしいことだと思う」と(NHKは国民の受信料で成り立っている公共放送局なのに)。
 長谷川氏―「日本会議」(靖国派団体)代表委員で、百田氏とともに「安倍総理を求める会」の発起人。明治憲法を称揚し現行憲法を攻撃。
 本田氏―安倍首相の小学生時の家庭教師で「四季の会」(首相を囲む経済人の会)のメンバー。
 中島氏も「四季の会」の主要メンバー。
 この度、経営委員会でNHK会長に選出された籾井氏(三井物産出身)は「憲法改正や特定秘密保護法について首相が言っていることは当たりまえ」と。

(尚、これらのことはインターネットで調べられる。)

 報道には「客観報道」(主観を入れずに客観的事実を伝える)原則があり、公共放送には「公正・中立」「不偏不党」「自立性」等の原則がある。NHK自身の世論調査では、放送の「公平・中立」が「実現している」と評価している向きがかなり多い(77%)が、はたしてどうなのか?
 マスコミの「不偏不党」「公正中立」といっても、量的に公平・均等配分とか左右どちらにも偏らずに距離的に中間ということではなく、各マスコミとも政権から距離を置き、権力や政党からフリーで自立している、その自立こそが中立なのだ。
 「NHK問題を考える会」や「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」などの市民団体あたりからは「政府の広報放送」「安倍政権の報道官のようだ」などといった批判が相次いでいる。 
 朝日川柳(12月28日)には次のような一句があった。
  「NHK 安倍一族に乗っ取られ」
 某紙には(「みなさまの公共放送」ならぬ)「あべさまのNHK」とあった。

 安倍首相が利用しているメディアにもう一つツイッターやフェイスブック(それは誰のものでも、基本的にファンしか集まってこない)がある。これによって「いいね!いいね!」という支持・賛同の「声なき声」が大量に寄せられ、勢いづけられるのである。(首相の靖国参拝は「ヤフー」によるネット調査では約8割の人が「妥当」だと支持を寄せ、フェイスブックの「いいね!」ボタンは4万回押されたそうな。)
 コラムのリストの小田嶋隆氏はその訳けを次のように解釈している(12月29日・朝日オピニオン欄)。「(彼らは)参拝の是非より、首相が信念をもってやったことを支持する。事のよしあしはどうあれ、きっぱりした決断力・実行力に国民が反応するということが如実にある。多くの人は、おそらく、首相の靖国参拝自体、何それ、という感じかも・・・・。それより、中国や韓国にいろいろ言われるのは不愉快だという気分の方が大きい。事情も聴かずに『そこ、もめないで』と学校の先生みたいなことを言っている米国も面白くない。だから、諸外国の顔色をうかがったりせず、毅然として参拝したことに たくましさを感じる国民も一定数いるのでしょう。
考えてみれば、リーダーに決めてもらいたいというのは、自分で考えずに丸投げすることになる。(それは)民主主義国家として健康とは言えない。民主的に決めようと思ったら、複雑だし、迷いもあってぶれるし、時間がかかる。決断は煮え切らないもの。
 今回の出来事は、安倍さんが自信をつけて、戦後民主主義の全否定へと露骨にかじを切った、分水嶺だった、と後に振り返ることになるかもしれない」と。

 
 ニュースは客観的事実を伝え、キャスターや記者の私見(主観・意見)を入れてはいけない、という。記事・報道はあくまで事実に基いて報じなければならず、憶測や推測に基づいて報じてはならないというのは、その通りである。
 しかし、「事実をありのままに」といっても、それが真実とはかぎらない。安倍首相の発言をそのまま流せばいい、とは言っても、彼の言い分(例えば、「福島の状況はコントロールされています」とか「汚染水は湾内で完全にブロックされています」とか)が、はたして正しいことを言っているのか、真実なのかはわからないし、そのまま流したのでは広報・宣伝にしかならないのであって、検証が必要であり、他の反対意見や異なる見解も聞き、裏付け取材も必要である。国民にとって必要なのは(国民が知りたいのは)真実・真相である。
 ところが真実か否かの判断には、その人の思い―主観―がともなう。だからこそ、「真実を伝える」などというのはしょせん原理的に成立しないのであって、それがはたして真実か否かなど判断を入れずに事実だけをありのまま伝えるしかないのだ、ということになりがちなのである―「客観報道主義」。
 しかし、報道する側は、伝えるべき事実を取捨選択して(カメラやマイクを向けたり、取材する対象―映像・発言者・情報取材源・データなどを選び取って)伝える、そこには、やはり編集委員・ディレクター・キャスター・記者などの意図・主観が入る。つまり、彼らそれぞれの思い・考え・都合(政権与党やスポンサーなどの圧力とそれへの忖度)によって、どれをどれだけ取り上げるか、取り上げないか、選り分けられるのである。少数派の発言・集会・デモなど、どんなに頑張っても取り上げてくれない場合が多い。「公正・中立」「不偏不党」などと言いながら、けっして公平ではなく、偏ることが多いのである。
 要は、伝えようとする送り手(局や社)の幹部・記者とりわけ幹部・編集委員しだいなのである。彼らがどの立場に立っているか―国民・庶民・弱者か強者・財界(企業経営者)・政権与党寄りか。我々庶民にとって大事なのは国民・庶民の立場に立って真実を(単に表面的な事実だけでなく、問題点と本質・核心をなす事実・真相)を指摘し伝えてくれることである。
 「(福島の)状況はコントロールされている」というのは本当なのか嘘なのか「真実」判断には判断するその人の思い(主観)が入るかもしれない。首相は、その「思い」からそれが真実だと思ってそう言っているが、それは福島の人々の思いからはかけ離れている。また、安倍首相はアベノミクスで「経済の好循環」に向かいつつあるというが、それは大企業・財界・証券業界・大企業労働者・大規模農業者など富裕層か、それとも中小零細企業とその従業員・小規模農家など庶民か、誰にとっての「好循環」なのか。
 1月7日にはNHKニュースウオッチ9も報道ステーションも経団連など経済3団体の新年祝賀パーテー(首相も出席)のニュースで、何人もの企業トップへのインタビュー。いずれも景気の好い話ばかりで、まさに財界・大企業の立場に徹した報道ぶり。
 一方、インターネットでしか見られないテレビ放送で「デモクラTV」というのがあり、そこに立教大経済学の山口義行教授が出演して次のように語っていた。
 「今は、復興需要や「国土強靭化」の公共事業と消費税引き上げを前にした駆け込み需要で活況を呈し、「金融緩和」操作による円安で株価が上がって儲かっている一部の人はいるが、自動車など輸出が増えて儲かっているとは言っても、それは金額上だけで、台数は増えておらず、部品下請け中小企業には恩恵が及んではいない。円安が続けば輸入産物の価格・コストが上がり、そのうえ消費税が上がれば、価格に転嫁できない中小零細業者や給料の上がらない労働者ら庶民のアベノミクスに対する淡い期待は失せ、一機に失望・不満へ転じるだろう。そうなったとき安倍政権の支持率は急落するだろう」と。
 メジャーなマスメディアとマイナーな一インターネットTVのどちらが、国民・庶民の立場に立って正鵠を射ているだろうか。

  マスコミは、首相や財界・大企業トップの言うことをそのまま流して済ませるのではなく、福島の住民の立場に立ち、或いはまた庶民の立場に立って真実を判断・確認して、国民に真実を伝えなければならないのだ。

 いずれにしても、ジャーナリズムの原則は国民の立場に立って「権力の監視役」に徹することなのであって、権力に迎合・追従し、政府の応援団役とか広報・宣伝機関役に堕するようなことがあってはならない。とりわけ今、安倍政権の暴走に対して、この原則に徹して然るべき役割を果たせるかが問われており、マスコミ(日本のジャーナリズム)を我々国民が監視(自分<国民>の立場に立ってやってくれているか、権力の監視役を果たしているかを監視)しなければならないのだ。

 学校教育・授業も同じ。当方は在職中、社会科(世界史・日本史・政経・倫理)を担当していたが、それぞれの事項について、自分の考え方はあっても、生徒には、こういう事実・実態があるとか、あったとか、それについてはこういう見方・考え方があり、違う見方・考え方もある、という教え方をし、自分の考えを押し付けないように心掛けた。(教科書は選んで生徒にあてがったがだが、あまりとらわれず、色んな教材・史料集や資料を使い、ビデオをNHKなどのドキュメンタリー番組をダヴィングして、よく見せたりした。)
 教育とは、生徒に将来にわたって、無知・無関心に乗じて、虚言・巧言・デマ・トリック・マジック・迷信・「エセ科学」・世論誘導などに引っかかって騙されないように、知識を身につけ、真実を見極め、嘘を見抜き、本当か嘘かを見分ける力と方法を身につけさせることである。政治権力者やそれに同調するメディア、それに教師からも騙されないように。(首相や文科大臣がその価値観・イデオロギーで「日の丸・君が代」だの「愛国心」だの「非自虐史観」だの特定の教育内容を押し付けてくる、それに同調、或いはおとなしく従って教え込もうとする教師から騙されてはならないのだ。かつての軍国少年のように。)

 プロパガンダ(宣伝・広報―教化―世論誘導―自らの意図に沿うように人々を仕向ける)と報道・教育(情報提供・伝達し、理解を助ける)の違い―政治家や広報・宣伝機関がやるのはプロパガンダであり、ジャーナリストや教師がやるのは報道・教育。
 安倍首相や政権与党はマスコミや学校教育(教科書)を、自分の政策・理念を基準(尺度)にして「偏っている」とか「いない」とか評価(検定)して、自分の意に沿うようにして利用しようとするが、マスコミは政府・権力者と癒着・迎合してその広報・宣伝機関に堕するようなことがあってはならず、あくまで国民(その良心的部分)の立場に立ち、権力に対する監視役に徹して独自の判断に基づいて報道を行うべきなのである。
 自民党の石破幹事長は、集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈の変更について「世論調査で、(国民の)半分以上の方々が『そうだね』と言っていただけるところまでもっていかないといけない」とある民放テレビ番組で述べたそうであるが、彼らはそのように世論誘導すべく、マスメディアを巧く利用しようとしている。そして、メディアのなかには、それに応じるものがあるのだ。週刊文春の読者アンケートは、なんと「参拝支持75%」、こんなことになったりしているわけだ。
 政治権力だけでなく、そのようなマスメディアをも、我々は監視しなければならないわけで、当方などは(あまりにも無力ではあるが)そんなつもりもあってやっており、それがライフワークみたいなもんだとさえ思っている。

2014年01月11日

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    結城哀草果は歌人・斎藤茂吉の弟子で山形県の代表的文人だった人
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                     この中にいる
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     誰 この人  「さだげねごど」(草葉の陰で誰かがつぶやいているかも)

2014年01月12日

欧米有識者の沖縄新基地建設反対声明に注目

 名護市辺野古沿岸に新基地建設を推進する日本政府と、その方策に知事が合意して埋め立てを承認したのに対して欧米の有識者29人(映画監督のオリバー・ストーン、マイケル・ムーア、学者のジョン・ダワーやチョムスキー、元国防省高官のエルズバーグ、ノーベル平和賞受賞者のマイレッド・マグワイアら)が連名で反対声明を発表した。それは、沖縄の現状を米国の「軍事植民地状態」だとし、普天間の即時・無条件返還と辺野古移設反対を訴え「我々は沖縄県内への新基地建設に反対し、平和と尊厳、人権と環境保護のため闘う沖縄の人々を支持する」というもの。
 この声明は沖縄の地元紙や一部のメディア以外にマスコミにはあまり詳しく取り上げられていないが、それは、この沖縄問題が単に我が国の狭い安全保障と住民の問題であるだけでなく、人権と人民主権を基調とする国際社会のあり方に関わる普遍的な問題であり、声明は問題の本質をついており、我々日本国民にとって注目に値する。
 それは我々に、この問題を狭い国益と住民利害だけの次元で考えるのではなく、普遍的な道義・人権・人民主権・国際平和のあり方に至るまでグローバルな視点に立って考えなければならないということを呼びかけているように思う。
 名護市長選挙は辺野古新基地建設をめぐって賛成・反対両候補の対決で近々投票が行われるが、住民はどう判断するのか。

2014年01月16日

どうすれば幸福に?(再加筆修正版)

国連の調査―「世界の国民幸福度」―各国で幸せを感じている人の多さ順位(2013年)
 1位デンマーク、2位ノルウェー、3位スイス・・・・・
 17位アメリカ・・・41位韓国 、42位台湾、 43日本(先進国の中では際だって低い)

幸福とは―心が満ち足りること      (参考―NHK・Eテレ「“幸福学”白熱教室」)
(1)幸福の客観的条件
  ①暮らし・収入の安定(ただし一定の高さ―アメリカでは7万5千ドル―に達すると、それ以上収入が増えても幸福度は頭打ち。金持ちは貧しい人よりも幸せだが、その差は大きくない。)
  ②健康、住環境(自然・生活環境)の快適さ
  ③人生経験(世代・年齢)
  ④恵まれた(良好な)人間関係(家族・隣人・同僚・上司・部下)―貧しい家に住んでも、家族や子供に恵まれていれば幸福だとか
  ⑤治安―社会の安全・平和
 豊かさ・快適さ・安全・平和に慣れてしまうと、それが当たりまえのこととなり、(主観的には)その有難みや楽しみは薄れるものだが、それが失われると耐えがたい不幸に陥る。それらは各人それぞれの幸福実現の客観的条件として、各人の努力とともに、国には「健康で文化的な生活」「教育」等の最低限度の保障義務が課せられている(憲法で)。
(2)主観的な(人それぞれで多様な)幸福―喜び・快感・満足感(自己満足)
    客観的条件(生活条件、年齢的、身体的・能力的条件、社会的・環境的条件)は同じか、違いはあっても、その条件(境遇)下で各人がそれぞれ追求して得る幸福感(家が貧しいとか条件には恵まれなくても得られる幸福感、或いは挫折や逆境から脱し再起して得られる幸福感)

どうやって幸福にありつくか
 ①運によってありつく(幸運)―「宝くじに当たる」など
 ②他の人からもらって得る幸福感(喜び)―ごちそう・娯楽・スポーツ・芸術鑑賞など
 ③自らの努力(心を集中、苦心)によって―目的(夢・志)・目標(最終目標、あるいはそれへの過程を一段一段その都度)達成して得られる(達成感・満足感)
 ④互いの協力(それへの参加)によって分かち合って得られる幸福感
 
度合い(幸福度)
  *物質的欲求の満足(物の豊かさ―贅沢―常態化していつものことだとか、慣れてしまうとどうということがなくなる)より精神的欲求の満足(経験、夢・目標達成)のほうが幸福感が心に残る
  *③と④で、自らの努力によるものほど高い(幸福感が大)
      要した努力(困難・苦心)が大きいほど高い(満足感が大)
  *自分だけでなく人からも共感(拍手)を得られ、或いは人から感謝されるものほど高い(満足感が大)―お金は自分のためよりも他人のため使った方が(但し、強制されてではなく自発的に)―与える喜び(それは人間の生まれ持った性質と考えられる。豊かな国でも貧しい国でも、生活環境や文化の違いにかかわらず、どちらの国も、自分のためよりも人のためにお金を使ったことを思い出す方がより幸福感が高いという点で一致。子供はおやつをもらった時より分け与えた時の方がうれしい顔をする。実験・データで明らか)
 (自己満足といっても自分さえよければ何をしてもいいということにはならない。人に迷惑はかけない。できれば人々から喜ばれ共感してもらえてこその自己満足、いわば「自他満足」。
 自己満足といっても世のため人のためになるものほど、その満足感は大きいということだ―利己よりも利他)   仕事・事業・他者への投資・ボランティアなど社会貢献、
          スポーツ選手・アーチストの活躍、冒険・偉業など(―人々の感動を呼ぶ)

 小野田少尉―諜報員としてスパイ教育を受けた情報将校で、フィリピンの密林に潜伏してゲリラ戦、戦争終結しても任務解除の命令が届かず、29年後、発見されて帰還。
 彼は日本に帰還するまでは最悪の条件下で生きてきた(生きるために動物を殺し、或いは敵人をも)が、任務(解除命令がないかぎり、生き延びて全うするしかない任務)とともに日々生きるための目標をもち、目標達成に「生きる喜び」(辛いながらも、それなりの満足感)を感じて生き抜いてきたのだ。そして、その後、帰国して間もなくブラジルに渡って牧場経営、自然サバイバル塾を開いて日本国内でも青少年を鍛えようということで、それに打ち込んだ。
 靖国神社を信奉する「日本会議」の代表委員を歴任、田母神氏らに同調していた等のこともウイキペディアに出ている。いずれにしても、彼はそれで自己満足して(主観的幸福を感じて)いたに違いあるまい。
 著書には「人間はもともと殺し合うようにはできていない」としつつ、「人間は生きるために生まれてきている。潜在能力を引き出すためには、明確な目標を持ち、目標を達成するために覚悟を決めることが大切である」と書いている。
 (最近、肺炎にかかり91歳で亡くなった。)

 当方のやっていることは、ほとんどが、まるっきりの自己満足でしかないのだが、それでも、いささかなりとも満足感があるばかりも(というか、それで気が済んでいるんだから)よしというものだろう。ささやかながら、それで生きがいを感じ、それで生きていられるのだから。但し、世のため人のためには役立っていないだけ幸福度は低い(でも、しかたない)。

 それはともかく、人の幸福は、客観的条件はどうあれ(どんな時代に生まれ、どんな国や家に生まれ、どんな体や頭に生まれようと、年収がどれほどだろうと、どんな学校や大学を出ようと、どんな仕事に就こうと、連れ合いがどんなだろうと、どんな服を着、どんなクルマに乗っていようと)、健康で文化的な最低限度の生活が保障され、能力に応じて均等な教育の機会が保障され、幸福の追求権が各人に保障されていさえすれば(現行憲法はそれを認めている)、あとは自分の意思と努力しだい、といってよいのではなかろうか。


2014年01月26日

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 かつていた父、母(右に立っている)・祖母(左に座っている)の影が今ここに
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      ここ写っている子供以外は皆もうこの世にはいない(二人は戦死)
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      彼女の口説き言葉「なえだて かえだて さだげね(人目悪い)ごど」
                             ・・・・「こんな写真を人にさらして」


2014年01月28日

いかにして生きるか(加筆版)

 「人は何のために生まれ、何のために生きるのか」などと生きる意味がよく問われるが、「何のために」なんて問わない。生きるべくして生まれたのだから生きるしかないのだ。とにかく生きる。要はその生(人生)をどのように生き、生きがいを感じて生きるかであり、生きがいを満喫できれば「ああ、幸せ幸せ」ということになる。
 しからば、どうすれば生きがいを感じ、生を満喫できるかである。その方法は、日々、夢・目標・日課をもち、それを果たしつつ(果たせれば達成感・満足感が得られ、果たし損ねれば―しばらくは落ち込んで挫折・絶望感に囚われることもあるが、立ち直っては―再チャレンジしつつ)生きることである。
 夢・目標・日課は人それぞれ、思い思いに、どんなことでもいいわけであるが、究極の人生目標は「死ぬまで生き抜くこと」だろう。そしてそれを果たせた喜びが究極の幸福となる(極楽往生を遂げる)、というものではあるまいか。
 ALS(筋委縮性側索硬化症)など難病や事故に遭って身体が動けなくなり寝たきりの身、意識だけは保っている、そのような場合、手足を動かしてあれこれすることはできないが、口が動かず話はできなくても目・まぶたが動き、耳が聞こえるならば、支援者(介護者)が50音・数字を並べた文字盤でカナ文字や数字を指を差しながら音声を発し、療養者(患者)が伝えたい言葉に該当する字に視線を送って、それを読み取る等の方法を講じてコミュニケーションはできるし、脳は働き、あれこれ想像し、考えをめぐらせることはできる。植物人間にならないかぎり、自分が生きていることを自覚でき、生きていることを確かめ喜ぶ余地はまだある。毎日毎時間の目標・日課は唯ひたすら生き抜くこと、そして眠りにつき目をさます度に「生きている!よ~し、今日も生きるぞ!」と生きていることを確かめて喜び希望をつなげる。そうして生きているそのこと自体を喜び楽しむのだ。
 人間というものはあれこれ何かすることに価値があるのではなく、生きることそれ自体に価値がある、ということではあるまいか。
 フランクル―ナチス・ドイツ時代オーストリアの精神科医でユダヤ人強制収容所に入れられ、極限状態に置かれた人たちの有様を目の当たりにし、解放後に著した「夜と霧」―その文中に次のような意味のことが書かれている。「人生に何か(いいこと、楽しいこと)を期待して生きるのではなく、人生からこうあってほしいと期待されて生きることだ」と。
 それは、極限状態に置かれ、もはや人生に何も期待できず夢も希望もない、生きていても無意味だといって絶望して諦めるのではなく、極限状態に置かれているその人生が自分に「逆境を運命として受け入れつつ逞しく生き抜いてほしい」と期待をよせている、その期待に応えて生きるがよい、ということだろう。

 当方の場合、我が人生が自らに期待し、課し、或いは許しているのは何かといえば、それは今こうしてやっていること(ラジオ体操・歌いながらの散歩・英語・新聞・テレビ・たまに革新懇話会や友人との飲み会や小旅行・ブログで「つぶやき」と「声なき声」の発信・投稿・掃除機かけや家族の送迎・ワイン晩酌も含めて、朝起きてから寝るまでの間に、人様から見ればたわいもないことでも、日々やっている)、そのことにほかなるまい。

 人が何かに取り組み、それがうまくいって「ああ、幸せ、幸せ」とか、或いはそれを果たせて「ああ、よかった、よかった」といって達成感や満足感ひいては生きがい感・幸福感を感じるのは、実は自己満足にほかならない。
 人は誰しも、それぞれ置かれた境遇の下で、人生が己に期待あるいは課している目標・課題に取り組み、それを果たして自己満足を得る。
 その目標・課題が困難をともなうものほど、また世のため人のためになり、人々から感謝され或いは共感を得られるものほど満足度は高い。
 しかし、置かれた境遇や条件(年齢、健康、カネや職や役目の有無など)によっては、世のため人のためにとは思ってもそれができず、(当方のように)自分のことしかできないとか、自分のことで精一杯であり、そういう人にとっては、満足度の低い自己満足に甘んじるしかないわけであるが、それでも自己満足できるだけ幸せであり、生きている価値があるというものだろう。当方はそれで満足している。
 今の総理大臣は偉大な(?)目標・課題を掲げてそれらに取り組み、日本国民の何十パーセントかの人々から感謝・共感(支持率)を得ているが、そうでない人(不支持)もかなりいる。その満足度は当方のそれとは比べようもないが、いずれにしろ、それは彼なりの自己満足であることには変わりないのだ。

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