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2018年09月 アーカイブ

2018年09月01日

9月のつぶやき                                    11336 809 31
●女房―当方がブログ作りに余念がなく、なにも手伝わず、「仕事が忙しくて」といいわけすると、「一銭にもならない、そんなの仕事じゃない!道楽というもんだ」と。「ん?」・・・・・カネになるのが仕事ってこと?パチンコ、カジノ賭博も仕事なの?
 「スーパー・ボランティア」の尾畠さん活躍のニュースに「誰かさんにあの方の爪の垢でも煎じて飲ませたいもんだ」だって。「んだな」、確かにあのボランティアは道楽じゃない、それこそ立派な大仕事だ。
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                         直江兼続

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2018年09月04日

働き方問題―根本的解決は(加筆修正版)

 「多様な、柔軟な働き方」とか「長時間労働の是正」、「非正規と正社員の格差是正」、「高齢者の就労促進」とか「働き方改革」といっても、それは少子化に伴う人口減少で深刻な労働力不足に直面する状況下で労働生産性の向上に迫られているからにほかならない。労働生産性向上―業務の効率化のためにはテクノロジーの活用だけでなく、働きやすい労働環境・職場環境の改善が必要となる。
 6月29日成立した「働き方改革法」は、労基法など8本の法律を一括して改定したもの。主として次の3点。
 1、残業時間の上限規制―原則「月45時間、年360時間」だが、繁忙期には上限―年間720時間、単月では100時間未満、2~6か月平均80時間未満、違反した企業には罰則―「100時間」「80時間」というのは「過労死ライン」だがそれに達する寸前まで容認。
 2、同一労働同一賃金(正社員と非正規の不合理な待遇差の解消)―基本給・手当など業務内容に応じて勤続年数や成果・能力が同じなら同額に―とはいっても「正社員には業績に応じて賞与を払い、有期社員は業績に貢献しても払わない」とか「パート社員の深夜・休日手当は正社員より低い」とか「有期社員の店長の役職手当が正社員より安い」など賃金格差容認も。
 3、高度プロフェッショナル制度―高収入(年収1075万円以上を想定)の一部専門職(研究職・金融ディーラー・コンサルタント・アナリストなどを想定)を労働時間の規制から除外して、働いた時間でなく成果で評価(時間外・休日・深夜労働でも割増賃金が支払われない残業代ゼロ制度)―対象が高収入で一部専門職といっても拡大されていく可能性あり。
 当初案には(働く時間や場所を自由に選べる)「裁量労働制」の拡大―専門業務型から企画業務型(経営の中枢部門に従事する労働者)までが見込まれていたが、委員会で安倍首相が「厚労省の調査によれば裁量労働制で働く人の労働時間の長さは、一般の労働者よりも短いというデータがある」と答弁したものの、そのデータの間違いが明らかにされ、削除された。そもそも、「裁量労働」といっても、個々の労働者に自由裁量が与えられるわけではなく、使用者に与えられる裁量で、労働時間は労働者が実際働いた時間(実労働時間)にかかわらず、使用者の判断で「働いた」と見なした「みなし労働時間」で算定することが認められる―実際はそれ(8時間)以上働いても、8時間しか働いていないと見なされ、定額働かせ放題という結果になる、というものだった。

 このような労働問題の根本的解決・是正は資本主義の下では不可能。何故なら、企業のオーナー権は資本家(出資者)にあり、労働者たちの労働の成果(利潤)は資本家が取得し、労働者は資本家・経営者たちの裁量で決められたやり方と労働条件で働き、決められた賃金を受け取るしかなく、それらに労働者たちは(労働組合が団体交渉で要求する以外には)基本的に関与できないからである。そして労働者が一生懸命働けば働くほど、或はテクノロジーを駆使して労働生産性を上げれば上げるほど、その成果は資本家のものとなり、労働者への分配は限定される。
 資本家は表向きユーザー(利用者・消費者)の需要に答え、社会に貢献することを目的としているが、かれらにとって最も重要・不可欠な関心事は、実は利潤がどれだけ得られるのかだ。資本を投下し、設備を設け、AI・ロボットなど備品を買い備え、原材料を仕入れ、労働者に賃金を払って買い取った労働力を最大限活用し(働かせ)て、賃金を払った以上の余分の労働(剰余労働)から利潤を確保しようと地道をあげる。それは、そのカネで自らの生活費を確保するとか財産を蓄えるためだけではなく、熾烈な企業競争に遅れをとることのないように製品開発費や設備投資など経営の維持・拡大生産のためにカネがかかるからである。だからこそ、人件費はできるだけ抑えて最小限にとどめ、コストを安くして多く売上げ、最大限利潤確保に地道をあげるのである。だから、労働者にはできるだけ安い賃金で、できるだけ精一杯働かせて最大限の成果をあげさせようとするわけである。だから「働き方改革」といっても、どうしても資本家・経営者本位の改革となって限界がある。
 労働者にとって働き方問題の根本的な解決は、企業のオーナー権が資本家によって握られるというやり方(生産手段―施設、機械などの設備、原材料など―の私的所有)を変え、労働者たち自身がオーナー権を持つようにする。そして労働者=生産者たちの連合体による生産手段の共有化と企業の共同運営(労働者・生産者全員に決定権―働き方・労働時間や賃金その他の労働条件はもとより、経営維持・再生産のために必要な事項は自分たちの裁量で決めるというやり方)に切り換える、という方法しかないわけである。そのように思うのだが如何なものだろうか。

 そもそも、人間は本来、孤立した存在ではなく、労働を通して他者と連帯・協業し、常に自己と他者を意識し、その関係性のなかで、社会の共同体の中に生きる「類的存在」だという。そして労働(生産活動)は本質的には人間が自然に働きかける活動であり、自分の目的を自然の中に実現する創造的活動で、そのことを通じて自分自身の諸能力を発揮・発達させる行為であり、「自己実現」ともいうべきものであって、本来「生きがい」となり喜びとなるはずのもの。それはスポーツ・音楽・美術・文学・芸能・芸術・学問・科学研究も同様。
 ところが、それが「食うために」「カネを得るため」「資本家・雇い主のカネ儲けために」否応なしにやらされ、その成果(産物)は自分から離れていき、自分を苦しめる苦役に化してしまう(いわゆる「労働疎外」)。それは、昔は奴隷労働、農奴的小作労働であり、今日に至るまでの資本主義下での賃金労働である。これらは、いずれも生産手段(土地・用具・機械・施設・設備)が自分たちのものではなく、他人(奴隷主・領主・資本家)によって所有され、他人の意志に従って「強制された労働」なのである。そのような労働はどうしても辛いばかりで、空しいものとなる。
 このような問題を根本的に解決するには生産手段の私的所有を社会的所有に切り換える変革、すなわち社会主義・共産主義の実現が必要であり、それ以外にないのでは、とおもわれるのだが、如何なものだろうか。
 尚、その変革は、暴力や破壊による革命ではなく、選挙を通じて国民大多数の合意に基いて行われ、また思想家・学者やテクノクラート(高級技術官僚)が青写真を描いて国家権力の強制など外部からの力によって社会に押し付けられるものでもなく、資本と土地の社会的所有も協同組合など自由に結合・組織された労働も経済諸法則が自然発生的な作用をもって働き、主流となるところまで社会全体に定着していくものと考えられる。
 また、社会主義・共産主義をマルクスは必ずしも段階的な区別を付けて論じていたわけではないのだが、レーニンのマルクス解釈以来、社会主義(「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」)から共産主義(「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」)への二段階発展論が(旧ソ連をはじめとして)とられてきた。しかし、そのような分配問題はその時々の情勢の中で変動する性質のものとして統一的にとらえ、段階的な区別は付けるべきではないのだ、と不破哲三氏はいう(『マルクス未来社会論』新日本出版社)。
 「能力に応じて働き、労働(ノルマや成果)に応じて受け取る」とか「働かざる者は、食うべからず」などというのは、資本家が自らは手に汗して働きもせずに、労働者たちに働かせピンハネ(搾取)して贅沢して食べている、その不合理・不当性に対して云われてきた言葉とも思われるが、それが、「働いたら働いただけカネをもらえるならいいが、ろくに働きもせずもらえるのはおかしい」といって、職がなく働きたくても働けない人とか、働くに働けない障害者など条件に恵まれない人をけなし、人を生産性によって評価し差別する考えにもなっている。しかしそれは間違っている。生産性がどうあれ、それぞれの条件・能力・個性に応じて働ける人が働くのは「生きがい」であり権利であって、(日本国憲法には「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」、そして「納税の義務を負う」となっているが)働かなきゃカネをもらえず食っていけないから嫌々ながらも働かざるを得ないような義務ではないのである。また、働くに働けない人や僅かしか働けない人でも、すべての人に生存権があり健康で文化的な(最低限度の)生活を営む権利があるのであって、生活に必要な生活手段と消費物資の確保が保障されなければならないのである。各人は能力に応じて働くのが原則ではあるが、その働き(労働の成果)如何にかかわらず、生活資料(消費財)は必要に応じて受け取ることができる社会があって然るべきなのである。 
 労働者=生産者たちの連合体による生産手段の共有化と企業の共同運営(労働者・生産者が自分たちの働き方・労働時間を自分たちの裁量で決めるというやり方)が行われるようになり、しかもIT・AI・ロボット・Iotなどテクノロジーの進歩・発達によって、食う(生命を維持する)ために働かなければならない労働時間・労働量が少なくて済むようになり、自由時間が大幅に増える。つまり、肉体的・精神的能力を自由に発揮して自分に適した好きな仕事(社会的な業務・ボランティア)や学問研究・芸術(創作や鑑賞)・芸能・スポーツなどに勤しみ生活をエンジョイすることができる時間が確保されるようになる。そして人々が自然との関わりで生命維持のためにそうせざるを得ない「必然性の生活」分野から大幅に解放され、「真に自由な生活」の生きがいを享受することができるようになる。その自由が実現する、それこそがポスト資本主義の未来社会(「社会主義・共産主義社会」)なのではあるまいか。

10月のつぶやき                                        11409 158 893
●辺りの田圃ではコンバインが動き、稲刈り作業。その間を貫くアスファルト農道をウオーキング。歌は「仕事の歌」 ♪ イギリス人は利巧だから 水や火など使う ロシア人は 歌を歌い 自ら慰める・・・・・♪
●台風(24号)一過
●ひさびさの秋晴れ、ウオーキング。彼方に一直線に伸びるアスファルト農道、両側に広がる田圃にはコンバインがうなりをあげて稲刈り、道路には自動車や自転車が一曲歌っている間に一台通り過ぎるだけで、歩行者は当方が一人だけ。歌は ♪ ニホンコクミンは・・・・・・・ ♪(平和憲法の歌)、それに今日は西部劇「OK牧場の決闘」の主題歌 ♪ OK Corral OK Corral・・・・・・・♪ 、「木枯し紋次郎」の主題歌 ♪ どこかで 誰かが お前を待っていてくれる・・・・・・♪ 、 ボブ・ディランの「風に吹かれて」、そして「酒と泪と男と女」
●このブログもそうだが、遺品として残す終活の一環のようにして、これまで録画したビデオ・テープのうち永久保存版としてDVDに遺そうとダヴィングしたのに「エデンの東」「シェーン」などとともに「OK牧場の決闘」があった。それで、かつてよく口ずさんでいたその歌を思い出したところだ。

2018年09月11日

自衛隊違憲論について私見

 「自衛隊は災害などでは活用するしかないが、違憲は違憲だ」というのと、「自衛隊は違憲だなんて言われないように憲法にはっきり明記して、災害など緊急事態には存分に力を発揮してもらえるようにしたほうがよい」というのとでは、どちらが分かりやすく共感しやすいか。それで自衛隊明記改憲に賛成か反対かと訊かれると、どうしても賛成の方が多くなるのでは?
 それに違憲論者に対する批判には、自衛隊は違憲だといいながら、災害等があるとそれに頼り、利用しようとするが、違憲だというなら、即時解体を主張してすべきなのに、それを言わないのはご都合主義であり欺瞞だという批判もある。
 そこで思ったのは、自衛隊は違憲だとアタマから決めつけ、丸ごとダメだと全否定するのではなく、戦争につながる違憲部分(自衛隊法では「主たる任務」とされている「防衛出動」など軍事の部分)もあるが、災害救援や領海・領空警備など(自衛隊法では「従たる任務」とされているが)違憲には当たらない部分もあるという二側面があることを峻別にして論じるようにするほうがよいのでは。そうすれば、「自衛隊は違憲、ならば即時解体」ということにはならず、違憲には当たらない災害救援や領域警備等の非軍事の部分は維持し活用して当然ということになる。(領域警備活動の行動基準・武器使用基準は海上保安庁等と同じ警察比例原則で
 ① 相手(侵犯者)の武器に比例―武器は相手と同等の武器まで可能―「大砲には大砲、戦車には戦車、戦闘機には戦闘機、ミサイルにはミサイル、潜水艦には潜水艦・・・・・」というように。
 ② 攻撃は相手を制圧(排除)するところまでで殲滅(殺す尽くす)までには至らず
 ③ 活動・追撃の範囲は自国領域から公海上まで。 )

 国民の多くが自衛隊を支持しているのは、その災害救援・領域警備活動等の部分に対してであり、それによって国土と国民を自衛隊が守ってくれていると感じているからにほかならず、中国や北朝鮮などが戦争を仕掛けてくるかもしれないからその際に米軍と一体になって戦ってもらえるからというわけでは必ずしもないのでは?
 ところが、安倍自民党が「自衛隊違憲論争に終止符を打ち、隊員が堂々と胸を張って活躍できるように」との理由で改憲しようとしているのは、自衛隊には9条に抵触する軍事の部分があるので、その条項に自衛隊保持を書き加えることによって自衛隊にやらせたい軍事など全てのことが憲法上認められるようにしたいがためにほかなるまい。我々が反対しているのは、そのような改憲に対してであって、自衛隊の災害救援や領域警備活動まで反対しているわけではあるまい。その非軍事部分の方はむしろもっと充実しても。
 尚、自民党の自衛隊合憲論は13条(生命・自由・幸福追求権に対する権利については国政の上で最大の尊重を必要とするという規定)を根拠として、自衛隊はそれら国民の権利を外敵から守るために9条の下でも例外的に武力行使が認められる実力組織なのであって違憲ではないとしてきたが、今度は他国に加勢する集団的自衛権の行使まで限定的とはいえ容認する解釈改憲をしたうえで、さらに9条に自衛隊を明記して加憲し、それまでも全て合憲化しようとはかっている。しかも、そのように改憲しても、「自衛隊は今までとはなんら変わることはないのです」などと言っている。
 その自民党の自衛隊全面的合憲論に対して、全面的違憲論ならぬ「部分的合憲論」ともいわれるような違憲論なのだが、如何なものだろうか。

2018年09月14日

沖縄知事選は県民の平和的生存権が争点

 この選挙は辺野古新基地建設の推進か阻止かを巡って行われる 。その基地は日米安保条約に基づく米軍基地であり、宜野湾市の市街地にあって同市の住民にとって極めて危険な普天間飛行場を撤去すべく同県内の名護市辺野古地区に移設するためにそこに新たに建設しようとしている基地なのだが、沖縄県民にとっては面積で日本全土の0.6%しかない沖縄に在日米軍基地の7割もが集中している同県内で引き受けなければならないのは何故なのか、県民には太平洋戦争以来強いられてきた犠牲に対する怨念とともに納得しがたい思いがあるわけである。「等しく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有する」はず、なのに何故?どうして?との思いであろう。
 選挙の結果、政権与党が推した候補が勝てば、県民は辺野古新基地建設を容認したことになり、急逝した翁長前知事後継の「オール沖縄」候補が勝てば、新基地建設阻止を容認したことになる。
 いや、そんな単純なものではなく、もっといろんな利害・思惑がからみ、辺野古新基地建設には今はもうどんなに反対しても、もはや止められないから、それは諦め、とにかく普天間飛行場を移設して、その飛行場を閉鎖・撤去できればそれでよい、などといった複雑な思いがあるのであって、一概にこうだとは決めつけられないという解説が加えられるかもしれない。しかし、事実そうだとしても、政権与党が支援する候補が勝てば、政府は、民意は辺野古移設とその建設工事の続行を容認したものとして「粛々として」計画どおり推し進めるだろう。そして普天間飛行場は辺野古新基地に移転できるようにはなるが、沖縄全体としては基地は半永久的に維持され県民には基地問題が大きくのしかかったままとなる。政権与党側候補に投票する人はそうなることを望み、或は容認したことになるわけだ。
 それに対して、「オール沖縄」の翁長前知事後継候補が勝てば、政権側は辺野古新基地の建設工事は思うように強行することはできなくなり、頓挫する可能性が強くなる。一方、彼らが要求する普天間飛行場の即時閉鎖・撤去に米軍側はすんなりとは応じず、海兵隊が居座り続けて長引くとしても、「オール沖縄」勢力のさらなる闘いによって遅かれ早かれ閉鎖・撤去せざるを得なくなるだろう。その候補に投票する人はそうなることを望み、或は容認したことになるわけである。
 有権者は、そこのところをよく考えて投票しなければならないのではなかろうか。 
 要するに、この選挙は、沖縄に押し付けられている米軍基地がもたらす不安・恐怖から免れ、平穏無事に暮らせる権利すなわち本土並み平和的生存権をひたすら求めてきた県民の悲願に応えるべく献身した翁長前知事の遺志を貫くか、それとも日米両政府に屈服して断念するかの選挙なのでは。

2018年09月24日

沖縄県知事選挙について思う(加筆版)

 最大の争点―基地問題―名護市辺野古の新基地建設(そこに宜野湾市の普天間飛行場を移設)の是非―佐喜真候補(前宜野湾市長で政権与党が支援)は建設推進を容認、それに対して玉城候補(前衆議院議員で「オール沖縄」支援の翁長前知事の後継候補)は建設反対・阻止(普天間飛行場は無条件閉鎖・撤去)を主張。(佐喜真候補は、宜野湾市の住宅密集地にあって「世界一危険な基地」と称される普天間基地を同県内の他所に移設することを条件に返還を日米両政府が合意していたのにしたがって、とにかく宜野湾市から撤去さえできればそれでよく、移設先が名護市辺野古で、そこにもキャンプ・シュワブという基地が既にあって、それを拡張するかたちでそこの沿岸部に新基地を建設がされることになるが、それは容認。それに対して翁長前知事は「普天間基地は、太平洋戦争中の沖縄戦で日本軍がそこを撤退したあと米軍に投降した住民が連行されて収容施設に入れられている間に、米軍に土地を強制的に接収されて造られた基地。その土地は自分たちの土地であり、とられた土地を返してもらうのに、なぜ代替基地を提供しなければならないのか、無条件で返還するのが筋というものだ」という考えで、玉城候補はその考えを受け継ぐ。)
 県民―告示後の地元メディアなどの合同世論調査では―重視する政策は「基地問題」が4割で最多(次いで「経済・景気・雇用」が26.7%、「医療・福祉」が13%、「教育・子育て」が7.5%)、普天間基地の辺野古など「県内移設」には反対が7割(そのうち県外移設28.1%、国外移設21.2%、無条件閉鎖・撤去19.7%。琉球新報の調査では辺野古基地建設に伴う沿岸部埋め立て承認の撤回には7割が賛成)。こうして見ると辺野古新基地建設には大多数が反対というわけ。
 ところがそれが、知事選の投票となると、辺野古新基地建設の阻止を主張する玉城候補にそのまま7割が入るとは限らないのだ。(先の名護市長選挙では建設反対・阻止の方針をとってきた稲嶺前市長の方が敗れ、自公推薦候補の方が当選するという全く逆の結果となった。)
 そこには次のような投票者とりわけ若者の意向があることが指摘されている。
「基地問題よりも経済振興だ」という考え―基地には幾ら反対しても、どうにもならない。基地建設は止められないし、現実は何も変わらない(といった「割り切れない」思いと諦め、閉塞感)。先の見えない国との対立にもう疲れはて、これ以上対立を煽ってほしくない(などと嫌気をさし、反対運動には敬遠むしろ反発)。とりわけ、若い層にその傾向が顕著。野添・沖縄国際大学の准教授によれば「ある世代以上は」「沖縄戦や米軍統治という歴史的・構造的な視点で捉え」「強制的に土地を奪われて基地が建設された経緯など、基地問題を歴史の中で位置づけ」て考える。ところが「若い人たちの多くは」「米軍基地は生まれた時から存在」し、「なぜ基地があるのか、なぜ沖縄に集中しているのかといった構造には目が向きにくい(「既成事実として受け流している様子」)。その結果、主に経済や就職できるかといったことに関心が向かって」いく。(2016年にうるま市で起きた米軍属の一人による女性殺害事件も、学生たちの間では「一個人の事件であって、『基地問題』としてとらえるのはおかしい」「政治的に利用するな」といった反応が目立った、とのこと。)
 彼らにとっては、沖縄の県民所得が全国最低であることの方が問題であり、政府の計らいによる国からの交付金・補助金で経済を振興し、雇用や仕事を増やして所得を引き上げてもらう、といったことの方が重要で、基地問題は「二に次」だというわけである。(沖縄経済の貧困状況については、それを招いてきた責任はむしろ在日米軍基地を長年押し付けてきた歴代自民党政権にあり、それでも翁長県政は沖縄がアジアと日本本土との中継地点に位置するという地理的条件を活かして基地に頼らない自立した経済を追求し、沖縄経済はこのところはむしろ好調で、一人当たり県民所得も、前の仲井間知事当時の12年度で197万円だったのから18年度には237万円に増える見込み。翁長県政を引き継ぐ玉城候補はやはり地理的条件を活かした観光・文化・スポーツ・交易・国際交流など自立的な経済発展をめざし、基地はむしろその阻害要因だとして基地と交付金依存経済からの脱却を打ち出している。)
 「若い人たちの多くは、現在の問題を『現在の問題』としてとらえがち」だが、過去の歴史を知らずして、現実を的確に見極めることはできず、未来を展望することもできないわけである。
 いずれにしろ、政権側支援候補に投票した人は、その理由を、「辺野古の基地建設工事はいくら反対したって阻止なんかできっこないし、割り切れない思いもあるが、普天間の基地だけでも無くなってくれればそれでよいとして、とにかく政権と親密な候補に知事になってもらった方が、国からの交付金・補助金や企業誘致に有利でカネや仕事や就職にあり付けるから」などと弁明するのかもしれない。しかし、どう言い訳しようとも、その投票は、結局は辺野古基地の新設・沖縄基地確保を目指す安倍政権と米軍に屈服したことになる。そして、結果その候補が当選して知事になれば、政権は思い通り辺野古基地建設工事を推し進め加速させることになり、それが完成すれば以後100年~200年もその基地は存続し、沖縄県民は子や孫たち代々に渡って基地に悩まされながら暮らさなければならないことになるわけである。
 「辺野古の基地建設工事は阻止なんかできっこない」というが、現に沿岸部160ヘクタール(東京ディズニーランド3個分)の埋め立ては仲井間前々知事が与えた承認を翁長前知事の遺志で副知事が8月末に撤回したことによって工事は止まっている。さらに埋め立て予定海域には軟弱地盤が存在することが分かっており、仮に政府の「法的措置」によって工事が再開されても、大規模な地盤改良が必要であり、それにも知事の承認が必要不可欠となる。また国から設計変更申請がなされたとしても、県知事に許諾権があり、それを無視して工事することは違法であり、強行はできない。要するに知事しだいで、工事をストップさせ、断念に追い込むこともできる、ということなのだ。

 さて沖縄の有権者に方々は、どのような判断をして投票するのか、そして辺野古新基地建設を容認する知事候補と阻止を貫く候補のどちらに投票するのかだ。

 <参考―9月22日付朝日新聞のオピニオン・耕論欄「分断の沖縄と若者たち」>

2018年09月30日


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