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2011年10月 アーカイブ

2011年10月01日

「さようなら原発」集会・デモ

集会―9月19日、東京・明治公園に6万人(警視庁では3万人と)。
各氏のスピーチ要旨
 (写真はいずれも自前)
1、鎌田慧氏(呼びかけ人、ルポライター、かねて「原発ほどカネで人間を支配する汚い事業はない」と語っている):
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 「野田首相の国連での原発再開表明は市民に敵対するものだ。原発社会から脱却する脱原発運動は文化革命で、意識を変えていく運動でもある。人類は核と共存することは絶対できません。1000万人署名、来年3月24日に日比谷野外音楽堂で署名を集会を開きます。それまで皆さん、がんばってください」
2、大江健三郎氏(呼びかけ人、ノーベル文学賞作家):
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 「自民党幹事長は『反原発と叫ぶのは簡単だが、生活をどうするのかということに立ち返ったときに、(イタリアのように)国民投票で不安な原発再開をやめましょうという簡単な問題ではない』と言ったが、原発事故が簡単な問題のはずはない。はっきりしていることは、イタリアでは、もうけっして人間の生命が原発によって脅かされることはない。しかし私たちの日本では、いつまた原発事故が起こるかもしれない不安がつきまとい続ける。私たちがそれに対抗するという想像力を持たない政党の幹部や経団連の実力者に思い知らせる必要がある。そのためには私らには、この民主主義の集会、市民のデモしかありません。」
3、内橋克人(呼びかけ人、経済評論家):
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 「技術が進めば安全な原発は可能だという新たな安全神話の再訂版が作られつつある。地下原発など、なおかつ原発を持ち続けようとし、その計画が進んでいる。その意図の裏には、核武装も可能な潜在力を持ち続けようとする政治的意図がある。原発のエネルギーではなく、命のエネルギーが輝く、そういう国にしようではありませんか。さようなら原発!こんにちは、命輝く国!その第一歩を皆さんと共に歩き続けたいと思います。」
4、落合恵子氏(呼びかけ人、作家):
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 「イマジン、想像して下さい。『子どもはどの国・どの社会に生まれるか選ぶことはできない。そして生まれてきた国に原発があって、その暴走があったのが今の私たちの社会』。想像してください。福島のその声と子どもたちの今を。そしてこの国の大勢の子どもたちの今を想像して下さい。放射性廃棄物の処理能力も持たない人間が原発を持つ、その罪深さを叫んでいきましょう。容易に核兵器に変わり得るものを持つことは、恒久平和を約束した憲法を持つ国に生きている私たちはけっして許容してはならないはずです。想像して下さい。小さな子どもが夜中に突然起きて、『放射能こないで』と泣き叫ぶような社会を、これ以上続けさせてはいけないはず。」
5、澤地久枝氏(呼びかけ人、作家):
 「広島・長崎は原爆の実験場にされた。その日本に原発が54基も。日本は原発を持ってはいけない国だったはず。人類はその暴走を止めたり、コントロールするノウハウを未だ持ってはいない。原発をなくしたら電力が乏しくなり、日本経済や雇用は成り立たない、二流・三流の国になると、威嚇まじりに語られる。しかし、そのような萎縮しがちな世相は原発事故以前から慢性症状としてあったのではないか。
 命を産み育む女性たちの役割を果たすべき時は今です。命を守る闘いには老若男女みんな一緒に力を合わせましょう。」
6、フーベルト・ヴァイガー氏(ドイツの環境団体代表):
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 「ドイツでは、福島の事故の後、デモが起こり、政府は8基の原発を停止し、その他も2022年まで停止することを決めました。最大の産業国の一つで脱原発が実現するのです。脱原発はもはや、できるかできないかの話ではなく、政治的にやるかやらないかの話しなのです。再生可能エネルギーの拡大によって、それは可能なのです。半年前にこの国で起こったことは、日本でもどこでも二度と繰り返してはなりません。核兵器のない、原子力発電のない未来を、ともに実現いたしましょう。」
7、山本太郎(俳優、所属事務所を辞めた):
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 「生きたい、生きていないとどうしようもないじゃないですか。自分一人ではどうしようもない。世界中のみんなと生きていないと意味がない。いま生きのびるためには原発をいっせい撤去するしかない。目の前の利益を守りたい者たちにとって、その発言は目ざわりだろう。でも僕たちは違う。命で語っていますから。メディアにとって命よりお金のほうが大事なんです。もう替わりのエネルギーはあるのです。電力は足りているのです。いま大人のすべきことは、子どもを守ること。そのためには行動を起こすことです。原発反対!子どもを守れ!命を守れ!地球を守れ!」
8、武藤類子(ハイロアクション福島原発):
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 「山は青く、水は清らかな私たちの古里。3.11原発事故を境に、この空中に、目には見えない放射能が降り注ぎ、私たちは被曝者となりました。安全キャンペーンと不安の狭間で引き裂かれていく人と人のつながり。地域で、職場で、学校で、家庭のなかで、どれだけの人が悩み悲しんだことでしょう。毎日毎日、いやおうなしに迫られる決断。『逃げる、逃げない。食べる、食べない。子どもにマスクさせる、させない。洗濯ものを外に干す、干さない。畑を耕す、耕さない。何かに物申す、黙る』。様々な苦渋の選択がありました。そして今、半年という月日のなかで次第に鮮明になってきたことは、『事実は隠されるのだ。国は国民を守らないのだ。事故は未だに終わらないのだ。福島県民は核の実験材料にされるのだ。莫大な放射能のゴミは残るのだ。大きな犠牲のうえに、なお原発を推進しようとする勢力があるのだ』ということ。私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼です。私たち福島県は故郷を離れる者も、とどまる者も、苦悩と責任と希望を分かち合い、支え合って生きていこうと思います。私たちを助けて下さい。どうか福島を忘れないで下さい。生きることは、誰かが決めたことに従うことではなく、一人一人の、本当に、本気で、自分の頭で考え、確かに目を開き、自分で出来ることを決断し行動することだと思うのです。一人一人に、その力があることを思い出しましょう。私たちは誰でも代わる勇気を持っています。奪われてきた自信を取り戻しましょう。」

 メディア―この集会・デモの取り上げ方(世界11月号の「メディア時評」参考)
       大きく取り上げているのは東京新聞ついで毎日新聞・朝日新聞
       写真なしで小さく扱っているのは読売・日経・産経
       後者の3紙は社自体が原発推進派。この3紙を取っている人は脱原発運動など大したことないと思っているだろう。
 日本のマスコミはけっして公正・中立ではないのであり、世論はこのようなマスコミによってリードされているのだ。

10月のつぶやき―「自己満足」論

●目の前で子供が溺れているというとき、とっさに駆け寄って、自らの命もかえりみずに助ようとする、といった場合でも、それは本能的な愛他的欲求から発し、その欲求を満足させようとする行為なのであって、これまた「自己満足のための行為」であることには変わりない。
 「だから、人間のやることはすべて自己満足のため」などという言い方をすると、なんかシニカル(冷笑的)に聞こえるだろうが、当方がそれを言うのは、自己満足とは自分が生きていることに満足することであり、それが各人にとって生きがいになるのであり、何かしたいという色んな欲求(生理的欲求、精神的欲求、社会的欲求など)があって、それを満たそうとして、あれこれやって自己満足を得る、その欲求があればこそ、それが生きる活力となるのだ、と思うからだ。
 ただし、まるっきり自分一人だけの自己満足で終わる自己満足と、他者から共感が得られ、或は有難がられる自己満足とでは、満足の度合いが違い(思いどおりにいかない場合は空しさをおぼえるが、その空しさの度合いも違い)、他者の共感が得られる場合の方が、満足度が高く(空しさは少なく)、客観的な価値も高い(報酬・代金・謝礼などカネにもなる)。
●姜尚中・東大教授は「人間は本来、利他的で、共感性の高い存在」と言っている。しかしそれは、人びとは互いに、世のため人のため―家族のため、子のため、愛する人のためとか、会社のため、お客様のためとか、仲間のため、みんなのため、社会のためとか、被災者のためにとか―利他的に事を為し共感を得るということ。つまり、そうやって共に自己満足を得る、ということにほかならない。要するに人間のやることは、すべて自己満足のためなのだ。
 ボランティアをするとき、「してあげます」(あなたのために)という言い方をすると違和感を持たれる。「させていただきます」(自分のために)と言えばよいのだ・・・・じゃないかな。
●女房から「あなたのやってることは皆・自己満足だ。ブログだとか、被災地さ行って手合わせてきたとか。そんな金あったら、義援金送った方がましだべ」と言われた。「人間のやってることは皆、自己満足なんだ。おまえがやってる畑でも子守りでも、人が仕事と称してやっていることも、日野原医師がやってることだっても、煎じ詰めれば自己満足」と言うと、「あんたがやってるのは、意味の無い自己満足だ」と言いやがる。この~!
 人のやることは、すべて「自己満足のため」というのは間違ってはいない。
 親が子を叱り付け折かんする、それは「子の躾のためだ」というが、実は「自分のため」にほかならないのだ。小池龍之介氏(21日付け朝日「『あなたのため』の裏に支配欲」)によれば、「『子どもを成長させてあげたい』という利他的な思いの背後に利己的な煩悩が隠れている。『我が子に言うことを聞かせ支配したい』という欲があって、子が親の言う通りにしないと自分がイライラするのだ(敏感な子どもは、それを見抜き、「お前のためだ」と言うその言葉の偽善に反感を持つ)」という。要するに、それは「子のため」なんだという思い込み―親の自己満足にほかならないのだということ。
 ただ、「自己満足」というものには二通りあり、世のため人のためになって感謝され人々から評価されてより深い満足感が得られる自己満足と、誰からも感謝されず評価もされないまるっきりの自己満足とがあることも確かだし、前者の自己満足のほうが、より価値が高い、とも言えるだろう。
 しかし、感謝されようがされまいが、評価してもらおうがもらうまいが、そんなことはどうでもよくて、とにかく溺れる子を助けずにいられなくて、自分の命をかえりみずに跳び込む「無償の愛」の欲求にかきたてられての行為、それも自己満足の行為なのだ。
 要するに、人間の全ての行為は自己満足のための行為なんだな。
●「雨にもまけず、風にも負けず」・・・か。先月岩手に行ってきた時に孫たちへの土産のつもりで買ってきた木製品に、その句が書かれている。それを居間に飾って毎日目にしている。
 「日の出」の絵を(「赤い太陽」と「白い太陽」の2点)自分で描いて居間に飾って、これまた毎日目にしている。「心に太陽を」・・・か。
●パソコンが故障(コードを差し込んでも、電気が入らなくなって起動できない)、データ消失の恐れがあり焦ったが、パソコン業者をしている卒業生からうまく直してもらった。買って7年以上になる。寿命が過ぎて替え時なんだな、と彼に言うと、「買い替えるとなると、新機種は今までの物とがらりとやり方が変わっていて、覚え直しが必要になりますよ」と言う。まあ、最後の一台となるだろうが、来年中に買い替えることにしようか。
 ところが、昨日の新聞投稿に「年配向けのパソコンがほしい」というのがあった。「7年使って急におかしくなって画面が映らなくなったので、電器屋に診てもらったら、もう寿命だから買い替えるようにいわれたが、欲しいのはシンプルで長持ちのする、せめて10年ぐらい使用できる機種はないものだろうか」、という。当方と同じ思いをしている。但し、この投稿者は82歳・女性、当方より一回りも高齢者だ。
●寒くなって衣替え。箪笥に入れ替えをやった。夏物・冬物どちらも満杯で、着たてならない、といった状態。家の者に、「これからは、衣類は買ってくれなくなくてもいいからな!」と言った。(つぶやき―どうせ、そんなに長く生きているわけではないのだから。父の日とか誕生日とかプレゼントなら、図書券か旅行券にしてくれ。)


2011年10月02日

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               上杉公園内に新しくできた銅像(景勝と兼継)
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           兼継と前田慶次郎
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          米沢市の郊外 南原の李山(丹南地区) トトロの森 

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   大石田町で陶器(大石田焼)をなさっているフランス人
              「溺れそうな子供を黙って見てはいられまい」と。
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プラカードの裏には「FUKUSHMA ZOON INHABITABLE(人が住めない)」と。


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    美術展(「吾の会」第1回企画展『米沢の絵画の系譜を見つめる』)
        第二会場(山大工学部会館で、10月4日まで)林久雄氏の作品
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        第一会場(座の文化伝承館で、10月9日まで)黒澤梧郎氏の作品
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        第二会場、横井薫氏の作品「3.11―対面」

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               9月19日 東京・明治公園 「さようなら原発」集会
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2011年10月08日

原水協と原水禁の協力を歓迎

 本紙の記事によれば、共産党の志位委員長が「脱原発で旧社会党系の人たちとの歴史的な対立を乗り越え、連携する必要がある」、「脱原発を目指すには政党を超えた連携が必要」で、原水協と原水禁との間で「『協力ができたらなというのが私たちの願いだ』と述べた」という。
 8月の広島・長崎の大会をひかえた7月31日、米沢で小集会があってそれに出たが、同じ日に近くの福島市で初めて原水禁世界大会が開催され、飯舘村の青年がスピーチしていたのをテレビ・ニュースで見た。米沢で当方が参加したのは原水協系で、そこでは、福島で原水禁が主催した世界大会のことには全く触れられず、後刻テレビ・ニュースでそれがあったことを知って、そっちのほうに行きたかったなと思ったりした。
 9月19日東京で大江健三郎氏・澤地久枝氏らが呼びかけ人となって開かれた「さようなら原発」集会には行ってきた。そこには数万人が集まった。演台でスピーチした8氏はいずれも非政治家で、社民党の福島委員長は下にいたのを見かけたし、志位委員長も会場のどこかにいて参加はしていたらしい。
 原水協と原水禁は、てんでに背を向けあってやるのではなく連携協力してやってくれたほうが、みんな結集しやすく、何倍も大きな力を持てるはず。

2011年10月09日

命(随時加筆)

(1)もらった命
NHK番組「日野原重明100歳―いのちのメッセージ」を見て。
 教訓―(天から)「与えられた命」(もらった命)、時間に限りのある命なのだ、ということ。与えられた時間(年月)内に、その命をどう使えばよいのか、を念頭に入れて日々生きること。
 与えられた命(もらった命)ならば感謝(恩返し)があって然るべきだということ。
   それをどう使うか―自分自身の利己的な欲望を充たすために。
            それとも、人のため、社会のために―ミッション(使命・任務)―人を助け、人(家族・愛する人)を幸せにするため(目的)―その手段となるべきところの、ある仕事・ある事業・ある勉強の目標にひたすら取り組む―そこに生きがいを感じる(命が輝く)
  成果が見えれば(結果が得られれば)達成感・満足感が得られる。
  成果が見えなければ(結果が得られなければ―今こうしてホームページを開いて発信しても、誰も見てくれないとか)自己満足にすぎない空しさを感じるが、一生懸命取り組んでいるそのプロセス(過程)で生きがいが得られる。(他人に感謝されて満足感が得られようと、感謝されることのない「自己満足」であろうと、自己満足であることにはかわりないのだ。)
 <要するに>命、輝くとき―心の充実感すなわち自己満足が得られたとき。
  人間のやることはすべて自分の自己満足のため―一見、「私心なき利他行」とか「無償ボランティア」とか「自己犠牲」といっても、それをやるのは、それに一生懸命取り組むことによって心の充実感が得られ、ひいては人から評価され感謝されて満足感が得られるから、即ち自己満足が得られるからにほかならない。
  ただし、まったくの趣味・道楽か、「自分は世のため、人のため」のつもりでも結果は得られず誰も感謝してくれず評価もしてくれない、といった場合の自己満足と、人から感謝され評価してもらえる場合の自己満足とでは、客観的な価値と満足の度合いが違い、後者(人から評価あるいは感謝してもらえる)場合のほうが、価値が高く、より満足感が得られる。
 
 長野県飯田市の一会社員(56歳・男性)が円周率(3.14・・・・)の小数点以下10兆桁まで出して(自宅の自作パソコンで計算)ギネス世界記録を獲得した。「これは何に役立つのですか」と訊かれ、「別に役には立たないでしょう。ロマンですよ」と答えていた。要するに「道楽」で、前者のほうの自己満足の部類だろう。
 
 いずれにしても、こうして、与えられた命と時間を使って精一杯生きる―一生懸命生きる(「命を懸ける」・「命を輝かせる」)
 (震災で家や家族や愛する人を失ったとか、仕事を失ったとか、耐え難いいじめにあっているとか)たとえどんなに辛いことがあっても(絶望感にうちひしがれても)、けっして自分の命を断ってしまう(自殺にはしる)ようなことがあってはならない、ということ。
 
 もう一人今年100歳になった人に、詩人・柴田トヨさんがいる。この方が、この度の震災にさいして詠んだ詩は次のようなものだ。
       「最愛の人を失い
       大切なものを流され
       あなたの悲しみは計りしれません
       でも 生きていれば
       きっと いい事はあります
       お願いです
       あなたの心だけは流されないで
       不幸の津波には負けないで―被災地のあなたに」
   この方の詩は、かねてより詩集を買って読んでいたが、それには
       「くじけないで
       ねぇ 不幸だなんて溜息をつかないで
       陽射しやそよ風はえこひいきしない
       夢は平等に見られるのよ
       私 辛いことがあったけれど
       生きていてよかった
       あなたもくじけずに」  

これをHPに打ち込んだ翌日(10月10日)、NHKで三つのドキュメンタリー番組があった。
   柴田トヨさんの被災者を励ましている詩のことを取り上げたもの(「不幸の津波に負けないで」)。
   人気アイドル・グループSMAPの、デビューから20年の秘話、被災地小学校訪問、北京公演の舞台裏などを取り上げたもの(「プロフェッショナルSMAPスペシャル!」)―表舞台とは裏腹の厳しくも、ひたむきな姿。
   世界的指揮者・小澤征爾76歳の闘病と復活(「執念」)―いわく「命につながっていますね、音楽というには」(昨年、食道がん手術、公演再開するも、この夏の終わりに再び入退院、目下来年の公演を目指して意欲満々)。
  それに、その翌朝のNHKニュース番組(「おはよう日本」)の中で、88歳の老婦人で、100M走・200M走とも、その年齢での世界記録をとった(小学校1年生の男子と競走して「いい勝負」)という話題
を取り上げていた。
 いずれも、与えられた時間を命懸けで生き、命を輝かせているのだ。

 しかし、「与えられた命」「与えられた時間」といっても、中には、あまりの苦痛・辛苦に耐え難く、「もうたくさんだ!」、「もういい!」「生きるのやめた!」「死なせて!」という人がいることも現実。そのような人に対しては、なんとかして、その苦痛を和らげ、取り去る医療措置を講じることができるような医療の改善・向上と、窮状から救う救援措置を講じることができるような福祉の改善・向上をはかる社会の側の努力が必要。

(2)命―すべての人にとってそれは目的なのであって手段ではない
    優劣なし、優先順位なし。自分の命と自分以外のあらゆる人々の命は同等。
    自分の命を守るために、他人の命を奪う(殺す)ことはできない―「正当防衛」はいいとしても、過剰防衛になってはいけない―「自分の命をまもるためには、相手を殺すしかない」ということにはならない(モラルとして「人を殺すくらいなら自分が死ぬ」というのが正当―「軍備を持たず、どこかに攻められたらどうするのか?そのときは死ぬ。」かつては天皇陛下のために戦って死ぬことが正当とされたが、「よくわからない目的のために死ぬよりは、とことん平和を守り、攻撃を受けて死ぬ方がまだ無駄じゃない。」―日本ペンクラブ会長・阿刀田高氏)。

          

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