« 2018年09月 | メイン | 2018年11月 »

2018年10月 アーカイブ

2018年10月01日

DSCN3350.JPG フクシマ原発事故以前の福島県知事 佐藤栄佐久氏。 国や東電の原発事業計画に異を称えていたが、収賄容疑で逮捕・追及を受け、「収賄額0円」なのに有罪という不可解な判決を受けて辞任に追い込まれ失脚した。その後、替わった知事の下でブレーキを解かれた原発は事故を起こした。

DSCN3314.JPG
DSCN3308.jpg

2018年10月16日

日本の司法はどうなってるの?  

 日本の司法は「たてまえ」の上では、法に基づき適切に裁定し、社会における法秩序の守り手として「法の番人」とか「憲法の番人」と称される。
 また、社会正義の守り手として「厳正・公平・不偏不党」の立場を堅持。
 そして又「三権分立」の原則にたって、司法権の独立を堅持し、行政権力の横暴と憲法からの逸脱をくい止め、違法な行政をチェックすることに徹する。
 ということになっているが、実際はどうなっているのかだ。

裁判官―国歌公務員
     憲法には76条3項に「全ての裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と。
    判事(約2,000名 )、判事補(約1,000名)、簡易判事(約800名)
    最高裁判所の裁判官は15名、任期はなし(但し最長で定年70歳誕生日の前日まで)、国会に設置された弾劾裁判所で罷免判決を下されるか国民審査で×印が有効票数の過半数に達しないかぎり罷免されることはない。
    最高裁裁判官の任命は、長官だけは内閣が指名して天皇が任命し、それ以外は長官の意見を聞いたうえで、また総理大臣の判断を仰いだうえで内閣が任命(天皇が認証)。それらは閣議決定として行われる。
    戦後間もなく1947年には最高裁判所裁判官任命諮問委員会(衆参院議長・裁判官・検察官・弁護士・法学者・学識経験者など十数名の委員から成る)が設けられ、内閣による最高裁裁判官の任命と長官の指名に際しては、この委員会に諮問したうえで行わなければならなかったが、翌年には廃止された。「内閣の指名・任命権がそれに拘束されて、内閣の責任が曖昧になるから」との理由。70年代には再び委員会(「最高裁判所裁判官任命諮問審議会」等)を設ける法案が野党の社会党などによって提出されるも廃案。
    それ以外の裁判所の裁判官については最高裁が人事権を握っており、任命は内閣が行う形になっているが、それは最高裁が任命した11名の委員からなる下級裁判所裁判官指名諮問委員会が人選した名簿に基づいて行われる。任期はいずれも10年、再任あるも、3~5年で転勤(地方・家庭裁判所と高等裁判所の間で栄転・左遷)、昇進(出世)―判事補から判事、地方・家庭裁判所所長から高等裁判所長官へ等。出世競争も。とかく権力側の意に反した裁判官は左遷されがちだともいわれる。(ジャーナリストの岩瀬達哉氏は大飯原発と高浜原発の運転差し止め訴訟で前後して福井地裁の裁判長を務めた樋口判事と林判事について、前者(樋口裁判長)は差し止めを認めて、その後名古屋家裁に飛ばされ、その後任となった後者(林裁判長)は差し止め判決を取り消して再稼働を認め、その後、最高裁事務総局の「局付」課員に引き上げられたという、好対照の事例を指摘している。)

検察官(検事)―国家公務員
    警察との違い―事件についての捜査を行い、被疑者の身柄と証拠などを検察へ送るのが警察、その被疑者を裁判にかける(起訴する)か否かを判断する権限を持つのが検察。
    特捜検察(東京・大阪・名古屋の3地検特捜部)―重大な贈収賄事件や大型脱税事件・企業犯罪などに際しては、警察を通さず、検察官中心に検察庁職員により独自に捜査をおこなって立件(起訴へ)。 
    検察庁は法務省の機関に属するも独立性を持つ。
    検事総長は法務大臣の直接指示は受けず、法務事務次官より格上。
    法務省の最高幹部や幹部職員はほとんどが検事。
  
弁護人―原則として弁護士(民間人)から選任―私選弁護人は被疑者・被告人またはその親族など関係者が選任・依頼し、もしくは国選弁護人は国(裁判所)が選任・委嘱。費用は選任した者が負担。事に当たっては依頼人の利益を最優先して被疑者・被告人の支援・代弁。

 いずれも司法試験の合格者で国家資格をもつエリート(とはいってもペーパーテストでの成績優秀者で、しかも司法研修では「人間としての感性・市民感覚や常識を排除、それらに囚われてはならないと教えられ」、「常識に欠け、世間を知らない」と指摘する向きも。裁判官に一般市民も加える裁判員制度は、その改善策として始められたのだろう。但し、裁判員裁判は地裁の刑事裁判に限って認められ、その判決が控訴審で高裁から覆されることもあるわけだ。)
 いずれも「社会正義」をモットーとし、「法と正義の守り手」たることを意識。
 検察官と裁判官は、ともに「正義」(法秩序)の守り手意識が強く、特に検察官は「国法を犯し、国家・社会の秩序を乱す悪人」に対して厳しいあまり、「なんとしても犯人を挙げなければならぬ」と、犯人追求が厳しく、いったん被疑者と見込んだら「なんとしても犯人に仕立て上げ、裁判にかけて有罪にもちこまなければならない」と執着し、人権よりも国家・社会の秩序を優先し、「自白の強要」など行き過ぎた追求にはしりがち。それに対して弁護士は法律事務をビジネスとして行う民間人であり、法律相談に応じたり、裁判に際して被疑者・被告人の弁護し、人権を擁護する立場。
 検察が起訴するか否かの基準は―被疑者を裁判で有罪として立証できるだけの証拠があるかどうかだ。
 否認事件(被疑者が「やってない」と起訴内容を否認)の場合―検察官には「いや、やったはずだ」ということを立証できるだけの証拠が必要―そのためにありとあらゆる証拠捜し(証拠になるものを探り出す)。検察官には強大な国家権力を背景に広範に証拠を収集、証拠になるものは全て押さえてしまい、被疑者に対しては、検察官にとって都合の良いものだけを証拠開示、それ以外は見せない。
 被疑者が否認している限り、「証拠隠滅の恐れがあるから」として拘留し続ける。検察官の取り調べは弁護士など同席させずに密室で行う。録音・録画など可視化は一部の事件で義務化されるも、極く限られたもので、全体の刑事事件の3%程度。(国連の拷問禁止委員会で「日本の刑事司法は未だに中世さながらの状態に置かれている」と酷評されている。)
 それに対して被疑者は、検察の手持ち証拠は捜査段階では(弁護士を付けたとしても)ても、やれることは限られ、主にできることは、取り調べを受けた際に、自身の記憶に従った供述(自白)をし続けること以外にないわけである。検察はそれを記録、文章にして被疑者に読み聞かせ、間違いがなければ指印を押させ署名させる(自分が話したことと。違うところがあれば、訂正を申し出る。訂正に応じなければ署名・押印はしないこと)。署名・押印すれば、それが供述調書として「動かぬ証拠」とも見なされ、後で(裁判になってから)「それは間違いだった、本当はこうだった」と言い立てても、裁判官は聞いてくれない。
 また、自白もヘタにしゃべると自分に不利な結果になりかねない。それを避けるためには黙秘権を行使(しゃべらない)。
 それに対して検察官の方はなんとかしゃべらせようとして「こっちは証拠をつかんでるんだから」とか(証拠があるなら自白など要らないはずなのに)、「共犯者がそういってるんだから」とか(「それならば、その証拠とやらを見せてくれ」「共犯者が言ってるというなら、その調書を見せてくれ」「見せてくれない限り認めない」とば言えば済むのだが)、或は「家族や子どもが苦しめたくなかったら」とか「会社や仲間に迷惑かけたくなかったら」などと、脅迫的な方法や詐欺的な方法で自白を強要する。或は不当に長い抑留・拘禁を続けて、精神的に参らせて自白に追い込むなどの手法を弄する。(本人の意思に基づかない自白は無効ではあるが、そのためには「その自白は不本意に言わされたのであって自分の意思で話したことではない」ということを証明しなければならないことになる。)
 
 裁判官も検事と同様な「社会正義の守り手」意識を共有し、裁判官は検事の証言や証拠を重視―「検事の調書に間違いはない」とか「検察官は絶対有罪になりそうなものしか起訴しない」として検察を疑おうとはしない傾向。(現に日本では起訴されると99.9%有罪判決が下され、否認事件でも99.5%有罪になっている。)
 裁判官は「法服を着た役人」とか「裁判を行っている官僚」などと揶揄する向きもあり、「行政の裁量を広く認めて、国などが被告となる裁判では被告に有利な判断」をくだしがちだとも。
 
 検察(主に特捜検察)は政権の思惑によって(首相や大臣の直接関与がなくても、忖度して)政治的意図や世論の動向に沿って、目を付けたターゲットに対して嫌疑をかけ、正当な根拠を欠いたまま、「まず訴追ありき」で犯罪の筋書を描いて捜査(少しでも証拠になりそうな物件や証言を拾い集めて)有罪にもちこみ、陥れようとする、いわゆる「国策捜査」といったものもあるわけである。
 2006年、当時の福島県知事佐藤栄佐久氏が収賄の罪に問われて辞職に追い込まれた事件。 藤知事は、かねて国や東電の原発事業の推進・運営のやり方やプルサーマル計画に異を称えていたが、弟の会社の土地のゼネコンへの売却にともなう収賄容疑で逮捕・追及を受け、「収賄額0円」なのに有罪という不可解な判決をうけた。
 2009年、当時厚労省の雇用均等・児童家庭局長の村木厚子氏らが障害者団体向け郵便料金割引制度の悪用があったとして郵便法違反・虚偽有印公文書作成容疑に問われた。(このほうは逆に、検察側が強引な見込み捜査と脅迫的な取り調べのうえ証拠偽造で特捜部長らが逮捕・告発され、村木氏は無罪となった。)この間の村木氏勾留は164日にわたった。
 或いは逆に、(市民感覚や常識的には)誰から見ても疑わしく怪しいと思われる事案なのに証拠不十分・嫌疑不十分として済ませ不起訴に持ち込む、という場合もあるわけである。
 森友問題―国有地の格安売却と決裁文書改ざん等で財務省の佐川当時理財局長らを背任と虚偽公文書作成容疑で市民団体が告発したが、大阪地検特捜部は嫌疑不十分として不起訴にした。(神戸学院大学の上脇教授ら告発者側は不服申し立て、検察審議会に審議申し立てを行っている。)
 2016年 甘利当時経産大臣と秘書が建設会社から口利きの見返りに違法献金をうけ金銭授受があったことが週刊紙に報じられ、あっせん利得処罰法違反に問われるも不起訴。(上脇教授らが検察審査会に審査申し立てるも、「不起訴相当」、秘書は「一部不起訴不当」とされた。)

 我が国の司法の実態はいかなるものか、考えずにはいられまい。 
 
 <以上はネットで見られる関連項目の文から大橋正春氏(東啓綜合法律事務所・弁護士)・瀬木比呂志氏(元裁判官・明治大学法学科大学院教授)・木谷明氏(元法政大学院教授・弁護士)など言葉を拾い集めてまとめた。>


2018年10月30日

日本に米軍基地・安保条約はまだ必要なの?

 「日米安保体制は国民の多くが支持し、米軍基地を受け容れている」と思われている。
 「総じて日本人は日本が攻撃される蓋然性は高いと思っている」とか、
 「日米同盟が日本の平和憲法とセットとして一体不可分になっている」とか、
 「(日本は)『米軍に守られている』という通念」などといった思い込みがあるが、本当はどうなんだろう?

 そもそも、日米安保条約はどうしてできたのか。アメリカは何のために日本と安保条約を結んだのか―日本を守るためなのか。それとも?
日米安保条約の成立と現在に至るまでの経緯を辿ってみると―
 第2次世界大戦―日独伊などの侵略国対米ソなど連合国の戦争―ドイツとともに日本軍が降伏  (1945)。日本は米軍によって占領。日本領となっていた朝鮮半島は米ソが南北分割占領
 1946年、新憲法制定(9条で戦争放棄と戦力不保持、それは日本がアメリカと安保条約を結んで米軍基地を置くことを想定して定めたわけではない)。
 米ソ対立―アメリカを主とする西側資本主義諸国とソ連を主とする東側「社会主義」諸国との体制間対立による二大陣営の冷戦、
 中国―国共(国民党軍対共産党軍)内戦→共産党軍が勝って中華人民共和国成立(1949年)、敗れた国民党軍は台湾に逃れて政権維持。
 朝鮮半島に北朝鮮と韓国とが建国して1950年朝鮮戦争・開始―アメリカが国連軍(安保理はソ連が欠席中に派遣決定)の名の下に韓国軍を支援・参戦(日本の基地から出撃)、それに対して北朝鮮をソ連が支援・中国が参戦、
 その最中の1951年、アメリカなど西側諸国だけで日本と講和条約―日本占領解除、同時に日米安保条約―「極東の安全のため」米軍が引き続き日本の基地に駐留することを認めるも、「日本の安全に寄与することができる」としているだけで、日本を守る防衛義務の定めはなかった。
 (アメリカと西側諸国だけの「単独講和」に対してソ連・中国・インドなども加わった全ての交戦国との「全面講和」とすべきだという運動もあり、日本は非同盟・中立でいくべきだという主張もあったのだが。)
 朝鮮戦争で在日米軍出撃にともない日本国内の治安上の不備を補うために(1950)警察予備隊を創設→保安隊→(1954年)自衛隊へと改称(再軍備)へ
 1959年砂川事件で東京地裁(伊達裁判長)「日米安保条約に基づく駐留米軍の存在は憲法前文と9条の戦力保持禁止に違反し違憲である」と。ところが最高裁は「駐留米軍は憲法にいう日本の戦力には当たらない」とし、また「安保条約のような高度の政治性をもつ条約については、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」(統治行為論)として判断を避ける。
 1960年安保条約改定―日米共同防衛義務(アメリカも日本を守ること)を明記、日米地位協定(米軍への基地の提供と使用・運用の細則―日本の法律に縛られない米軍の特権を定める)も。
 1962年キューバ危機(キューバ革命―カストロらが親米独裁政権を打倒、それに対してアメリカが経済制裁、革命政権打倒を画策、それに対してソ連が革命政権を支援、キューバにミサイルを持ち込み基地を建設しようとするも、アメリカは海上封鎖―米ソ激突(核戦争)の危機―日本では沖縄基地でアメリカが核ミサイル発射準備態勢―寸前でソ連がキューバからミサイル撤去して危機回避。
 1964年ベトナム戦争―日本が米軍の出撃前進基地および後方支援基地に。
 1987年、米ソが中距離核戦力全廃(INF)条約
 1989年冷戦終結―米ソ首脳会談で宣言(しかし、朝鮮半島では北朝鮮が米国と休戦状態にあるものの、その後も核・ミサイル開発など冷戦が続く)
 1991年湾岸戦争―イラクに対してアメリカ等多国籍軍が―日本から米軍出撃
 同年、ソ連解体・WATO(ソ連・東欧諸国が米・西欧側のNATOに対抗して結んでいた軍事同盟)も解体。
 2001年アフガン戦争―日本から米軍出撃、海上自衛隊インド洋で洋上給油支援
 2003年、イラク戦争―日本から米軍出撃、陸上自衛隊サマワに派遣、航空自衛隊も空輸支援
 2014年、新安保法制―集団的自衛権行使の容認―日本が直接攻撃を受けていなくても、我が国と密接な関係にあるアメリカなど他国に対する武力攻撃でも、場合によっては自衛隊が武力行使できることに。

 最近、北朝鮮に対して韓国・アメリカともに休戦状態にある朝鮮戦争の終結と非核化に向け対話(南北首脳会談・米朝首脳会談など)の動き。その一方、米ロや米中の間で「新冷戦」(ウクライナの政変に伴うロシアのクリミア併合に米欧が反発して経済制裁、最近トランプ大統領のIMF条約離脱表明、中国との「貿易戦争」など)。日本は中国とは首脳会談で「自由で公正な貿易体制」「競争から協調へ」「脅威でなくパートナー」と接近(融和へ)。
 いずれにしても、冷戦とは互いに相手の軍備を構えて睨み合っている状態でだが、もはや国家間では戦争(大量破壊・殺傷をもたらす核戦争など)できる状態ではなくなっている。(テロ・武装集団・海賊などの出没や局地的紛争はあっても、軍事同盟を必要とするような戦争はない。)

 日本にとって、国によっては我が国との間で領土問題など困難な問題を抱えている国はあるが、だからといって日米安保条約や米軍基地がなければ日本に武力攻撃を仕掛けてくる必要性のある国、国際社会からの非難・制裁を被る不利益を冒してまで武力攻撃を仕掛けてくる国などあるのだろうか。
 中国・ロシア・北朝鮮などの核軍備は、我が国から見れば脅威だが、これらの国から見れば、米軍の基地と軍港を置いて、自衛隊が米軍と一体的に軍事行動を共にする日本の方が脅威で、自国の軍備固めをしているとも考えられよう。(軍備は「抑止力」というよりも、むしろ脅威なのであって、これらの国―ロシア・中国にしても、北朝鮮にしても―核軍備を持つその理由(動機)は唯一つアメリカの核戦力に対する脅威の故なのだろう。)
 米軍基地を置く日本の国民にとってはその経費(「思いやり予算」などまで)に対する財政負担、それに基地周辺住民にとっては様々な被害と敵国から標的にされるリスク負担を強いられている。
 そのように考えれば、日米安保や米軍基地などない方が、日本とこれらの国との間では互いに脅威はなくなるし、国民・基地住民の負担もなくなるわけである。
 近隣諸国にとって日米同盟の脅威がなくなれば、これらの国々との平和友好協力関係は深まり、領土問題など懸案の問題も平和裡に(外交交渉に集中・徹して)解決に努めることができることになろうというもの(懸案問題は、これまでは日米同盟などに頼った力に訴える姿勢がむしろ外交交渉の妨げとなってきただろうし、アメリカの軍事力に頼るあまりアメリカの意向に縛られ、平和憲法に相応しい主体的な外交力を発揮することができなかっただろうからである)。

 「備えあれば憂いなし」ということで、台風や地震・津波など、いつか必ず襲来するという必然性を持つ自然災害ならば備えが必要不可欠であり、それが万全であれば憂いなしだが、中国・北朝鮮など、いつか必ず攻め込んでくるという必然性があるわけでもない国に対して「備え」(日米同盟や米軍基地などの軍備)があれば「憂いなし」というのは的外れであり、それどころか、そのような軍備は相手からは脅威に感じられ、かえって敵愾心をかきたて攻撃を誘う動機となり基地は標的となる。そのように考えれば、日米同盟・安保条約などないにこしたことはないのでは。つまり、日米安保条約などいっそうのことなくした方が合理的であり、かえって安全・安心だということにならないか。
 日米同盟や米軍基地が日本を守ってくれているというのは錯覚だろう。ソ連にしても中国にしても、或は北朝鮮にしても、アメリカ等に対抗して強がり(大国意識や強国意識)はあっても、日本に攻め込まなかったのは、攻め込んでも得るものはないばかりか、かえって損失・不利益を被ることが分かりきっていて、その気(日本に戦争を仕掛ける意志)がなかったからにほかならない。朝鮮戦争に際して北朝鮮が、或はベトナム戦争に際して北ベトナムが、日本の基地から出撃した米軍に攻め込まれても、日本が報復攻撃を受けずに、何の危険も及ぶことなくて済んだのは、彼の国が弾道ミサイルや重爆撃機などの攻撃手段・能力を持ち合わせなかったからにすぎない(あの時もし彼の国がそれを持っていたら日本は報復攻撃を受けていただろう。北朝鮮は、今はそれ―核ミサイル―を持ち始めており、もし朝鮮戦争が再開されたら、今度は報復攻撃を受けずに済むというわけにはいかないだろう。日米同盟・米軍基地がかえって危険を招くということだ。)

 要するに日米安保条約は何のためになっているのかといえば、アメリカが「日本を守る」という名目で日本に米軍基地を置いて、対ソ・対中・対北朝鮮・対ベトナムその他の軍事作戦に際する前進基地として利用するためであり、自衛隊は米軍基地を守らせ、後方支援のかたちで手伝わせるなどアメリカがそれを利用するためにほかならない、ということだ。
 アメリカから「日本を守ってもらえた」といっても、ロシア(旧ソ連)も中国も北朝鮮も、日本を侵略し日本国民に戦争を仕掛ける意図など初めからあったのかといえば、あったとは考えられまい。
 ロシアは大戦中占領した千島列島を未だに返還せず、日本と平和条約も結んでいないが、列島を返したくないだけで(それを日本に返せば、日米安保がある限り、そこに米軍基地が置かれ米軍が駐留することになるからと警戒)、北海道にまで侵攻してくるとは考えられまい。
 中国は、尖閣諸島の領有権にこだわって、諸島周辺の領海や接続水域で公船や漁船の侵犯問題でトラブルがあるが、そのために中国が日本に戦争を仕掛けてくるとは考えられまい。
 北朝鮮は、日本が米韓に組みし、朝鮮戦争以来アメリカに出撃・後方支援基を提供してアメリカと同盟し、韓国とだけ国交して過去(植民地支配)の清算をおこなったことに反発や怨念があり、拉致問題(拉致した日本人から工作員に日本語を教え込ませて、日本人になりすました工作員を韓国に潜入させてスパイをさせるとか、米韓との「冷戦」におけるスパイ作戦に日本人を利用する等ために拉致したと思われている問題)を起こし、核ミサイルで東京を「火の海にする」などと脅したりもしてきたが、米韓との朝鮮戦争の再開がないかぎり、日本を攻撃するとは考えられまい。
 もしも、中・ロ・北朝鮮が日本に核ミサイルを撃ち込んで武力攻撃をかけてくるとすれば、これらの国がアメリカと戦争になった時であり、それは日本が日米安保を結んでいて、米軍基地を置き、自衛隊に米軍支援をさせるからにほかなるまい。
 だとすれば、日米安保条約を解消し、日本に米軍基地がなくなれば、そのようなことは(日本がこれらの国から攻撃されることなど)あり得ないことになるわけだ。
 これらの国にとっては、日本が憲法9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否認)をそのとおりに守って、日米同盟を結んで米軍基地を置いたりなどしていなければ、日本を武力攻撃しなければならなくなる事態はあり得なくなろう。
 平和憲法は日米安保などとセットにしてはならないのであって、日米安保・米軍基地はもう要らない(ないほうがいい)ということだ。平和憲法とセットにするなら、日米安保ではなく、非軍事の日米友好協力条約とし、それに切り換えたほうがよいのだ、とおもうのだが、如何なものだろうか。

About 2018年10月

2018年10月にブログ「米沢長南の声なき声」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2018年09月です。

次のアーカイブは2018年11月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34